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2010年2月の23件の記事

2010年2月28日 (日)

島田祐巳著「葬式は、要らない」を読んで

今、ベストセラーの2位だという島田祐巳著「葬式は、要らない」を読んだ。その題から、興Image04271 味はあったが、「こんなハウツーものなど読めるか・・・」とバカにしていた。でも本屋で手にとって、ツイ読む気になって、買ってしまった。もちろんあっという間に読んでしまったが、「なるほど、さすがに売れているだけのことはある・・・」が感想か?

気になった個所を書き抜いてみると・・・
「葬式は贅沢である」→「最終的に“葬式無用論”に行き着くはずだ」(p15)
「日本の葬儀の平均費用は231万円。葬儀社等へ142万3千円、飲食接待費40万1千円、お寺などへ54万9千円。地域で最低の四国は149万5千円なのに、高い東北は282万5千円。米国44万4千円、英国12万3千円、独19万8千円、韓国37万3千円」(p18より)
「墓埋法で決まっているのは、1)死後24時間経たなければ火葬は行ってはならない。2)火葬は火葬場以外ではダメ。3)埋葬は墓地以外ではダメ。だけ」(p20)
「仏教式の葬式が開拓されたのは、道元が開いた、鎌倉新仏教の曹洞宗においてである」(p65)
「1103年に中国の宋で編集された『禅苑清規』という書物に禅宗の葬式の方法が記されており、『尊宿葬儀法』はすでに悟りを開いた僧侶のための方法、『亡僧葬儀法』は修行の途中で亡くなった僧侶のためのもの。修行の途中にあるということは、完全な僧侶であるとは言えず、その立場は在家に近い。そこで、亡僧葬儀法を在家の信者にも適用した。これによって、亡くなった在家の信者をいったん出家したことにし、出家者の証である戒名を授けるという葬式の方法が確立される。」(p66)
「死者は、生の世界から死の世界へと移るものの出家したわけではない。俗人は、俗人のまま亡くなったはずである。にもかかわらず俗の生活を捨てたかのように戒名を授かる。本来、出家という行為と密接不可分な関係にあるはずの戒名が、それと遊離してしまったのである。・・・しかも、日本では、出家であるはずの僧侶が妻帯し、普通に家庭をもっている。それは破戒ではないのか。・・」(p96)
「檀家という贅沢  檀家の布施がなければ、本来、寺は成り立たない。・・・多くの寺院は檀家の葬式の際の布施や戒名料から維持費を捻出している。ほかに収入源がなければ、葬式に頼るしかない。」(p133)
「檀家になるということは、自分の家の死者を弔ってもらう檀那寺を持つということである。寺の住職は、毎日の勤めをし、本尊の前で読経などを行う。その際には、寺の檀家になっている故人たちの冥福を祈る。檀家にはそうしてもらっているという意識や自覚はほとんどないが、檀家になることで、私たちは祖先の供養を委託しているのである。・・・その点で、檀那寺を持ち、供養を委託できるということは特権的なことである。・・・その特権を護るためには、それ相応の負担をしなければならない。それは当たり前の話である。・・」(p136)
「墓参りの習慣は日本以外の東アジアでも共通することで、中国や台湾、韓国でも熱心に墓参りをする。・・・ところが、これがヨーロッパになると、墓参りの習慣はほとんどない。墓をもうけるものの、それは故人を葬る空間にすぎず、残された家族が命日などにその墓に参ることはない。そもそも個人墓が主流で、日本のような家の墓はない。墓参りをしないため遺族も墓の場所を忘れてしまう。・・・場合によっては、遺体を火葬場に持ち込んだ後、遺族が火葬の終了を待たずに帰ってしまうこともある。遺骨は火葬場で処理され、遺族がそれを持ち帰って墓を作ったりしないのである。」(p148)
「・・・核家族化や高齢化ということが、従来の形式の葬式を意味のないものにし、新しい形式の、より合理的なものを求める傾向を生んでいる。こうした方向での変化は押しとどめることのできないもので、これからはよりいっそうその傾向が強まっていくことになるだろう。高齢者には、家族葬、さらには直葬が基本的なスタイルになり、多くの参列者を集めるような葬式は少なくなっていくに違いない。」(p151)
「簡単に変化していかない部分があるとすれば、それは墓だろう。・・・家を代々継承させていくことは相当に難しくなっている。・・・その変化の全体をながめたとき、方向ははっきりしている。葬式は明らかに簡略化に向かっている。それは、葬式を必要としない方向への変化だとも言える。今や現実が葬式無用論に近づいているのだ。」(p153)

この本は、本の帯で謳っているような、単なる“葬式無用論”ではない。著者が言っていることに、突飛なことはひとつも無い。しかし論じている一つひとつに、ツイ“その通り”と頷いてしまう・・・。
ブッダが死後のことを語らず、本来の仏教も死後のことは語らなかった。しかし日本では鎌倉仏教から浄土信仰が始まり・・・・、と歴史的背景から論じ、日本の葬式仏教が出来あがった経緯を、日本人の文化を背景に論じる。
本の「葬式は、要らない」という刺激的な題とは裏腹に、一般のハウツー本とは一線を画した、極めて真面目な内容だと思う。なるほど・・・・

前にも何度か書いているが、自分の葬式感もだいぶ変わってきている。10年以上前に親父が亡くなったときは、この本でも指摘している「世間体」「見栄と名誉」「死後の勲章」ということを背景に、“贅沢さ”を追ったものだ。
それは“お互い様”だった・・・。でも果たして、葬式に来てくれた人が、本当に悲しんで、または悼んで来てくれたかというと、自分が他の葬式に参列したと同じように、それは遺族である同僚に対する“付き合いから”だった。それは多分に迷惑なことだったろう。でもそれはお互い様だった。香典は葬式への支援金。回りまわって、自分たちが出す葬式も、たくさんの支援金をもらって・・・。

でもこれからは違う。現役をリタイアした人には“付き合い”の関係も少なく、何よりも今は個人社会になっている。従来の“付き合いで参列”という習慣も急速に失速するような気がする。
お寺さんも、この本が指摘しているように、“葬式で食っている”という現状を何とか打破し、別のあり方、別のお寺の存在意義を探して行くことになるような気がする。
少なくても、我が家では直葬=家族葬で充分。本当に本人を知っていて、悲しんでくれる人だけが集う、本来の姿が望ましいと思う。
どの家も何れ来るであろう葬式・・・。それについて考えるチャンスくれた良い本だと思った。

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2010年2月27日 (土)

カミさんのホクロの除去手術・・・

今日、カミさんが左目の目頭にあるホクロを取った。我が家で、久しぶりの“手術”である。
カミさんのこのホクロは歴史が長い。いつ出来たか定かではない。しかし高校生の時の写真にはホクロが無いので、大人になってから出来たものなのだろう。もう40年の歴史がある。
それを取ろうという話になったのは、昨年(2009年)の夏、8月のこと。昔の同僚から「顔の大きなホクロは良くない、というジンクス(?)がある」と聞き、帰ってからカミさんに「一度医者に見てもらった方が良い」と言ったのが話の最初。
それで、行き付けの皮膚科の医者に見てもらったら、「取ることを勧める」との診断。こう言われるとそのままにしておく訳に行かず、取る方向で検討開始。

口コミで聖路加国際病院が良いと聞き、紹介状を手に行ったのが昨年10月。ところが手術の予定日直前に風邪で発熱し、ダウン。仕方が無く手術をキャンセル。
その後、「何か聖路加は違和感があった」というので、また病院探し。Netで東京医科大の医師が親切にもメールで問い合わせに応じてくれたというので、そこにしようか・・・ということに。行きつけの皮膚科の先生に、「また紹介状を・・」と言ったら、その先生の逆鱗に触れた・・・(?) 「ここでも毎週(土)に整形外科の医師が来るので、手術も出来ると言っているのに・・・」と。結局その先生が怖くて、その皮膚科の医院で診てもらう事に・・・。

診察の日、通って来るという形成外科医に話を聞いてビックリ。何とその医院の息子だという。皮膚科と外科夫婦の息子が形成外科・・・。まあ良くある話。
その形成外科医の診断は、「色が良くない。それに(メガネが当たるので)場所が良くない」とのこと。
それで話が始まって半年で、今日やっと手術にこぎつけたというわけ。でも今日の6mmのホクロの除去手術に掛かった時間が70分。皮膚の下と表面で、20数針も縫ったという。かなり慎重な手術だったらしい・・・。

まあこれで、長く引っかかっていた宿題が終わってホッとした。大病院の形成外科探しから始まって、結局は近くの医院の通い医師に任せた格好。皮膚が元に戻るまでには半年位掛かるらしい。出来栄え(?)はその時まで分からないが、結論としては満足・・・。
何よりも「手術する医院が近いのが良かった」が、カミさんの事後談。東京の大病院だったら、電車の乗り継ぎ等で大変なエネルギーが要った。でも車で15分の、昔から行きつけの医院なので安心だった、とか。

でも女性の“顔”に関する事は、男の想像では到底及ばないほど“大変なこと”だと、改めて認識した。男なら、重大な病気につながらない限り、顔だろうが何だろうが放っておく。テレビで見る政治家にも、顔に大きなホクロがある人など珍しくも無い。でも女性は、一度顔にメスを入れるとなると、跡がどうなる・・・の心配は大変なもの。今日も、どうもその心配が医師に伝わったせいか、慎重にやってくれたようだ。

まあ「出っ張り(ホクロ)女が、へっこみ女に化けた」というヤジも、笑い話で済めばラッキー。(←これ、我が家では普通の会話なのでビックリしないように・・・)

なお病理検査の結果が出るまでには、2週間ほど掛かるとか・・・。
(大きな声では言えないが、自分はどうも“手術”という言葉がキライで、今日は自分まで影響を受けてテンションが下がってしまった。よってホンモノの病気、手術には到底耐えられそうにない事が分かった。困ったな・・・)

(2010/3/2追)
事後談。「手術後も痛くない・・・。こんな事で良いのだろうか?」という疑問が解けた。執刀医の名前が分かり、Netで見てビックリ。皮膚科の息子さんは、何と私立医大の形成外科の先生だった。しかも「美容外科学会に所属する東京の名医」一覧にも載っている有名な医師だった。いやはやビックリ。結果オーライ・・。どうりで手術も・・・・

  (手術前)   (手術後)~2年後
Nsmail1 Nsmail

(2016/11/01追:2017/08/03修正)~お問合せが多いので追記しておきます。
手術をして頂いた先生は、内田龍志先生。2017年7月現在は、「東京医科大学 形成外科講師」(ここ)で、埼玉県の「熊谷外科病院」の形成外科(ここ)で診療をされているようです。
なお、上記の「行きつけの皮膚科の先生」の医院は、2016年夏ころから先生の体調不良から休診していて、10月頃に閉院したとのこと。
言うまでもなく、手術は「病院の名前」でなく担当医師の力量。お住まいの近くの「日本美容外科学会」の「専門医」(ここ)を訪ねると良いかも知れません。

(2016/12/21追)~最近手術をした方から「体験談」を頂いたので、追記しておきます。
「まずは手術の結果、大満足です! 7mm位の、あごの唇に近いところのほくろで、内田先生曰く、難しい(傷跡が残りやすい)場所とのことでしたが、術後の痛みもなく、抜糸後(中の溶ける糸は2~3か月残るそうですが)は、傷跡もほとんどわからないほど綺麗で、今は多少の赤みが残る程度です。
赤みが出ても、日にちの経過とともに消えると言われています。
生検の結果悪性のものではないことも確定し安心できました。

