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2013年7月19日 (金)

宮本武蔵、巌流島で遅刻しなかった?

先日の朝日新聞に、こんな記事があった。

「(文化の扉 歴史編)遅刻しなかった? 宮本武蔵
 諸国武者修行で60余度の戦いに勝利し、剣聖と呼ばれる二刀流の達人・宮本武蔵。最後となった巌流島の戦いでは、遅刻して相手をいらだたせ、勝ちを収めたとも言われるが、実際は――。

 通説によると、宮本武蔵は1582年ないし84年に美作国宮本村(岡山県)で生まれた。21歳で武者修行を始め、京都・一乗寺下り松の決闘で将軍家師範を務めた吉岡一門を倒して、天下に名をとどろかせる。
130719musashi  小説ではその後、宝蔵院流槍術(そうじゅつ)の達人や鎖鎌使いを破り、29歳の時、西国一と言われた巌流佐々木小次郎と巌流島で対決。約束にわざと遅れて相手をいらだたせ、船の櫂(かい)を削った木刀で一気に打ち倒した。壮年期の20年は謎に包まれているものの、晩年は熊本藩に客分として招かれ、兵法書『五輪書』を書き残したとされてきた。

 だが、こうした通説は実際とは異なるようだ。有名な巌流島の戦いにしても、武蔵の死後9年目に、養子の宮本伊織が建立した顕彰碑(小倉碑文)には「両雄同時に相会し」とあって、武蔵が遅刻したのではないらしい。「岩流三尺の白刃を手にし来り(略)武蔵、木刀の一撃を以(もっ)て之(これ)を殺す。電光猶(な)ほ遅きが如し」ともあり、戦いは一瞬で決着したようだ。
 国際武道大学教授の魚住孝至(たかし)さん(日本思想)は「碑は当時を知る人が多く生存した時期に建てられたもので、虚偽を記したとは考えにくい」と語る。
 興味深いのは武蔵の相手が「岩流(巌流)」とだけあって姓名の記述がないこと。「佐々木小次郎という名は武蔵の死後130年たって書かれた『二天記』(1776年)が初出。同書が準拠した『武公伝』には小次郎とのみあるので、おそらくは歌舞伎『敵討(かたきうち)巌流島』に登場する佐々木巌流から名をとった可能性が高い」と魚住さん。
 舟の櫂を削った木刀というのも『二天記』によるが、武蔵が「巌流島の時の武具は」と尋ねられて晩年に作った4尺余りの木刀が熊本の旧家老家に伝わる。相手を上回る長い木刀で戦に臨んだのは確からしい。
 新史料に基づき、生年や生地についても見直しが進む。

 なぜ事実と異なるイメージが定着したのか。「吉川英治のベストセラー『宮本武蔵』が、クライマックスの巌流島の場面を『二天記』の記述に基づいて描いたことが大きい」と魚住さんは指摘する。「しかし、『二天記』の勝負のくだりは、それ以前にあった様々な話をうまく取り込んだ創作なんです」
 武蔵に関する逸話や伝承は、その生前を知る者がいなくなったころから増え始める。
 兵法を越えて「なおも深き道理」を追求し続け、60歳を過ぎて『五輪書』を書き残した武蔵という人物の大きさとエネルギーが、時代を超え、人々の創作意欲をかき立てたということなのだろう。(編集委員・宮代栄一) 」(
2013/07/08付「朝日新聞」p20より)

読みながら、なるほど・・・と思う。巌流島の戦いの場面はあまりにも有名で、幾多の映画などで誰の頭にもたたき込まれているシーン。
確かに「本当のことか?」と問われると、意外と「事実だろう」と答える人は少ないのかも・・・
でも、誰も、たぶんフィクションだろう・・・と思いつつ、楽しんでいる。それで良い。

“でも、ホントウは・・・”という視点もなかなか面白い。さもあらんと思う。確かに、その人を知る人が生きている時代は、そうウソは流れないもの。しかしその人を知る人が世の中にいなければ、存分にフィクションが書けるというもの・・・。なるほど。それはそうだ・・・。
自分についても、自分を知る人がいなくなったあとに、ウソでも“素晴らし人物”と描いてくれると嬉しいのだが、当然「誰?その人?」となるので、意味無いよね。まあ人生、静かに消えて行くのが正しい姿なのだろう。

130719taita <付録>「ボケて(bokete)」より


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