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2009年12月の26件の記事

2009年12月31日 (木)

「無題」(大晦日に、徒然なるままに・・・・)

今日は大晦日。でも、もうこのトシになると、大晦日だからといって何という事もない。いつもの通りだ。まあ、たまには何のテーマも無く徒然なるままに書いてみようかな・・・。大晦日の一こま・・

先日の新聞に「除夜のベートーベン“全九”」という三枝成彰氏の記事があり、“ああまた今年も東京文化会館で、大晦日に11時間をかけてベートーベンの交響曲全九曲の演奏会があるのか・・”と思いながら読んだ。(日経新聞2009/12/29 p32)
それを思い出して、昨夜の夕食の時に「来年の大晦日はベートーベンを聞きに行くぞ!」と“宣言?”した。

Netで「ベートーヴェンは凄い!全交響曲連続演奏会2009」のサイト(ここ)を見ていたら、まだ2万円券と1万5千円券が売れ残っているらしい。ふと寝る前になって、“思い立ったが100年目”とばかりに、明日思い切って行ってみようかと、夜10時前だったが主催者に電話してみた。そうしたら応答があった。聞くと、2万円券ならたぶん当日券があるという。いつも2千円券、5千円券から売れてしまい、S席が売れ残るという。
・・・まあ来年にするか・・・、でチョン。来年はロリン・マゼールが指揮するというので、ちゃんと前売り券を買って行ってみようかな・・・

今日は昼前に、近くの高幡不動尊にお札の予約に行った。例年の我が家の行事だが、今年(2009年)だけはサボった。そのせいか、今年は正月に「ロタウィルス下痢症」に罹ったのをスタートに、五十肩や会社の解散等、最悪のトシ。おまけに息子も夏に入院したりで。これも「身体安全」をサボったせい・・? というワケで、今年はちゃんとお札を貰うことにした。サラリーマンは会社がちゃんとしていれば何とかなる、との思いから、自分と次男は「社業隆昌」。まあ素人では珍しいが、そんなことはお構いなし。でも自分の申込書に“64歳”と書いたときは、幾ら数え年でも、自分もトシを食ったな・・という感。

正月休みになって、“テレビ人間”の自分は一生懸命に録り溜めた番組を見ている。そこでまた頭をもたげてきたのが、自室にあるPanaのプラズマテレビVIERA(TH-42PZR900)と自分との相性問題・・。どうしても残像が気になる・・。居間にある液晶テレビREGZA (37Z3500)では気になった事が無いのに・・・・
それと、Panaは録画した番組が、連ドラグループ分けが出来ないという自分にとっての重欠点がある。それで居間の液晶と取替えようかと、“また”思った。実は、このことは前にも検討したが却下した。何でダメだったのか・・と思っても、その原因を思い出せない。メモ代わりに使っているこのblogを検索しても出てこない・・・。2番組同時録画が出来ないことは気が付いたが、あと何だっけ?・・・。まあいいか・・・、とREGZAの録画用に2TBのHDDを通販で手配してから気が付いた。そうだ、37Z3500は1.3(1.5)倍再生が出来なかったので、前に却下したンだっけ・・・・。でもそれを除くと、iLinkも付いているし機能は充分。やはり自室のプラズマと居間の液晶を取り替えてしまおう・・・。と思った。(←これ完全な自分用のメモ)

今テレビを点けたら、また恒例の紅白歌合戦を放送している。昔は、毎年これを見るのが当たり前だった。それを見なくなってから数十年が経つ。大晦日も特に感慨は無い。何度も書いているが、トシを取ってから時間の経つのが異常に早い。こうしてまたトシを取っていく・・・・。

最後に、さっき昔の録画を見ていて気になった言葉。
「復讐とは冷めてから食べる料理」
NHKの「100年インタビュー 岸恵子」で、岸さんが夫だったイヴ・シャンピ監督から言われた言葉だと言っていた。熱いうちに食べようとすると、やけどをする。冷えてから食べようとすると不味い。だからどうでも良くなる。・・・それが「復讐」なんだとか・・

第九の放送も始まった。2009年よ、お疲れさま・・・

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2009年12月30日 (水)

ベートーベン「第九」の“Freude(歓び)”と“Freiheit(自由)”

NHKラジオ深夜便「こころの時代」で、「音楽はこころのご飯です~教育音楽学会会長・岡本仁」(2009/12/21放送)を聞いた。その中でベートーベンの「第九」の話があり、初めて“Freude(歓び)”を“Freiheit(自由)”と歌ったものを聞いた。
この録音は、ちょうど20年前の1989年12月25日、ドイツの東西分離の象徴だったベルリンの壁の崩壊を記念して、レナード・バーンスタインの指揮で、ベルリンで第九の演奏会が開かれた時のもの。オーケストラは、バイエルン放送交響楽団を中心に、6つの楽団のメンバーによる特別編成のオーケストラだったという。この演奏会で、バーンスタインは第4楽章で“Freude(歓喜)”を“Freiheit(自由)”と歌わせた。
岡本さんの話は、この“Freude”をめぐる話だった。

<バーンスタインの「第九」と岡本仁さんの話>
    ~ベルリンの壁崩壊記念コンサートより

岡本さんの話をメモしてみると・・・
「シラーがこの詩を発表した当時は、フランス革命の真っ只中。自由・博愛・平等を声高にいう時代。でもあまり声高に言い過ぎると、当局に反動だと睨まれる。だからシラーは“Freiheit(自由)”と書いたものを、後で“Freude(歓喜)”に言い改めたに違いない、とロマン・ロランは書いている。つまりシラーの心の中にはフライハイトという言葉があって、フライハイトという気持ちをフロイデという言葉に置き換えている、という説がドイツにもある。
私がアシスタントをした大町陽一郎さんという指揮者も、“ここはフロイデでなくてフライハイトなんだよ。なぜならば、フロイデは一音節のドイツ語だから音が二つ付いているのはおかしい。ベートーベンはフライハイトと思いこんで作ったんだよ”とおっしゃっていた。
そのことが、何十年もずっと頭にあって、その後ドイツに行く度に色々な人に聞いてみた。(でもドイツでも両方の説がある・・・・)」

よって、バーンスタインのこの演奏は、単なる思い付きの変更ではないようだ。
思い出すと、この演奏会の話は前にも聞いた事があった。しかし実際の演奏会の模様は、YouTubeで今回初めて聞いた。
それと、毎年年末になると第九が盛んに演奏されるが、その歴史の話もされていた。「N饗の記録から調べてみると、昭和2年にN饗が初めて第九を演奏したが、12月に演奏したのは昭和35年(1960年)が最初。それから年末の演奏が多くなった」と、岡本さんは言っていた。

話は変わるが、最近また、昔聞いたLPが懐かしくなって、同じ演奏のCDを買い込んでいる。昨日もアンセルメの「第九」と、ミュンシュ/パリ管の「幻想交響曲」のCDを買ってしまった。もちろんアンセルメなどは廃盤になっており、中古で・・・。
Img_23841 エルネスト・アンセルメの「第九」は、自分が買った最初の記念すべき30cmLP。探してみたら、買ったのが昭和37年(1962年)10月2日とメモしてあるので、もう半世紀も前だ。中学3年のときだ。当時で1000円。一番安いLPだった。この当時は誰の演奏・・というよりも、安くなければ買えなかったのだ・・。でも自分の「第九」の歴史はこのアンセルメからスタートした事は事実・・・
しかし今回買ったCDを再生してみて驚いた。幾らデジタル処理をしたからといって、ここまでみずみずしい音が聞けるとは・・・・。少し聴いてみよう。

<アンセルメ/スイス・ロマンドの「第九」#4から>

さすがデッカの録音は違う・・・・、と唸った。この録音は1959年。考えてみると、彼のフルトヴェングラーの最後の録音が1954年。そのたった5年後なのに、このような素晴らしいステレオ録音が残っている。ワルターがコロンビア交響楽団でステレオ録音を開始したのが1957年というから、フルトヴェングラーがもう少し長生きしていれば・・・ナンテ夢想している年末ではある。

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2009年12月28日 (月)

「パナ日立」という一炊の夢

今朝の日経新聞に、まさに“一炊の夢”の話が載っていた。でもゾッとする話・・。曰く・・・

「パナ日立」という一炊の夢
  客員コラムニスト 西岡幸一
・・・「こんなことになるのなら相手を日立にするべきだったか」。パナソニックの有力OBが笑いながらこういった。今月10日に三洋電機へのTOB(株式の公開買い付け)が成功、50%強の株式を取得した直後のことだ。投じた資金は4千億円強。・・・・
先の「こんなことに」というのは日立の株価。巨額の増資発表を嫌気してずるずると下落した。足もとでは反転し始めているとはいえ、10日ごろは230円台。ピーク時の10分の1に近く、三菱電機の3分の1という暴落状態だ。時価総額は8千億円程度で4千億円強もあれば過半の株式を取得できた計算。つまり三洋電機に投じた資金でそのまま天下の日立を支配できた。
よく知られたように・・・1000社近い連結会社を抱える。この子会社に対する日立持ち株を処分するだけで買収コストの4~5倍の資金を回収できるお買い得。売上高10兆円と日本最大の博士集団を含めた約40万人の従業員。これらがそっくり手に入ると思えば、三洋から日立に乗り換えるのは理にかなった話。
・・・・あくまで机上の計算だ。それでも破綻寸前だった三洋と日立の企業価値が“等価”になるという机上の空論は、日本企業への厳しい警告にほかならない。・・・日本経済の迷走をも象徴する。
初夢にもならないがパナソニックが日立を買収すればどうか。・・・苦境にあるエレクトロニImage04041 クスで17兆円もの売上高のメガ企業の誕生を想像すると一見、刺激的だ。・・・
しかし100年近い歴史を誇る総合企業の補完的足し算は広範な事業領域と企業文化の足し算だ。・・・・業績が優と優の「優優統合」でも人が離反すれば「憂憂統合」に化ける。ずうたいばかりの「パナ日立」では犬も食わない。まさに否定するための「帰無仮説」でしかない。
問題はこれを棄却した後にどんな選択肢があるかだ。先に創立40周年を迎えた韓国サムスン電子は2020年に売上高4千億ドルの目標を掲げた。ホラにせよ夢にせよ、自動車と共に日本経済を担う電機業界にこんな気勢を上げる企業はない。・・・・業界常識を超えた夢仮説を実現する合従連衡が必要だ。・・・・・」(日経新聞2009/12/28 p5より)

同じ今朝の新聞に、「韓国連合が、GE-日立連合に勝って、アラブ首長国連邦(UAE)から総額400億ドル(約3兆6千億円)にものぼる原発4基の受注に成功」という記事もあった(ここ)。

少し旧聞だが、先日の同じ日経新聞に「韓国企業 強さの秘密」という連載があり、韓国・現代自動車の今年の1~9月の新車販売数は341万台で米フォードを抜いて5位に浮上した、と報じていた。また09年度初期品質調査でも、現代自動車の「エラントラ」はホンダの「シビック」などを抑えて首位だったという。
韓国の品質の向上も目覚しく、ポスコの鋼材を取り寄せて品質を調べた日本の鉄鋼メーカの役員は「9割以上が日本製からポスコ製に切り替えて問題ないレベルに達している」という。
そしてサムスン電子が3月に発売した「LED(発光ダイオード)テレビ」。実はLEDテレビはソニーが04年に世界で初めて発売したが普及しなかった。・・・「ある日本企業幹部は「同じ液晶テレビなのに“LEDテレビ”というカテゴリーを作ってしまうとは」とサムスンの売り方に舌を巻く。」・・・(日経新聞2009/12/17 p9より)

最近の新聞を読んでいると、日本企業の不甲斐なさと、それに対する韓国や中国企業の元気の良さの話題が多い。この記事が指摘しているように、「安さ頼みから、品質やマーケティングを兼ね備えた総合力へ。韓国企業の実力を見誤ると、日本企業は利益の源泉にしてきた市場や製品をさらに失いかねない」。

話は変わるが、自分が唯一持っている韓国製品であるMP3プレヤー「アイリバーのiHP-140」。04年に買ったものだが初期不良を除くと壊れない・・・。MP3プレヤーも、もうHDDの時代ではなくフラッシュメモリーの時代。最大の懸案だったメモリ容量も64Gの製品がSONYから発売された。アイリバーが壊れたらこれを買おう、と準備万端なのだが、でもこれが壊れない・・・・。困った・・・!?
動いていて使い勝手も良く、困まってもいないのに新しい製品を買うほど、金は余っていない・・・

