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2010年7月14日 (水)

「転々とした善光寺の本尊」

毎月送られてくる仏教雑誌「大法輪」(ここ)。その今月号の「雑学から学ぶ仏教~瓜生 中」というシリーズに面白い記事があった。曰く・・・

転々とした善光寺の本尊
長野の善光寺の本尊は「一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来」と呼ばれるもので、早くから盛んな信仰を集めてきた。阿弥陀如来を中心に左(向かって右)に観音菩薩、右に勢至菩薩の三尊が、一つの光背に納まっているため、「一光三尊」の名がある。
ただし、七世紀の半ばにまつられたという本尊は、それから十年ほど後からは絶対秘仏となり、以降、人々の前に姿を現したことがない。現在、御開帳されているのは、鎌倉時代に造られた前立ち本尊(レプリカ)だが、その前立ち本尊すら早くから秘仏になった。現在でも七年に一度の御開帳には、約50日間で600万人もの人々が参詣するというから驚きである。
そして、あまりにも強烈に信仰された結果、戦国時代になると、全国各地の戦国大名が権勢の象徴として、この前立ち本尊を自分の領地にまつるという、今では信じられないような行動に出たのである。
最初にこの仏像を自国にまつったのは甲斐(山梨)の武田信玄である。信玄は川中島の合戦(1533~64)の最中の1558年、この合戦の必勝を祈願して、自国に善光寺を建てて、善光寺の本尊を移しまつったのである。これが、現在の甲府市の甲斐善光寺で、このとき長野善光寺の僧侶たちも甲斐善光寺に移転させられた。以降、善光寺の阿弥陀如来は40年余りの流転の旅を続けることになったという。
間もなく武田氏は織田信長によって滅ぼされ、今度は天下をとった信長がこの仏像を岐阜に持ち帰って、信長の居城だった井奈波城の麓に寺を建ててまつった。天正10年(1982)のことで、今もこの寺は岐阜善光寺として存続している。しかし、同じ年に信長は本能寺の変で倒れると、信長の長男の信雄が尾張清洲(現在の名古屋駅近く)の甚目(じもく)寺に移してまつった。
その同じ年、急速に台頭してきた徳川家康が遠州(静岡県)に移しまつり、その後、再び甲府の善光寺に戻されたが、慶長元年(1596)には豊臣秀吉が京都に方広寺を建て、ここに運んで安置した。
ところが、このころから秀吉は健康を損ない日増しに病状は悪化した。そのため、世の人々は善光寺の阿弥陀如来の祟りであると密かに噂し、秀吉は周囲の説得に従う形で本尊を長野に返すことにした。しかし、時すでに遅し。本尊が長野に帰ったその翌日、秀吉は没した。」(雑誌「大法輪」2010年8月号p206より)

長野の善光寺には、10年ほど前から出張ついでに3回ほど行った。甲府の善光寺にもその少し前に1度行ったことがある。寺の名前が同じで、造りも同じよう・・・。それは知っていたが、何故そうなったかは知らなかった・・・。
少し興味を持てばNetにも色々と情報はある。Wikipediaにも色々書いてある。2009年の御開帳には673万人が訪れたとか・・。1日に何と10万人以上・・・・。

当blogは、自分が「ヘエー」と思ったことをメモするのがコンセプト。しかし考えてみると、これは自分の無知ぶりを天下に報告しているに等しい。
その点、blogの匿名はありがたい。実名が出ていたら、本当は知らなかった事も、さも知っていたように書かなければならず、大変・・・

仏教では無知のことを「無明」という。その“現実”に対しては、「ヘエー」を積み重ねるしか方法はない。


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