長年にわたり気にかかっていたことが全て解消しました。
内田先生を紹介していただいたおかげです。
本当にどうもありがとうございました。」

「今回の私の話が参考になりそうでしたらぜひ使って下さい。
ちなみに、10月に最初の診察を受け、その日に血液検査、1ヵ月後に手術(大体1ヵ月後の予約になるそうです)、10日後に抜糸でその間に通院なしでした。
翌日から洗顔OKで(私は怖がりなので抜糸まではなるべく濡らさないようにしましたが)、抜糸までは自分で塗り薬をして絆創膏を貼るといった流れでした。
7mm位のホクロを1㎝近くくり抜く方法で、手術時間は15分位。着替えや問診等の時間を含めても1時間位で終了でした。

以前、東京女子医大の婦人科にお世話になった時は、「これじゃ医療事故もおきるだろう」と思わされる危うい実態を何度も目にし、自分の処置においても連携ミスでの失態が起きたのですが、今回の船橋医療センターは、そういう面でしっかりとした印象を受けました。」

(2017/01/09追)~読者のリクエストにより、経緯写真を追記
(手術後1日目)(手術後4日目)(手術後8日目)
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(手術後13日目)(手術後18日目)(手術後23日目)
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2010年2月26日 (金)

たかだか風邪薬~薬の副作用の怖さ・・・

今日は、五輪の女子フィギュアの話題で持ちきり。浅田真央の銀は上出来だが、何よりも韓国の金妍児(キム・ヨナ)には舌を巻いた。日本と違って韓国の熱狂ぶりは怖いくらい。TVで韓国の人が「今度の五輪はキム・ヨナのための五輪」とまで言っていた。そんな重圧の中で、最高得点を挙げるとは、到底人間業とは思えない。少しでも失敗したら、帰りの飛行機から飛び降りないといけない雰囲気の中で・・・。いやはやスゴイ。

ところで、今日は薬の恐怖について・・・・
まさに私事で恐縮だが、実は先週来の鼻かぜが治りきっていない。調子が悪くなってから、もう2週間近くにもなる。自分の鼻水に手こずっている姿に、会社で近くに座っているおばさんが見かねて、健保から配布されたという薬をくれた。それでとりあえずは治まった話を前に書いた(ここ)。

今日の話は、その時に“お世話になった薬”の、今度は“副作用の恐怖”の話なのである。
相手は「くしゃみ、鼻みず、鼻づまり、なみだ目に 塩酸プソイドエフェドリン配合“ダンリッチEX錠”」。この薬との相性が悪かった・・・。
シーズン的に今年も始まった花粉症。自分の花粉症はそれほど強烈ではないが、前に何度か困ったことがあった。実はその時に医師から貰った薬で、過去に何度も今回と同じような苦しい思いをした。つまり、アレルギー性鼻炎の薬としてもらった抗ヒスタミン剤の副作用が強く出て、参ったのである。副作用が少ない時でも鼻や顔面の乾き、副作用が強く出た時は、全身的体調不良。悪寒、吐き気、気持ち悪さ・・・・
でも、タマに出没する自分の花粉症、蕁麻疹は、副作用のない「アレグラ」の登場で一気に解決した。
余談だが、いつもの皮膚科ではなくて、近くの診療所で「アレグラが欲しい」と言ったところ、無いという。「なぜアレグラか?」と聞かれたので「副作用がないから」と言うと、「副作用のないような薬は効かないんだ」と言う。これは間違いだと思う。

話は戻るが、貰った鼻水の薬で、先週はあっという間に鼻水が治まった。この日は、ちょうど夜に同期会があったので、本当に助かった。でも体調は悪かった。
実はその後はこの薬を飲まなかった。この手の薬の副作用で体調を崩すことが怖かったので・・・
でも、その後も会社で一日何度も鼻をかむので、その薬をくれたおばさんから「病院に行ったの?」と言われてしまった。帰ってそのことをカミさんに話すと「それは“迷惑している”という意思表示だ」という。なるほど・・・。これはイカン・・。
それで、一昨日の夜、この特効薬(?)「ダンリッチEX錠」を1錠飲んで寝た。しかし一夜明けた昨日の朝、目を覚ましてビックリ。体調“絶”不調。吐き気と悪寒。這って会社には行ったが、今度は猛烈な下痢。もちろんこの薬の副作用かどうかは不明。でもピンと来たのは、“薬の副作用だな・・・”。
しかしこの薬は、鼻水は止まったものの、代わりに貰った副作用の代償があまりに大きい・・・。午後から夕方にかけて、やっと薬が切れてきたため、鼻水がまた出るようになったが体調は戻ってきた。退社する頃はすっかり元気に・・・・。
帰ってからカミさんに言った。「薬の副作用は本当に怖い・・・」と。

前に「スティーブンス ジョンソン症候群」の話を書いた。(ここ
マラリアの予防薬が原因で重症のアレルギーになり、生死をさ迷った挙句に失明したという話。たった3錠の薬で・・・・。

言うまでもなく、薬は個体との相性の問題である。同じ薬を飲んでも、このような過激なアレルギーを起こす人もいれば、無反応の人もいる。それは運か・・・?
自分も昔こんな経験をしたことがある。高校のとき風邪を引き、試験が近いので近くの総合病院に行った。試験が近いので早く治したい・・と。そして注射を打ってもらって、会計の窓口に行った時、目の周りが見えなくなった。中心しか見えない。それに気が付いた窓口の人が「注射を打った?」と聞く。「うん、打った」・・・。そして自分の体が崩れ落ちた。元の病室に担ぎ込まれ、また何かの注射を打たれた。しばらく寝ていて良くなったが、「これはペニシリンショックで、病院に居る時でよかった。これから病院にかかる時には必ず“ペニシリンショックがあります”と言いなさい」と言われた。その時以来、抗生剤はペニシリン系を避けて「クラビット」を愛用している。しかし数万人に一人の確率というペニシリンショックが自分にあったとは・・・。運か? いや、お袋も同じらしいので体質か・・・?

ふと会社の休憩室でお茶を飲みながら聞いた同僚の話を思い出した。奥さんが乳がんにかかり、手術の後に「抗がん剤はどうしますか?」と医師に聞かれ、一応飲む事にしたが、その苦しみたるや、見ていられなかったという。
薬は、原理的に体に毒を入れるもの。だから体へのダメージは必ずある。だから原則として薬は飲まない、というのが正解なのだろう。でも飲まなければいけない場合も当然ある。
風邪のように放っておいても治る病気と、ガンのように放っておいては治らない病気がある。その時に、自分はどのような選択をするのだろう。手術や抗がん剤に耐えられるか、今から心配になった何とも気の弱い自分ではある。
そのためには、まず未病を退治することから・・・かも?

(関連記事)
薬の副作用は怖い・・・

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2010年2月25日 (木)

布施明の「愛のこころ」

自分は、プロフィール欄にも書いている通り、布施明が好きだった。1960~70年台、小椋佳や井上陽水の前の時代は、布施明とブルー・コメッツだった・・・。でも、布施明については「霧の摩周湖」と「愛の香り」しか挙げていないことに気が付いた。これはやはり布施明くんに失礼だ・・・。
・・・というワケで、今日は布施明の「愛のこころ」。

前にも書いたが(ここ)、自分が布施明を聞き始めたのは大学2年のとき。「恋」(1967年3100225ainokokoro 月発売)という歌をTVの歌謡番組で聞いてから・・・。この当時は歌番組が多かった・・。
布施明のこのシリーズは、「恋」から始まって1967年9月20日発売の「愛のこころ」、「愛の園」(68年4月)、「愛の香り」(68年9月)と続く。その前には、かの「霧の摩周湖」(1966年12月)があった。まずは聞いてみよう。

<布施明の「愛のこころ」>

「愛のこころ」
  作詞:なかにし礼
  作曲:平尾昌晃

あなたとぼくには 愛の世界がある
涙をふき合う 手と手がある
バラのひと枝も ぼくにはないけれど
つきぬ真心を 約束しよう
あなたにあなたに ぼくの心を
あなたにあなたに 捧げつくしたい

あなたとぼくには 愛の光がある
微笑み見交わす 目と目がある
そばにいるだけで なんにもほしくない
恋の涙が 生きてる証し
あなたにあなたに ぼくの心を
あなたにあなたに 捧げつくしたい

あなたにあなたに ぼくの心を
あなたにあなたに 捧げつくしたい
あなたにあなたに ぼくの心を
あなたにあなたに 捧げつくしたい

調べてみると、この歌はオリジナルの一回しか録音していないようだ。再録盤が見つからない。それだけに、布施明の歌の中ではマイナーな曲なのかもしれない。
確かに歌詞の内容を読むと、それほどインパクトがある歌とは思えない。愛する人に“捧げる”というフレーズ・・・。
同じ、なかにし礼の作詞で、奥村チヨの「恋の奴隷」(1969年6月)という歌があった。ここにも「あなた好みの 女になりたい」というフレーズがあったっけ。もう一つ思い出した。山口百恵の「青い果実」(1973年9月)という歌に、千家和也作詞の「あなたが望むなら 私何をされてもいいわ」というフレーズもあった。
どれも当時、このような“危険なフレーズ”が話題を呼んだものだ。

そうか・・・・、この時代は女性が男性に「捧げる」時代だったのかな・・? でも今は草食系男性が肉食系女性に捧げる時代か?? その意味では、布施明の「ぼくの心を 捧げつくしたい」というスタンスは、当時は受けなかったものの、時代の先端を行っていたのかも知れない・・・(←何をつまらない事を・・・)

最近、「やすらぎが ほしくて結婚 しない僕」というサラリーマン川柳が頭を離れない自分ではある。

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2010年2月24日 (水)

2010年の「サラリーマン川柳」入選作・・・

当blogは川柳が大好きである。なぜか?自分には全く才がない領域なので、感心することしきり・・・なのである。
今年の入選作100句から、勝手に当サイトが選んだ10句である。オリジナルは(ここ)。

12)定年後 肩書き外れ 人離れ(天童ラフランス)
男はこの句が胸に刺さる。サラリーマンは所詮肩書きの世界。だから“肩書きが外れても付き合える本当の付き合いを!”と若い人には言っている。肩書きが外れてお互いの立場がフリーになっても付き合える関係は人生の財産だ。

14)「先を読め!」 言った先輩 リストラに(山悦)
昨年のリーマンショック以来、本当に先が分からなくなった。我が家も退職金を注ぎ込んだ投資信託も、毎月来る報告書には“評価額▲**万円”と・・。「気にしない!」ことにはしているのだが・・・

25)ただいまは 犬に言うなよ オレに言え(さらば地球)
これは我が家のことを言っているみたい。留守番の犬に対して、冷暖房はもとより、照明も気にして、常にお客さん待遇。たかだか3Kgの犬だが、生き物なので仕方が無いか・・・

49)座りたい 私の前だけ 何故立たぬ(痛勤快速)
通勤している人には“納得の句”。自分も、いつも帰りの電車で同じことを思う。でもこれは仕方が無い。あとは“座れることの方がラッキー!”と自分の基準を変えるしかない。

62)ほめ上手 君なら他社で がんばれる(紙風船)
2001年度、全国に不況の嵐が吹いた時、自分も同じようなことを言った記憶がある。その後、彼らがどうしているか、音沙汰はない・・・

65)仕分人 口調が妻と そっくりだ! (海の男)
あの刺すような言い方は、世の奥様方と同じか?ウチには関係ないけど・・・(←これウソ)

71)不景気で 就活あきらめ 婚活へ(新卒女性)
こうなってくれると、少子高齢化も少しは緩和される??