産業革命以来、自国語の英語を世界の標準語にしてしまった日本と同じ島国イギリス。長い間、何となく円熟した国と見え、企業競争の点ではあまり恐れられなくなってしまったが、日本もその後を追っているように見える。
こんな記事を読むと、バリバリの現役時代に還って、気がうずうずしてくるが、でも一方ではブータンの「国民総幸福量」というような生き方もあるので(ここ)、日本という国も、そろそろ一服するのも良いかもね・・・。(←リタイア(寸前)人間の、無責任発言だけど・・)

(付録)~実は自分は今日初めて「一炊の夢」の故事を知った・・・
「一炊の夢」=[李泌、枕中記](唐の盧生(ろせい)という青年が趙の都の邯鄲(かんたん)で道士の枕をかりて寝たところ、人生1代の栄華を夢に見たが、さめてみれば、たきかけの粟がまだ煮えきらないくらいの短い時間であったという故事) 人生の栄華のはかないことにいう。黄粱(こうりよう)の夢。邯鄲の夢。盧生の夢。(【広辞苑第五版】より)
(故事の詳細はここ

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2009年12月27日 (日)

コロッケとケイ・ウンスクの「すずめの涙」

先日、新聞でコロッケのコンサートの広告を見た。コロッケ(←これタレントの名前)がコンサートをしているんだ・・と思った。実は自分はコロッケの事をほとんど知らない。Netで見てみると、「芸能生活30周年記念コンサート」を各地で開くという(ここ)。

自分がコロッケという名を知ったのは、「すずめの涙」という歌を聞いたとき。コロッケというふざけた(失礼)名前とは想像も出来ない歌唱にビックリした。先ず聴いてみよう。名前からは想像の出来ない(失礼)しみじみとした歌声である。

<コロッケの「すずめの涙」>

「すずめの涙」
  作詩:荒木とよひさ
  作曲:浜圭介

世の中であんたが一番好きだったけれど
追いかけてすがりつき
泣いてもみじめになるだけ
幸福を窓に閉じこめて飼いならしてみても
悲しみが胸のすき間から忍び込んでくる

*たかが人生なりゆきまかせ
男なんかは星の数ほど
泥んこになるまえに 綺麗にあばよ
好きでいるうちに 許してあばよ*

もし今度生まれてくるなら孔雀よりすずめ
口紅も香水もつけないで誰かと暮すわ
色づいた夢を見るよりも
ささやかでもいいの
あたしだけ飛べる青空を持ってる人ならば

たかが人生 綺麗なときは
花よりもっと短いはずね
酔いどれになるまえに 背中にあばよ
好きでいるうちに 許してあばよ

だいたいコロッケとは何者か?とNetで調べてみると、そもそも“物まねタレント”だという。そういえば、確かにテレビでも見かける・・・・
奇想天外の名前としては、実は手仕事屋きち兵衛さん(ここ)も、最初に名前を聞いたときはビックリ。まあ後で名前の由来を聞いて納得したものだが、コロッケさんの名前の由来は知らない。

名前といえば、当サイトの「エムズの片割れ」という名前も、最初に聞く人は“これは何だ?”と思うのだろう。由来はプロフィール(ここ)に書いているが、自分は分かっていても聞く人のことはまったく考えなかった。つまり、3年半も続くとは思わず、実に思い付きで始めたので、サイト名をそれほどマジメに考えなかったのだ。今思うと、もう少し色々と考えて決めれば良かったか・・・。
散歩の時にカミさんに「blogの名前をもう少し考えれば良かった。“片割れ”というのは自嘲気味で良くない」と言うと、カミさんはこれで良いと言う。つまり、このblogはあくまで親サイトの付録なのである・・・・?

さっき、久しぶりにその親サイトの「クラフトギャラリーM’s(エムズ)」ここ)の更新をした。昔は、カミさんの作品の出来に合わせて、本当に毎週更新をしていた。大変だった・・・。作品作りの手伝いが・・・。そして、時たまストライキを起こすHP作成ソフトを相手に、HPのアップが・・・・。今日のアップは177回目。自分も良くやっていた・・。当時、カミさんのクラフトの作品の作成は早かった。HPの更新履歴を見ても、05年~07年まではほぼ毎週、08年にテンポが緩くなって、09年は休止モード・・・。(ヤレヤレ・・・。当時の“片割れ”のグチは(ここ))
まあ永久にこの“片割れ”さん(←自分)は、親の“本家エムズ”さん(←これカミさん)に頭が上がらない模様なので、“片割れ”で良いことにしよう・・・。

話がそれたが、「すずめの涙」のオリジナルは、ケイ・ウンスク(桂銀淑)で、1987年4月22日に発売された2枚目のシングルだという。最後にオリジナルに敬意を表して、それも聴いてみよう。

<ケイ・ウンスク(桂銀淑)の「すずめの涙」>

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2009年12月26日 (土)

一晩の「糖尿病」騒動・・・

実につまらない話だが、これも自分が当blogを備忘録代わりにしている関係で、自分用のメモなので・・・
小便をした時に、水の表面に細かい泡が出来るのに気が付いたのは、1ヶ月位前だったか・・・。時たまカミさんにも言ったことがある。
昨夜も同じで、寝る前にトイレに行った際、「最近、小便の時に泡が出来るんだけど・・」。するとカミさんが「それはもしかすると大変なことかも?前に言われたのでNetで見たら、糖尿病かまたは蛋白が出ているので腎臓かも・・・。そうだとしたら大変だよ・・」
気の弱い自分はドキッとしてNetで検索したら、やはり糖尿の疑い・・・!? あるサイトには「糖尿病が更に悪くなったようで、尿に細かい泡が出て消えないという典型的な症状が現れました。」という文言を見つけてドキッ!ドキッ~!!
同時に「まずは薬局へ行って尿試験紙を購入してみてはどうでしょうか?尿糖、尿蛋白とも同時に調べることができるものが売られています。」という文言も見つけた。

明日は土曜日なので近くの病院はやっているだろうが、ちょうど年末、結果は出ないかもしれない・・・。よって先ずは検査薬で自己検査か・・」と思って時計を見たらもう11時前。コンビニはやっていても、ドラッグストアはやっていない。心配になった自分に、カミさんは「とにかく明日。もし糖尿病でも、ニンジン・リンゴ・玉ねぎジュースで直そう。直ぐに薬に頼るのは良くない。一緒に頑張ろう!」と、もう本格的な病気の体制・・・
だんだん沈む自分・・・。(自分は健康に関する事が一番苦手なのだ!)

心配で眠れないかと思ったが、結局、朝起きたのが9時。つい寝てしまった・・。
早速朝一番の尿を紙コップに採って、一度見せろと言われていたカミさんに声を掛ける。そして泡を見てもらったら「もっとスゴイ泡かと思った・・。大丈夫だよ」と言う・・。
Img_23811 やはり気の弱い自分は、「10時になったら近くのドラッグストアで尿検査薬を買ってきてくれ」とカミさんに頼む。何となく自分は元気が無い・・。そして開店と同時に買ってきてもらった試験紙がこれ。(写真はクリックで拡大)
900円で10枚入っている。これはよく会社の検診で、検査会社の人が尿検査で使っているものと同じだ。試験紙を尿に1秒浸けて、10秒後に尿たん白が、30秒後に尿糖が分かるという。早速1枚取って尿に浸ける。そして10秒待つ・・・。何も変化が無い。30秒経っても1分経っても、何も変らない・・。もう一度尿に浸けてみるが同じ・・・。結局、色の変化は無かった。
「まるで水に浸けているよう・・・」コロッと変って元気になるのが自分の性分。軽口が口から出る・・。カミさんは言う。「今日のお昼はご馳走を奢ってもらおうかな・・」「いいよ、いいよ」・・・

確かにバカバカしい日常の一こま。でも時代は進んだ。体調のチョットした変化も、Netで覗くと同じように心配している人がたくさん居る。そしてそれへの対応策が幾らでも載っている。
そして心配になったら、いちいち病院に行かなくても、近くのドラッグストアで検査道具を売っており、直ぐに病院同様のチェックが自分で出来る。これはスゴイことだ。
カミさんが言うには、妊娠の検査も自分でできる時代だという。

先日、受診を止めにした健保組合の扶養家族の健診。カミさんが言う。「基礎健診だけでもやはり受けておこうかな・・・」。これが昨夜から今朝の騒動のアウトプット。

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2009年12月25日 (金)

「日本海軍 400時間の証言」~戸高一成氏の話

NHKラジオ深夜便で「インタビュー「海軍から、戦争を考える~旧日本海軍と私」呉市海事歴史科学館“大和ミュージアム”館長…戸高一成」(2009年12月8~9日放送)を聞いた。

前にNHKスペシャルで「日本海軍 400時間の証言」という番組があり(これ)、当blogでも取り上げた(ここ)。また先日、このことについて半藤一利氏らが語る「日米開戦を語る 海軍はなぜ過ったのか~400時間の証言より~」(2009年12月7日放送)も見た。
これらの元になった「海軍反省会」のテープを保管していたのが、この戸高一成氏とのこと。日本海軍について詳しい方だけに、迫力ある発言が耳に残った。少しメモしてみた・・・

・海軍反省会は、なぜ戦争が起きたのか、なぜ回避できなかったのかについて、現場の様子を伝えておかなければいけない、という認識の下、昭和55年から平成3年までに131回開かれた。
・終戦のとき、今まで戦争で負けたことが無かった日本軍は、歴史的な史料を全て焼いてしまった。米軍はそれを察知し、焼かれる事を免れた史料などを日本との戦争の研究のために米国に持ち去った。それが昭和30年代に日本に返却されて、戦争を語る貴重な史料となっている。
・戸高氏は多くの元海軍のお年寄りから話を聞く機会があったが、聞いた話が本になると、角が取れて本音が無くなる。よってナマに聞く話が本当の事実だと、気付いたという。
・海軍反省会の50回位までは(自分の上司だった)反省会の幹事の雑用係をしていたので、テープは全て自分で保管していた。この会は、生前は発表しないという前提で録音された。もし生前に発表されると、人から非難される可能性があり、そうすると本音が言えなくなるので・・。その後20年くらい経って、そろそろ発表しないとチャンスが無くなると考えた。後半の幹事をしていた人を探したら、90歳以上になっていたが健在で、残りのテープの保管も頼まれ、全部を管理することになった。
・反省会は、お互いの記憶の確認から始まり、特攻などについては、誰に責任があったのか、など厳しい指摘もあった。また反省会を通じて、自分たちは一生懸命やったのだという言い訳的なことも言っておきたい、という背景もあった。
・海軍は、天皇の参謀としての軍令部が、10人もいない体制の中で大枠の作戦命令を天皇の代理として出す。数人で、どの程度世界の情勢を把握して命令を出していたのかは疑問。当時の軍人に実践の経験者は皆無。日清・日露以来、日本は戦争らしい戦争は無かった。日露戦争の経験者は山本五十六ただ一人。だからずるずると開戦に至った。ドイツが勝つ前提で「バスに乗り遅れるな」と・・・。その時は既にドイツは衰退方向だったのに・・。
・色々な情報は軍令部に上がっていたが、人は上がってきた情報のうち、自分に都合が良い情報をピックアップする傾向があるが、軍令部もそれと同じだった。
・戦争回避を主張すると陸軍のテロに遭う危険性があるため、国の存在よりも個人の事情を優先した。
・体制的に責任の所在が不明確。軍令部は天皇の参謀として大枠の命令は出すが、現地での戦略は現場の連合艦隊が行う。よって失敗しても責任が不明確になる。軍令部は現場が悪いと思い、現場の連合艦隊は方針そのものが悪かったと思う。だから失敗を次の戦略に活かすことが出来なかった。
・真珠湾攻撃は、軍令部はダメと言ったが、連合艦隊がどうしてもやると言うので追認した。それがうまく行ったので実行部隊の発言力が強くなった。ミッドウェー海戦では、軍令部が反対したが、連合艦隊は「ダメだと言うなら山本長官が辞任する」とウソを言って意見を通した。そして次第に統制が取れなくなって行った。そしてミッドウェー海戦で空母4隻を失い、勝つ作戦は有り得なくなって講和するしかない状況になっても、もう一度やれば勝てるという夢にすがりついていた。これは日露戦争での日本海軍の完全勝利により、自分自身に無敵艦隊であると刷り込んでいたため、海軍には“負ける”という言葉が無かった。
・当時海軍は、海外に対する認識が一番高かった。それにも拘らず、海軍は開戦を決意した。この決意したこと自体が最大の失敗。失敗によって始まった戦争なので、勝ちようがなかった。
・軍は本来戦争をしないために存在する。抑止力として存在する。それなのに戦争を始めた。
・特攻作戦は、確かに志願した人もいたが、人に死ぬことを強要した悲惨な作戦。特攻の生き残りの人が言っていた。「行けと言われれば行く覚悟は出来た。しかし、ずっと待機しているのが一番つらかった。いつ行くのか分からずに毎日を過ごすのがつらかった。行くとき、命令されて直ぐに行く方がよっぽど気持ちが良かった。特攻の待機だけは耐え難い」・・
・特攻に行った人を英雄と持ち上げるのは、これを命令した人たちの責任を回避するもの。それが特攻の影の部分。
・軍は国防の組織。国防とは国民を守るための組織。それを特攻という国民を殺す作戦を立て、本末を失った。
・本当は、日本は戦争能力を失った時点で戦争を止める方向に向うべきだが、誰もそれを言えなかった。誰も負けたと言い出せなかった。
・戦争も考え方によっては国の「戦争事業」。事業が失敗したときには止めなければいけない。それを言うには勇気がいる。その勇気を誰も持っていなかった。それを誰が言ったかというと、天皇。
・特攻のとき、命令した上司は「後から俺も行く」と言って送り出した。命をかけてした約束を、終戦だからと言ってケロッと忘れて良いものか・・・
・これらの資料を公開して、海軍の関係からは感謝された。海軍の人は皆立派な人。それなのに開戦せざるを得なかった。この失敗の経験を事実は事実として認め、次の世代に活かす目的でこの反省会は開かれ、公開された。

