« 「熱帯救った日本の菌 大村智さんの発見、抗寄生虫薬に」 | トップページ | 愛犬・メイ子の写真撮影会 »

2013年7月14日 (日)

生まれ故郷の“与野の夏祭り”に行く

昨夜(2013/07/13)は、見舞いの帰りに、カミさんと、自分の生まれ故郷である与野の夏祭りを見て来たので、今日はそのメモ・・・
自分の生まれ故郷、つまり生まれてから転居した昭和33年春までの10年間住んでいたのは、当時の地名で埼玉県足立郡与野町上落合8丁目802番地。今の地名では、さいたま市中央区上落合7丁目の辺りである。
先日ふと、子供の頃、夏祭りが盛んだったな・・・と思い出し、Netで見てみると、与野の夏祭り130714yono は、「宝永年間(1704〜1711年)から続いていると言われる歴史あるお祭り」だというのである。子供の頃は、そんな事はまったく知らなかった。当時のお祭りの日は、まだ夏休み前で、学校があり、早く帰って山車を引きたい・・・、と思ったもの。もちろん、近所の御輿や山車以外の世界は知らない。よって、お祭り全体を見るのは初めて・・・。
目的は、1)自分の生まれた家の跡がどうなっているか? 2)昔の山車、御輿のあった場所は? 3)小学校4年まで通った上落合小学校は? の3つ。(写真はクリックで拡大)

埼京線の北与野で降りる。もちろん昔はこんな近い所に駅はない。大宮駅まで行ったもの。
中山道に面する駅周辺は店が多くにぎやか。中山道を北上すると、右手に大きくさいたまスーパーアリーナが見えてくる。自分は行ったことはない。昔の大宮駅構内は広大で、汽車の操車場があり、子供の頃に、中に入って遊んだもの。
P10200981 歩道橋のところを入ると、上落合小学校があった。まったく面影はない。昔あった二宮金次郎の銅像は、男女の子供の銅像に替わっている。正門のところに校歌の石碑があったが、校歌もまったく覚えていない。

昔の家の路地を見付け、西側から東に向かって入ってみる。段々と昔の家の名前が浮かんでくる。しかしほとんどの家は名前が変わっている。しかし23~4軒、昔と同じ名前があった。あれから55年。ずっと住み続けている人もいるのだ。そして自分の家の跡は、新しい家が建っていた。もちろん何の面影もない。

P10201211 P10201051 P10201081

出た道を、北に向かって歩くと、角に酒屋がある。この店は、当時近所で最初にテレビを入れた家。皆でプロレスを見に、行ったもの。店では仕方なく、窓から外に向かってテレビを向け、店の下には大変な人だかり・・・。風呂に行った帰りに覗いたもの。そして、昔はこの酒屋の前に、田中計器(株)の正門があった。田中計器の跡地は、今はパークシティ大宮という大きなマンション群になっている。ふと、道のマンション側に山車が置いてある。懐かしい・・・。これだ。昔のまま。古くさくなってはいるが・・・。今日の出し物は終わったのか、人影がない。酒屋の角を入って、昔、山車をしまっていた広場に行ってみた。すると小さな広場にテントがあった。昔ここに山車と御神輿の納屋があった。子供心に広場と思っていた場所が、何と狭い・・・。でもここで紙芝居を見たもの・・・。さっき見た山車がどこにしまっているのかは分からないが、でもこの山車が見られたので目的は果たした。

P10201111 P10201141 P10201161

それから、地図を頼りに、与野本町の祭の会場に向かう。子供の頃は、まったく行ったことのない地域。北の方向は、大宮赤十字病院は大宮駅があるので、良く行ったが、小学校の南側はまったく知らない。
お祭りの地域に入ると、もの凄い人の波。今まで歩いていた地域に、人影が無かっただけに、どこから湧いてきた???しばらく歩くと、ワッショイと御輿が来る。3つ見た。自分のいた地域の御輿がどれかは分からない。しかし、さっきの山車と同じく、昔のままの御輿だったかも知れないな・・・。と思いつつ眺めた。

P10201451 P10201331 P10201371

そして、やっと与野本町駅にたどりついたが、疲れた・・・。この間、12000歩。

足が不調なカミさんをだましだまし歩いた故郷だったが、一晩明けても大丈夫そうなのでホッとした。
でも、目的の昔の家の跡や、山車や御輿も見る事が出来た。
それにしても、10歳までの子ども時代は、何と狭い世界に生きていたのかと、ビックリ!?
まあ、お疲れさまでした。

(関連記事)
野上弥生子の「母の歌」と上落合小学校 

130714mutu <付録>「ボケて(bokete)」より


« 「熱帯救った日本の菌 大村智さんの発見、抗寄生虫薬に」 | トップページ | 愛犬・メイ子の写真撮影会 »

コメント

懐かしいですね、昭和20年の東京空襲で我が家も被災、知人の伝を頼り与野町上落合にあった田中計器の社宅?(2階建ての学校の校舎あと)に入居させてもらい昭和25年、東京に戻るまで住んでいました、工場の中に大きな水槽が有りプールがわりに遊んだことが懐かしい思い出です、当時の社名は田中航空計器だったような記憶があり、戦争も終わり航空計器が作れなくなり台秤などを作っていたようです。

【エムズの片割れより】
奇遇ですね。その2階建ての社宅には、親戚の若夫婦が住んでおり、よく遊びに行ったものです。台所は共用、廊下と部屋とは障子だった記憶があります。
自分は22年生まれで33年まで住んでいたので、 権小鉄さんの後の時代ですね。
田中計器は親父が勤めていました。当時は車のワイパーのモータを作っていたような・・・。近所で、ニクロム線を巻く内職をやる家がありました。もう半世紀以上前の話です。

投稿: 権小鉄 | 2014年12月27日 (土) 19:06

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「熱帯救った日本の菌 大村智さんの発見、抗寄生虫薬に」 | トップページ | 愛犬・メイ子の写真撮影会 »