72)さあ定年 妻がさし出す 求人誌(丁年(テイネン))
まだウチではここまで来ていないが、“そうなる雰囲気”はプンプンしている。

90)やすらぎが ほしくて結婚 しない僕(役立たず)
これが当サイト一番の推薦句。実に現代を映している。しかし何とも男性がだらしなくなったことよ・・・。

100)おかえりと 笑顔で言われ 身構える(窮鼠)
これは良く分かる。いつもとは違う“臭い”。これには注意すべきだ。

話は変わるが、今朝聞いたNHKラジオ深夜便「人生わたし流 潮来の伊太郎の半世紀〜デビュー50周年 歌手 橋幸夫」(2010/2/21放送)。この番組の中で、66歳になるという橋幸夫が「これからは淡々と生きて行きたい。そう頑張らずに肩の力を抜いて、力まずに自然体で生きたい。あまり頑張り過ぎると疲れてしまい、疲れ切ったままサヨナラ・・、ではつまらない」という話をしていた。今までは、皆頑張ったので、そろそろ自然体で・・という話に、深くうなづいた。
これから、色々と押し寄せてくるであろうネガティブな出来事も、この川柳のように笑い飛ばせると良いのだが・・・ね。

ついでに、ウチのカミさんが選んだ句は・・・
16)閉鎖した 子供は学級 俺会社(リーマン)
38)気をつけろ ブレる上司と キレる部下(中間管理職)
42)エコライフ 行かず動かず 何もせず(後始末)
45)温暖化 なのに就活 氷河期へ(金魚姫)
58)草食系 嫌いな食べ物 「ホウ・レン・ソウ」(上司のつぶやき)
90)やすらぎが ほしくて結婚 しない僕(役立たず)
96)「離さない!」 10年経つと 話さない(倦怠夫婦)

何と、合致したのは90番だけ。男と女の違いだろうか・・・。少なくても、“ウィットの感性”は大分違うようだ。

(関連記事)
2009年の「サラリーマン川柳」入選作・・・
2008年 我が家の「サラリーマン川柳」ベスト10

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2010年2月23日 (火)

思い出のTV・ラジオ主題歌集(5)

我々還暦世代が子供の頃に聞いていたテレビ・ラジオ番組のテーマソングを集めた企画の第5回。今日もこんな曲を聞きながら、昔を懐かしむことにしよう。
そういえば、先日(2/17)、藤田まことさんが亡くなった。まずは藤田まことさんの歌から・・・

<「てなもんや三度笠」(藤田まこと)>

Wikipediaによると、「『てなもんや三度笠』は、昭和37年(1962年)5月6日~昭和43年(1968年)3月31日に朝日放送(ABCテレビ)製作・TBS系で放送されたテレビコメディ番組。全309回放送。殆どの時期が白黒放送だが、末期はカラー放送になった。放送時間は、毎週日曜日18:00〜18:30。提供スポンサーは菓子メーカーの前田製菓一社提供。」とある。しかし藤田まことさんは実に歌が上手い・・・

<「ブーフーウー」(黒柳徹子、大山のぶ代、三輪勝恵)>

Wikipediaによると、「『ブーフーウー』は、『三匹の子豚』をモチーフにした着ぐるみ劇。原作:飯沢匡、人形デザイン:土方重巳。部分的に人形劇の形も用いられた。昭和35年(1960年)9月5日から昭和42年(1967年)3月28日にNHK総合テレビで放送された。」とある。

<「ひょっこりひょうたん島」(前川陽子)>

Wikipediaによると、「『ひょっこりひょうたん島』とはNHK総合テレビで放送された人形劇である。個性豊かなキャラクターたちがミュージカル形式で笑いと風刺、冒険の物語を繰り広げ本放送当時子供たちの多大な人気を得た。この番組で歌われた印象的な歌も含めて、NHK人形劇の代表的作品の一つとして数えられている。昭和39年(1964年)4月6日~昭和44年(1969年)4月4日、月曜~金曜 17:45~18:00放送」とある。
自分もこれは覚えている。皇太子御成婚のころ、隣の家にテレビが入って、夕食後によく見に行った。その光景が未だに目に浮かぶ・・・。

<「咲子さんちょっと」(江利チエミ)>

Net情報によると「放送期間は1961/10/02~1963/12/30。若い嫁の咲子とそれを暖かく包む家庭の人間関係を描いたホームドラマ。咲子役、江利チエミの庶民的で明るい性格が好評。作曲家の夫、京太郎に小泉博。ほかに伊志井寛、葦原邦子ら(TV40年 IN TVガイド)以後、シリーズ化され1965年まで断続的に制作された。好評につき劇場映画化もなされた。提供・倉敷レイヨン。」とある。(ここ

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2010年2月22日 (月)

韓国ドラマ「ベスト20」

先日の朝日新聞に「韓国ドラマ」のベスト20が載っていた。
日本で韓流ドラマのブームが始まったのは2003年の「冬のソナタ」から・・・。それ以降、あまりに氾濫している韓ドラ・・・。こんなランキングも、“次に何を見ようか・・・”の参考にはなる。

<韓流ドラマ ベスト20>
①宮廷女官チャングムの誓い  1,349
②冬のソナタ            1,204
③美しき日々             583
④太王四神記             545
⑤天国の階段               463
⑥オールイン運命の愛       450
⑦私の名前はキム・サムスン   445
⑧ホテリアー             438
⑨ファン・ジニ            373
⑩春のワルツ            370
⑪朱蒙(チュモン)         354
⑫秋の童話             322
⑬チェオクの剣           319
⑭夏の香り             307
⑮イ・サン              302
⑯パリの恋人           226
⑰がんばれ!クムスン      224
⑱宮(クン)             218
⑲花より男子            218
⑳コーヒープリンス1号店     215
21)魔王 22)ホジュン 宮廷医官への道 23)復活 24)エデンの東

Image04261 このランキングは、朝日新聞の無料会員サイト「アスパラクラブ」の2822人にアンケートした結果だという。

この結果はなかなか興味深い。前にも書いたが、自分は韓ドラ好きの兄貴からの誘いで、「冬のソナタ」を見たのを機に、「チャングムの誓い」「海神」「朱蒙(チュモン)」「ホジュン」「砂時計」「風の国」と見てきて、実は今「商道(サンド)」をDVDレンタルで見ている。
しかし、これは面白い、と韓ドラにはまったものの、「大王四神記」とは縁が薄く、「イ・サン」とはテンポが合わず・・・と、それぞれ見るのを止めてしまったドラマもある。
でもやはり一番良かったのは「ホジュン」。これが21位だというので残念だが、チャングムのような“イジワル物語”でもなく、まあまあ見ていて元気が出る物語だった。
それにしても韓国のドラマ制作現場の、切磋琢磨の状況はすごいらしい。この記事にはこうある。
『「韓国ではテレビの視聴率の上位をドラマが独占している。しかも三つのテレビ局が同じ時間帯でしのぎを削り、ドラマにクリエーティブな才能が結集している」。物言う視聴者の存在も大きい。人気先行のキャスティングに対し、実力が伴わなければ、ネットを中心に批判の嵐が吹き荒れる。俳優自身もそれを「親に顔向けできない」などと正面から受け止め、努力を重ねるらしい。・・・』(朝日新聞2010/2/20付 b2より)

だいたい視聴率が日本の比ではない・・・。それほど国民的現象?

最近見始めた「商道(サンド)」は、DVDレンタルの面倒臭さはあるものの、さすがに「ホジュン」の流れを汲むだけに、なかなか見応えがある。一気に見てしまいそう。
しかし、前にも書いたが「チャングム」や「ホジュン」など、連続して見ていると、同じ顔がたくさん出てくる。前のドラマの役柄が頭から離れていないため、たまに自分の頭で混乱することも・・・

それにしてもドラマに出てくる倭国の侵略には困ったものだ・・。その侵略者が、我々の祖先なので、特に韓国で日本人が嫌われているのも、実に頷ける。まさに身から出た錆。
近いので、一度韓国にも行ってみようかと思うが、日本人は嫌われているよ、と言われると躊躇する。でも歴史を振り返ると、当然だよね・・・。
まあこんな歴史ドラマを見ながら、韓国の人の身になって豊臣以降のひどい日本人の過去を振り返ってみるのも良いのかも・・・

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2010年2月21日 (日)

入社40年目の“同期会”

先日、毎年恒例の同期会があった。風邪で体調は最悪だったが、無理して出席。配られた名簿を見ると、皆勤賞は自分を入れて二人だけ。
1970年に某電気メーカに入社し、**工場に配属されてちょうど40年になる。当時は景気が良かったので、同じ工場に配属されたのは40人。前後の年が20人だったので、この年だけ同期は多い。入社後1~2年は辞める人も居たが、その後は安定した。この同期会は、1970年入社で、少しでもこの工場に在籍した事がある人を、名簿に載せている。
Dsc079951 確か、主任になるかならないかの時期に始まったこの同期会は、それ以来30年以上続いている。今年の名簿に載っている人は41名。そのうち、今年の出席者は20名だった。そのうち、最初にこの工場に配属されたオリジナルのメンバーは15名で、後の5名はその後に転勤で在籍経験のある人。

全員が、62~63歳。出世頭の人も、現在は関係会社の監査役で、ルールにより今年の6月で終わりだという。今年の出席者20名の現在の所属の内訳は、関係会社にまだ在籍している者が7名(35%)、元の会社と関係のない会社が6名(30%)、フリー7名(35%)。なるほど・・・・
当然、入社時は全員が横一線のスタート。そしてリタイアを迎えた今も横一線。全員が一般ピープルである。現役時代は、幾ら同期でも上司部下の関係が発生し、なかなか難しい時期もあった。実際、自分も同期が工場長だった時、「**は工場から出た事が無いのか」と言われ(バレて)、本社に飛ばされたのもキッカケは同期会・・・。(←まあ結果としては良かったので、今では感謝しているが・・・) 「何で人事が同期会で・・」というのも昔の思い出・・・。

恒例の近況報告。それぞれの1年間の色々なエピソードが披露される。覚えているのをメモすると・・・
・早期退職制度で01年度に辞め、その後再就職した会社も定年で辞めて、現在はパートで居酒屋の食材出荷をしている人。(木)~(日)までの4日勤務という。責任が無いため、ストレスが無く、家に帰ると仕事のことは思い出す事がない。よって、前の会社にいた時には、“責任”でノイローゼ気味になり病気がちだったが、今は病気知らず。“ストレスが万病の元”の、まさに見本。
・資格を取って、新たな会社で“まだまだ現役真っ最中”の人。70歳まで居られるが、65位で辞めようかとな・・・という人。
・通勤のため毎朝5時起きして、まだ延長戦中の人。
・心臓が悪いはずなのに、四国88ケ所巡りや、日本百名山登りを完遂し、無謀にも(?)高尾山1000回登山を目指している人。
・趣味の写真の、今までのネガ整理を始めたという人。
・サンデー毎日になって、2年半前から始めたゴルフに凝りだした人。
・奥さんと一緒に、念願の海外旅行を始めた人。昨年はスペイン、エジプト、そしてオーロラを見にフィンランドに行ったとか・・・。
・毎朝4時に起きて近くの公園を走り、1年半で13K減量したと豪語する人。久しぶりに会った人は、みな「ガンか?」とも聞けずに黙ってしまう・・・。そりゃそうだ。6月リタイア予定なので、当面はホノルルマラソンが目標とか・・・
・初めてこの会に出席した人。6月でチョンなので、皆がどう過ごしているかを取材に来たとか・・・。毎朝起きたら会社、というパターン以外を知らないので・・・。
・近所付き合い優先のスタンスで、近所の奥さんとの挨拶に慣れた、という人・・・。