この戸高氏の発言には、色々と異論もあると思われる。しかし、この話を聞いた自分は、何となく納得できた。戦後生まれの氏が、海軍について学生時代から仕事としてずっと研究してこられたことから、立場的に海軍に同情的かと思ったら、意外やクール・・・。間違いははっきりと間違いだと言う。半藤氏と同じく、自分の長い取材活動から導き出された言葉なので、それなりに重い。

でもひとつ思うのは、歴史は全ての事実が終わった後、それらを俯瞰しながら、棚の上に乗って色々と批評はできる。しかし、全てが現在進行形の時点で、また国民的熱狂の中で、もし自分が当事者だったら、後世から正しいと評価される行動が取れたかというと疑問だ。多くの国民と同じく“非国民”と言われるのが怖くて、付和雷同するような気がする。

先の事業仕分けで、「(仕分け人は)歴史の法廷に立つ覚悟があるのか」と指摘した人が居られたが(ここ)、これら色々な戦争の話を聞くたびに、そんな覚悟を持って行動された戦争指導者が本当に居たのか、疑問を持つ。
しかしこれら海軍の人たちは、黙っていればそれで済む話をあえてこのような形で後世に残した。それはそれで勇気ある行動なのだろう。
ともあれ、先のテレビ番組もそうだが、これらの話は自分の戦争についての良い勉強になった。

(関連記事)
NHKスペ「日本海軍 400時間の証言 第1回 開戦 海軍あって国家なし」を見て

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2009年12月24日 (木)

昭和35年の出来事(13歳)~松尾和子の「再会」

自分が生まれてから順に、その年の出来事を辿るシリーズの14回目。自分が12歳から13歳、つまり小学校6年生から中学1年生になった昭和35年(1960年)の出来事を調べてみる。
S351_2 この年は、安保反対闘争と浅沼社会党委員長刺殺があった年だ。
先ずは安保闘争だが、6月15日には全国で580万人が安保反対のデモを行ったという。そして全学連が国会に突入して警察と衝突、樺美智子さんが死亡した。これにより岸内閣が退陣して「所得倍増」と「私は嘘は申しません」の池田内閣が成立。(写真はクリックで拡大)
そして10月12日、日比谷公会堂での演説会で、浅沼社会党委員長が17歳の右翼少年に刺殺された。自分はなぜかこのとき学校から帰ってたまS35_2 たまテレビで見ていて、舞台の混乱の模様を見ていた。この時に新聞に載った写真が、その瞬間を捕らえた有名な一枚となった。メガネが外れ、ナイフが見える・・・。
明るい話題では、これに先立つ2月23日に皇太子に男子誕生(現皇太子)。

9月10日に、カラーテレビ本放送開始。我が家にもやっとテレビが入った頃だが、世は早くもカラー時代。映画では「青春残酷物語」「悪い奴ほどよく眠る」など、洋画では「太陽がいっぱい」「アラモ」等々。
歌では、松尾和子・和田弘とマヒナスターズの「誰よりも君を愛す」、橋幸夫の「潮来笠」、フランク永井の「東京カチート」、三橋美智也の「達者でナ」等々。
今日は、昭和35年(1960年)9月に発売になった、松尾和子の「再会」を聞いてみよう。いわゆるムード歌謡の代表曲だ。こんな味わいのある歌は、もう出て来ないだろうな・・・

<松尾和子の「再会」>

「再会」
  作詞:佐伯孝夫
  作曲:吉田 正

逢えなくなって 初めて知った
海より深い恋心
こんなにあなたを 愛してるなんて
あゝ鴎にもわかりはしない

みんなは悪い 人だと云うが
私にゃいつも 良い人だった
ちっちゃな青空 監獄の壁を
あゝ見つめつつ ないてるあなた

仲良く二人 およいだ海へ
一人で今日は来た私
再び逢える日 指おり数える
あゝ指さきに 夕陽がしずむ

もちろん、当時自分がこの歌を聞いたかどうかは忘れてしまった。でも歌詞は別にして、しっとりとした吉田正の旋律は心に沁みる・・・。歌詞から想像すると、お相手はヤクザなのかな・・・?

自分もこの年に中学に入学した。小学校高学年から中学にかけて「ラジオ」に熱中した事Image03991_2 は前に書いた(ここ)。
でも小学校5年生で茨城に引っ越してから子供部屋が出来、自分の机を持てた事は、自分の人生にとって非常に大きな出来事だったと今でも思う。3畳の部屋に兄貴と自分の二つの机。自分の机の周りを敷布のカーテンで仕切った。まさに“自分の城”だった。そこで自作のラジオで短波放送Image04021_2 を聞いた。そう言えば、ジューという半田ごての臭いに、カーテンの向こうの机で受験勉強中の兄貴からいつも「臭い!」と怒鳴られた。まあ今思い出しても、狭い部屋なので怒鳴られるのも仕方がなかったかな・・・。
狭いながらも楽しい“自分の城”であった。

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2009年12月23日 (水)

「親子で楽しめる科学館ベスト10」

今日の記事とは関係ないが、今朝の朝日新聞多摩版に、高尾山頂から見た「ダイアモンP10604021 ド富士」の写真が載っていた。富士山の山頂に夕日が沈んで行くのを「ダイアモンド富士」と言うのだそうだ。この写真は、昨夕、カミさんが近くの公園から撮ったもの。富士山の山頂からではないが、まあニアミスの「ダイアモンド富士」だね・・(写真はクリックで拡大)

さて、当blogが凝っている“ベストテン”。今日は「親子で楽しめる科学館ベストテン」である。
先日の日経新聞の「何でもランキング」に「親子で楽しめる科学館ベストテン」が載っていた。それによると、・・・

<親子で楽しめる科学館ベスト10>
①国立科学博物館(東京都台東区)   573
②日本科学未来館(東京都江東区)   465
③鉄道博物館(さいたま市)        240
④滋賀県立琵琶湖博物館         216
⑤はまぎんこども宇宙科学館(横浜市) 132
⑥ミュージアムパーク茨城県自然博物館(茨城県坂東市)120
⑦名古屋市科学館(名古屋市)      114
⑧リスーピア(東京都江東区)       111
⑨静岡科学館る・く・る(静岡市)      108
⑩JT生命誌研究館(大阪府高槻市)   102
(2009/12/19日経新聞s3より)

Image03971 このランキングは専門家の評価だという。自分は、上野の科学博物館だけは昔子供を連れて行ったことがある。でもそれ以外には行ったことはない。
それにこれからも一人で行くにはおっくうなので、まあ「ま*」でも出来たら連れて行く事にして、いつものようにこのblogをメモ代わりに記しておくことにしよう。

記事を読んでみると、宇宙モノが多い。やはり子供の憧れは宇宙か?
一昨日(12/21)、ロシアのソユーズ宇宙船で国際宇宙ステーションに向けImage03961て、野口聡一宇宙飛行士が旅立った。5ヶ月の長期滞在だという。その野口さんは小学校1年生の とき、既に将来の夢をつづった文集で「ロケットのそうじゅうしになりたい」と言っていたという。(ここ

これは、子供はたった6~7歳で人生の方向を決める可能性があるというで、ある意味“怖いこわい・・・”
だから親は子供に色々な世界を見せておく必要がある。0912noguchi子供は色々な世界を知ることによって、人生の選択肢が増える・・。
一方、前に「インドのカースト制度」(ここ)という記事を書いた。カースト制度では「生まれながらに職種が決まっており選択の余地はほとんどない。一生失業することがないのが一分の利なのかもしれないが、一生低い賃金に甘んじなければならない。」という。子供の頃の夢を実現した野口さんとは180度違う世界だ。
でも子供はあらゆる可能性を持っている。それらの芽を開花させるキッカケにするためにも、博物館めぐりもまた良いかも・・・・。孫でも連れて・・・

何?自分?・・・
小学校のときに“自分で”渋谷のプラネタリウムに行ったっけ・・・。自分も色々な世界に憧れだけはあったが、所詮“石炭”・・・。磨いてもダメなものはダメなのさ・・・。それでこうなっちゃった・・・!?
沈んで行く夕日(の写真)を見ながら、人生の限界を知って、何となく寂しくなるエムズくんではある・・・。

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2009年12月22日 (火)

「2009年名前ランキング」

今日は冬至。今朝も寒かった・・・。昨夜、暖房の予約を忘れてしまい、今朝起きたときの居間の温度は10℃。外気は零下1℃を下回っていた。寒ウ~・・・・

今朝の日経新聞のコラム「春秋」にこんな文があり、懐かしかった。
「・・・道端のたき火を見かけなくなって久しい。環境や健康への配慮から、東京都が原則禁止の条例をつくったのが10年前。人と物がひしめく都会で煙を上げれば、たしかに迷惑だろう。集めた落ち葉は、運び去るのがエチケットとなった。それでもどこかから木が焦げる香りが漂うと、懐かしい冬の記憶がよみがえる。
学校の帰り道、垣根の曲がり角でたき火を見つける。北風がぴいぷう吹いている。あたろうか、あたろうよ。子供たちが相談するのは、暖かさに慣れると立ち去り難くなると知っているからだろう。知らない大人に交じって手をかざす。黙っていても仲間のような気がしてくる。そんな優しい力がたき火にはある。・・・」(日経新聞「春秋」2009/12/22より)

そうか・・・、東京ではたき火が禁止なんだって・・! そのせいか落ち葉があってもたき火は見なくなった・・・。
話は変わるが、確か自分が子どもの時、小学校に上がる前に最初に覚えた歌が「たきび」だった。「かきねの かきねの まがりかど たき火だ たき火だ 落ち葉たき・・・」。幼稚園にほとんど行かなかった自分が、何故小学校の入学前にこの歌を教わったのか、実に不思議なのだが・・・・

年末になると、この年に生まれた子供の名前ランキングが発表される。今日も明治安田生命のランキングが新聞に載っていた。そういえば先日の朝日新聞「天声人語」に次のような記事があり、なぜか頭に残ってしまった。
「昭和も半ばまで、女の子は大抵「○子」だった。この習いを破ったのが明美である。明治安田生命によると、1957(昭和32)年生まれで10傑に入り、65年に首位となった。真由美、由美、直美が続き、「○美」がひと時代を築く。
名は世に連れ、世は名に連れ。73年に千昌夫さんが歌った「アケミという名で十八で」(西沢爽作詞、遠藤実作曲)の女性も、明美が広まる頃の生まれとなる。以後、愛や美咲の天下を経て、ここ10年ほどは百花繚乱だ。
ベネッセコーポレーションが09年生まれの名を調べたところ、女の子は凛(りん)、さくら、陽菜(ひな)。男の子は大翔(ひろと)、翔太、蓮(れん)の順だった。男児は元気、女児は優しさを願っての命名が多いという。
目新しい名前も、秀作であれば盛んに使われて普通になる。わが子を同世代に埋没させまいというのか、七音(どれみ)、一二三(わるつ)、騎士(ないと)など、謎かけのような工夫が話題を呼んだこともあった。思いがこもり、個性的かつ簡明な一つを選ぶのは楽ではない。
東京で見た声欄に、埼玉県の森まりもさん(17)の投書があった。逆から読んでも「もりまりも」で、小学生時代は面白がられたそうだ。母親に尋ねたら「回文を狙っていた」とのこと。今は愛着がわき、自己紹介でも触れるが、名づけは背負う子のことも考えてと訴える。
まりもさんの言う通り、姓は変わっても名は一生だ。後々、持ち主に笑顔で説明できる作でありたい。それを笑顔で聞ければ、すなわち良い名前ということだろう。親心が並ぶランキングを眺めながら、どの子にも幸あれと願う。 」(朝日新聞「天声人語」2009/12/20より)

