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2010年1月15日 (金)

葬式をしない「直葬(ちょくそう)」

昨日は、三途の川を渡る(?)歌を紹介した。それに続いて同じような話題で恐縮だが・・・
雑誌「大法輪」の今月号(2010年2月号これ)の「仏教の眼」というコラムに、「直葬」という記事があった。曰く・・・

直葬(ちょくそう)
  法華宗本門流129代管長 大塚日正
先日、知人がタクシーに乗った時、何故かお寺の話になったそうです。
運転手「お寺さんは大変ですね」
知人「どうしてですか?」
運転手「いやね、この間も無線で呼ばれて病院に行ったら、お客さんから『あの車に付くように』と言われましてね。霊柩車ではないんですがね。どうやら遺体を乗せている寝台車らしいんですよ。着いた所は火葬場。全くお寺は無関係で、葬儀屋さんと遺族だけで火葬にしちゃったんです。セレモニーホールでも、お寺抜きの葬儀が増えていますよ。こういうことは最近しょっちゅうあるんですよ」という話だったそうです。
この運転手さんの言うように「直葬」という、いわゆる寺院、僧侶の全く関与しない葬儀が、特に都会では増えています。理由は、寺との関係が希薄、経済的負担、簡素、効率重視、などがあると思いますが、何よりも人々が寺、僧侶を信頼しなくなっていることにあるのではないでしょうか。
ある寺の跡取りという学生が、「『葬式仏教』と悪口を言いながらも今はまだ人が死ねば寺や僧侶の世話にならなければならないと思っている人が多いが、その内『葬式に僧侶を呼ぶなんて止めよう』と言い出す人が増えてきて、近い将来僧侶に依る葬儀は減少するだろう」と述べたそうです。これは仏教界に対する、大いなる警鐘と受けとめ、真摯に反省しなければなりません。
この大学生の言うように、僧侶を必要とする葬儀はまだあります。しかし、必ずしも遺族と寺との信頼関係が成り立った上での葬儀とばかりは言えません。
近年、至る所に「セレモニーホール」が林立しています。「病院」から「葬儀社」、「葬儀社」から「セレモニーホール」。そこに僧侶が呼ばれ、形式的に通夜、葬儀が営まれる。そして「セレモニーホール」から「火葬場」。単に寺は全体の中で、一つの役割をこなすだけの葬儀。しかも、遺族に対して色々な葬儀のメニューを提示し、僧侶による葬儀はオプションの一つに過ぎず、音楽葬などと同列に扱う葬儀社も出てきています。
今や「僧侶派遣会社」なるものがあり、葬儀社に飛び込みで営業をするそうです。会社と契約している僧侶の中には、寺を持たない者も多く、葬儀があると電話一本で袈裟、衣等、一式詰まっている鞄を持ってセレモニーホールに直行。お経を読んで終わり。戒名は派遣会社が「コンピュータソフト」で、故人にそれなりのふさわしい戒名を検索し、リーズナブルな価格と共に遺族に提示する。寺院の維持や墓地の管理などという手間を一切必要としない、新しい型の僧侶が出現し始めたということです。
こうして派遣された、遺族と関りのない僧侶が、遺族の悲しみ、辛さを充分に理解し、心を込めた葬儀を営むことが果たして出来るのでしょうか。生の最後である死に際に関ることなく、死後の単なる形式化された葬儀を受け持つだけの役割でしかない、と言われても仕方がありません。
葬儀、回向のみに携わる葬式仏教と言われるのなら、せめて葬式仏教に徹すれば、また違った意味での評価を与えられると思います。僧侶たる者、心を込め、故人の安らかな永遠の眠りを祈ること。一方、遺族や会葬者の悲しみを和らげ、励まし、悲しみの中にも心穏やかに。故人とのお別れが出来るよう勤めること。遺族に「感動した!このような素晴らしい葬儀ならば、故人も心安らかに旅立っていっただろう。満足のいく葬儀を出せた!」と思ってもらい、また多くの参列者にも感動を与える葬儀であるならば、充分に意義があります。「葬式仏教」と言われても少しも恥じることがありません。否、僧侶が真剣に、心を込めての葬儀であるならば「葬式仏教」と批判されないはずです。僧侶としての信念、使命感、自覚を持つことにより、人々から信頼を得られるのではないでしょうか。」(「大法輪」2010年2月号p41より)

