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2012年6月18日 (月)

「老親扶養義務は時代遅れ?」

先日、朝日新聞のサイトでこんな記事を見つけた。(ここ
老親扶養義務は時代遅れ?
お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんが、母親の生活保護受給をめぐって謝罪に追い込まれた。成人した子は年老いた親を扶養する義務がある、という民法の規定が批判の前提にある。義務の強化を求める声もあるが、前提自体を再考する余地はないだろうか。

個人より社会で支える流れ 先進諸国は公的扶助
 ネット上で1本の声明文が静かな話題を呼んでいる。生活保護問題対策全国会議の「扶養義務と生活保護制度の関係の正しい理解と冷静な議論のために」だ。
 民法は、直系血族(親子など)と兄弟姉妹には互いに扶養する義務があり、夫婦は互いに扶助せねばならない、と記している。今回話題になっているのは直系血族、中でも「成人した子の老親に対する扶養義務」の問題である。
 声明文は先進諸国との比較を通して、「老親を扶養すること」まで定める日本の扶養義務範囲の“広さ”を訴えた。厚生労働省の資料をもとに、英国やスウェーデンなどでは原則、親が子(未成年)を扶養する義務や配偶者間の扶養義務はあるが、成人した子の老親に対する扶養義務はない、としている。
 同会議の代表幹事である尾藤広喜弁護士は、「家族による私的扶養から、社会による公的扶助へ。それが先進諸国での近代化の流れだ」と語る。「日本の制度もその方向へ向かってきた。老親扶養の義務が民法に書かれているのは、戦後の改正時にイエ制度から完全に脱却しきれなかった結果だ」
 民法や法社会学に詳しい利谷信義東京大名誉教授は、「国際的に見れば、家族の扶養義務を『夫婦間』と『未成年の子と親』に限定する方向へと進んできた」と語っている。

小家族化・減りゆく家業継承 身内頼れぬ現代事情
 戦前日本の決まり文句は「人民相互の情誼(じょうぎ)」だったと、社会保障に詳しい小川政亮日本社会事業大名誉教授は話す。「貧困は親族と近隣で助け合え、国は関知しない、との発想だ」
利谷名誉教授によれば、明治時代の旧民法の制定過程では、民法から扶養規定自体を外せとの声もあった。「家族の扶養は道徳によるべきもので法律で定めるべきではない、との考えが根にあった」
 その後にできた明治民法では、家族内で扶養を受ける権利の順序をこう定めていた。(1)直系尊属(父母や祖父母)(2)直系卑属(子や孫)(3)配偶者……。「妻や子より親を養え、という規定だ。国民感情や生活実態に合わないとの批判も出たが、儒教道徳には沿っていた」。かつて「父母」は、扶養されるべき立場の筆頭に置かれていたのだ。
 戦後、新憲法のもとで民法改正作業が進んだ。「新しい憲法の原則を踏まえつつイエ制度も守る立場」も「イエ制度を完全に廃止して家族関係を近代化する立場」も主張された。様々な勢力の意見を取り入れる形で1947年、新しい民法はその形を整えた。
 「当時はまだ、現行の生活保護法も出来ていなかった。高齢者には『誰にも援助してもらえなくなってしまう』との不安が強かったと思う」。家族による扶養を求めた心情の一端を、利谷名誉教授はそう推察する。
 2012年現在の家族の状況をどう見ればいいか。社会福祉学が専門の岩田正美日本女子大教授は、「小家族化」への注目を促す。「兄弟が減り、子のいない夫婦も増えた。子どもが家族を扶養できる時代ではなくなってきている」
 家業を子が継承することが珍しくなかった時代には、家産を継承する者が老親を扶養することが自然だと見られるような「実態」があった。だが、雇用されて働く人の割合が増え、その実態も変わりつつある、と岩田教授は言う。
 自民党は「社会保障に関する基本的考え方」の中で、「家族による『自助』」を大事にする方向を打ち出した。「貧困に社会で対応すべきか、個人で対応させるべきか、その哲学がいま問われている」と、尾藤弁護士は訴えている。(塩倉裕)」(朝日新聞デジタル2012年6月15日10時25分より)