091222namae ふと、ベネッセ(←写真~ここ)と明治安田生命のホームページを覗いてみた。中でも明治安田生命の「生まれ年別名前ベスト10」が面白い。(写真はクリックで拡大)
男性では(ここ)一文字の名前が多い時代が長かったとは知らなかった・・・。昭和8年にベストテンが全て一文字になり、昭和34年まで一文字時代が続く。まさに自分の子供時代そのもの・・。自分の印象では二文字の名が多いとばかり思っていたが・・・・
女性では(ここ)、天声人語の通り大正10年にはベストテンが全員「○子」。その時代が昭和35年まで続く。
そして昭和32年にベストテンに「明美」が登場して「○子」時代に穴が空き、昭和48年にはベストテンで「○子」は初めての過半数割れの4つ。そして昭和60年の「裕子」を最後に、ベストテンから「○子」が消えた。それからは混戦模様で我々シルバー族には理解が難しい(?)状況が続いている。

毎年恒例だが、この手の話題を聞くたびに、“へえ~、今の子供の名前はこうなんだって~~”とビックリする。つまり、我が家は時代に完全に乗り遅れている・・ということ。
だいたい今の子供の名をまともに読めない自分は、論ずる資格など無いのだが、この天声人語にあった「七音(どれみ)」「一二三(わるつ)」「騎士(ないと)」ちゃんには絶句・・。シルバー族には、どう読んでも「しちおん」「ひふみ」「きし」としか読めない。“ワルツちゃん”は、略して“ワルちゃん=悪ちゃん?”・・・・

つくづく思う。子供は親の私物だろうか?
今朝の新聞に、“鳩山首相は子ども手当に所得制限を設けない”、と載っていた。これを機に、これからは段々と“社会全体で子どもを育てる時代”になって行くのだろう。
それだけに社会全体から期待される“子育て”。そのスタートが“名付け”だ。
これから親になる若い世代には、ぜひ真の子どもの将来を見据えた名付けを期待したいものだが、これとてシルバーのグチなのだろうか・・・

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2009年12月20日 (日)

フルトヴェングラーの「運命」~1947年5月25日と27日の演奏の違い

たぶん、世界で最も有名なベートーベンの「運命」の演奏会は、1947年5月25日から29日にかけて、フルトヴェングラーの指揮、ベルリン・フィルの演奏で行われたものだろう。その歴史的背景を少し確認しておこう・・・・
「1945年5月9日、ドイツ政府は降伏文書に署名。終戦となった。そして5月28日にはベルリン・フィルが戦後第一回目の演奏会を開いた。そしてフルトヴェングラーが戻るまで指揮をしたのが、弱冠当時33歳のチェリビダッケ。
フルトヴェングラーは1945年1月23日にベルリン・フィルを指揮したのが戦中最後の演奏会となった。ヒトラー暗殺未遂事件への関与で逮捕寸前だったが、1月25日ウィーンでのコンサートの為にウィーンに脱出。そして2月7日スイスに亡命。そして2月23日のヴィンタートゥーア管弦楽団を指揮したのが、戦中最後のコンサートになった。
フルトヴェングラーはカラヤンのようにナチに入党はしていなかったが、ナチ政権下のドイツ第三帝国の宣伝塔としての役割を充分に果たしていたことは疑いようのない事実だった。が、それは結果論であり、彼が意識的にナチの利益のために行動したわけではない。彼がユダヤ系音楽家たちを擁護していたのもまた事実だった。
フルトヴェングラーがオーストリアで無罪宣告を受けるのは1946年3月初めだった。しかし連合国としては結論を出していなかった。当時、彼のベルリン復帰に反対していたのはアメリカ軍だった。逆にソ連軍は早く復帰させたがっていた。1946年12月、ベルリンでフルトヴェングラーの非ナチ化審理が始まった。そして法廷尋問のリハーサルを行い、想定問答をフルトヴェングラーに教えたのがチェリビダッケだった。1946年12月21日、無罪が言い渡されたが、連合国側が承認しなかったため演奏活動への復帰はすぐには実現しなかった。そこにはアメリカ軍の消極的な姿勢があった。その遅れに対し、フルトヴェングラーは、悪いことをしたという意識が全くなかったため、被害者意識だけがあった。
フルトヴェングラーは、戦後初のコンサートはベルリンで、ベルリン・フィルと行いたいと希望していたが、食うためにローマでの演奏を決意し、1947年4月6日、フルトヴェングラーはローマで2年ぶりの指揮台に立った。この話がベルリンの連合国司令部に伝わると、フルトヴェングラーの無罪が急に正式決定する。1947年4月27日のことだった。(以上、ポイントを下記より引用)」

「フルトヴェングラーの復帰コンサートが5月25日に行われると発表された。それは聖霊降臨祭の日曜日でもあった。かつてのベルリン・フィルの本拠地であるフィルハーモニー楽堂は空襲で破壊されていたので、映画館だったティタニア・パラストが会場となった。プログラムはベートーベンの曲だけで構成され、「エグモント」序曲、交響曲第6番、第5番だった。切符はすぐに完売し、ダフ屋が横行し、なかにはお金だけではなく、家具や電器製品をつけて、ようやく入手した観客もいた。
5月25日、ティタニア・パラストは開演前から異常な熱気に包まれていた。切符を正規のルートで買えた幸運な人、ダフ屋に法外な金額を払って入手した裕福な人、家具を手放してでも聴きたいと思った熱狂的な人・・・・2000人の観客は、その時を待った。
オーケストラがステージに揃い、その瞬間がやってきた。長身のフルトヴェングラーを、オーケストラの団員は起立して迎えた。観客は総立ちとなった。拍手、歓声、まだ一音も発せられていないのに、まるで世紀の名演を聞いた後のようだった。演奏前がこうなのだから、終演後の拍手喝采はもっと凄まじいものとなった。終わった後の観客の熱狂ぶりは凄まじく、永遠にこのホールから帰らないのではないかと思えるほど長く、15分以上にわたり拍手が続き、指揮者は16回、指揮台に呼び出された。・・・同じプログラムで、翌26日も、そして27日、29日と開かれた。・・」(中川右介著「カラヤンとフルトヴェングラー」p159より

(2010/07/18写真追加)~ティタニア・パラストでの復帰コンサートの模様
(ドイツ EIKON Media 2007年制作「帝国のオーケストラ~第2次大戦下のベルリン・フィル~」より)~写真はクリックで拡大

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この時の演奏会の録音は、5月25日の初日は交響曲第6番と第5番が、そして27日はエグモント序曲と交響曲第5番が残されているという。先日、ふとこのコンサート初日の25日の演奏と、有名な27日の演奏を聴き比べてみる気になった。そこで先日オークションで「TAHRA FURT1016」という25日録音盤のCDを手に入れて聞き比べてみた。
まず初日の演奏会から・・・

<フルトヴェングラー/ベルリン・フィル 1947年5月25日の復帰初日のライブ録音>

次に定評のあるコンサート3日目、5月27日の演奏。今回は、次に定評のあるコンサート3日目、5月27日の演奏。今回は、DGの擬似ステレオで聴いてみよう。(詳細はここ)(オリジナルのモノ音源はここ

<フルトヴェングラー/ベルリン・フィル 1947年5月27日の3日目のライブ録音>~DGによる擬似ステレオ

結論から言って、25日盤はほとんどCDが無く、27日盤が売れている理由が分かった。
この時の演奏については、(ここ)の研究のように、非常に良く分析されているが、それとは別に素人の観点で勝手なことを書いてみる。

まず同じ会場。同じ環境で録音したにしては、音場が違う・・・。特にティンパニの音が違う・・・。Netで調べてみると、27日は「この歴史的復帰演奏会の3日目の場所は、従来は「ティタニア・パラスト」となっておりCDにもそのように記載されている。しかし、近年の研究により、27日の演奏会は「ベルリンのイギリス占領地区にあるソ連管轄の放送局」に聴衆を入れてのライヴ録音と訂正された。これはマズーレンアレーにあった戦前の帝国放送局のことである。」とのこと。(出典はここ) つまり、25日と27日は会場が違った?

よって録音環境(マイクの位置など)が違うせいか、音が全く違う。27日盤はフルトヴェングラーが足でリズムを取るクツの音がはっきりと入っているが、25日番では入っていない等・・。
そして、この演奏(録音)で非常に印象的なティンパニの音。27日盤は“ドロドロ”というように不明瞭に聞こえるが、25日盤は“パンパン”というように乾いた音に聞こえる。これはマイクの位置の違いか、それとも会場の残響の違いだろうか?
それに25日盤はテープヒスなどの雑音が見事に消されており、そのためか、会場の咳などの雑音が気になるほどに聞こえる。

演奏では、まず最初の「“ズ”ジャジャジャジャーン」だが、この低音が一足先に出る「ズ」について、あるNetの記事には「フライング」とあったが、25日の演奏も同じだ。・・という事はフルベンの確信犯だ、と言うことだ。この“ズ”は自分が子どもの時に聞いて以来耳に残っており、この演奏の非常に大きな特徴となっている。
もちろんこの両者、演奏のスタイルは同じ。でも自分の印象では、25日盤は指揮者とオーケストラがまだ不慣れで緊張感があるように感じた。反面、27日盤は“もう楽譜なんか見ないで、オレの言う通りに演奏しろ”というように、勝手と言うと失礼だが、自由に演奏している。よく「フルベンのライブならではの即興性」と言われているが、表現は悪いが27日盤は実に“ノッている”感じ。もう3日目・・・。お互い相手を分かってしまって、ノリに乗ってベートーベンの楽譜なんかそっちのけで、思う存分気分のままに演奏しているような感じがした。その結果が、場所場所でテンポが自由に変わる不思議な演奏になっている。
ふと昔、小泉首相が「郵政解散」をしたときの「国民に聞いてみたい!」とテレビで演説した時の熱弁を思い出した。本人も後に、あれだけの熱弁はもう出来ない、と言ったそうだが、27日の演奏はそれと同じように、二度と再現できないノリに乗った演奏なのではないか?

前にも書いたが、この27日の演奏のCDは色々なものが出ているが擬似スレテオ盤がない。Netでみると「独DGの擬似ステレオSLGM-1439」があったようだが、CD化されていないようだ(ここ)。
そこで見つけたのが、上記のantonさんの作成による音源。素人でもここまで出来るとはオドロキ。もちろんノイズも増えて、人によっては評価が得られないだろうが、自分に取ってはモノよりもよっぽど聞き易い。

とにかく、5月27日の録音は、クラシックレコード界の永遠の宝だという事を再確認した。
この盤、ピュアな音を追求されるのも良いが、ステレオ化も捨て難い。GDの擬似ステレオのCDが何とか発売されると良いのだが・・・

(関連記事)
フルトヴェングラーの「運命」聴き比べ
フルトヴェングラーの「運命」~擬似ステレオの音

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2009年12月19日 (土)

江利チエミの「酒場にて」~雪村いづみの話

NHKラジオ深夜便「こころの時代」で「幕が下りるまで歌う〜ひばりとチエミと私」という雪村いづみさんの話を聞いた(2009/12/13放送)。72歳という年齢とは思えない若い声、“7キロも太っちゃってドレスが着られなくなっちゃった”とコロコロと笑う明るい声にアナウンサーもたじたじ・・。
三人娘と言われた江利チエミが28年前に45歳で、美空ひばりも20年前に52歳という若さで他界し、今はこの二人の歌も歌いながら、元気にコンサート活動などをされているとのこと。雪村さんは映画「そうかもしれない」でも分かるように、女優としての評価も高い。
前に書いた(ここ)が、雪村いづみさんの「約束」という歌はドラマチックで心に残る歌だった。しかし自分は、雪村いづみさんの歌は、この曲しか知らない。

それで今日は、親友だったという江利チエミの「酒場にて」を聴いてみよう。この歌は1974年(昭和49年)の発売だという。でも自分が聞いたのはほんの10年位前か・・・。

<江利チエミの「酒場にて」>

「酒場にて」
  作詞:山上路夫
  作曲:鈴木邦彦

好きでお酒を 飲んじゃいないわ
家にひとり帰る時が こわい私よ
あのドアを開けてみたって
あなたはいない
暗い闇が私を 待ってるだけよ
また長い夜をどうして すごしましょう
愛の香りも 消えたあの部屋

どうぞお店が 終わるときまで
ここにおいてひとりだけで 飲んでいるから
死ぬこともできず今でも
あなたを想い
今日もひとり酒場で 泣いてる私
また長い夜をどうして すごしましょう
愛の香りも 消えたあの部屋

