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2013年7月 3日 (水)

「認知症で終末期、望む治療は 点滴47%・胃ろう6%」

先日の朝日新聞に、終末期の過ごし方についてのアンケート記事があった。

認知症で終末期、望む治療は 点滴47%・胃ろう6% 厚労省意識調査
 27日にあった厚労省の検討会で、速報値が報告された。今年3月、無作為抽出した20歳以上の男女5千人に郵送で調査表を送り、44%の2179人から回答があった。がんや認知症、心臓病といった病ごとに受けたい治療や、最期を過ごしたい場所を聞いた。
 認知症になって終末期を過ごしたい場所は、特別養護老人ホームや老人保健施設といった施設が最も多かった。一方、末期がんで、自力で食事や呼吸ができないが判断力は以前と同じ場合、点滴を望む61%、胃ろう8%と認知症の場合よりも高かった。過ごしたい場所は、身の回りのことが自分でできるためか、自宅を希望する割合が高かった。
 自分で判断できなくなった時に備え、どんな治療を受けたいかを書面に残しておくことには70%が賛成するものの、作っている人は3%、最期の治療について家族と詳しく話し合っている人も3%と少なかった。
 座長の町野朔(さく)・上智大教授(刑法)は「終末期のあり方は様々。家族の間で十分に話し合うことが大切です」と話す。(辻外記子)」(
2013/06/28付「朝日新聞」p7より)

当サイトはどうもこんな話題が多い。自分が高齢者の仲間入りをしてしまったせいかも・・・。
もし自分が認知症になったときは・・・、と考えると、もう自分に意識がないのだから、家族になるべく迷惑を掛けたく無い・・・という意味で、老人ホームなどの施設で・・・、というのは理解できる。
その他の、意識がハッキリしている病気の場合は、やはり住み慣れた自宅で・・・、ということになるのだろう。しかし自宅の場合は、痛みを取るなどの緩和医療をどう受けるか、死までの介護をどう受けるか、が問題となるので、どうしても家族の負担が大きくなる。

ふと、人格とは何か・・と考えてしまう。認知症などになった場合、それは果たして自分と言えるのかどうか・・・。ひとりの人間として、今までの記憶もなくなり、色々な判断も出来なくなるとすると、それはもう自分ではない。単なる生物という物体。こうなると生きる意味はなくなる。でも人間、簡単には死ねない。自分の意志通りに、生かしてもくれないが、死なしてもくれない。何ともやっかいなことだ。

こんな記事を読みながら、終末期の本人の希望を、例え家族が知っていたとしても、希望通りに行くのはどの位あるのだろう・・・と、つい懐疑的になってしまう。
でもまあダメ元で、“希望”だけはお互い言い合っておこうか・・・。

130703suppinn <付録>「ボケて(bokete)」より


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コメント

母が認知症です。母の場合は昔の記憶はしっかりあります。が、今さっきのこと(短期記憶)がだめです。一日おきに来てくれるヘルパーさんを「ずっとこない」と行って心配します。しかし、トテモ気に入ったその人の名前と顔はしっかり覚えました。老人ホームをさがそうと誘いますが、しっかり拒否して一人で好きに暮らしてます。

【エムズの片割れより】
同じ話は良く聞きます。先日、義姉の法事で、義姉のお母さんも認知が進んでおり、義姉という娘の逝去では泣かなかったが、自分の姉妹の逝去では、泣きはらしていたと聞きました。これも時間の関係なのでしょうか?

投稿: Tamakist | 2013年7月 4日 (木) 12:52

さっきの投書で言いたかったことは、「認知症などになった場合、それは果たして自分と言えるのかどうか・・・。ひとりの人間として、今までの記憶もなくなり、色々な判断も出来なくなるとすると、それはもう自分ではない。」はちょっと違う、ということでした。むしろ、認知症は取り繕えなくなって社会的役割を放棄した分、「素」の人柄(本当の自分)が出るように思います。だから、家族からみるとあきれるほど「わがまま」です。が、それを軽んじると人格が傷つきます。幸いなことにその「素」の部分をおもしろがってくれるヘルパーさんと出会えたので、良かったです。

【エムズの片割れより】
あれは「もし自分が認知症になったら・・・」という話で、自分自身に付いての認識でした。
2年前に亡くなった伯母。当時、お袋に「姉さんが亡くなって寂しいか?」と聞いたら、「自分も分からない状態だったので、寂しくない」と言っていました。つまりお袋の心の中では、姉の認知が進んで行く中で、既に亡くなってしまったようでした。

投稿: Tamakist | 2013年7月 4日 (木) 12:59

さだまさしさんを検索していて貴兄ブログにたどり着きました。最新記事を読んでコメントさせていただきます。
昨年秋、父を亡くしました。要介護5寝たきり胃瘻の状態で4年2か月、自宅で過ごしました。この間何度も救急車で入退院を繰り返し、反応は微かになって行きました。父は幸せだったか?それはわかりません。母や私はとても大変でしたし疲労もしましたが、ある種の充足はありました(病院での療養はあまりに不完全です)。
昨今延命治療、特に胃瘻への風当たりは強いようですが、我が家はこのおかげで在宅介護ができました。ご多分に漏れず父も元気なころ「管だらけで生きるなんてごめんだ」といっていましたが、緩徐に進む慢性疾患で栄養を経口摂取できなくなれば胃瘻を選ぶ以外道はありません。それをしなければ、家族として父として普通に会話できる一人の人間が「餓死」してしまいます。もし本人が「やむなし」と言っても、家族には受け入れがたいことです。身内が目前でみるみる弱っていくのを見続けるなんて。
また、認知症への誤解・無理解が多いと思います。人はどのような状態でも人格の核は存在します。外から見て反応がなくなって行っても、本人は、心はしっかり存在します。自分で居続けるのです。
それを前提に生活設計をしエンディングを考えなければいけない、といつも思っています。
私、仕事も医療介護関係ですが、高齢者(まあ、私もそうですが)たちはあまりに逃げ腰です。「ボケてわからなくなっちゃうんだから、いいんだよ」「食べられなくなっちゃたら終わりだよ」…そこに至るまで、そしてそこから先まで、個人個人本人自身であり続けます。 それを踏まえて家族や自分の一生を考えてほしい… 延命の話題が出るたびにいつもそう思うのですが。

【エムズの片割れより】
非常に深いコメントをありがとうございました。こんな体験のお話を聞くと、自分のような頭だけで考えていることが、子供じみていて恥ずかしい・・・・
“その時”に、自分たちがどう動くか、どう考えるかは分かりません。今まで頭で考えていたことが、雲散霧消してしまうかも知れません。
これらは理屈ではなく、その時の心。自分も“その時”に、改めて考え直すと思います。
ありがとうございました。

投稿: 164amber | 2013年7月 7日 (日) 09:45

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