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2011年11月21日 (月)

「一歩下がって」~「よっぽどの縁があってのあなたと私」(2/3)

雑誌「大法輪」の今月号(2011年12月号)に、「よっぽどの縁があってのあなたと私」という記事があった。なかなか面白いので、長文だが3回に亘って読んで行く。今日はその2回目。

よっぽどの縁があってのあなたと私(2/3)
           奈良・薬師寺執事 大谷徹奘
・・・・・
一歩下がって
 私は学生時代、煩悩と呼ばれる人間の欲望に興味を持ち学んできた。諸先輩が人間追求を重ね、実にその数が百を超えるほどにこまやかに煩悩について説き示されている。その数多くある煩悩の根底には、一体どんな心が働いているのかが興味の的だった。学生時代に机の上で学んだことをベースに、僧侶として数多くの悩みや迷いを持つ人々と対話をしながら知り得たことは、“自分は人より優れている”“自分は人とはちがうんだ”等、「他の人よりも良い評価が欲しい」という心であった。つまり、自分が一番という心なのだ。その心の働きに何の疑いも持たないし、疑おうともしない。これこそが「我」そのものだと言ってよいのではないのだろうか。
 その我の塊と言ってよい私であるが、最近は、修行のおかげで相手を受け入れるという心が育ってきたのである。それによって今まで、「自分は○、相手は×」から、「自分も○、相手も○」と考えられるようになってきたのだ。
 修行を始めた頃、正直にいえば、私にはすごく嫌な兄弟子がいた。私がすることなすことに口出しをし、偉そうにものを言うのである。
 今でこそ人前では、「強い指導を受けた」と言っているが、本当は「いびられた」と思っていた。その頃の私はまさに、自分は○で、兄弟子は×どころか、まさに××(バツバツ)だった。自分に欠点があるなんて夢にも思っていなかった。そして、引きこもりの子供達と同じように「オレを理解しないお前が悪い」と、その人を恨んでいた。しかし、それから三十年近い歳月が流れ、若い修行僧との接点を多く持つようになってハッキリ気づいたのは、
 おこられる人には、おこられる理由がある。
 ほめられる人には、ほめられる理由がある。
 ということだった。今思い返せば、兄弟子が私に強い指導をしなければならなかった理由が、間違いなく私自身に存在していたのである。しかし、自分を省みる能力がなかった私は、逆恨みだけを繰り返していたのである。そんな私が今頃になってではあるが、「自分も頑張ったが、あのお人のおかげで今があるんだ」、つまり「自分も○、相手も○」と、言えるようになっているのである。
 では何故、私がそんな風に変わったかと言えば、それは間違いなく、今までの人生で、実に多くの人とぶつかったという経験が私の価値観を変えさせたのだと思う。
 今までの私は、どんな形でもいいから自分を通したかった。そして、自己主張をして通った時は、良い気分だった。しかし、無理に自分だけを通せば必ず後から、大きなツケを貰う事が多い、という事に気付けたのだ。そこから、「一歩前へ出る」を「一歩下がって見る」に変える事により、冷静に人の意見を見聞きすると、そこには、自分の持ちえなかった価値観というものがあり、今までの自分に新しい価値観を加える事が出来ると知ったのだ。そうすると、今までは「自分は○、相手は×」という考え方が、「自分も○、相手も○」という受け止め方になった。
 自分のものさしが通じぬと眉間にしわを寄せて相手に強要したり、相手を嫌えば敵が多くなる。でもその人も自分の智恵袋として受け入れてしまえば、この人は自分に一体どんなヒントを与えてくれるのかと、ウキウキしながら話を聞けるのだ。」(雑誌「大法輪」(2011年21月号p25より)

前にディール・カーネギーの「人を動かす」について書いた(ここ)。
“聖書に次ぐベストセラー”などというウワサまである有名な本だが、その本の最初のところに、
「人間はたとえ自分がどんなに間違っていても決して自分が悪いとは思いたがらないものだ」(P7)
とある。まさに「自分は○、相手は×」は、人類始まって以来の“人間の原理”なのである。
よって自分も、何か非難されると、直ぐに逃げ場を探す。まず“自分は悪くない”という所から始まる。そうして、“こりゃダメだ”と悟った時にだけ、笑って誤魔化す・・・(ホホホ・・・)。自分の非を認めることなど、普通の人間にはとても出来ない。これは、誰でも・・・だ。