死ぬこともできず今でも
あなたを想い
今日もひとり酒場で 泣いてる私
また長い夜をどうして すごしましょう
愛の香りも 消えたあの部屋

今改めて見てみると、この歌の作詞は山上路夫、作曲は鈴木邦彦だという。このゴールデンコンビの歌は、自分が若い頃に良く聞いた。なるほど、やはり自分が好きになったワケだ・・・、と今頃納得した。

何度も書いているように、自分がある歌にフィットするかどうかは、その歌の歌詞よりも旋律。だからこの歌も、この旋律に何とも言えない魅力を感じたもの・・
歌詞を今改めて読んでみて、つい江利チエミの死についてWikipediaを見てしまった。Wikipediaにこうある。
「若すぎた突然の死
1982年(昭和57年)2月13日午後、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上で、うつ伏せの状態で倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息によるもので、45歳という短命だった。風邪で体調が悪かったところに、ウィスキーの牛乳割りを呷り、更に暖房をつけたまま薬を飲んで寝入ってしまったのが原因といわれる。」(Wikipediaここより)

この状況を念頭にこの歌を聞くと、何か悪い予感を感じさせる。Wikipediaにも「栄光の陰になぜか「不幸」がつきまとう波乱の生涯であった。」とあるように、結局ひとりぽっちで死んだ・・・。

先日、昔の会社の仲間の「AVS会忘年会」なるものが銀座であった。当日出席された元営業部長のTさんが、88歳という高齢にも拘らず、かくしゃくとした生活ぶりの話をされていた。「朝6時に起きて体操をして、午前中は散歩、写経をして・・・。そして寝るときは夫婦で床を並べて・・」・・と。強調されていたのは、“寝るときは床を並べて寝るべき”。それは、Tさんのある知人が朝になって冷たくなって発見されたことがキッカケとか。その知人も、二人で寝ていれば一人で死ぬ事は無かっただろうに・・・・と。

世は“結婚しない社会”にまっしぐら。ウチの息子の事を棚に上げて自分には言う資格が無いかも知れないが、世の若者は家庭だけは持って欲しいと思う。
“また長い夜をどうして すごしましょう”という歌詞ではないが、愛とか恋とかいう言葉は別にして、家庭が無いために一人ぽっちで死んで行く悲しみだけは味わって欲しくないと思うので・・・

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2009年12月18日 (金)

「便秘とガンは関係があるか?」

雑誌「大法輪」(2010/1号)に「医は仏道」という連載があり、「便秘とガンは関係があるか?」というテーマの記事があった。曰く・・・

食物繊維とガン
  浜松医科大学名誉教授 高田明和
・・・・
便秘を引き起こす病気に、「巨大結腸」という病気があります。これは直腸の壁の神経細胞が欠損していて、腸管が便を排出させることができない病気です。大腸の下部は非常に大きくなり、便秘が長く続きます。このような病気の人は、当然ガンになりやすいはずなのに、ガンの発症率は高くないことが知られていました。このようなことから、便秘は大腸ガンの発症率を増さないのではないか、という意見も出されていました。
最近、厚労省の研究班と群馬大学の研究者が、全国6府県で、40から69歳の男女約6万人を、1993年から平均7年間追跡して、便通と大腸ガンの関係を調べました。すると、便通が週2~3回の人と、日に2回以上の人や毎日1回規則的にある人との間には、大腸ガンの発症率に差がなかったのです。
では、食物繊維はどうでしょうか。下の表に示すように、欧米の研究では、食物繊維の摂Image03951 取と大腸ガンの間に関係はないことが示されています。また、最近、兵庫医大で、45歳から65歳の大腸の早期ガン、良性腫瘍の男女に、脂肪摂取を減らすように指導し、さらに、別のあるグループには小麦のふすまを含むビスケットを毎日食べさせ、別の群には乳酸菌製剤を多く食べさせました。第三のグループでは、乳酸菌製剤とふすま入りのビスケットを多く食べさせたのです。
まず、食物繊維摂取の効果ですが、腫瘍全体で見ると、繊維を摂取してもしなくても、ガンになる危険率に変わりはなかったのです。乳酸菌製剤も、全体としては関係なかったという結果になりました。
野菜や果物を多く摂ると、ガンの発症率が減るという研究成果もあります。その理由の一つは、βカロチンをいう物質が緑黄野菜に多く含まれ、それがガンの発症を予防するということ、もう一つは繊維は腸管によい刺激を与え、便通をよくし、発ガン物質の貯留を減らすということです。
しかし、後者の効果は否定されてきています。野菜、果物は、さまざまな点で健康によい効果をもつことは事実です。しかし、それは総合的によいということで、便秘を防ぎ、発ガン物質の排出を高めるという意味ではないのです。
じつはこのことは、サプリメントとしての健康食品の摂取にも重要な意味をもちます。βカロチンでもビタミンEでも実験動物にはガン抑制の効果があり、それを含む食材を摂ると、ガンの発症が減少することが示されています。ところがそれをサプリメントとして摂取すると効果がない、時には有害なこともあるという結果になることがしばしばです。
・・・・
便秘は、たしかに気分のよくない状態でしょう。しかし、これが体に悪く、すぐに外に便を出さないと大変なことになると考えること自体が体に悪いのです。
便は出した方がよいけれど、少し便秘気味でもガンなどにはならないのだと考え、気楽にしていることが私たちをかえって健康にするのです。」(「大法輪」2010/1 p210より)

実はこの話題には、我が家はあまり縁が無い。どちらかと言うと出過ぎる方なので・・・
でも最近は我が家でも便の話が多くなってきたように思う。「今日も便がちゃんと出た・・」「今日は二日分も出た・・」なんて。その主人公はメイ子という我が家の愛犬・・・。
この犬を飼いだした最初の頃、少し吐いたのでビックリして獣医さんのもとに駆け込んだら、「人間と違って犬は自分で調整するので、そんなに心配しなくてよい」と言われてしまった。でも、やはり気になる・・・
人間は多少調子が悪くても、まあそんなものか・・・と眺めていられるが、犬の場合はたった3kgと、とにかく小さいので急変が怖い。

おっとっと、今日は犬の話では無かった。
昨日、健保組合からカミさんに扶養者健診の通知が来た。当然受ける前提で話をしていたが、今日になってカミさんが「ささいな変化なのに指摘されると、かえって気になって良くない」と言い出し、結論は「検診なんか、や~めた」

前に「ピンピンコロリ~「緩和医療」大津秀一医師の話」(ここ)という記事を書いた。出来るだけ長く健康な状態を保ち、もし「その時」が来たら、さっさと苦痛なく死ぬ・・・なんて、そう上手くは行かないだろうが、でも理想はこれだ。
その観点からすると、「検診は受けない」。人間も動物。だからイザという時は自分で気が付くはず。もしその時に手遅れだとしても、それが寿命さ・・と達観する。
・・・なーんて出来ないとは思うが、理想だよね・・・・

上の記事で言っているのは、些細なことにくよくよせず、大らかに生きろ。という事か・・・
それにしても「考えること自体が体に悪いのです」という言葉が好きだな・・・。自分も若い頃は、何かあると直ぐに病院へ直行したもの。それが最近は新聞で病気の記事があっても目をそらす・・・。自分のこの変化・・・。
基本は常に忙しくして、体調以外のことを考えるようにしておけば、病気には罹らない・・・かな?(←やはり“生涯現役”が一番手っ取り早いな・・・)

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2009年12月17日 (木)

「法相宗」が説く仏教的生き方

雑誌「大法輪」(2010年1月号)の「各宗派が説く仏教的生き方」という特集。その「法相宗」の項目に、以下のような記述があった。

法相宗が説く仏教的生き方
    奈良・薬師寺執事長 村上太胤
法相宗が説く「仏教的生き方」を考えた場合、第一にそれは人間追求の教えだということです。人間の心理を凝視し、そのこころを省察して実体をとらえ、そこに救いや悟りを模索するという探求を軸とした仏教心理学だということです。・・・・
「転依(てんね=依り所を転ずる)」とは法相宗の教えの眼目ですが、自分自身の殻の中でしか生きられなくなっている人々に、自分を変えていく意義と意味を教えています。物質やお金が最高と思わない訓練により、人間は変わることができるはずです。自分の欲望のためだけに生きるのではなく、周りの人達を幸せにしてあげたいと願っていると、自分の欲は気にならなくなります。・・・・・・こころの持ち方を変え、悩みや苦しみと向かいあい、変えられない、変わらない自分のこころを認識し自覚する所から「転依」はスタートするのではないでしょうか。
法相宗の教えは、煩悩にとらわれている自分に気づいて自分を変えていこうと努力することだと思います。自分に役立つか、立たないかという損得の価値ではなく、先祖や仏さまとつながって生きていると感じ、大きな慈悲に包まれて生かされていることに感謝し、仏さまの教えに基づく価値に転換していくことが「転依」の教えだと思います。・・・・
法相宗の教えでは、第七末那識(まなしき)という自分でも気づかない所で、自己中心の無意識の働きに左右されていると説きます。・・・・
法相宗の修行とは、常に煩悩にとらわれている自分に気づいて、自分のこころを変えていこうと努力すること、つまり末那識を修正して人間の成長を目指す中で、末那識を超える努力を続けることにあると思います。
・・・・・
私は聖徳太子の十七条の憲法の中の「共に凡夫であるのみ」という言葉に惹かれるのです。・・・・・「共に凡夫」と思う心を持つことで、少しでもこころを軽くする、人生の最後は神仏に任せていこうという謙虚さと強さを身につけることを考えたいものです。」(「大法輪」2010年1月号p64より)

091217 法相宗の歴史は古く、初祖はかの玄奘三蔵であり、日本では飛鳥時代から続く最古の宗派であるという。そして現在は(先日展覧会があった阿修羅像の)興福寺と薬師寺が本山だという。そして、法隆寺や清水寺も元は法相宗だったとか。(写真はクリックで拡大。出典はここ

その薬師寺のサイトにこうある。
「この宗の特徴は阿頼耶識[あらやしき]、末那識[まなしき]という深層意識を心の奥にあるということを認めているところにあります。・・・。つまり私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、十人の人間がいれば十の世界があるということです。みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。しかしそれは別々のものである。例えば、『手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池』という歌があります。旅行客が猿沢の池(奈良にある池)の旅館で手を打ったなら、旅館の人はお客が呼んでいると思い、鳥は鉄砲で撃たれたと思い、池の鯉は餌がもらえると思って集まってくる、ひとつの音でもこのように受け取り方が違ってくる。一人一人別々の世界があるということです。」(薬師寺HP(ここ)より)

なるほど・・・・・・
スタンスが実に素朴な原始仏教のようで、心にスッと入ってくる。実にサラッとしている。しかし言葉は単純だが、目指すところが如何に難しい境地か・・・。
自分も還暦が見え出した頃から、今後のシルバー世代をどう過ごすか・・・、という命題のもと、仏教の本を読んで色々とヒントを貰った。しかし、相当な数の本を読んだが、読んだだけで流れてしまい、それらを身に付ける事が如何に難しいかを“悟って”しまった・・・!

薬師寺の「手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池」という歌も面白いが、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」ということわざもある。まあこうやってメモに残して行くのも、それの一つかも・・・

「物質やお金が最高と思わない・・・・。自分の欲望のためだけに生きるのではなく、周りの人達を幸せにしてあげたいと願って・・・」という境地は、自分にとってみると遥か彼方の境地。写経ではないが、せめて「書く」ことによって、物欲から脱皮した精神的満足の世界に、少しでも近付きたいと思う“凡夫の”自分ではある。

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2009年12月16日 (水)

フルトヴェングラーの「運命」~EMIの擬似ステレオの音

最近、フルトヴェングラー指揮のベートーベンの「運命」に“また”凝っている。
先日フトしたことからフルトヴェングラーの「運命」の擬似ステレオの音を聞いて、またまたフルベンの「運命」に惚れ直した。これはEMIの録音による1954年盤だ。
考えてみると、フルトヴェングラーの「バイロイトの第九」や、「エロイカ(英雄交響曲)」は昔からEMIの擬似ステレオ盤があって、自分も40年前、学生の頃に黄色い半透明のLPレコードを買った。フルベンの「運命」も色々あるが、この1954年盤はEMIの録音だ。だから同じような擬似ステレオ盤があってもおかしくないわけだが、今まで聞いた事がなかった。少し聴いてみよう。

<フルトヴェングラーの「運命」~ウィーン・フィル>1954年録音・擬似ステレオ盤

当サイトのカテゴリのトップに「01)「運命」冒頭聞き比べ49種」ここ)と掲げてあるように、「運命」については子どもの頃から特に思い入れがある。
特に、ご多分に漏れずフルトヴェングラー指揮の「運命」は別格である。
もちろん絶品は1947年5月27日盤だが、晩年、まさにフルトヴェングラーが亡くなる年に録音されたウィーン・フィルとのEMI盤も、なかなかのもの。とにかく音が良い。

しかしこの擬似ステレオ盤については、世の中の評価はどうも得られていないようだ。EMIの擬似ステレオ「ブライトクランク盤」については、前にも「第九」で同じようなことを書いた(ここ)。
確かにピュアな音質に拘る視点からすると、オリジナルな音質を操作するので当然ピュアさは消えてしまう。でも自分のように、音像が中央に固定してしまうのに違和感を覚える場合もある。当然個人の好みの問題だが、自分は幾ら擬似でも、ステレオの音が好きだな・・・。

この録音だが、確かに晩年のフルトヴェングラーは1947年盤のような“物すごさ”はない。でもやはりフルトヴェングラーだな・・・という演奏。(ちなみに(ここ)にフルベンの5種類の録音を並べてある)
あまりに月並みではあるが、“やはり「運命」はフルベンだな・・・!”

