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2010年3月29日 (月)

「死に立ち会うことで生を学ぶ」

先日の朝日新聞の「声」の欄に、小児科医のこんな投書があった。

死に立ち会うことで生を学ぶ
   小児科医(51)(新潟県佐渡市)
日本の医療レベルは高く、平均寿命や乳児死亡率の低さはトップレベルです。一方で近年死亡する場所はほとんど病院です。最近、命が軽んじられているのではないかといわれますが、私は、人々が死に触れる経験が減れば減るほど、社会から命の尊厳が失われると感じています。人の死を経験できると、生かされている命に感謝し、「死」の対極にある「生」が明瞭になり、心が育つのだと思います。
外来でいつもやんちゃだった子どもが急に大人びたあいさつをしてくれたとき、不思議に思って尋ねると、わがままを言って迷惑をかけた祖父の死に立ち会ったのだと教えてくれました。
「じいちゃんの分もがんばる」。普段見せなかった顔で言われると、これが孫への一番の教育だと感動しました。
自らの臨終のときは、テレビやゲームだけで実際の死に触れる機会のない現代の孫たちへ、生きる力を授ける最大のチャンスとなりえます。」(2010/03/27付「朝日新聞」p16「声」より)

この記事を普通に読むと「なるほど。その通り」で終わる。しかし捉え方には色々あるもので、「それは子供が可愛がられ、大事に育てられている環境だけで言われること」という議論もある。

昨日、NHK TV「こころの時代~死を人生修行の場として 竜宝寺住職 中野東禅」(2010/03/28放送)を見た。心に止まる話が幾つもあったが、その中でこんな話があった。
「滋賀県の県立病院の研究Grの発表で、350人の看護師さんに「初めて、看護していた患者さんがご遺体になった時、何を感じたか」をアンケートした。結果、1/4は「厳粛な気持ちになった」と答え、1/2は「怖かった」と答えた。これは“心が通っていた”かどうかの違い。心が通っていないと怖い・・・」
上の投書も、まさに心が通っていたおじいちゃんだったからこそ、良い影響を残したのだろう。しかし、ほとんど会わなかったおじいちゃんだと、受け止め方は違うだろう。

こんな話もあった。「学生に「死」について書かせた700通の作文を分類した。そのとき、近くで死んだ人がいなかった人は、死について、空想でやたらと説明を書いていた。しかし近くで実際に亡くなった人がいて、身近に死を体験した人は、死については説明しない。これは仏教でいう「如実知見(=事実を事実のまま見る智慧)」で、直接体験した人は説明など出来ない。事実そのもの・・・・と捉える。」

そして「子供は10歳を境に、死を意識する」という話があった。
自分の場合、初めて死に出会ったのは、小学校5年の時の祖父の死だった。訳も分からず病院に行き、祖母から言われて、割り箸に巻いたガーゼを水に浸し、亡くなった祖父の口に持って行ったのだけは覚えている。でも自分の、まさに10歳の時の出来事で、自分が死を意識できたかというと、良く分からない。

ついでにこの番組で、中野さんが「直腸がんだと思い込んだ時(実際は違った)、頭の中が真っ白になって・・」「妻に対して何もしていない(食事や旅行等)事に気付いたとき、死が本当に怖くなった。知り合いのホスピス医に言ったらこう言われた。“当たり前です。夫婦に後悔が無ければ死ねます”。これは逆に夫婦に負い目があったら死ねないという事。それはこたえた」と言っていたのが印象に残った。
どんなに偉いお坊さんにとっても、死はそんなもの・・・

先の投書も、死を教材にするという発想は少しイヤだが、「死」を意識することによって、対極にある「生」を意識する(大切にする)という考え方も分かる。
しかし、自分の死を孫に見せる・・という発想は、まだまだ未熟な自分には分からない世界。まあ将来、もし孫でも出来たら、ゆっくり考えることにしよう・・・。


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