色々な飲み会があるが、同期会は一番損得がなく、ホットする場。そんなせいか、今回の欠席者ゼロ、遅刻者ゼロ、で分かるように、みな肩書きと忙しさから開放され、この様な会に回帰してきている。もとの会社関係でも、他にも色々な会がある。誘いがある。でもそれらはみな、昔の立場がそのまま。昔の上司はいつになっても上司のまま・・。その点、同期会は“同じ”からスタートして、また“同じ”土俵に戻っている。そしてこれから“サンデー毎日”を迎える環境も同じ・・・
サーテまた1年。来年の今頃、41年目の同期会で、皆はどんな変化点を話すのだろう? そして自分も、どんな変化点を報告するのか・・・。又の再会を楽しみに・・・

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2010年2月20日 (土)

小津安二郎の映画「秋日和」を観て~結婚とは・・・

先日、小津安二郎監督の映画「晩春」「麦秋」(ここ)を観たが、それに続いてNHK BSから録画してあった「秋日和」を観た。小津安二郎の映画は、いわば“日本の文化”だと思って一通り見ようかと録画したが、今回の3本は皆同じテーマ。つまり「娘の結婚」。しかも、「晩春」「秋日和」は、片親の娘の結婚を、親が再婚することで親を置いては結婚できないと思う娘の背を押す、という設定。
今日見た「秋日和」は、大学時代からの4人の友達仲間の1人が亡くなった。残った3人は、亡くなった友の未亡人とその娘の将来を案じ、結婚させるために奔走する物語。
映画の筋はさて置き、小津安二郎監督が生涯扱ったテーマが「父と娘(母と娘)」だったという。娘の結婚は、それほど重いテーマなのだ。
ある年頃になると当然のように結婚する。それが昭和35年当時の普通の姿。そして、亡き友人の娘を結婚させるために、まるで姪っ子と同じように付き合う友人たち。確かに家族ぐるみで長い間付き合っていると、こうなるのかも知れないが、何とも懐かしい交友関係だ・・・。

当blogでも何度か取り上げているテーマだが、少子高齢化社会。そして非婚化、晩婚化・・・。
Image03911 今朝の日経新聞「U-29」の記事に晩婚化のグラフが載っていた。初婚年齢はぐんぐん上がっている。(日経新聞2010/2/20付けp24より)(写真はクリックで拡大)
なぜこんな社会になったかというと、女性の経済力が強くなったこと、つまり女性が高給を取るようになったことが原因の一つと言われている(ここ)。結婚を、生活力の無い女性の生活をするための手段として捉えると、なるほどとも思う。しかしそれだけではないはず・・・(と幾ら言ってみても仕方が無いが・・)
一方、見合い結婚が皆無になってきていることも非婚化、晩婚化の原因の一つだろう。(ここ
なぜ仲人口が無くなったか?個人の権利の主張が強くなった?? もし口を利いて縁を取り持ったとしても、もしうまく行かなければ「責任を取れ」と言うことになりかねない。医療過誤の裁判と同じだ。そんなリスクを追ってまで、人の世話をするほどのお目出度い人は少なくなった、という事なのだろう。何とも寂しい世の中になったものだ。
昔の仲人口も、決して乱暴に口をきいていたわけではなかろう。それなりにお互いの家庭環境なり育ちなりを考え、バランスを考えて組み合わせを考えたもの。この映画にもそんなやり取りがあった。だからこそ、見合い結婚といってもそんなに破綻は無かったのではないか・・・。逆に最近の結婚の悪口を言うと、まるで“出合い頭結婚”のようだ。出来ちゃった結婚など、その良い例。事象から結婚に進むなど、乱暴極まりない・・。

もっとも「肉食女性」「草食男性」などという言葉が巷に溢れている現代社会・・・。こんな小津安二郎の昔の映画は、もはや時代遅れのテーマを扱った“過去の映画”なのかも知れない。でも本当にそうなのだろうか・・・・?
でも、サラリーマン川柳で「やすらぎが ほしくて結婚 しない僕」 ここ)なんていう句が、我が家でも“絶賛を博している(?)”ようでは、まあ世の中、当分変わらないかな・・・・

初めて観た小津安二郎の世界と、現代社会の乖離に戸惑っているシルバー世代ではある。

(付録)今朝散歩した多摩川と近くの道端の梅・・・。そろそろ春。多摩川の水辺にも何か春の気配が感じられる・・・・

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2010年2月19日 (金)

「ガンをあまり心配しない」

2月になってから、立て続けに風邪をひいてしまった。最初は「腹風邪」、先週末からは「鼻かぜ」。それがものすごい。鼻水がたらたらと、あっという間にティッシュペーパーをひと箱使ってしまった。でも昨日は一日寝ていたので何とか持ち直した。
風邪に関係は無いが、今日は病気の話・・・・

雑誌「大法輪」の「医は仏道」という記事。今月号(2010/3)は「ガンをあまり心配しない」というテーマ。

ガンをあまり心配しない
  浜松医科大学名誉教授 高田明和
*ガンは「死の宣告」か?
私たちはガンを、「非常に恐ろしい病気だ、早く診断してもらい、早く取り除いてもらわなくてはいけない」と恐れています。なぜなら、ガンは手遅れになるともはや手のつけようがない、かならず死を招くと考えられているからです。さらに、「私たちの3分の1はガンで死ぬ」などとも言われます。つまり、10人のうち3人以上はガンになるとされるのです。
2003年の統計では、死亡者のうちでガンなどで死ぬ人が30.5%、心疾患(心筋梗塞など)で亡くなる人が15.7%、脳血管障害(脳出血、脳梗塞など)で亡くなる人は13.0%、肺炎が9.3%などとなっていて、確かにガンが最も死因としては多くなっています。
このようなことから私たちがガンを恐れ、それを「死の宣告」のように受け止めるのも無理のないところです。もし気にしないでいて、見つけるのが遅くなり、見つかった時には手遅れになったらどうしようと考えない方がおかしいとも言えます。しかし、このような報告は、いわば統計のマジックだという面もあることを、お話したいと思います。
(以下骨子)
2001年の厚労省の人口動態統計によると、ガンで1年間に死亡する人は、人口10万人あたり239人(0.239%) → 残りの99,761人(99.761%)はガンで死なない。
心筋梗塞などで死亡する人は118人 →残りの99,882人(99.882%)は心筋梗塞では死なない。
脳梗塞などで死亡する人は105人 →残りの99,895人(99.882%)は脳梗塞では死なない。

50歳~54歳までの人10万人のうちで、今年ガンで亡くなる人は140人 →99,860人(99.86%)はガンで死なない。
60歳~64歳までの人10万人のうちで、今年ガンで亡くなる人は275人 →99,725人(99.725%)はガンで死なない。
現在50歳の人が、“今後10年間”にガンで亡くなる人は、2,045人 →97,955人(97.955%)はガンで死なない。

なぜこのようなことになるかというと、ガンは基本的には高齢者の病気なので、年をとると死亡率が急に増加します。
75歳~80歳までの人10万人のうちで、今年ガンで亡くなる人は1,109人。
85歳以上の人10万人のうちで、今年ガンで亡くなる人は2,179人。
両方を足して、75歳以上の人10万人のうちで、今年ガンで死ぬ人は3300人 →96.7%はガンでは死なない。

*死なない確率の方が高い
何かだまされたように思うかもしれませんが、これは本当なのです。その理由は次のようなものです。本稿冒頭で2003年の統計として示した、死亡した人のうちでガンで亡くなる人が30%というのは,あくまでも死亡した人全員を集めた場合に、その中でガンで亡くなる人は30%ということです。死亡は何歳の人でも起こります。それを「全部集めれば」ということなのです。
一方、年齢別の死亡率というのは、ある年齢で生きている人のうちで、ガンで亡くなる人は・・・ということで、死亡した人全員を集めた統計とは当然異なるのです。ですから、年齢別の死亡率でみれば、ある年齢で生きている人がガンで今年亡くなるのは、実はそんなに多くないということです。
・・・・・
もちろん、誰でも、ガンで亡くなる可能性はゼロではありません。しかし統計の数字に振り回されて、いたずらに心配しすぎるのはナンセンスなことだと申し上げたいのです。
亡くなった人の統計と生きている人の統計は異なるのです。あなたは今生きているのですから、あなたが死ぬ確率は非常に低いのです。」(「大法輪」2010年3月号p210より)

別に風邪を引いたから論じるわけでは無いが、高々風邪でも、病気になると気力が失せるもの。しかし、今回の風邪は鼻水がすごかった。月曜日に喉が真っ赤になり、それが少し良くなったと思うと今度は水曜日にまさに“水様”の鼻みず・・・。(←駄洒落を言っている余裕は無かったが・・・)
それに、いつもの「小青竜湯」が全く効かない。漢方もいつも飲んでいると効かなくなるようだ。あまりに鼻をかむので、見るに見かねた庶務のおばさんが、昔、健保から配布されたという薬をくれた。これが劇的に効いた。1錠飲んだ途端に鼻水が治まった。やれやれ・・・。いつも同じ薬ではなく、たまに変えてみるのも良いのかも・・・・

おっとガンの話から、どうしても風邪の話になってしまう・・・・。まあいいや・・。今は風邪のことで頭が一杯なので・・・
ともあれ、インフルエンザでは無かったので、回復が急で良かったが、それにしても今年はあまり良い年ではなさそう・・。注意注意・・・・

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2010年2月17日 (水)

「60歳からの主張」の川柳より

先日の朝日新聞「天声人語」が面白かった。シルバー世代の川柳である。曰く・・・

「73歳が詠むから許される句もある。<ときめきが動悸(どうき)にかわる古稀(こき)の恋>。全国老人福祉施設協議会の第6回「60歳からの主張」川柳部門には約2千句が寄せられた。入賞作と、最終選考に残ったものから紹介する。
<掛けてきた年金実は賭けていた>。社会へのまなざしは鋭い。<日本発武士道にない派遣斬(ぎ)り>。福祉政策は、老より幼に重きを置くかに見える。そこで<敗戦国興して老後報われず>
<カラオケで美声聴かせて入れ歯落ち><置き場所を思い出せない備忘録>と、老いを笑い飛ばす自虐の句も目立つ。<角が取れ丸くなるのは背中だけ><遼君のスイング真似(まね)て腰痛め>など、綾小路きみまろさんの名調子で聴いてみたい。
名刺抜きの付き合いに慣れるのもひと苦労で、<定年前の肩書き言うな居酒屋で>。しかし男というもの、いくつになっても妙なライバル意識が抜けない。<買った墓地嫌いな奴(やつ)の相向かい>
<新婚と思って老々介護する>。何十年も一緒にいれば、夫婦の仲は様々だ。<補聴器が老妻の愚痴ひろってる>。かと思えば<老妻とダジャレの応酬日々楽し>という関係も。皆が夢見る共白髪の日々にも、ふと我に返る時がある。<婆(ばあ)さんや茶柱立って何がある>
優秀賞は、冷めた視線で<喜寿祝い寿司(すし)に集まり我(わ)れ孤独>。ごちそう目当ての親族を、声ではなく字でチクリとやるのが老境。同様に<子や孫が無理はするなとこきつかう>。まあ、使う気にさせる体も素晴らしい。万事、前向きに考えたい。<物忘れ嘆くな頭のダイエット>」(2010/2/15付け朝日新聞「天声人語」より)