(関連記事)
フルトヴェングラーの「運命」冒頭の聞き比べ
バイロイトの「第9」の、バイエルン放送の録音
フルトヴェングラーの「運命」:独グラモフォンの疑似ステレオ盤

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2009年12月14日 (月)

ローマ、マドリードの個人旅行ノウハウ集~「アホな海外旅行紀行記」

“アホ”と言っても、自分が言っているのではない。書いた本人が言っているのだ。
先日突然、高校時代の同級生から「マドリッド紀行の件」というメールが飛び込んだ。何かと思うと、先日、高校の卒業年次の東京地区での同窓会があり、そのメンバー向けにKさんが毎年紀行文を送っているとの事。たまたま今年、自分のアドレスも登録されたため、一緒に送って頂いたことが分かった。
添付ファイルのWordを開くと、何と写真付き26ページの大作。まあヒマなときにでも読むか・・・と少し読みだけ始めたら、これが意外と面白い。まさにドキュメンタリー!
何が面白いかって??“人の不幸は蜜の味”なのさ・・・・

送ってもらった「マドリッド、グラナダ&ローマ紀行」によると、(2009年)10月8日(木)から、14日(水)まで、(たぶん還暦過ぎの)囲碁仲間の3人で、5年間勉強したスペイン語の試し打ちも兼ね、費用17万円の予算で、ローマ経由スペインのマドリード、グラナダに旅行されたとのこと。(筆者はマドリッドだが、自分の記憶はマドリード!)しかし、奥さんや出産で帰っていた娘さんは、生まれてくる赤ちゃんの為、新型インフルエンザ怖さに反対されたとか・・・。でも、「“信じられない!”“もう、ズ~と帰って来なくていいです!”と猛反発を食らったが」それらを振り切って出発!!まあ家族にしてみると、オヤジなどはどうでも良く、赤ん坊の方が心配なのは良く分かる・・・
だから“それ見たことか!?”と始まったKさんの「不幸」!!それを順を追って羅列してみると・・・・

1)10月8日、成田に向けて出発するも台風の影響で中央線が動いていない。(あの日は関東地方のJRは全面ストップだった・・)先に着いていた1人が13:20発の飛行機を13:30まで引っ張ってくれたが、空港に着いたのが13:35~40頃で飛行機は飛び去ったあと・・・。仕方なく、上野まで戻って囲碁で時間をつぶし、養老の瀧で出発前の祝い酒。
<教訓1.台風等気象異常時等の場合は、空港、特に国際線は、通常の2倍以上の時間的余裕を持って行くべし。>

2)成田からローマ経由スペインのマドリ-ドに夜の12時過ぎに到着。地下鉄でホテルまで行こうとしたが「不用意に、地下鉄に乗り込んだ瞬間、KHさんが、“やられた!”との叫び! どうしたと聞くと、目の前のポシェットのチャックが開けられており、“パスポートとeチケットをいれたビニール袋を取られたとのこと!」「中東系の男女の3、4人のグループとかで、我々と一緒に乗り込み、瞬間的にスって降りて行ったらしい。」
<教訓2.危険と言われている国の夜の地下鉄は、絶対に乗らないこと。(マドリッドの昼は、お巡りさんが大勢いるので地下鉄も安心そう。)>
<教訓3.貧乏人の格好をしていれば、ドロボーも近づかないという私のジンクスも、これで、破れ、世界には、貧乏人からも奪う奴がいることを銘記すべし。>

3)やっとホテルにたどり着いたら「我々の部屋は、既にキャンセルされていて、部屋は無いとのこと!」「昨日は、来なくてキャンセルだし、今日も、“朝に電話が無いのでキャンセルした”との・・・話は、もっともなので、反論のしようが無い。」
<教訓4.夜遅くなる場合は、予約のホテルには、電話を入れるべし。(これ、当然過ぎる?)>

4)朝一番で、パスポートの再発行のため、日本大使館に電話。「緊急連絡センターのおばちゃんの仮パスポートの発行手順は、以下のとおり。
①Denunci(デヌーンシ、警察所への盗難届)を貰ってくること。
②本人が行くこと。
③写真二枚用意して行くこと。(縦4.5センチ、横3.5センチ)
(コインを入れての写真は、NGで、ちゃんとした写真館での写真とのことで、大使館の近くにあるとのこと。)
④航空券(e-チケット)を持って来ること。(一緒に、スラレたが、たまたま、私が、コピーを持っていたので助かった。)
④直接、マドリッドから、その日のうちに、成田に帰ること。
⑤手数料17ユーロの現金を持参すること。
<教訓5.パスポート紛失時は、世界中共通のようで、上記6点、銘記すべし。>

4)帰りにローマで観光した際、「コロッセアムの前あたりで、中近東系のお兄ちゃんが、日本語で、“稲本、中田”などと話し掛けて来る。」「“私とあなたは、友だち、友だち!”など日本語で調子を取りながら、すばやい動作で、腕輪を編んできた。」「お金を払えと揉め出したとのこと。25ユーロ払えとのこと。」「それでは、Twentyで、日本語で“手打ちだ!”と日本人のカモには、慣れている。後で、YOさんに聞くと、当初、“千円払え!”とのことだったが、・・・」
<教訓6.観光地で話し掛けて来る人(特に、日本語で)、相手にしないこと!(特に、日本人は、特別のカモのようで、日本語で、話しかけてきたら、“ニー・ハオ!”“アンニョ・ハセヨー!”等日本語以外で答えるのも一考か。)>

5)「何と、午前中のインディオのおばちゃんスリ、またしても、テルミニ駅近くの地下鉄内に、今度は、女の子連れで現れた。子供は、私が、ポシェットを手で押さえているので、私のリックのチャックを開けだした。“No!No!”と怒鳴ると、手を引っ込めた。今度は、おばちゃんが、私のところに、近付いて来たので、“No!No!”と追っ払った。すると、隣の女性を襲ったらしく、その女性の叫びで、あたふたと降りていった。相当トロイ、子連れスリではある。」
<教訓7.スリは、ポシェット狙うので、逆に、取られてもよいもの入れておく。>

6)帰りのローマの空港への電車。「今回は、二度目の自信のせいか、ホームの近くの切符売り場で切符を買うと、正に、発車しようとしている列車に飛び乗った。今考えると、その時、車掌も、近くにいたので“エアポート?”でも、何でも、怒鳴ればよかったのに、何も聞かずに、飛び乗って、私は、少々、酔っ払い気味で、うとうとしていると・・・・“どうも、間違った列車に飛び乗ったようだ。」「・・どうしたらよいか、聞いてみた。大丈夫ですよ! 我々と駅で降りて、タクシーで空港に行けば、50分で着くとのことで、まだ、二時間近くは時間が有り、一安心!」「三人で、タクシー乗り場で待つも、タクシーは、待てど、暮らせど、一台も来ない! 」「刻々と時間は、過ぎて行き・・・・・・、ついに、アウト!」
<教訓8.外国での移動の際は、禁酒?>
<教訓9.移動の際の乗り物の行き先は、自信があっても確認する。>

7)仕方なくローマに戻ってホテルに・・・。次の日に空港でチケットを見せるとペナルティ400ユーロで帰れるとのこと。だがカードが認識しない・・・。「両替所で、カードで、換金して、払ったが、後で、支払い通知で分かったが、利子が、相当取られて、カードでの両替所での換金は、相当に、損である。」
<(教訓10.カードでの両替所での換金は、相当、損である。)>

とまあ、こんな次第・・・。(青字は原文通り)
長くなったが、実に教訓に満ちているレポートではないか・・・。順調に行っている部分は全て省略したが、筆者は現地でのドジにかなり精通しているらしく、ドジッた時の対応のテキパキさは実に慣れていて勉強になる。またこれら対応は、ローマ、スペインに限らず、どの国でも通用するだろう。

前にハワイのヒルトンホテルに泊まったとき、ホテルの人が、実際には旅行会社に払う料金の半分以下で泊まれる。旅行会社は大変なマージンを取っている、と言っていた。
だから英会話を筆頭に、外国語が出来る人はどんどん個人旅行をするわけだ。これは自分にとっては、永遠の憧れ・・・
でもこんな話を聞くと、気持ちがスーっとするね。“それ見たことか!”ってさ・・・。(もう一度書くけど、“人の不幸は蜜の味”なのさ・・・・)
だから自分は今後も海外旅行は旅行会社のツアーで行くのさ・・・。決して“英語がしゃべれないから”、ではないのであ~る。
(しかしこの不幸、自宅であきれて見送った奥さんや娘さんの“呪い”でないことだけは祈ってあげよう・・)
マ、お疲れさまでした・・・!

(2016/09/29追)
★本文のオリジナル「マドリッド、グラナダ&ローマ紀行(26頁)」(2009年10月8日~14日)のPDFはここ)。

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2009年12月13日 (日)

ブルー・コメッツの「雨の赤坂」~コンサートのチケットを買った・・

今日、買い物に近くのショッピングセンターに行ったのだが、その側の市民会館の前を通Image03931 ったら「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」というポスター!
どうせジャッキー吉川以外は、知らないメンバーだろう・・・と思ったが、カミさんに煽られて、車を停めてからゆっくりとポスターを見に行った。そうしたら「オリジナルメンバーによるオリジナル企画!ほかでは滅多に見られないコンサート。ぜひご来場ください」とある。

これは見逃せない・・・、とその場でチケットを買ってしまった・・・。売り場の人に聞いたら、昨日発売になったという。座席表を見ると、前の方から中央部が埋まっている。でも中央ではないが、まあまあの席が取れた。
「今頃珍しいですね?」と聞くと、前に大田区でやった時に好評だったので、企画されたと言っていた。(ここ
ブルー・コメッツは1972年に解散したのち、井上忠夫が亡くなったのを機に2002年に再結成したとか・・。テレビでは何度か見かけたが、まさかホールでコンサートとはビックリ・・・。
昔々、景気が良かった頃、会社で秋の社員招待の催し物があり、有楽町駅前の昔の日劇に行ったとき、前座としてブールー・コメッツのホンモノを見た事があるが、それ以来だ。ワイルドワンズとの競演なのだが、まあ半分は歌うだろう・・・。

091213bluecomets 学生時代に本当に良く聞いたブルー・コメッツ。そのLPの中でも一番お世話になったLPが「ベスト・オブ・ブルー・コメッツ」(1968年12月25日発売)という盤。そのB面の最初の曲が「雨の赤坂」だった。 この歌はしっとりとしていて好きだった。

<ブルー・コメッツの「雨の赤坂」>

「雨の赤坂」
  作詩:橋本 淳
  作曲:三原綱木

小雨にしずむ 赤坂を
あなたとふたり 歩いたね
すねて泣いてた かわいい嘘が
わかれ話の はじめとは
赤坂 赤坂 ぼくはかなしい

ひとつの傘で 坂道を
いくどもふたり 歩いたね
消えてしまった 幸せだから
すぎた思い出 さがすのさ
赤坂 赤坂 今夜はひとり

あなたと逢った 赤坂で
うしろ姿の 愛をみた
さよならしたら もう二度とは
足音さえも かえらない
赤坂 赤坂 ぼくは泣きたい

ふとメンバーの年齢を調べてみた。すると、ジャッキー吉川とベースの高橋健二が71歳、オルガンの小田啓義が70歳、そして一番若いギターの三原綱木が64歳だという。前にテレビで、演奏を終わったジャッキー吉川が「疲れた~」と言っていたが(ここ)、良く分かる・・・。
来年3月13日のコンサートが楽しみ。でも、たぶん皆声が出なかったりかすれたり、飛んだりするだろう。でも我々もトシ・・・・。歌詞を間違えようが誰も非難なんかしない。“頑張れ~!頑張れ!”と声援を送るだけ。我々だってもう枯れてしまったので、“シルバーブルコメ”には暖かいのだ・・・・。ことによると、一人くらい病欠が出るかも? 井上が欠場なので、それだけはカンベンして欲しいが・・・