ナーンて、開き直っていても仕方がない・・・・。
運良く、自分も年の功か、何とかやっている。しかし“年の功”というのはやはり存在すると思う。
広辞苑で【年の功】を引くと「年をとり経験を多くつむこと。また、その経験の力。「亀の甲より―」」とある。
人生を長いことやっていると、色々な事象に対して、前の経験を思い出すことができる。それで、ある程度、事態の推移の予測が出来る。それによってゆとりが生まれる。だからキャンキャン騒がなくなる。まるでウチの愛犬・メイ子のようだ。
彼女も、小さい時は怖い一心で、犬を見かけると直ぐに吠えた。怖いので吠えた。でも最近は、だいぶん我慢が出来るようになってきた。つまり、この犬は大丈夫とか・・。これも年の功・・・。

昨夜、ゾッとすることがあった。FMチューナーの音を、プリアンプ経由で入力を貰っているHDDレコーダの出力レベルが下がっている・・。そんなバカな・・。愛用のNAC-HD1が壊れたか・・・?ドキッとした。
原因は、プリアンプへのFMチューナー出力のつなぎ間違い。前日に、レコードをかけるため、プリアンプの電源を入れた。プリアンプの出力に、間違ってチューナーの出力がつながっていたので、プリアンプに電源が入った途端、プリアンプが負荷になってレベルが下がったもの。しかもプリアンプの電源を切り忘れていたので、レベルが一日中、下がっていた。原理的には当然の現象だが、頭を抱えた。いつプリアンプのコネクタを差し間違えた? 自分はそんな所、しばらく触っていない・・。でも確かにコネクタは差し違っている・・・。自分の知らない所で、誰かが差し直したかな? では誰だ? カミさんは機械オンチなので触らないだろう。メイ子もあんな不自由な犬の手で、出来るワケがない・・。するとやはり自分か? でも覚えがない・・。するとゾンビのごとく、自分が夜中に起き上がってコネクタを直した・・・? そんなバカな・・・。
前の、車のバッテリーを上げた時もそうだが、このトシになっても、何とか相手を探して×をつけ、自分は○の世界に・・という浅ましい姿・・。ああイヤだ・・・。でもカミさんが言うように、それが現在の自分の姿・・・!?

・・・と、ここまで書いて、ふと思い出した。そうだ、RCAプラグを金メッキのものと取り替えようとしたことがあったっけ。つい先日だ。その時に、FMチューナーの出力ピンを確認のために外して、別の場所に差したのかも・・・・・(ゾンビでないので“ホッと”したが、同時に記憶力の低下に“ゾッと”した・・・)

上の例とは少し違うが、つまり「一歩下がって」まず“自分が悪い・・”と自分を省みることは、大変に難しい事なのであ~る。

(関連記事)
D.カーネギーの「人を動かす」(1/5)

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コメント

若い頃のことを思い出すと、なんであんなに馬鹿だったんだろう、自己顕示欲の塊でなんとも恥ずかしい、と思います。

そして今も、まだまだ馬鹿だなあ、と思います。

でもまあ、少しはましになっているとは思います。

【エムズの片割れより】
自分の場合、60歳定年に達した時から、格段に肩を怒らせることが無くなりました。
分をわきまえ、会社でも縁の下の力持ちに徹しています。これも“年の功”では?

投稿: たかはし | 2011年11月22日 (火) 07:59

そうですね。
私も若い頃、男って何故あんなに、女の前で偉そうにエエかっこしたがるんだろうと、まるで「裸の大様」じゃないかと、隠れて笑ってましたけど、それを言う事は、かわいそうでとても言えませんでしたね。

【エムズの片割れより】
それは、男という生物の性(さが)なのでしょうか?
確かに男はメンツの動物かも・・・

投稿: み~子 | 2011年11月24日 (木) 02:40

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