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2011年10月13日 (木)

「弟に会いたい」~兄弟とは・・・

今日は、「忍耐力」と「体力」を試されてしまった。会社の帰り、いつものJRの駅に行くと、「中野と東中野間での人身事故のため、上下線とも止まっています」・・・
結局、いつもは20分ほどの電車が、今日は1時間半も閉じ込められてしまった。しかし、時間調整で止まっている駅でのぎゅうぎゅう詰めの電車内はなかなかツライ。走っているときなら、もう少しで着く・・・とガマンもできるが・・・
しかし、日本の良いところ・・・。いくらぎゅうぎゅう詰めでも、降りる駅では、皆がちゃんと道を空けてくれるので降りられる。これは日本の美徳・・。しかし今日は、特に体力の低下を思い知らされた1時間半であった。

・・・と、気を取り直して・・・・
先日、本屋で見かけた「ラジオ深夜便~こころのエッセー」という本を買ってきた。これは、2006年~2009年まで行われた第一回~第四回の「こころのエッセー」入選作43編を収めたもの。その中に、こんなエッセーがあった。

「弟に会いたい」
  H.K(女性 所沢市 62歳)
私が小学校二年生くらいで弟が幼稚園のころだったと思う。毎晩寝る前に弟に本を読んであげるのが日課になっていた。弟は枕元にドサッと絵本や童話の本、子ども向けの雑誌をおいて布団に入る。その中から気に入りのお話を選び、それを私か読むのを気持ちよさそうに聴きながら眠りについた。
 同じ子どもでありながら両親はこの一人息子をことのほかかわいがった。甘やかした、といってもいい。だからといって私はそのことをうらやましいとも特に思わず、私も弟をかわいがった。いつも私の後をくっついてきたし、幼稚園から帰ってきたとき、私の姿が見えないと、「おねえは? おねえは?」といって探したと、母がよく言っていた。
 大学の経済学部を低空飛行で卒業したが、就職する気配もなく、テキスタイル・デザインの勉強をしたいから専門学校へ行かせてほしいと親に頼み込んで、三年間さらに勉強させてもらった。それまでなんとも迫力のない学生生活を送ってきた弟が、才能を試される分野に進むことに両親も私も大いに不安でもあり、心配でもあったが、その三年間、弟は水を得た魚のように、生き生きと勉強した。
 卒業後はハンカチメーカーに就職し、よき人の縁を得てのびのびと仕事を楽しんでいる様子に、両親も私も大いに安心した。季節ごとの企画会議も弟を中心に進められているようで、年二回、春と秋にヨーロッパに出張し、得意満面な日々が数年続いた。その間に結婚をし、男の子を授かり、あのころの弟の姿はわが世の春を謳歌するようだった。
 その弟が慢性腎不全と告知されたのは、三十二歳のときだった。二年くらい続けて夏風邪をひき、それが引き金となって腎炎を発症させた。一度は完治したかにみえたが、再び夏風邪をこじらせて、気がついたときには人工透析を要する体になっていた。
 医師からは肉親からの生体腎移植という方法もある、と勧められた。当時両親は六十三歳、私は三十六歳。独身で婚約者がいるというわけでもない私は迷うことなく自分の腎臓の提供を申し出た。もう一度健康な身体になって、自信たっぷりな弟の姿をどうしても見たかった。
 双子のようだ、という組織適合率に期待して臨んだ移植手術であったが、生涯服用しなければならない免疫抑制剤の副作用で肝臓をいため、術後一年半で亡くなった。年老いた両親と美しい妻とかわいい盛りの五歳の息子、そして姉の私をおいて向こうの世界へ旅立ってしまった。
 この病気を発病する前か術後の夏か忘れてしまったのだが、NHKの<思い出のメロディー>を弟と二人で見ていた。弟が白のTシャツ姿だったのを覚えている。『誰か故郷を想わざる』という古賀政男さんの曲が流れていた。その二番の歌詞「ひとりの姉が嫁ぐ夜に 小川の岸でさみしさに 泣いた涙のなつかしさ」を聴きながら、私が弟にふざけて言った。
「ねえ。よっちゃん。お姉ちゃんがお嫁に行くとき、この歌の人みたいにあんた泣く?」。「誰が泣くかよ。嫁のもらい手があってほっとするよ」という答えが返ってくると思った。が、弟はしばらく黙っていた。ややあって「泣くと思う……」とぽつんと言った。「またぁーうまいこと言ってぇ」と、私はちゃかそうと思ったが、言えなかった。私の方を見ず、手を口元に当ててじっとテレビの画面を見ていたその姿が、今も私の心に残っている。
 弟が他界して七年後、私は四十四歳で結婚した。若くもなく、美しくもない私との結婚を喜び、大切にしてくれる人との結婚である。そして主人は十八年たったいまでも変わらずに、わがままな私を大事にしてくれている。弟が生きていたら、どんなにか喜んでくれるだろう。いや、私には見えないけれど、きっと主人に手を合わせているだろう。
 両親は私の結婚を見届けると、さっさと死んでしまった。はじめに父が、三年後に母が追いかけるように逝ってしまった。
 もしもお釈迦さまが、亡くなった身内のうち、ひとりだけに会わせてあげようと言ってくださったら、私は弟に会いたい。