これからはリタイアした団塊の世代が大挙して街に繰り出して行く・・。だから、還暦過ぎ世代がもう一度青春時代を思い出せるような、このような企画が今後増えていくのかも知れない。
そしてそれらが意外と大盛況だったりして・・・。それが“団塊世代パワー”なのさ・・・・

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2009年12月12日 (土)

仏教各宗派の教えと生き方

今日は、6年前に亡くなった叔父の七回忌の法事があり、日暮里谷中まで行ってきた。・・というワケで今日は仏教の話。

雑誌「大法輪」の今月号(2010年1月号)の特集は「日本仏教各宗の教えと生き方」ここ)。
日本には多数の仏教の宗派が存在するが、それらのスタンスは素人には良く分からない。この特集は、それらについて述べている。
特に目次に示された一言が、各宗派の特徴を一刀両断に述べた文言で面白い。それによると・・・・

「法相宗」=煩悩にとらわれた我が心を凝視し、自分を変えていく
「天台宗」=全てのものが仏になれるという希望をもって生きる
「真言宗」=十善戒を守り、身・口・意を正しくして生きる
「融通念佛宗」=融通和合の力で生かされていることの自覚を
「浄土宗」=愚者の自覚をもち、南無阿弥陀仏を称えつつ生きる
「浄土真宗」=苦境・逆縁を喜びに転じて、ご恩報謝の人生に
「臨済宗」=生活の場そのものが悟りの世界。随所に主となる
「曹洞宗」=一日二十四時間、一生すべてを修行と受けとめる
「日蓮宗」=法華経を信じ、題目を唱えれば煩悩は解き放てる
「時宗」=神仏を尊び、他を排せず、ただ愚直に念仏を唱える

同じブッダの教えからスタートした仏教ではあるが、どの部分を重要視するかで大きく流れが分かれているのが良く分かる。

ところで、日本には仏教の宗派は幾つあるか調べてみた。(ここ)によると、宗派が198並んでいた。お寺の数は75,100。それでお寺の数の多い順に並べてみたらこうなった・・。

1)曹洞宗(大本山永平寺・総持寺)・・・・・14,687寺(16.9%)
2)浄土真宗本願寺派(本山西本願寺)・・10,320寺(11.9%)
3)真宗大谷派(本山東本願寺)・・・・・・・・ 8,694寺(10.0%)
4)浄土宗(総本山知恩院)・・・・・・・・・・・・ 6,933寺( 8.0%)
5)日蓮宗(祖山身延山久遠寺)・・・・・・・・ 4,634寺( 5.3%)
6)高野山真言宗(総本山金剛峯寺)・・・・ 3,492寺( 4.0%)
7)臨済宗妙心寺派(大本山妙心寺)・・・・ 3,398寺( 3.9%)
8)天台宗(比叡山延暦寺)・・・・・・・・・・・・ 3,339寺( 3.8%)
9)真言宗智山派(総本山智積院)・・・・・・ 2,858寺( 3.3%)
10)真言宗豊山派(総本山長谷寺)・・・・・ 2,636寺(3.0%)
11)真言宗醍醐派(総本山醍醐寺)・・・・・・ 876寺(1.0%)
12)真言宗御室派(総本山仁和寺)・・・・・・ 771寺(0.9%)
13)日蓮正宗(総本山大石寺)・・・・・・・・・・ 661寺(0.8%)
  その他         ・・・・・・・・・・・・・11,801寺(13.6%)

しかし、宗派を自分で選ぶことは非常に困難だ。自分の家で、昔からの流れがあるから・・・。(この分類は“宗”の下の“派”で分けているので、宗でひと括りにすると順位は当然変る)

実は、この「大法輪」の特集「日本仏教各宗の教えと生き方」はまだ読み始めたばかりだが、なかなかに面白い。宗派のシェアとは別に、それぞれの宗派が大切にしている言葉、スタンスについて論じているから・・・。でも、どの言葉もブッダの言葉であり教えである。
(自分の意思とは無関係に属している?)宗派などとは別に、客観的な立場から各宗派の大切にしている言葉・スタンスを勉強してみるのもまた面白いかもね・・・。
ついでに、この欄でもこれらを少しずつ紹介して行こうかな・・・と思った。ナニ・・真の目的は何の事はない、自分の為の整理なのだが・・・・

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2009年12月11日 (金)

TBSのドラマ「JIN -仁-」が面白い・・・

最近良く見る民放のテレビドラマ。TBS日曜劇場「JIN-仁-」(これ)がなかなか面白い。10月からスタートして、もう9回が終わった。全11回というのであと2回で終りか・・、残念!
このドラマを見たきっかけは、新聞の新番組紹介欄。現代の若い脳外科医が江戸時代にタイムスリップ、という奇想天外な設定だがなかなか楽しめる・・とあったので見る気になった。それが記事通りで意外と面白く、ついつい今までの全編を見てしまった。(「日曜劇場」=TBS TV(日)21:00~22:00。TBSで12/8~12/17までAM10:05~11:00に再放送中)
実はタイムスリップのストーリーというのが自分は好きなのだ。前に「戦国自衛隊」(1980年)という映画があり、テレビで見て面白かった。
それと同じようなものだろうと思っていたら、どうしてどうしてホンモノ。頭部の外科手術から始まって、コレラへの対応、ペニシリンを製造しての梅毒退治等々。これらの場面が、なかなかリアリティがある。Netで見たら、順天堂病院がモデルになっているという。当然医学監修も順天堂大・・・・。そして順天堂病院のサイトには「原作の大学付属病院は御茶ノ水の順天堂醫院、そしてその学是“仁”を想定しています。順天堂大学等の協力を得て、大学や病院でロケが行われました。」とある。(ここ

どうりでリアリティがあるはずだ・・・。
それにCGがなかなかすごい。江戸時代の街並みが実に美しく再現されており、先日再放送していた森繁久弥のテレビドラマの時代とは、隔絶の感がある。テレビドラマも、映画並みに金を掛けている証拠。
登場人物は、坂本龍馬を始め、緒方洪庵、勝海舟、新門辰五郎などなどテンコ盛りで少し食傷気味だが、でもまあ楽しめる。

このことをカミさんに話したら、「原作は全部マンガ・・。日本のマンガはバカに出来ない。世界的なコンテンツ・・」という。カミさんはマンガ大好き人間、自分はマンガ大嫌い人間なのでこうなる・・・。
そういえば、前に書いた「星守る犬」(ここ)が26万部突破と、数日前の新聞広告にあったとか・・・。
まあドラマの筋書きは、原作が何であれ、良いものは良い。
このドラマは、タイムスリップという荒唐無稽な状況設定にも関らず、その意外性で誤魔化すことなく、タイムスリップした“自分の存在”が「歴史的」そして「医学の進歩」への悪影響を真摯に心配しながらも、人びとの命を救うことに没頭していく。そして脳の病気のため植物人間化した恋人への想いを抱きつつ、江戸時代に生きる姿はなかなか神々(?)しい。

フトこんなツマラナイ事を考えた。江戸時代にタイムスリップしても日本語は同じかな?通じるのかな?
江戸時代の手紙等の文書は残っているので分かる。でも録音機は無いので、江戸時代にどのような会話が為されていたか現代では知る由もない。実は、これは自分の昔からの素朴な疑問・・。Netで検索すると、色々な説が出ている。“少しは通じる”から“通じない”まで。(ここここここ
確かにこれらは理屈で考えることが出来る。方言の問題、外来語が無いという問題、話すにもお互いの概念が異なるという問題。それらを考えるとどの程度通じるか予想が出来そうだ・・・
それ以上に、そもそも日本語はどのようにして誕生したのか・・・。これもなかなか面白いテーマだ。

ともあれ、ドラマ「JIN」の主人公の仁さんは、その“概念(手術や点滴や抗生物質等々・・)”がない江戸時代の人にも通じるように、言葉を選んで伝える努力も大変なら、登場する江戸時代の人たちの、仁さんのワケの分からない言葉(概念)に合わせる努力も大変なもの。
そのような善意の人たちに支えられているからこそ、普通の人なら“絶望するであろう状況(江戸時代に一人落っこちた!)”においても力を発揮できているのだろうと思う。
ラストシーンがどうなるか分からないが、できたら仁さんにはもう少し頑張って江戸時代に留まってもらって、続編でまた活躍することを期待したいな~・・・・。

●メモ:カウント~70万

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2009年12月10日 (木)

ジョニー・ディアフィールドの「悲しき少年兵」

今日はちょっと毛色の変わった歌・・。
ジョニー・ディアフィールドの「悲しき少年兵 Lonely Soldier Boy」という歌を聞いたことがあるだろうか?若い人は無理だが、たぶん60歳以上の世代ならピンと来るだろう。

<ジョニー・ディアフィールドの「悲しき少年兵」>

この歌は1961年のヒットというから昭和36年、まさに自分が中学2年の時だ。前にも書いたが、なぜかこの頃は横文字のヒット曲がラジオから流れ、勉強しながら良く聞いていた・・・・。
その中で、“Lonely, Lonely, Lonely Soldier Boy, Lonely, Lonely, Lonely Soldier Boy ・・・・
・・・・・Goodbye My Darlin! Goodbye.“という歌は、何かさびしげで心に滲みた。(当時から既に横文字が嫌いな自分は、何を歌っている歌か良く分からなかったが・・・・)

Netで見ていたら、この頃のベスト20が載っていた。どの曲も聞き覚えがある。毎週、順位が上がった下がったと、ラジオで放送していたっけ・・・。

<1961年の年間ベスト20>(出典はここ
 1位 太陽がいっぱい  (サウンドトラック盤)
 2位 峠の幌馬車    (ビリー・ヴォーンOrch.)
 3位 悲しき少年兵   (ジョニー・ディアフィールド)
 4位 コーヒールンバ  (ウーゴ・ブランコOrch.)(ここ)
 5位 遥かなるアラモ  (ブラザーズ・フォー)
 6位 カレンダー・ガール(ニール・セダカ)(ここ)
 7位 悲しき街角    (デル・シャノン)
 8位 栄光への脱出   (パット・ブーン)
 9位 黒い傷痕のブルース(アンリドパリOrch.)
10位 アラスカ魂    (ジョニー・ホートン)
・・・・・

しかし不思議なもので、この頃(1960年~1963年頃)の曲はほとんど知っている。しかし、1964年になると、段々少なくなって、この頃以降の曲はほとんど知らない。
ご多分に漏れず、高校のときはビートルズ世代。でも自分はあまりビートルズを聞かなかった。しかし当時はやった「海外文通」では、必ず相手はビートルズを聞いていた。Netで確認すると、ビートルズが活躍していたのは1962~1970年だという。高校・大学の頃だ。
自分が1964年頃以降の曲を聞いていないのは、たぶん高校に入っての「受験勉強」の圧力に屈して聞く時間が持てなかったのだろう。一杯一杯の生活だったので・・・・

何度も書いているが、最近の歌はJ-POPと称するそうで、我々シルバー世代にはとうてい理解できない。先日もカミさんと息子と富士山中湖の保養所に行ったとき、カラオケルームを占領したまでは良いのだが、息子が歌う歌の旋律が理解できない・・。とても音楽の旋律になっていない。何かヘンだ。和音的にもおかしいよな・・・と、カミさんに言うと、何と息子と一緒に歌い出すではないか・・・。60近いバアさんがダゼ!!?
まあ我々オジサンは、逆に多分若い人には理解できないであろうこんな懐かしのポップスを、ありがたがって聞くのが一番似合っているのだろう。何とも平和な話題である・・・。

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2009年12月 9日 (水)

中村元の「般若心経」(3/7)

中村元先生の「般若心経の講義」を、7回に分けて聴いてみる。
この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連続講義「こころをよむ/仏典」 (CDはこれ)の「第12回 空の思想-般若心経・金剛般若経」の部分を、『中村先生の声』と『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」(これ)を元に味わっていく。

しゃーりーしーぜーしょーほーくーそー
舎利子是諸法空相
ふーしょーふーめつふーくーふーじょーふーぞーふーげん
不生不滅不垢不浄不増不減
ぜーこーくーちゅーむーしきむーじゅーそーぎょーしき
是故空中無色無受想行識
むーげんにー びーぜっ しん にー
無眼耳鼻舌身意
むーしき  しょーこーみーそく  ほー
無色声香味触法
むーげんかい ないしー むー いーしきかい
無眼界乃至無意識界