毎年恒例のサラリーマン川柳も面白いが、この全国老人福祉施設協議会(ここ)の第6回「60歳からの主張」川柳部門というのも、どうしてどうして、なかなか面白い・・・
しかしこれらの作品のウィットさには舌を巻く。これはまさに才能。とうてい自分では出来ない・・・。
このシルバー世代の川柳は、誰にでも近付いてくる“老い”を笑い飛ばしているのが楽しい。考えようによっては、がく然とするような体の老いも、視点を変えて前向きに捉えている。それが出来る人は、たぶん長生きするのだろう。

こんなウィットが好きで、自分も何とか一作でもサラリーマン川柳を作ろうかと意気込んだことがあった。でも所詮“才能”が必要・・・。結局一つも出来なかった。
人間、それぞれに与えられた天分は異なる。自分はこれらの川柳を、作る側ではなく、人の作品を“楽しめる才能がある”と思って、なるほど・・と頷くことにでもしよう・・・。

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2010年2月15日 (月)

小津安二郎監督の映画「麦秋」を観て

先日、NHK-BSで放送した、小津安二郎監督の映画「麦秋」を観た。なるほど、これが小津作品か・・・と改めて・・。(写真はクリックで拡大)
100215bakusyuu 物語の詳細はWIKI(ここ)にあるが、28歳の娘(原節子)を中心に、ひとつの家族を描く。家族は老夫婦、長男夫婦とその息子二人、そして紀子という娘の7人家族。次男は戦争で亡くなっている。紀子が28にもなって嫁に行かないため、周囲が心配。一つの結婚話が進むが、相手は四国の名家の次男だが40歳の初婚。老夫婦の父親は何も言わないが、母親は40歳という年齢に不満・・・。近くに、家族同様に付き合っている戦争で亡くなった次男の友人がおり、現在は長男と一緒の病院に勤めている。数年前、その奥さんが亡くなり、小さな女の子が残されて、お袋さんが育てている。
その友人が秋田の病院に転勤になる前の夜、挨拶に訪れた紀子に、友人のお袋さんが100215bakusyuu1 「虫の良い話だけど、あんたのような方に謙吉のお嫁さんになっていただけたらどんなにか良いだろうと、そんな事を思ったりしてね・・」と、つい別れの最後の言葉として言ってしまう。それを聞いた紀子は「私でよかったら…」と言い、後妻を受け入れてしまう。お袋さんは夢ではないかと、大喜び。しかし家に戻って報告を受けた長男は怒り、母親は「可愛そう・・」と言う。
しかし紀子の決意は固く、結婚に進む。「40までフラフラしている人より、子供があっても落ち着いている人の方が良い」と・・・。

“事件”は、友人のお袋さんから「本当は貴方が欲しい」と言われて、即断即決してしまう場面だけ。それ以外は、淡々と日常生活が続く・・・。
まあこれを映画の“味”として味わえるかどうかだ。先日の「アバター」がこんな映画の対極にある。

この映画が封切られたのが、昭和26年だという。出てくる場面が何もかも自分の子供の頃の風景・・。しかも映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のような“作られた画面”ではない。鎌倉の自然の風景。特に家の中の場面が何とも懐かしかった。昔自分が住んでいた家、そのまま・・。それに映画に出てくる幼い兄弟が、まるで自分と兄貴のような感覚で見た。昭和26年というと自分は4歳。まさに映画の下の子供と同じ年頃・・・。そして可笑しかったのが、大人3人で夜、ケーキを食べているシーン。そこに息子が寝ぼけてフラフラとやってくる。それっ、とケーキをちゃぶ台の下に隠して、皆んなそ知らぬ顔・・・。寝ぼけた少年は、ごまかされてトイレに・・・・。実に我が家でもあっただろう光景だ。実は自分の兄弟は、皆“寝ぼけ癖”があって、毎晩のようにフラフラとトイレにたっという。もちろん次の日にその記憶は無い・・・。

シルバー世代には懐かしいこんなシーンも、今の若い人は退屈に思うだろう。あまりにも動きが少ないと・・・。
60年も前の映画なので、音も悪く(滑舌(かつぜつ)が悪く)、最初はセリフを聞き取るのが大変。でも、何かあるとチョコッと顔を出す近所付き合いなど、都会では見られなくなったゆったりとした光景・・・。
まあゆっくりと、こんな映画を見ながら幼い頃を思い出すのも一興かな・・・、と思いながら見た。自分はまだ小津安二郎の作品は「晩春」「麦秋」「東京物語」しか観ていないが、「秋日和」も録画してあるので、後でゆっくりと観ることにしよう。

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2010年2月14日 (日)

藤山一郎の「出船」

このところ寒い・・・。昨日も雪がチラホラ・・・。先日は2月だというのに21℃もあったというのに・・・
冬は、こんな寂しい曲が似合う・・・・。藤山一郎が歌う「出船」である。この音源は、1959年6月発売の「藤山一郎 なつかしの歌声」というLPから。昭和39年、高校2年の時に買ったこの25cmLP(これ)は、自分の歌の歴史に多大な影響を与えている。もちろんモノラル録音である。

<藤山一郎「出船」>

「出船」
  作詞:勝田香月
  作曲:杉山長谷夫
  編曲:冨田 勲

今宵出船か お名残り惜しや
暗い波間に 雪が散る
船は見えねど 別れの小唄に
沖じゃ千鳥も 鳴くぞいな

今鳴る汽笛は 出船の合図
無事で着いたら 便りをくりゃれ
暗いさみしい 灯影の下で
涙ながらに 読もうもの

この歌のルーツをNetで調べてみた。作詞の勝田香月は明治32年に沼津市で生まれた。「出船」は香月18歳の時の作品で、東北・能代港や北海道・小樽港などへの訪問がキッカケとなったらしい。
そして大正11年に作曲家の杉山長谷夫が曲を付け、昭和3年(1928年)2月に、藤原義江の歌でレコード発売されたという。
そして、生まれ故郷である静岡県沼津港の港口公園に、勝田香月記念碑が建てられている。(ここ

オリジナルに敬意を表して、昭和3年の音も聴いてみよう。

<藤原義江「出船」>

ついでに、お口直しに(?)、最近自分が好きになったボニー・ジャックスの歌でも・・・。
有名な歌なので、自分も色々な歌手で14の音源を持っているが、中でもこのボニーの編曲は、聞いていて心地よい・・・。

<ボニー・ジャックス「出船」>

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2010年2月13日 (土)

「一反の絹」~“ビルマの竪琴”秘話

雑誌「大法輪」(2010年3月号)に「随筆説法~心があったまる仏教」という記事があり、「ビルマの竪琴」の秘話が面白かった。

随筆説法~心があったまる仏教 “一反の絹”
    群馬・曹洞宗長徳寺住職 酒井大岳

「ビルマの竪琴」(竹山道雄著)という小説があります。映画にもなりました。主人公・水島上等兵のモデルといわれた武者一雄さん(本名は中村一雄・群馬県雲昌寺先代住職)は、平成20年12月、92歳で遷化されました。武者さんは福井県の永平寺で修行中の1938年に徴兵され、フィリピンなど東南アジアを転戦後、多くの死者が出たインパール作戦に参加し、ビルマ(いまのミャンマー)で終戦を迎えました。25年前の「上毛新聞」(昭和60年8月6日)には、こう書かれています。
Biruma ――この戦いはおびただしい戦死者を出し、武者さんの部隊も6000人がわずか200人になってしまった。インパールからの帰路、その道筋には日本軍将兵の遺骨が散乱、白骨街道と呼ばれたが、武者さんはその行軍中、軍服の上にけさを羽織り、手に数珠を持って一つでも多くの遺骨を・・・とお骨を集めては埋葬し供養し続けた。――

武者さんは英軍の捕虜となりながらも収容所で合唱隊を編成します。そこで「荒城の月」や「さくらさくら」などの指揮をして兵士たちの心を慰めました。この話をドイツ文学者の竹山道雄さんが、武者さんと同じ部隊にいた教え子から聞いて、小説「ビルマの竪琴」を書き上げました。
私事ですが、武者さんの前の住職さんはわたしの叔父(父の弟)でした。そのご縁から武者さんには特に親しくしていただいて、わたしの寺にも、勤め先の高校にも講演に来ていただきました。・・・・・・・
武者さんから直接お聞きし、わたしがとくに感動した話をここに一つを紹介しましょう。
“一反の絹と仏の智慧”
インパール作戦に参加中、武者さんたち一行(20人の小部隊)はビルマの山の中にパゴダ(仏塔)を発見し、一週間雨宿りをしたことがあるそうです。食糧が尽き、ムドンの町へ向かっていざ出発というとき、一人の隊員がパゴダの地下の暗がりに絹の反物が山と積まれているのを発見しました。隊長は言いました。
「このまま放置すれば紙くずも同然。これをムドンの町へ持って行けば食糧に替えられる。みんな持てるだけ持て!」 隊員たちは争うように地下から絹の反物を担ぎ出し、五反十反と自分の背のうにくくり付けたそうです。しかし、武者さんはたった一反しか乗せませんでした。
「先に死にたいと言うのか!この意気地なし!」隊長の罵声を浴びながらも武者さんはぐっとこらえました。自分の体力からこれ以上積み上げることは危険だと思ったからです。
ムドンへ向かって2百キロも歩く山のなかで、一人死に、二人死に、絹を多く背負った者から疲労で死んでいきました。武者さんは一反しか持たなかったために生き残りました。途中で一行から遅れ、原始林の中に迷い込んだときも、「急いではいけない。無理をしてはいけない」と思いつづけたそうです。・・・
武者さんはそのときのことを思い出されながらこう話されました。
「絹の反物が食糧に替えられるとなれば、みんな欲が出てきます。多く持った者ほど生き延びられる、だれでもそう思いますよ。でも私は体も小さいし、無理をするとばてやしないかなと、とっさに思ったんです。なぜ、自分の体力と反物の量とのことを考えたのでしょうね。あのときはそういうこと考える余裕なんてないんですから。
私はあれからずうっと思っているんですが、あれは土たん場で、仏さまからさずかった智慧ではなかったかとね。すべてに当てはまるわけでもないでしょうが、人間、ぎりぎりのところでは、欲の少ない人のほうが生き延びるのではないかと、そんな気もしているんですよ――」
武者さんは永平寺で修行中、寝る間も惜しんで仏教書を読みふけったそうです。「こんなときどうすればいいのか、と追い詰められたとき、仏教の教えのなかからすっと解答が降りてきてくれたような、そんな気もするんですね」と、そうも語っておらました。
・・・・・・
“小欲知足と心の豊かさ”
それから「欲の少ない人のほうが生き延びるのではないか」、ともおっしゃっていますが、これはおそらく、お釈迦さまの遺言と言われる「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」のなかの「小欲知足(しょうよくちそく)」を指しているものと思われます。
 「多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩も亦(ま)た多し。小欲の人は無求(むぐ)無欲なれば則(すなわ)ち此の患いなし。」
<多欲の人は利益を求める気持ちが大きいので、悩み苦しみもまた多い。しかし、小欲の人は、求め欲することがないので、そのような患いがない>
・・・・・・」(「大法輪」2010年3月号p28~32より)

映画「ビルマの竪琴」は1956年(昭和31年)1月21日公開。隊長の三國連太郎は重厚で、100214biruma 自分の子供心にも、強く印象に残っている。
そのモデルは、実在されていた・・・。中村さんは永平寺の修行僧だった22歳の時に徴兵されたが、心は既に真の僧侶だったのだろう。仏の教えが心にあった・・・。

「小欲知足」という言葉を聞いて「知足石(ちそくせき)」を思い出した。
これについては、前に「吾唯(われただ)足るを知る」という記事を書いた(ここ)。
足ることを知っている人は、“隣の芝生は青い”と思わないし、誰をも羨やましがらない。よって悩みは少ない・・・。
それは理屈では分かる。しかし、現実はどうだろう・・・
我が家の場合は、誰の息子がどの大学卒だとか、どの会社に入っているかとか、みんな既に過去形で気にならない。しかも、誰が携帯電話で“孫の写真”を見せようが、携帯電話を投げ捨てるようなことも無くなった・・・。
まあそれだけ、我が家も段々と“仏の境地”に近付いているという事だろう。(←これホントかな~??自信ない・・・!)