――残念だったよね。まだしたいこといっぱいあったでしょ。あんたが逝ってから、あっという問にお父さん、お母さんが逝ってしまって、それから十年以上、私は法事ばっかりしてたわよ。あんたの息子はもう三十歳よ。コンピューターグラフィツクデザイナーですって。やっぱりあんたの息子ね。最近はちっとも私に会いに来ないわ。それから知っているでしょうけれどあんたの奥さんは再婚しましたよ。息子を二十五年もひとりで育てたんだから、褒めてあげなさい――。

 弟は元気だったら来年還暦を迎える。
 六十歳の弟なんて想像もつかない。」(「ラジオ深夜便 こころのエッセー」より)

最近、“兄弟って何だろう”と良く思う。このエッセーのような感慨はないが、このところ色々と考えてしまう・・・・。
我が家(実家レベルだが)は、今年は受難続き。もちろん東北の震災とは比べるべくも無いが、15年前の親父の死去以来、我が家にはそんなに荒波は来なかった。それが今年になってからは、つい10日前の茨城の90歳になるお袋の骨折、入院まで、今年は次々に良くない出来事が起きてしまった・・・・

ところで、兄弟は別に事件が無ければ日常生活の忙しさにかまけて、没交渉・・・。しかし一旦事件が起きると連携を取らざるを得ない。親のことなどは、共通事項なので・・・。
よって今年は事件が多いため、兄弟間の連絡の密度の濃いこと・・・。

どんなに社会的に高名な人でも、いったん病魔に冒されると、支えるのは家族。どんなに没交渉の家庭でも、一度事件が起きると集結するのが家族。結局は、血のつながりが一番強固か?

実は自分は男3人兄弟の2番目なのだが、皆が健康な時は、当然長男が全てを仕切る。一家の頭領なので。しかし長男が体調を崩すと、統制が取れなくなる。
我が家の場合、長男に代わって実質の頭領の役目を果たしているのが、(当人の望むか望まないかに拘わらず)3番目の弟。実家に近い。ただそれだけの理由で!?

最近、兄貴としみじみと話す・・・。「弟を怒らせては怖い・・・」

一般的に見ても、我が家は“普通”だと思う。つまり、長男は(昔風に)皆に大事にされた。サラリーマン家庭ゆえ“家を継ぐ”という概念は無かったとしても、両親はやはり長男を頼る。一方長男は、意識のどこかに“頭領”という言葉があったか無かったか・・・。結果としてそれに応えようとする。
末っ子は、両親にとってはただ「可愛い・・・」。ウチでも小さい頃から“ちびちゃん”・・・。それを端(はた)で指の爪をかみながら眺めているのが、ヘソの曲がった次男坊・・・。つまり自分・・・。
世の中、まあそんなものサ・・・。ウチはその典型例だな・・・・。

我々兄弟も、皆で還暦を迎えるトシにもなると、立場は大きく変わる。
我が家も“色々”ある・・・。それら、非常に困難な課題をフットワーク良くこなしている末弟に、我々二人の兄貴たちは段々と頭が上がらなくなる・・・。

昨日、兄貴と「弟を怒らせると怖い。どんな言い方をしようか・・」と電話で話しつつ、ふと弟に頭が上がらなくなっている我々二人の兄貴の立場を思い知らされた。
これらは下剋上の話ではない。実力が立場を作る。
今までの人生では、「長男-次男-三男」という序列だった。しかし、いざ現役を退くと、まさに「三男-次男-長男」という序列。
これからのリタイア人生。“怖い弟”に、兄貴と一緒に「どうしようか・・」と相談する日々になりそうである。これまた、仕方がないことではある・・・。

(関連記事)
人生における“勝ち”と“負け”

●メモ:カウント~225万


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