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2013年9月 1日 (日)

関東大震災から90年~祖母の震災体験記

今日は、関東大震災から90年目だという。今朝の朝日新聞に「関東大震災を知る」という特集があり、関東大震災について良く分かった。(写真はクリックで拡大)

「(災害大国 あすへの備え)関東大震災を知る 
 日本の地震災害で最多の犠牲者を出した1923年(大正12年)の関東大震災。90年後の今も未曽有の災害から学ぶべきことは多い。10万5千人余の犠牲者の9割近くの原因となった火災は、ちょうど日本海側にいた台風による強風で拡大し、逃げ場を奪った。揺れや大津波、山崩れ、地盤の液状化による被害も大きい、複合災害だった。関東大震災で何が起きたかを知り、現代ならどんな被害が出るかを考え、いずれ見舞われる都市直下の大地震の備えにしたい。
90年経ても通じる教訓
 9月1日午前11時58分に発生した関東大震災は、マグニチュード(M)7.9の巨大地震だった。震源域は神奈川県から房総沖に及ぶ、長さ130キロ、幅70キロの範囲におよんだ。
130901kantodaisinsai  大きな余震が相次いだ。発生から5分で東京湾北部と山梨県東部でM7級の余震が起きた。東京・上野で地震に遭った物理学者の寺田寅彦は「最初にも増した烈(はげ)しい波が来て、二度目にびっくりさせられた」と書き残している。
 M7級の余震は2日までに計5回。その後も、翌年1月の丹沢地震(M7.3)など、阪神大震災級の余震が6回。気象庁のまとめでは、1年間でM6以上の余震は29回に達した。関東大震災の研究を続けてきた武村雅之・名古屋大学教授は「本震は一級、余震は超一級だった」と表現する。
 東京の中心部でも現在の震度6~7に相当する地域があった。住宅の倒壊による死者は全体で1万1086人、阪神大震災の犠牲者の2倍だった。
 大震災が起きたとき、台風が新潟県付近にいた。台風に吹き込む形で、関東地方には強い南風が吹いていた。今の大手町では秒速10メートルを超えた。さらに、深夜には20メートル以上の風が観測された。炎が起こす風が加わったとみられる。台風の移動とともに風向は変わり、延焼につながった。全体の犠牲者10万5385人のうち、火災が9万1781人を占めた。
 震源域は陸上にも及ぶ直下型地震だったが、本来は相模トラフ沿いで起きる海溝型地震だった。震源域が海底にあるため津波が発生、伊豆半島東岸や神奈川県の相模湾岸、房総半島を大津波が襲った。山崩れや地盤の液状化も広範囲で起きた。多様な地震被害が同時に起きた複合災害だった。
 学ぶべき教訓も多い。
 都心部で大きく揺れたのは元禄地震(1703年)や安政地震(1855年)と同じ場所。次の地震でも大きく揺れる恐れがある。今は、企業の本社や官庁など災害時に司令塔となる施設が密集している。土地の開発で、揺れやすい場所はさらに増えている。
 当時の東京市での134件の火災のうち、初期に消し止められたのは57件。都心部の大地震では消防力を超える火災が起きる恐れがあり、延焼の危険が大きい木造住宅の密集地域の対策が急がれる。
 避難場所となった軍服工場である被服廠(ひふくしょう)跡地では荷車で持ち込まれた家財道具が火災で燃え、人々は身動きできなかった。東日本大震災では、大津波から逃げようとした自動車による渋滞が発生した。社会の変化と災害の起き方を踏まえ、避難のあり方や避難場所の安全性を改めて確認する必要がある。
 横浜や横須賀であった石油タンクなどの火災は、現代では社会を支える湾岸部のコンビナートのリスクを示している。
 神奈川県の大山では地震から2週間後に降った雨で土石流が発生した。直接被害だけでなく、大地震では土砂崩れや治水施設の損壊が多発する恐れがあり、復旧が進む前の台風や豪雨を想定する必要がある。大きな余震も含め、地震後も相当期間は警戒を怠れない。(編集委員・黒沢大陸)」(
2013/09/01付「朝日新聞」p35より)

この記事を読んで、本震に続く6回もの巨大余震があり、「本震は1級、余震は超1級だった」ということを初めて知った。しかも当時、台風が新潟県付近にあったため、強い南風があって火災が広がり、犠牲者10万人のうち火災が9万人を占めたとは・・・。
この朝日新聞の地図は実に良く分かるので、参考に(ここ)にPDFを置いておきます。