(関連記事)
「吾唯(われただ)足るを知る」

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2010年2月11日 (木)

手仕事屋きち兵衛の「光る風」

今日は、手仕事屋きち兵衛さんの“幻の名曲”と言われているという「光の風」の紹介。この曲は、1989年4月14日から9月29日までテレビ東京系で放送されたテレビドラマ「風雲!真田幸村」の主題歌。きち兵衛さんにしては珍しく歌謡曲的な(?)親しみ易い旋律だ・・・。

<手仕事屋きち兵衛の「光る風」>

「光る風」
  作詞・作曲:手仕事屋きち兵衛

どうして君はそんなに遠い目つきで
何も言わず ひとりで旅をするのか
どこから君は来るのか どこまで行くのか
ほこりにまみれて 風に吹かれて行く
束ねた髪の毛 ゆらしながら

どうして君にこんなに魅せられるのか
迷い子の時に尋ねた あの人なのか
遠い日 風に吹かれて 涙を飛ばした
幼い瞳で君を見た気がする
どこかで確かに見た気がする

季節が変わる瞬間 風が光ると
夕日に空が燃え出し 君を見かける
どこから君は来るのか どこまで行くのか
(くりかえし)
夢だけ見つめて 夢だけに生き行く
傷つき はぐれた 君は夢か

Image03921ここ)によると、“『詩紬』のヒットにより、テレビ東京から「風雲!真田幸村」の主題歌を依頼され、誕生したのがこの「光る風」である。”とある。よってこの曲は、当然ドラマのテーマを意識して書かれているのだろうが、キーフレーズは「どこから君は来るのか どこまで行くのか」か・・・?
前に「生きている悲しみ」の紹介の記事で(ここ)、ジャンさんが「手仕事屋きち兵衛作の主題歌『光る風』の中にも、「どこから君は来るのか どこまで行くのか」と言うフレーズが出てきます。「どこから来てどこまで行く旅人なのか?」とは、きち兵衛さんが、ご自身に対して一貫して持っている気持ちなのかも知れないなと思います。」とコメントされている。
確かにきち兵衛さんの目線は、いつも遠く水平線に向かっているようである。その目線から、我々は何を感じるか・・・・。

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●メモ:カウント~80万

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2010年2月10日 (水)

「働き者の壮絶なる生涯」~蜂の生涯

最初にお断りしておくが、「働き者の壮絶なる生涯」と言っても、決して自分の事ではない・・・。でも今日は、何とも“暗い話題(?)”である・・・。
先日の日経新聞に歌人・小池光氏の「蜂~働き者の壮絶なる生涯」というコラムがあった。曰く・・・

うたの動物記 蜂~働き者の壮絶なる生涯  小池光
蜂の巣がなぜ六角形をしているかということは数学の問題である。同じ多角形をもって平面を埋め尽くすとき、多角形の面積が同じならば、辺の和がもっとも短くてすむのは正六角形であることが証明できる。つまり、材料がもっとも少なくて経済的にできるのが六角形の巣だ。蜂は、実は数学者であった。
また蜂は、花を発見すると複雑な飛び方を示してその情報を仲間に伝達する。方向だけでなく目標までの距離も教える。北北東300メートルのところにレンゲの花園があるぜ、みたに教える。蜂は、実は測量士であり、報道人であった。
そして「働き蜂」の名に違わず、それはそれはよく働く。羽化してしばらくは卵の世話や、巣内の清掃などの内勤。それから外に出掛けて朝から晩まで蜜集めの外勤。巣内の温度が上がると人間扇風機いや蜂扇風機となって巣内に風を送り、冷やす。ほとんど眠らないらしい。そして40日ばかりで疲労困憊し、ばたばたとみな死んでしまう。なんと壮絶な生涯であることよ。脱帽するよりない。
働くのはすべてメスである。オスはなにをしているか、ただごろごろ暇を持て余している。彼の役割は女王蜂と交尾して子孫を残すだけである。えらく不公平でないかと思うなかれ。交尾を遂げた後直ぐ死ぬようになっている。精子注入、即、死。だからこれも脱帽。・・・・」(2010年1月31日付 日経新聞p32「うたの動物記」より)

この“オスの生涯”について、何か気になった。(←自分もオスなので) Netで見てみると、もっと残酷なことが書かれていた・・・。
「雄蜂は・・・新王となった女王蜂との交尾のためだけに存在するものなのです。新しい女王蜂の交尾が終わり、流蜜期が終ると不要となります。そうなると、無為徒食の輩と見なされた雄蜂たちは邪魔者扱いを受けることになります。働き蜂によって虐待を受けるようになり、ついには巣から追い出されてしまうのです。夏から秋にかけて働き蜂に引っ張り出され、必死に巣門にしがみついている雄蜂を見かける時、何とも言えない気持ちになるものです。・・・」 (出典ここ

地球上には数多の生物が存在するが、オスの最大の役目は言うまでも無く生殖。しかし“生殖だけ”というのは、この蜂のように残酷だ・・・。
一方、我々リタイア(間近の)サラリーマン・・・。こんな話を聞くとなぜか“ドキッ”とする・・。(←だいたい“ドキッ”とすること自体が、問題なのだが・・)
よってリタイア後も、世に(家庭に)何らかの“存在感”を示して、“用済み”“邪魔者扱い”だけはされないようにしなくては・・・。
しかしどんな世界も“主役”はあくまでも“メス”・・。これは、決して“人間世界だけの現象”ではないのである・・・。
しかし、何とも惨めな“蜂の”話ではアル・・。まあ我が家には関係ないけど・・・(と信じたい・・・けど)

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2010年2月 9日 (火)

吉野弘の詩「祝婚歌」

NHKラジオ深夜便「ミッドナイトトーク」で「今だから伝えたいことば~作家 吉永みち子」(2001/2/2放送)を聞いた。その中で、こんな詩の紹介があった。

「祝婚歌(しゅくこんか)」
   吉野 弘

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい

二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい

立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい

健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい

そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい
(「贈る歌」(吉野弘著,花神社)より)

Netでみると、この詩は,40代後半だった吉野さんが、どうしても都合がつかずに出席できなかった姪御さんの結婚式に、「**夫妻に」という題で贈ったプライベートなものだったという。そしてこれは姪御さん夫妻に向けてだけで無く、自分に対しても、そして吉野さんの奥さんへのお礼も含めて言いたかった、とコメントされているという。
この詩は非常に有名な詩らしく、多くの結婚式でも紹介されているらしい。

読んでみると、この詩は若い人たちに“肩を怒らせず”に自然体で・・・と言っている。まさに幾多の人生を生き抜いた熟年の世代から若人へのアドバイスだ。
還暦を過ぎた自分たち世代からすると、どれももっともな事ばかり。しかも、決して家庭の人間関係のことだけでは無く、一般社会生活にもそのまま当てはまる。サラリーマンの現役を退いた我々には良く分かるが、日常が“戦闘状態”の現役サラリーマンには、言葉では分かっても、体ではなかなか理解ができないものかも知れない。

ふと、前に書いた“D.カーネギーの「人を動かす」”(ここ)を思い出した。
人間関係の要諦は永遠に変わらないものであろう。

(付録)
同じく吉永さんがもう一編紹介していたのが、居酒屋のトイレに貼ってあったという言葉。

 「自鍛(じたん)のための“つもり違い”10か条」
 高いつもりで低いのが教養  低いつもりで高いのが気位 
 深いつもりで浅いのが知識  浅いつもりで深いのが欲望
 厚いつもりで薄いのが人情  薄いつもりで厚いのが面皮
 強いつもりで弱いのが根性  弱いつもりで強いのが自我
 多いつもりで少ないのが分別 少ないつもりで多いのが無駄

これも奥が深い・・・

(関連記事)
「健康十訓」

(追)~備忘録
自分は、NHKラジオ深夜便の録音を、オリンパスVJ-10で行っているが(これ)、「AMラジオ用高性能ループアンテナAN1(これ)」を買ってみた。抜群の性能で大満足。
今までは、VJ-10のAMチューナの性能を信じていなかったため、FMはVJ-10で、AMはライン入力にSONYのチューナをつないでいた。しかしFM放送のノイズが我慢できず、AMの音は犠牲にして、AMをVJ-10、FMをSONYのチューナにつなぎ換えた。案の定、AM放送のノイズがひどい・・。それで“本当にダメモト”でVJ-10専用のアンテナAN1を買ってみた。今日着いたので、つないでみてビックリ。AM放送のノイズが消えてFM放送なみの音となった。当地は八王子だが、これは4500円の価値はある。AM放送の音質で困っている人がいたら、ぜひ試してみて下さい。

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2010年2月 8日 (月)

思い出のTV・ラジオ主題歌集(4)

我々還暦世代が子供の頃に聞いていたテレビ・ラジオ番組のテーマソングを集めた企画の第4回。今日もこんな曲を聞きながら、昔を懐かしむことにしよう。

<「ホームラン教室」(小柳徹)

Netからの情報によると「昭和34年(1959年)10月~昭和38年(1963年)3月にNHKで放送された。大川ベーカリーを営む父(牟田悌三)の子供、大川トオル(小柳徹)を主人公に5年1組の野球チームの活躍を描くホームドラマ。当時の野球好きの少年から好評を博したという。放送枠は途中から土曜18:25~18:50に移行。」とある。

<「バス通り裏」(中原美紗緒、ダーク・ダックス)

Wikipediaによると、「『バス通り裏』は、昭和33年(1958年)4月7日から昭和38年(1963年)3月30日までの間、NHK総合テレビジョンで生放送された帯ドラマ番組である。当初は白黒放送、後にカラー化された。全1395回。1961年には菊池寛賞を受賞した。」とある。

<「シャボン玉ホリデー」(ザ・ピーナッツ)

Wikipediaによると、「『シャボン玉ホリデー』は昭和36年(1961年)6月4日から昭和47年(1972年)10月1日まで日本テレビで毎週日曜18:30~19:00に放送されたバラエティ番組である。化粧石鹸メーカー・牛乳石鹸共進社(牛乳石鹸)の一社提供。」とある。
これは良く覚えている。渡辺プロが総出演。植木等の「お呼びでない…これまた失礼致しました」は特に有名。

<「チロリン村とくるみの木」(里見京子、横山道代、黒柳徹子)

Wikipediaによると、「『チロリン村とくるみの木』は、NHKで昭和31年(1956年)4月16日から昭和39年」1964年4月3日まで放送されていた人形劇作品である。全812回。当初は週1回の放送だったが、のちに帯番組となり、『ひょっこりひょうたん島』や『プリンプリン物語』などの人形劇シリーズの原型になった。1963年4月1日放送の第558回よりカラー放送。」とある。

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2010年2月 7日 (日)

