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2013年1月15日 (火)

「健やかに生き、安らかに逝く」~死への準備

実は、ウチのカミさんが日本尊厳死協会に入っているため、季刊で会報「リビング・ウィル」が送られてくる。先日送られて来た冊子(2013年1月1日号)に、関西支部大会の講演の記録として、こんな記事があった。

健やかに生き、安らかに逝く
   久坂部 羊(作家・医師)

 日本の医療は今や世界のトップレベルにあるのに、多くの人が「安らかな最期」を迎えられないのは、どうしたことでしょう。
 私は在宅医療のクリニックで、非常勤ながら訪問診療を続けていますが、現場では多くの矛盾を抱えています。先日も、私が施設で診ていた末期がんの患者さんが亡くなったあと、病院からこんな報告書が届きました。
 『○○さんは夜間、看護師が巡回したとき心肺停止の状態で発見されましたが、すぐ当直医が人工呼吸器をつけ、心臓マッサージをして蘇生に成功しました。そして翌日、家族が見守る中、お亡くなりになりました』
 それを見て、私はなんと殺生なことをするのかと思いました。安らかに死んでいる者の囗をこじ開け、太い管を入れ、肋骨が折れるような心臓マッサージをして、薬で無理やり心臓を動かしてどうするのか。家族が死に目に会えたからといって、それは家族の自己満足ではないか。
 一方、私事で恐縮ですが、妻の叔父が胃がんで吐血したあと、救急搬送され、人工呼吸、中心静脈栄養、導尿カテーテルなど延命治療のフルセットをつけられ、主治医から、「今夜がヤマでしょう。助かる見込みのない人に、貴重な輸血を続けるわけにはいきません」とまで言われたのに、止血剤が功を奏し、徐々に回復して、無事に退院したという希有な経験もしています。
 医療の現場では不確定要素が多く、なかなか思い通りにいきません。だから延命治療を受けるのも、拒むのも、結果がどうなるか、ある程度わからないという覚悟が必要です。
 だれしも死ぬのは一回きりなので、十分な準備をしておかなければ失敗します。私は多くの患者さんを看取ったので、少しは実態を知っていますが、一般の人はきれい事や無責任なマスコミ情報に惑わされ、十分な準備ができないまま、その日を迎える場合が多い気がします。
 フランスの哲学者パスカルは、「我々は絶壁が見えないようにするため、何か目を遮るものを前に置いたのち、安心して絶壁のほうに走っている」と言っています。死を忌み嫌い、現実を直視しない多くの人は、まさにこの言葉の通り、「苦痛と悔いに満ちた最期」に向かっているように思えます。
 先日、ベストセラー『大往生したけりや医療とかかわるな』の著者である中村仁一氏と対談しましたが、お互いに共通していたのは、いかにほんとうのことが世間に隠されているかということです。効きもしない抗がん剤で自ら命を縮める末期がんの患者、いつまでも元気で活き活きとなどと絵空事にかまける高齢者、何の症状もないのに健康診断や人間ドックに熱心に通い、検査で健康を確認しないと落ち着けない人々。日本には医学的な根拠のない思い込みが蔓延し、その裏で儲ける業界があり、世界でも稀に見る健康不安と過剰医療の国になっています。
 ほんとうのことが伝わっていないことの一例として、「がんで死ぬことのよさ」があります。がんは世間的には蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われていますが、医師の中には「死ぬならがん」という人が少なくありません。それは、医師ががん以外の病気で死ぬ不都合をよく知っているからです。心筋梗塞や脳出血などによる突然の死は、周囲に多大の迷惑をかけるし、自分も思い残すことがいっぱいのまま人生を終えなければなりません。長生きしてあちこち痛み、他人の世話を受けながら、死ぬに死ねないのも耐えがたい苦痛です。身体が元気でも、認知症になればこれまた困ります。それらの死と比べれば、がんは比較的最後まで身体の自由が利き、意識もはっきりしているので、余裕を持って死の準備ができ、なおかつ苦痛に満ちた長生きをしなくてすむので、医師の間では「がん人気」が最近、ひそかなブームになっているのです。
 思う存分長生きして、充実した老後を過ごし、満たされた気持で人生を終えたいなどという絵空事を夢見ているかぎり、地に足の着いた最期は迎えられないでしょう。(以下次号に続く)」(日本尊厳死協会会報「リビング・ウィル No.148」p24より)