広辞苑には「直葬」という言葉は無い。「現代用語の基礎知識2007」には、「直葬」について、「葬式をしない葬儀の形態を言う。死亡後、斎場や遺体保管施設に24時間保管した後、いわゆる葬式をしないで直接火葬に処するもの。火葬炉の前で僧侶等により簡単に読経をあげてもらう等の宗教儀礼をあげてもらうことはある。2000年以降に都市部で急激に増加した形態で、東京では15~20%、全国平均でも5%程度あると推定される」と解説されているとか・・・。

自分も今まで数多くの葬儀に出席している。しかし今までで、心に留まった葬儀というのは非常に少ない。前に(ここ)に「通夜の法話の事」という題で書いたが、これは曹洞宗のお寺さんが執り行った同僚のお父さんの葬儀だった。故人のお寺への奉仕や、一緒に永平寺を訪れた思い出話などの話に、もちろん自分は故人を知らないものの、それらの話は印象に残った・・・。(逆に、このお坊さんの話に比べ、それを台無しにした無粋な葬儀屋の対応が残念だった・・・) それら以外の殆どの葬儀は、いつもの型通りの流れ作業・・・。

このコラムは、どちらかと言うと僧侶側に対する戒めを書いている。しかし、先の同僚の父上の葬儀もそうだが、全ては故人とお寺さんとの生前の関係にかかっている。突然葬儀に呼ばれた僧侶も、今まで何の付き合いも無い故人については、話のしようがない。遺族にとっても初対面の僧侶では、何とも話が続かない・・・。
たぶん地方のお寺は、昔からの檀家としての関係が深く、まさに本来の心のこもった葬儀になるのだろう。映画「阿弥陀堂だより」のテーマもそれだった。
しかし、今の都会の人は、何よりもお寺そのものとの縁が薄い。だから良くて“葬式仏教を仕方なく・・・・”。よって、近々「都会の葬式は直葬(ちょくそう)が増える」という推測は当たっていると思う。

自分の場合を思い出してみると、家族では10年以上前に亡くなった親父の葬儀が唯一だが、無宗教・簡素派を自認する兄貴と、「葬式は親父の生き様のバロメータ」とばかり、最後くらい盛大に・・・と主張した自分とがぶつかったっけ・・・。あの時は確かにそう思った。でも今はだいぶん考え方が変わってきたな・・

効率優先の現代社会・・。段々と、自分たち家族の葬儀に人を呼ぶことさえ、「迷惑を掛ける・・」と思って躊躇する人も多くなってくる。確かに今は、故人と直接付き合いがあった場合は別にして、故人よりも遺族との付き合いの関係で葬儀に出席することが如何に多いか・・・。
心の問題は置いてきぼりにされて、葬儀が単なるプロセスになっている。これは何とも寂しいが、まあ時代の流れから来る必然なのかも知れない。しかし現役の僧侶が、葬儀の場を“衆生との貴重な接点の機会”と捉え、現代人が一番葛藤しているはずの“心の問題”に対する小さな解の話でも出来れば、衆生は仏教に対して、見方を変えてくれるかも知れない。別に葬儀の場でPRを!と言うつもりも無いが、一般ピープルにとって、葬儀の場は僧侶と出会う貴重な場であることも確か・・・。
このコラムの指摘は、まさに目前に迫ってきている「お寺」「僧侶」と世の流れについて、見ないフリをして終わる問題ではないと、正面からとらえているように思った。

●メモ:カウント~75万


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