“大過なく”・・・・・

今朝の朝日新聞「天声人語」は切ない・・・。若い母親が、幼い子を残して先に逝かなければならない状況は、あまりに切ない。曰く・・・

「本欄へのご感想の中には、ただ黙するしかないようなものがある。埋葬地に木を植える「樹木葬」を取り上げた過日の小文にも、そのようなお便りをいただいた。 「いつ折れるとも知れない心を老夫婦で支え合いながら、娘のために樹木葬の適地を探しています」。次女を34歳で亡くしたばかりのご夫婦からだった。乳がんの告知からわずか1年半。夫と、告知の直後に生まれた男児が残された。遺言めいたメモには、病のため震える字で家族葬の希望と、お墓にはオリーブかローズマリーを植えてほしいとあったそうだ。若い人ほど木の勢いは強かろうと書いた小欄を、励ましと受け止めていただいた。偶然に言葉もない。ご連絡すると、お二人は乳がん撲滅への願いを静かに語られた。 同じ34歳で逝った女性を悼む歌がある。小学生の姉妹の親でもあった。<遺児ふたり長き髪もつ明日よりは母に代わりて誰が結ばむ>羽場百合子。作者は朝日歌壇にも入選を重ねた元教師で、弱き者を思いやる歌風が際立つ。 どんな死も悲しいけれど、若い母親のそれは切ない。お母さんは風になり木になって、わが子に声援を送り続ける。他の母親より少し短い、真珠のような思い出を抱きしめながら。 乳がんに侵された先の女性は、幼子にも走り書きを残していた。〈男の子はやさしくなければいけません。まわりの人の言うことをよくきいて。いっぱいおでかけにつれていってもらうんだよ。本もいっぱいよんで、音楽もいっぱいきいて……〉。連なる「いっぱい」に、母性の叫びを聴く。」(2010年2月7日付 朝日新聞「天声人語」より)

まさに「どんな死も悲しいけれど、若い母親のそれは切ない」・・・・。

同じ今朝の日経新聞「社会人」というコラムに自死のことが書いてあった。曰く・・
「「殺したのはおまえだ。葬式には出なくてもいい」。夫の親族からの吐き捨てるかのような電話の怒声が石倉紘子の脳裏に焼き付く。夫の自死から25年。・・・(夫は)慣れない交渉事の疲れに人間関係のトラブルも重なりパニック障害に陥った。生活の不安もあり「辞めたら」とは言えなかった。療養生活を終え地元に戻る夫に「京都で仕事見つかるかしら?」と電話で問いかけると「うん、見つけなくちゃ」と弱々しい声が返ってきた。それが最後の言葉だった。・・・・残された者まで後を追う悲劇も絶えず「1人の自殺は周囲10人以上の人生を変えてしまう」と痛感している。・・・」(2010年2月7日付 日経日新聞p30「社会人」より)

昨日の朝日新聞のコラム「男のひといき」の「いま分かる“大過なく”」という投稿。
「若いころ、退職する大先輩のあいさつに必ず「大過なく・・」というフレーズがあった。それを聞いて、サラリーマンの世界で「大過なく」とは可もなく不可もなく、何もしないことだと若干軽蔑していた。そういう私もついに今年、定年を迎えることになった。定年を1ヵ月後に控えたある日、妻が「本当に長い間ご苦労様。おめでとう」と私をねぎらい祝福した。私が「おめでとう?」と、けげんな顔をすると、「だって約40年間も無事に過ごすことは大変なことよ」と笑顔で答えた。・・・・今年1日に職場で定年式があり、「皆さんのお陰で大過なく、無事にこの日を迎えたことに感謝します」と挨拶した。(札幌市 鈴木茂明(60))」(2010年2月6日付 朝日新聞p29「男のひといき」より)

もちろん世の中には色々な人生がある。
「さーて、リタイア後はどうしよう」ナンテ考えている当サイトだが、「そんなの誤差範囲」と言われそうで、何とも気恥ずかしい。
まあ“大過なく”還暦を過ぎ、子どもも巣立ち、自分がリタイア後どう過ごそうが、誰にもほとんど影響ない・・・、と思うと、肩を怒らせている自分がなんとも滑稽??

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2010年2月 6日 (土)

DELL ロゴで起動しない~BIOSの変更

最近、テレビのニュ-スや新聞では、トヨタ車の品質問題で大騒ぎ。プリウスのブレーキが、1秒もの間無反応になる可能性を指摘され、トヨタは規格内なのでリコールしないとか、色々言っている。でも正解は、前原国交相の「トヨタの対応は顧客の視点が欠如しているのではないか」という感覚だ。

ところで、先週末に届いたDELLのパソコン(Vostro 220s スリムタワー、XP)(これ)。良い買い物をした、と思ったのも束の間、早速大トラブル・・・。(この記事は自分用の、トラブル備忘録である)
使い始めて数日後、USBのハブを外したらトラブル。電源SWを入れると、最初にDELLのP10606241 ロゴが出てBIOSのバーが動くが、この段階でバーが途中で止まってしまい、動かない。ウィンドウズが立ち上がらない。電源を落として再立ち上げをしても同じ。これにはもう手も足も出ない。何も動かないのだから・・・。
仕方なく、DELLのサポートに電話。すると“慣れて”いるらしく、こんなことを指示された。(写真はクリックで拡大)

1)本体に繋がっているケーブル類を、USBや電源含めて全部外す。
2)何も繋がっていない本体の電源スイッチを、10回位押す。(内部の静電気を放電させるため?)
3)それからモニター、キーボード、マウスの最低限を繋ぎ、電源ON。
これで立ち上がった。
4)その後、再起動確認後、USB機器を繋ぐ。
「今度起きたら?」と聞くと「BIOSの設定変え、またはBIOSのバージョンアップが必要」とか・・・

Netで見たら、このトラブルは有名で、「USB地雷」という名前まで付いている。色々な機種で発生しており、既に07年の書き込みをはじめ、沢山ある。それからもう3年も経っているのに・・・

次の日、スピーカから音が出ないと言うので見たら、附属のスピーカのケーブルのつなぎ忘れ。それでUSBに差し込んで電源ON。そうしたらものの見事に再発。
P10606211 面倒なので、電源ケーブルだけ外して、電源SWを10回押したが、ダメ。仕方なく全部のケーブルを外して10回押したら、動き出した。
USBの抜き差しの度に、こんなことをするのも面倒なので、再度DELLのサポートに電話。何とも頼りない人だったが、「前にBIOSの設定と言われた」と言って、手順を教えてもらい、何とかBIOSの設定を変更。
P10606221 1)電源を入れて、DELLのロゴが出ているときに、F2(Setup)を押す。
2)出てきた画面の左、上から4番目の「Boot Configuration」を選択。
3)出てきた「Boot Settings」画面の「1st Boot Device」を「Removable Dev.」→「HDD」に変更。
4)F10を押して終了。

USBを抜き差ししてもフリーズしなくなったので、いちおう様子を見るが、Netでみると、これでもダメな場合も多いらしい・・・・。

しかし不思議だ。DELLは注文生産。だから作りたてホヤホヤ。よってモデルが古いから・・という事は有り得ない。それなのに、トラブル発生から3年以上経っても、未だに解決出来ずに同じトラブルを抱えたまま、製造し、売り続けているとは・・・。

前の機種がノートラブルだったので、次期XPも躊躇することなくDELLを選んだのだが・・・、残念。また再発したら、次は手があるのだろうか?
新パソコンが動き出して1週間・・・。天下の大メーカといえども、トヨタ同様、“こんなものか”とガックリ・・・。
なお、昨夜記者会見をした豊田社長ではないが、DELLの社長から「(プリウスに限らず)全商品に関して品質面でお客さまに不安を与えることは製造業のトップとして非常に残念。」といった声明は表明されていないみたい・・・

(関連記事)
XPパソコン交換記~DELL価格の不思議・・・

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2010年2月 4日 (木)

昭和36年の出来事(14歳)~松島アキラの「湖愁」

自分が生まれてから順に、その年の出来事を辿るシリーズの15回目。自分が13歳から14歳、つまり中学1年生から2年生になった昭和36年(1961年)の出来事を調べてみる。

この年は、1月にジョン・F・ケネディが史上最年少の43歳で大統領に就任。現オバマ大統領が47歳だったので、ケネディは若かった・・・。8月には1989年まで続いたベルリンの壁が出来た。150Kmもあったとか。
S36 4月には世界初の有人宇宙船、ソ連のガガーリン少佐を乗せた「ボストーク1号」の打ち上げ成功。「地球は青かった」。(写真はクリックで拡大)
この年の映画では、黒澤明監督の「用心棒」や、「モスラ」など。本では「頭のよくなる本」なんていうのがあった。
この年に流行った歌謡曲は、今でも残る名曲が多い。渡辺マリの「東京ドドンパ娘」、アイ・ジョージの「硝子のジョニー」、石原裕次郎の「銀座の恋の物語」、島倉千代子の「襟藻岬」、マヒナ・スターズの「北上夜曲」、フランク永井の「君恋し」、坂本九の「上を向いて歩こう」、植木等の「スーダラ節」、小林旭の「北帰行」、仲宗根美樹の「川は流れる」(これ)等々・・・。まさに歌謡曲黄金時代だ。
Kosyuu 今日はその中で昭和36年9月5日発売の、松島アキラの「湖愁」を聞いてみよう。もっとも自分は、その頃は「スーダラ節」位しか知らなかったが・・・。まあ何となく、この頃を思い出させる旋律ではある・・・。

<松島アキラの「湖愁」>

「湖愁」
  作詞:宮川哲夫
  作曲:渡久地政信

悲しい恋の なきがらは
そっと流そう 泣かないで
かわいあの娘よ 
さようなら
たそがれ迫る 
湖の
水に浮かべる 木の葉舟

ひとりの旅の 淋しさは
知っていたのさ 始めから
はぐれ小鳩か 白樺の
梢に一羽 ほろほろと
泣いて涙で 誰を呼ぶ

夕星ひとつ またひとつ
ぬれた瞳を しのばせる
想い出すまい 嘆くまい
東京は遠い あの峰を
越えてはるかな 空のはて 

この年の初め、中学1年の3学期のとき、自分にとって人生の転機が訪れた。つまり生まれて初めて「実力テスト」というのを体験した。当時は団塊の世代で同じ学年が10クラス。一クラスは56~58人位いた。廊下に張り出された長い紙。そこに点数順に名前が並ぶ。自分自身意外な結果だった。それを機に、自分の体の中に「勉強」という言葉が入り込んだ。そして上を目指す意識が生まれたのは、たぶんここから・・・。
4月の中学2年の新学期から、何と学校が二つに分かれた。つまり、市内の中学校が大きく2つに再編され、新校舎を建てることになり、自分のいた龍ヶ崎市立龍ヶ崎中学校はちょうど真ん中に位置していたため、5クラスずつ半分に割られた。それで入学した龍ヶ崎中学校は昭和36年(1961年)3月で廃止され、4月からは自分の愛宕中学校と隣の城南中学校になった。よって、旧龍ヶ崎中の一つの校舎の中に、二つの中学が存在するという、非常に珍しい状態が、校舎の出来るまで、つまり自分たちが卒業するまでの2年間続いた。もちろん教員室も二つ、運動会も別の日。でも校舎がつながっているので、たまに隣の学校に遊びに行ったり・・・。たしか、珍しいのでテレビ取材もあった。

中学2年の時、初めてクラス委員に選出された。これはクラスの代表で男女1名ずつ。朝礼で校庭に並ぶ時、一番前に立った。これもまた人生の転機。
こんなイベントがあったこともあり、少なくても高校までは良く勉強した。繰り返すが“少なくても高校までは・・・”。(大学に行ってからは止めちゃったけど・・・・)
今思っても、中学1年の3学期から、中学卒業までの2年間が、自分の人生で一番光っていた時期だったと思う。

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2010年2月 3日 (水)