この一文を読んで、「絵空事」というキツイ言葉が耳に残る。
なるほど・・・。「思う存分長生きして、充実した老後を過ごし、満たされた気持で人生を終えたい」ということは絵空事か・・・・

そして医師の間では「がんブーム」だという。もちろん誰も、自分が何で死ぬかの選択は出来ない。それが充分に分かっている医師でさえ、がんで死にたいそうな・・・。
でもこんな事を願っていると、いざ、がんと宣告された時の心も持ちようは、随分違って来るのではないか・・・
普通の人は、がんと聞いて茫然自失。しかし“がん希望”の医師は、どうせ一度は死ぬのだから・・・と“ラッキー”と思う???(←どうも信じられないが・・・)

こんな話を書き出すと、決まって16年前に80歳で亡くなった親父を思い出す。前にも書いたが、親父は、いつもの仲間と趣味のマージャンをしながら、何かおかしい・・・と、脳出血で倒れ、次の日に亡くなった。
家族が病院に着いた時には、脳幹がやられていたため、人工呼吸器でやっと生きている状態。それで次の日に、家族で相談して人工呼吸器を外して亡くなった。
死後、親父の遺品を整理をした兄の話によると、突然の死ではあったが、全てが整理してあったとのこと。自分の心の内を表す一切の文もなく、淡々と・・・。

話は飛ぶが、死んだ人の心の内を、後で知ったらどうなるのだろう。
ウチのカミさんは、寝る前に日記を付けているという。そして先日、たまっていた今までの日記を全部処分したという。何を書いていたのかは知らない。しかし、死んだ後に読まれたくない、ということなのだろう。
それが誰であれ、もし死んだ後にその人の日記を目にして、その人の心の内を知ったとき、もし死ぬ前なら取り返しが付く。しかし死んだ後では、残るのは取り返しがつかない後悔だけ・・・
そんな事を考えると、日記は残さない方が良い。そして、残されない方がよい。つまり、表に出たいつもの姿が、お互いの真の姿・・・。

そんな意味でも、親父はなかなかの死に方だったと思う。つまり、日常、如何に死の準備をしていたか、という点で・・・。

さっきの話に戻るが、“がん希望”の理由は、死までの準備の時間が与えられるから、だという。しかしその時間は、死の恐怖と戦わなければならない時間。それをどう評価するか・・・

毎回書くが、自分は実に気の弱い人間。がんと宣告されただけで“ショック死”してしまうほど・・・
よって、やはり自分は突然死がいいな・・・。なぜなら、死の恐怖から逃れられるので・・・
でもその前提として、死への準備が為されていることが必要。
自分も親父にならって、健康な内から準備をしておいた方が良いな・・・と思うこの頃である。
つまり、がんを宣告された瞬間から、準備などどこかへ飛んで行ってしまうに違いないと思うので・・・。
先の医師のような「余裕を持って死の準備ができ・・・」ということは、自分にとってはまさに“絵空事”なのである。

130115panda <付録>「ボケて(bokete)」より


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コメント

長年の医療経験から・・・人は病気では死なず、寿命で死ぬ・・・と思います。食事の経口摂取が不可となれば、それが死に時です。無理な延命は必要ありません。死は決して他人事ではありません。還暦過ぎると「終活」を意識しながら、怪我に注意して、しっかり生きましょう。死ぬまで元気に、Pin Pin Korori。ちなみにメメント・モリとは、ラテン語で「死を忘れるな」と言う意味です。

【エムズの片割れより】
確かにその通りですが、理屈は分かっているものの、何とか「死を忘れたい」自分(!)が居て、困っています。

投稿: メメント・モリ | 2013年1月17日 (木) 21:54

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