その記事を読みながら、祖母が残した「歌集 筧(かけい)」に当時のことが書かれていることを思い出した。

「歌集 筧」の筆者の略歴(自分の父方の祖母である)
略 歴
 明治二十七年四月一日、父鈴木文作、母つぎの三女として茨城県東海村に生る。三歳の時母二十八歳にて急病死す。当時長姉八歳、次姉六歳、弟は生後数カ月なれば里子に、私か一番手が懸るとの事なので母の妹に預けられ、四歳となり実家に帰ったときは、継母がきていた。父は警察官だったので幾度か転任のたびに学校も友人も変り悲しい思ひをした。
130901kakei  大正二年三月、日本赤十字社東京支部救護看護婦学校卒業。(現在の短大)
 大正四年二月、生後数日で定められた許嫁**敏(早大卒)と結婚、舅、姑、義妹あり当時封建性きびしかりし嫁の座に忍従す。
 大正十二年九月一日、関東大震災に遇ふ。当日は舅も夫も出勤中の出来事とて、家は潰れなかったが、昼食時とて火災は忽ち四方より起った。姑が「地震よりも火事が怖ろしいのだから、さあ、急いで逃げなくては」といふ。当時私共は両国の隅田川の近くに住んでいたので、重要書類と有金を胴に括り着け、転地先から帰ったばかりの病弱な一年生の長男を帯で背負ひ、姑は仏壇の過去帳を身に着け、当歳の私の三男を背負ひ、十二歳の妹の手を引き、火に追はれ乍ら、山の手へ、山の手へと逃れて野宿すること四目、どこを歩いても各商店は深く戸を閉ざして叩けども声なく或る時は一椀の粥を受けて啜り合い、或る時は炎天下長時間の行列に立ち、玄米の握り飯唯一個を分け合ひ、辛じて命をつなぐ。舅は、夫はと姑と語り案ずるはその事のみ。五目目に至り、市街は焼け尽して火もおさまったらしいというので、わが家は如何にと汗と埃にまみれ歩きに歩く。焼けただれた電線は至るところにぶらさがり、まだ燻ってゐるところを通り、そこにもここにも死体がころがってゐるのに口を被ひながら辿り着いて見れば案の定焼野ヶ原、そのとき気丈な姑は、隅田川べりに私共を待たせ、単身、夫の勤務先に様子を見に行く。(それ迄は火で遮断されて行けなかった)
 夫の勤務先も食堂が潰れたため多数の犠牲者が出たとのこと。しかし二人の人夫に名を記した大旗を持たせ、私達の名を連呼しながら探し歩き尋ね歩き、遂に失望して社に返ったとき、恰度そこへ母が尋ねて行つたのだといふ。喜び勇んだ夫は直ぐに人を連れて私達を迎へにきてくれ、とりあへず会社の小室に落着く。舅はどうしたか行方不明であったが、水戸の私の実家迄探しに行ったとのこと。十日目で舅に巡り逢ひ、一家七人、乞食のような姿ながら命ありし事を手を取り合って喜ぶ。向島の家作も焼失して了ったので一同心を合せて必死の復興に励む。
 大正十四年四月実父逝去。
 大正十五年一月、夫の勤務先の会社不況となり、合併の整理に合ふ。幼友であった方が当時足利紡績会社の重役であったので救はれて、永年住み慣れた東京を去り、一家を挙げて足利市に移る。
 昭和四年二月舅逝去。
 昭和十一年継母逝去。
 昭和三十三年十二月、夫胃癌にて逝去。」(「歌集 筧」より)

上の「転地先から帰ったばかりの病弱な一年生の長男を帯で背負ひ、」の長男が、当時7歳だった自分の父である。また「当時私共は両国の隅田川の近くに住んでいた」場所が、自分が結婚するまで本籍だった両国であり、前に訪ねたことがある(ここ)。

この歌集については、前にも少し書いた(ここ)。祖母は現在も続いているという「ぬはり社」の創刊とともに入社し、43年経った1970年(昭和45年)に、喜寿を迎える記念に、それまでの明治以来書き溜めた3000余首から、ぬはり社の創始者である菊池知勇氏によって600余首を選んで頂き、非売品として出版されたもの。計算すると、82歳で亡くなった祖母が、76歳の時の出版である。
それにしても、この本に記された震災の状況は生々しい。この震災で逃げていた時に、もし火災に巻き込まれていたら、自分は存在していないわけで、何とも複雑な気持ち。自分にとって、関東大震災は他人事ではないようである。
ともあれ、先の東日本大震災と原発事故で、「“あり得ないこと”は何も無い」ことを悟った。
この先、何が起こるか分からない。今日の関東大震災90年目を迎えて、いつ何が起きても大丈夫!と言えるような日常を送りたいものだ。

130901maniatteru <付録>「ボケて(bokete)」より


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コメント

エムズ様の文才は御祖母様ゆずりだったのですね、恐れ入りました。

>もし火災に巻き込まれていたら、自分は存在していないわけで、何とも複雑な気持ち。

御祖母様に感謝して何か美味しいものでも召し上がってください。
でも、エムズ様の生命力ならばきっと何処かに誕生していたかもです。

【エムズの片割れより】
ヘンな所で“ヨッコイショ”されたようで・・・
今考えると、自分とはあまり仲の良くなかった祖母でした・・・。
そういえば、祖母はどこに行っても、長生きの秘訣と言って、毎朝梅干しに砂糖をかけて食べていました・・・

投稿: 空 | 2013年9月 2日 (月) 16:42

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