« 近江俊郎の「南の薔薇」 | トップページ | 田中奈保美:著「枯れるように死にたい―「老衰死」ができないわけ」を読む »

2010年9月 2日 (木)

初代若乃花が亡くなった・・・

昨日のテレビニュースや今朝の新聞で、「元横綱初代若乃花の花田勝治氏が死去」と報じられていた。曰く・・・

「横綱栃錦とともに「栃若時代」を築き、昭和30年代の大相撲の黄金期を演出した元横綱初代若乃花の花田勝治(はなだ・かつじ)氏が1日午後5時25分、腎細胞がんのため東京都内の病院で死去した。82歳だった。
100902wakanohana  1928年、青森県中津軽郡(現弘前市)生まれ。リンゴ園の長男として生まれたが、34年の室戸台風で作物が全滅し、北海道室蘭に移住。少年時代から港湾での荷役など重労働で一家を支えた。初土俵は46年11月。強じんな下半身とひざのバネはこうした肉体労働で鍛え上げられたもので「異能力士」として出世街道を走った。
 58年1月場所後に45代横綱に昇進。昇進時は105キロの小兵だったが、スピードとテクニックを盛り込んだ近代相撲でファンを魅了。呼び戻しなど豪快な技が得意で、“土俵の鬼”とも呼ばれた。優勝は通算10回。
 62年に引退後、二子山部屋を創設。苦労の末、故郷青森出身の2代目若乃花、隆の里の2横綱のほか2大関を誕生させるなど、部屋のある東京・杉並区阿佐谷に一大勢力を築き上げた。88年、元横綱栃錦の春日野親方の後を受けて日本相撲協会理事長に就任、92年まで務めた。」(2010/09/02付「日経新聞」より)

そして、こんな記事も・・・
「・・・横綱を目前に長男をちゃんこ鍋によるやけどで亡くしている。「よく気がおかしくならなかった」と後に述懐するほどの苦しみを味わった。
2横綱2大関を育て、わが世の春を謳歌した名伯楽は、栃若時代の一翼を担ったその功績で、春日野親方から理事長のバトンを受けた。自分が育てた2代目若乃花と隆の里の両横綱を従えての還暦の土俵入りという、感無量のハレの日もあった。
少年時代から次々と襲う荒波に立ち向かい、ついには角界の頂点に立ったわけだが、そのすさまじいドラマはやむことがなかった。伯父として、花田家の長として有頂天だった、「三代目若乃花」と「貴乃花」の兄弟横綱人気の時代から、一気に人生の奈落をのぞく。
2005年5月、「昭和の名大関」「角界のプリンス」といわれた弟貴ノ花が55歳の若さで人生を終えた。その後「若貴」も仲たがいのような形で別々の道を歩む。花田家の血族が空中分解したのである。
悲劇のどん底からはい上がっては、新たな悲劇に遭遇する。「人生辛抱だ」を地でいく人生だった。晩年も心穏やかな日々は少なかったのではないか。」(2010/09/02付「日経新聞」p37より)

前に書いた「昭和32年の出来事」(ここ)という記事で、“日活映画「若ノ花物語・土俵の鬼」”に触れた。小学校3~4年生の時に見たこの映画の印象は、子供心に強烈だった。そしてその映画を見て以来、若ノ花が大好きになり、ラジオで相撲中継を聞いたものだ。ただただ、“若ノ花頑張れ!”・・・と。
死んだ親父が好敵手の栃錦のファンだった。理由は知らない。(だいたい親父とは何でも合わないのだ・・・)

子どもの頃のどん底の生活から、自分の努力と体だけで頂点に達し、そして奈落の底も見た若乃花の壮絶な人生・・・。もし長男がちゃんこ鍋の事故で亡くなっていなかったら、花田家も別の形になっていたかも・・・
運動神経は“血”だな・・・と、世間を唸らせた花田家・・・。

北朝鮮の総書記の後継も世界の注目の的。
その点、フツーのサラリーマンは、後継も何も無く、どんなに気楽なことか・・・。頂点も知らない代わりに、たぶん奈落も知らないまま終われそう???
最近、日々の平凡を、寝る前に??に感謝しようと思ったものの、まだ一度も実行していないフツーのサラリーマンではある。


« 近江俊郎の「南の薔薇」 | トップページ | 田中奈保美:著「枯れるように死にたい―「老衰死」ができないわけ」を読む »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 近江俊郎の「南の薔薇」 | トップページ | 田中奈保美:著「枯れるように死にたい―「老衰死」ができないわけ」を読む »