「妻見送った医師の苦悩」~前国立がんセンター総長 垣添忠生氏

いやいや参った。天皇と同じ時刻に同じ病気になっちゃった!?
今朝の新聞に、天皇が「2日未明になって腹痛を訴えられ、侍医が診察した結果、急性腸炎のような症状と脱水症状がみられたという。」とあった。自分も、2日の午前1時頃に目覚めて、明け方4時過ぎまで10回以上の水様便と嘔吐で散々。
カミさんの口コミ情報によると「腹風邪」と言うらしい。Netで見ると、風邪症状がないので「ノロウィルス」かも・・・

先日の朝日新聞に「妻見送った医師の苦悩」という記事があった。曰く・・・(写真はクリックで拡大)
妻見送った医師の苦悩 国立がんセンター・垣添名誉総長が著書
第一線のがん専門医が、最愛の妻を看取った。過去に何人もの患者を見送り、家族を失う悲しみは理解していたつもりだったが、そのつらさは想像を超えていた――。独り残された男性が「死ねないから生きている」どん底の日々から、生きる力を取り戻すまでの2年間を、国立がんセンター名誉総長の垣添忠生さん(68)が本につづった。(岡崎明子)

Image02911 2人が結婚したのは40年前。当時、研修医だった垣添さんが、患者として出会った昭子さんの賢明さにひかれ、12歳年上で既婚者の昭子さんと駆け落ちした。昭子さんは元々体が弱く、垣添さんは自然に家事を手伝ってきた。2人に子どもはおらず、休みにはカヌーや山登りを楽しみながら、いつも一緒に行動してきた。
昭子さんの肺に6ミリほどの小細胞がんが見つかったのは4年前。昭子さんはそれまでも、肺の腺がんや甲状腺がんを患ったが、治してきた。垣添さんは、今回のがんも治すつもりで最新治療を施した。だが、がんは転移。垣添さんが総長を定年退職し、ようやく夫婦2人でゆっくり過ごそうと考えていた矢先だった。
1年以上にわたる闘病の末、国立がんセンター中央病院に入院した昭子さんの願いは「家で死にたい」だった。07年末、最後の外泊の4日目となる大みそかの夜に。78歳の生涯を閉じた。明子さんの望みで、亡くなったことは誰にも知らせず、正月三が日はひつぎの中の顔を眺めて過ごした。葬儀は弟夫婦と3人で執り行った。
遺影の前でひとり酒
正月休みが明けても、親しい人以外に妻の死は知らせず、日中は従来通り公務をこなした。だが夜、誰もいない自宅に帰ると、遺影を前に酒を飲む日々が続いた。
「いつも2人で生きてきた。片割れを失い、何のために生きているのかと考える日々でした」。悲しみは深く、底無しに思えた。食欲を失い、睡眠剤で眠った。遺族の深い悲しみ(グリーフ)をいやすケアの存在も知っていたが、受けようという気にならなかった。
しかし、3カ月が過ぎたころから、心境に少しずつ変化が出てきた。「いつまでも悲しんでいては、妻も悲しいのではないか」。酒浸りの日々を見直そうと、日曜日には1週間分のサケやらたらこを焼き、お茶漬けにして食べるようにした。毎晩腹筋や背筋で体を鍛え、新たに居合も始めた。
ただ、悲しみは消えることは無いという。「今でも毎日、何百回も妻のことを思い出します」。山登りの中にウサギや鳥に励まされると、「妻が見守ってくれる」と感じるという。「単なる自然現象だと分かっています。ても非科学的だけど、そういうこともあると思うんです」
悲しみケア研究へ
がんで亡くなる人は、年間34万人に上る。自身の体験を通じて、悲嘆にくれる患者に医療者がどのように接していくべきか、グリーフケアの研究を始めることにした。
「最愛の人を亡くし途方にくれている人、私の苦しかった思いや生きていく上での工夫が、少しでも手助けになればと思います」。著書「妻を看取る日」は新潮社から出版。1365円。」(2010/1/31朝日新聞p24より)

何とも言葉がない。当事者以外ではうかがい知れない世界・・・。でもこれは、誰にも平等に訪れる事ではある・・・。
しかし28歳の医師が、40歳の既婚女性と駆け落ちとは、今ではあまり聞かない凄まじさ。でもそれが負の経歴とならず、国立がんセンター総長まで登りつめられる世界もまた評価に値する。(なお、垣添さんは日経新聞の夕刊に「人間発見 がんとの長い闘い」という連載を始めているが、会った時は、昭子さんは既に離婚前提で別居中だったという)
自分はこの本は読まない。気の弱い自分は、考えるだけで鬱になってしまう。そういえば、同じ日の日経新聞に「医師の目~がん医療、欠かせぬ心のケア」という記事があった。曰く・・・

医師の目~がん医療、欠かせぬ心のケア 埼玉医科大教授 大西秀樹氏
・・・・・
がんになると、それまでの日常は一変し、治療中心の生活が始まる。また、治療選択の問題、仕事の問題、家庭の問題などが生じ、患者は多くのストレスを抱えながら治療を受けている。がんは身体ばかりでなく、心にも負の影響を及ぶ病気なのである。
では、治療中のがん患者が100人いると、何人に精神科の診断がつくかご存知だろうか?答えは50人。治療中のがん患者の2人に1人だと報告されている。また、診断がつかない患者でも精神的に苦しんでいることが多い。
多くのがん患者が精神的に苦悩している。患者の苦痛は治療意欲低下など、がん治療自体に悪影響を及ぼすこともある。これらの苦悩は精神的治療で改善することも知られている。つまり、がん医療における精神的治療は、より良い医療を提供するため欠くことができないのである。」(2010/1/31日経新聞p25より)

垣添さんの話にはコメントなど出来ないが、大西さんの話で、がん患者の半分が精神科の世話になるという事実・・・。自分はほぼ全員、と思っていた。がんを宣告されて、精神的に平穏で居られるわけが無い、と思うのだが・・・。
自分はがんの告知には大反対。今は、いとも簡単に告知するという。がんが治る状況ならまだ良い。それが「治らない」と告知する意味は何か?医師からの「死への準備をするように」とのアドバイス?気の弱い自分は要らないな・・・。
“治らないがんは告知しない”という病院はどこかに無いものだろうか・・・

おっと話がそれた。前に“城山三郎の「そうか、もう君はいないのか」を読んで”という記事を書いたのを思い出した(ここ)。人生でかけがえのないもの。それはまさに財産でも社会的地位でもなく、家族の存在なのかも知れない。
それなのに、先日放送されたショッキングなレポート、「NHKスペシャル「無縁社会~“無縁死”3万2千人の衝撃~」(再放送2010年2月6日BS2 pm1:30)で言っていたように、今は「20年後(2030年)、推定では女性の4人に1人、男性の3人に1人が生涯未婚になるとみられています」という社会・・・。かけがえの無い人を失う悲しみの代わりに、“孤独の悲しみ”・・・
結婚しない(出来ない)現代の多くの若者たち・・・。
仏教でいう「四苦八苦」(ここ)の中に「愛別離苦(あいべつりく)~愛するものと分かれる苦しみ」はある。でも「“孤独”の苦」というのは、そもそも無いのである・・・・・

(関連記事)
NHKラジオ深夜便 「最愛の妻の死を乗り越えて」~国立がんセンター名誉総長 垣添忠生氏の話(2012/02/16)

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2010年2月 1日 (月)

細川護熙氏の「私の死亡記事」

昨日終わった日経新聞の「私の履歴書~細川護熙」。タイトルが「私の死亡記事」というショッキングな(?)内容。曰く・・・

私の死亡記事
前にある雑誌から頼まれて「私の死亡記事」というのを書いたことがある。それから時間もたったので少し書き改めて再掲する。
『作陶、書、油絵などを広く手がけ、首相も努めたことのある細川護熙氏が先月20日、神奈川県湯河原町の自宅不東庵で老衰のため死去していたことが明らかになった。99歳だった。遺言により、葬儀や告別式は行われない。
細川氏は1938年、東京生まれ。上智大卒業後、朝日新聞記者を経て政界入りし、参院議員、熊本県知事、行革審部会長などを歴任。92年に自民党と社会党を中心とした55年体制の打破と規制緩和や地方分権による構造改革などを唱えて日本新党を旗揚げし、93年の衆院選後に8党会派の非自民連立政権の首班として第79代首相に就任、38年ぶりの政権交代を実現した。
首相在任中は政治改革、コメの市場開放などをやり遂げた。政権返り咲きを狙う自民党に佐川急便からの借入金問題などを追及され、連立政権内部の分裂などの動きも加わり、約8ヶ月で辞任。首相退陣後も政界再編に尽くし、98年に4党を合併させていまの民主党を立ち上げ、60歳で政界を引退した。
その後は「不東」と号し、アート三昧の日々。生前に用意した自然石風の墓石には戒名もなく、「長居無用」とのみ刻んだが、長寿を続け、最近まで日本の政治の質の低下や構造改革の遅れを嘆いていたという。
真抜田(まぬけた)首相は、官邸で記者団に「ロマンを持ち、理想主義の旗を掲げた、日本では珍しい政治家だったのではないか。私が政治を志したのも細川さんの新党旗揚げに触発されてのことだった。ご冥福をお祈りします」と語った。』

『細川氏を悼む』
凸凹大学長の出久能望(でくのぼう)さん(政治学)
時代の流れを読む目というか、政治的勘はなかなかのものだった。何でも行動がはやかったが、せっかちな言動に周囲が追いつけず、時に混乱をもたらした。権威主義、形式主義を嫌い勲章や叙勲の類を受けつけなかったのも細川氏らしいが、保守的な考えの人たちにはなかなかその発想自体が理解されなかったのではないか。

陶芸家の部田空祖(へたくそ)さん
陶器において名を残すつもりはないと言いながら、楽、井戸、信楽などで器格のある、茶趣に富んだ作品を残した。書や油絵もたしなみ、文武両道の家風を受け継いだが、政治だけは轆轤(ろくろ)で回すようなわけにはいかないと話していたのを思い出す。
・・・・」(2010/1/31 日経新聞「私の履歴書」から)

元首相とは思えないウィットに富んだ文才ぶりに感心・・・。
しかし「前にある雑誌社から頼まれて「私の死亡記事」というのを書いたことがある。」というのは本当だろうか? それが本当だとすると、世の死亡記事はみな本人が書いている??
確かに本人が書けば、誰から評されるまでもなく、自分の人生に対して謳いたいことが言える。これは正しい。でもそれは自分の人生の実績を、世の中に“高らかに謳える”人だけの話・・・
翻って、自分のような“元サラリーマン”は何と書くのだろう・・・。もし自分が「私の死亡記事」を依頼されたら・・・(←そんなこと有り得ないのだが・・・)
「サラリーマン一筋で人生を生きた“生涯現役挫折”氏が、自宅のある八王子市で、99歳で老衰のため死亡した。(←細川さんもそうだけど、“99歳で老衰”とはあまりに贅沢・・・)“生涯”氏は1947年埼玉県生まれ。茨城県で育ってから就職のため上京、それ以来八王子に住んだ。“生涯”氏は43年間サラリーマンだったが、特段目立った業績はない。定年退職前から、“リタイア後どうしよう?”という大命題の解を見付けるべく、その思考過程を「エムズの片割れ」という珍妙な名前のblogに書き綴ったのが唯一の形見となった。しかし、結局その解を見付ける事は出来なかったという。

40年間勤めた会社の元同僚の話
「そんな人、居たかな~・・・・・」
70年間(良くぞ!)添い遂げた奥さんの話
「やっと肩の荷が降りました。さー、念願の都会のマンションに引っ越すぞ~!」(←94歳とは思えない元気さでした。)」

あーヤダ・・・

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