この記事にあった生活保護問題対策全国会議の「扶養義務と生活保護制度の関係の正しい理解と冷静な議論のために」を読んでみた。
その中に、重たい言葉がある・・・・。
第5 扶養義務の強調は餓死・孤立死を招く
 小宮山大臣が言及した「扶養義務者に扶養困難な理由の証明義務を課す」とか,一部で主張されているように福祉事務所の調査権限を強化し,扶養義務者の資産も含めて金融機関に回答義務を課すような法改正がなされれば,どうなるであろうか。
 生活に困窮した人が,福祉事務所に生活保護の申請に行くと,親兄弟すべての資産や収入が強制的に明らかにされ,申請者本人が望まなくても,親兄弟は無理な仕送りを迫られることになるであろう。これはほとんどの場合,親兄弟にとって歓迎せざることであって,親族関係は,むしろ決定的に悪化し破壊されるであろう。
 あるいは,福祉事務所の窓口では,25年前の札幌市白石区での餓死事件のように,申請者に対し,「扶養義務者の扶養できない旨の証明書」をもらってくるようにと述べて追い返す水際作戦が横行するであろうが,法改正がなされれば,これは合法として容認され,餓死・孤独死・自殺事件が頻発することになるであろう。
 そもそも,生活に困窮している人は,親族もまた困窮していることが多い上,さまざまな葛藤の中で親族間の交際が途絶えていることも多い。先に述べたとおり,現状でさえ,扶養照会の存在を理由に保護申請をためらう人が多数存在するのに,扶養が前提条件とされれば,前記のような親族間での軋轢をおそれて申請を断念する人は飛躍的に増大することは間違いがない。
日本の生活保護利用率は1.6%に過ぎず,現状でも先進諸国の中では異常な低さである(ドイツ9.7%,イギリス9.3%,フランス5.7%)。この状況に加えて,さらに間口を狭める制度改革がなされれば,確実に餓死・孤立死・自殺が増える。
 これは,緩慢なる死刑である。しかも,死刑囚ですら糧食を保障されているのに,それさえ奪うという意味では死刑よりも残虐な刑罰である。何人もそのような刑罰を受けるいわれはないし,何人もそのような刑罰を科す権限はない。制度改革を進めた政治家や報道機関は,死者に対してどのような責任がとれるのか,冷静になって慎重に検討することが今,求められている。・・・」(生活保護問題対策全国会議の「扶養義務と生活保護制度の関係の正しい理解と冷静な議論のために」
ここ)(大きい文字用はここ)より)

これは考えさせられる問題である。また、この主張はもっともであると思う。
そもそも親族関係とは何か?それは血縁の関係というより、それをキッカケとしたお互いの信頼関係によって結ばれた関係なのだろうと思う。とすると、それは意志の力、つまり親族関係と言っても、お互いの「付き合おう」という意志でつながれている関係ではないか? 言い方を変えれば、付き合う意志がない親族も、世の中にはゴマンとあると言うこと。
その人間関係を、国が法で強制することが妥当なのかどうか・・・・

前に「親戚付き合いに思う~ある寒中見舞いから」(ここ)という記事を書いたことがある。
1年前に脳出血で倒れた従姉妹の家から「盆、暮れの挨拶、我が家の新年の挨拶はこれを最後とさせていただきます。」という寒中見舞いが届いた話であった。
これをみても、親戚付き合いはお互いの意志・・・・。

もちろん、法も道徳も関係無く、普通に自然に付き合えればそれに越したことはないが、世の中色々ある。それに日本の親戚付き合いも、時代と共に変化していく。
ふと自分の周囲の親戚を思い浮かべるこの頃ではある。

(関連記事)
親戚付き合いに思う~ある寒中見舞いから


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