<こころをよむ/仏典「般若心経」~その2>

舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身もなく、色も声も香も味も蝕も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。

「舎利子よ、このいろいろなものは空を特質としている」。色々なものがあらわれ出て、また消えると思えるわけですが、高い境地から見るとそうではない。「生ぜず、滅せず」、つまりいろいろな力が加わって生じたり滅びたりしているのですが、高い立場から見ますと、ただ偉大なるひとつの理があるだけである。したがって、汚れることもなく、浄くなることもない、増えることもなく、減ることもない、ただ偉大なる真実がそこにあるだけだというのです。
こういうわけだから、空のなかには物質的なかたちもなく、感受作用も表象作用も形成作用も識別作用もない。そして、「眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もない。われわれの感覚器官を考えると、眼と耳と鼻と舌と身体(触覚)、その五つの感官に加えて、思考する器官がありますから六つです。これを「六根」といいます。これに応ずる対象が、色・声・香・味・触・法です。色、すなわち物質的なかたち、これは眼で見る。それから、耳で聞く声、鼻で感じる香り、舌で感じる味、等々。なお「法」はこの場合、「思考器官で思考されるもの」「考えられる対象」という意味です。けれども、これらに固定的な実体はない。
さらに、それを一つ一つの領域として見ますと、眼・耳・鼻・舌・身・意それぞれに界をつけ、眼界、耳界等々とする、そうすると、それらを全部合わせると18の領域になるわけです。それらすべてが固定した対象を持っていないということなのであります。
このさとった境地というもの、これを我が国でも、昔から歌のかたちで表明しております。「世の中にわがものとてはなかりけり身をさえ土に返すべければ」。こういうようなものが仮に集まって、我々の存在ができていると、そう考えられる。」(前田専学監修「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」より)

前に「22)「般若心経」勝手帖」というカテゴリで一通り般若心経について書いた。今もう一度それを読んでみると、実にその通りだ。・・・と感心しているという事は、いかに自分の身に付いていないかの証拠・・・・
でも、この「無」という概念を理解しないと、(「空」が分からないと同じくらい)般若心経は分からない。ちょうど3年前に般若心経の同じ所について記事を書いているが(ここここ)、当時に比べて少しは分かったような気がする。
ここで、「無」の解釈として「固定的な実体はない」という言葉が良く出てくる。この中村先生の解説にも同じように出てくる。
昨日、食事をおいしく楽しく食べると体に良いらしい・・・という記事を書いた(これ)。例えばこの食事を例に取ると、「眼耳鼻舌身意」による「色声香味触法」を楽しむということ。つまり、キレイに盛った料理を目で楽しみ、鍋料理などは耳でその出来上がりを確かめ、ワイワイと会話を楽しみ、鼻で臭いを感じ、舌で舌鼓を打つ。そして身(触覚)でアッチッチと感じ、意で「これはうまい」と思う。まさに「六根」がフル活動だ。それを「無」だと言う。「固定的な実体はない」と言う・・・。何とも勿体ない・・・・!?
確かに“固定した対象を持っていない”・・・。(毎日料理は変わるので・・!?)

ところで「世の中にわがものとてはなかりけり身をさえ土に返すべければ」という言葉・・。よく聞く言葉だと思うのだが、語源が分からない。誰が言った言葉なのだろう・・・。詠人知らず・・の歌なのかな?
でも、全てが「無」だと思う事が出来れば、悩んでいる自分を一歩別の立場から客観的に見る事ができ、ばかばかしい・・、と気が付くことも出来る・・・
夕食を前に、「この美味い食べ物も“無”か・・・」と、なぜか考え込んでしまったツマラない自分ではある。

(関連記事)
「般若心経」勝手帖-07 不生不滅
「般若心経」勝手帖-08 無眼耳鼻舌身意

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2009年12月 8日 (火)

おいしい規則正しい食事が血糖値の上昇を抑える・・・?

当blogでは、自分が勝手に“ヘエー”と思ったことをメモしているが、少し前の新聞記事なのだがこれも“ヘエー”なので・・・
先日の日経新聞に「規則正しい食事が血糖値の上昇を抑える」という記事が載っていた。

規則正しい食事 ホルモン活発化、糖吸収~糖尿病治療に道
食事をおいしく規則正しく食べると血糖値の上昇が抑えられることを、自然科学研究機構・生理学研究所(愛知県岡崎市)の箕越靖彦教授らが動物実験で突き止めた。体内リズムにかかわる脳内ホルモンの放出が活発になり、筋肉での糖の取り込みを促すという。糖尿病の新たな治療法に役立つ見通し。論文が米医学誌に2日、掲載される。
この脳内ホルモンは食欲や睡眠を調節するオレキシン。マウスの脳の満腹中枢に細い注射針で注入し、身体反応を放射線同位元素を使って観察した。
オレキシンが筋肉での糖の吸収を促すことが分かった。さらにマウスに毎日決まった時刻に好物の甘味料を与え、オレキシンを放出する脳内神経の働きを観察したところ、4日目からこの神経が活発に働くようになり、食後の血糖値の上昇が抑えられた。
胃の中に甘味料を直接注入した場合は変化が小さく、箕越教授は「規則正しい食事が血糖値の上昇を抑えた」と解説している。」(2009/12/2 日経新聞p34より)

なるほど・・・。毎日の食事をおいしく規則正しく食べると“良い事”があるとは、それこそ願ったり叶ったりではないか?
しかしこの「おいしく」という言葉は、実に観念的な言葉で、気の持ちようでどうにでも変ってしまう。もちろん同じ料理でも、作り立てと冷えたのでは“おいしさ”は変わる。それに、ひとり寂しく食べるのと、ワイワイにぎやかに食べるのとでも変わってしまう。
そういえば数年前にウィーンに行ったとき、体調を崩してマクドナルドで買ったバーガーを、後で食べようとホテルに持って帰ったら、冷えて不味くてとても食べられなかった。バーガーは“作り立てで食べること”と法律で決まっていたことを、自分は知らなかったのだ・・・。

実に個人的なことで恐縮だが、最近太り気味なのが気になりだした。きっかけは写真・・。先週末に昔の会社の仲間との忘年会があり集合写真を撮ったのだが、自分の顔が何と丸いことか・・・。これにはドキッ。考えてみると、7月から会社が替わって昼飯の環境も変わった。それで食べるのが遅い自分はいつも一人でフラフラと近くの食堂を渡り歩くようになった。でも出されるのは一人前の定食。なるべく小食に・・とは思うものの、つい勿体なく思って・・・。それでじわじわと太ってきた? 結果、半年で何と2.5kgも増えてしまった。
それで今日の昼食は、初めて近くのコンビニでパンを買ってみた。でも食べる場所の制約からこれも長続きはしそうにない・・・・
だいたい夕食で食べ過ぎるのが一番の原因だが、これもなかなか減らない。食卓に出る量を減らすのが一番なのだが、“消極的殺人を試みている”カミさんは、一向に減らしてくれない。
そろそろトシだ。食事も徐々に減らして、“痩せたソクラテス”を目指したいのだが、意外とこれが難しいのだ。でもカミさんとも話すが、特に医者からの制限も無く自由に食べられることがいかに有り難いことか・・・・。人間感謝が大切だ・・・。(←これ、あまりに“感謝”という言葉に縁が無い自分に対し、自ら言い聞かせている言葉)

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2009年12月 7日 (月)

日本画家・平山郁夫氏の追悼番組

日本画家の平山郁夫氏が12月2日に亡くなって、テレビでも追悼番組が放送されている。091207hirayama 先日放送された「追悼 日本画家 平山郁夫さん 新日曜美術館アンコール 情熱と美のシルクロード」これ)を見た。(2009年12月6日NHKで放送)この番組は、2年前の2007年9月30日に初回放送された番組で、檀ふみさんが鎌倉の平山郁夫さんのアトリエを訪ねる。
番組は、ハイビジョンならではの素晴らしい画質で平山さんの作品を見つめる。

091207hirayama0 はっきり言って、自分は日本画など門外漢。でもなぜか平山郁夫という名前だけは知っている。きっかけはやはり「シルクロード」。シルクロードのきっかけは?・・そうNHK特集「シルクロード」の喜多郎の音楽。
古い思い出話になるが、1980年(昭和55年)に放送されたNHK特集「シルクロード」で初めて聞いた喜多郎の音楽に魅せられ、それがきっかけで大陸横断のシルクロードが身近になった。そしてシルクロードを描く平山さんの存在を知ったわけ。
先日森繁久彌さんが亡くなったが、今度もまた“巨星墜つ”である。
091207hirayama1 番組では、広島原爆の被災者であったこと。そして広島にはどうしても行けなかった心の内。そして被爆から34年後にやっと広島を訪ね、広島から帰るや、直ぐに書き上げたのが「広島生変図」(1979)だったとか。その091207hirayama2 絵は、不動明王が見つめる真っ赤な深い悲しみの絵・・・。その姿が強烈で、自分の目に焼きついてしまった・・・。(写真はクリックで拡大=不動明王の部分写真は原画の右上部分の拡大)

そんな平山さんも、学生の頃、自分の絵の道に自信を失い、文学部にでも移ろうかと受験勉強をしたことがあるという。そこでアドバイスをしてくれたのが、新しく来られた美術の先生。「思いつめないでリラックスして勉強したら・・・」と言われ、それが転機となって作風が自由になり、出世作「仏教伝来」につながったとか。その時のことが、先日の朝日新聞の「天声人語」にも載っていた。曰く・・・

「戦後すぐ、意気揚々と東京美術学校(現東京芸大)に入学した150人に、校長は訓示を垂れた。「諸君らのうち宝石はたった一粒です。その一粒を見つけるために君らを集めた。他は石にすぎません」。亡くなった平山郁夫さんの回想である。自分は「石」だと思っていたそうだ。3年生のとき、ついに見切りをつける。だが新任の先生に「君の絵はこれ以上、下手にならない。おおらかにやりなさい」と言われ、続けることにした。
この一言がなかったら、膨大な画業の一切を、私たちは目にできなかったかもしれない。大河を思わせる画業の原点には、広島での被爆があった。だが15歳で見た地獄は、画家の筆を凍りつかせもした。描きたいのは「平和」だったが、原爆の絵は心の傷口を広げるのが怖くて描けない。悩み抜いてたどり着いたのが仏教だった。「怒りではなく『平和への祈り』こそが私のテーマだとやっと気づいた」と、のちに語っている。以来、出世作の「仏教伝来」からシルクロードをめぐる作品まで、その活躍に詳しい説明はいるまい。・・・」(
2009年12月4日付、朝日新聞「天声人語」より)

番組では、大きなキャンバスに薄い色の絵の具を何十回も塗る平山さんの姿を写し、平山さんの画風の奥行きを伝えていた。そんな大画伯の平山さんにも、自分の道を諦めようとした時期があったとは・・・。
人生を変えるきっかけは一言の言葉・・・。人生で誰かの言葉に励まされて立ち直ったという話は良く聞く。(関連記事はここ) 日ごろ何気なく話している言葉は、時として良くも悪くも大きな力を生む。

091207hirayama3 番組で見る平山さんは、まさに悟りきったような穏やかな表情・・。そして、その静かな内側のエネルギーが、シルエットのボヤッとした輪郭の画面から吹き出る。ブッダが悟りを開いた瞬間を描く「建立金剛心図」などはその好例。
この番組は、来週12月13日(日)AM9時からの「日曜美術館」で再放送されるという。保存用DVDレコーダに改めて録画して、大切に残しておこうと思った。

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2009年12月 6日 (日)

ボニージャックスとダークダックスの「ちいさい秋みつけた」

昨日が雨だったせいか、散歩に出ると今日は真っ青な空。林の紅葉が美しい。(我が家の北側には林が広がっており、その向こうに多摩川が見える・・・)
毎週、朝日新聞の土曜版に載っている「うたの旅人」という記事。今週はサトウハチロー作詞「ちいさい秋みつけた」だった。この記事は、かなりの取材をしているらしく、歌の生まれた背景、裏話が聞けて楽しい。

誰かさんって私のこと
・・・1955年(昭和30年)の秋、ハチローは1階の書斎の床に敷いた万年床に寝そべったまま西向きの窓を見上げた。目に映ったのは、夕日を浴びて深紅に染まる高さ8㍍のハゼ木の葉だ。この年の秋は寒気の訪れが早く、陽光に透けた葉の赤色が鮮やかだった。
ハチローは、NHKから11月3日の放送芸能祭に発表する歌の作詞を依頼され、「大人も子どもも歌える抒情歌を書きたい」と考えていた。「全山紅葉の秋でなく、我が家の小さな庭にしのびよる秋を書こう」とも思っていた。そのとき、このハゼを見たのだ。完成作でハゼは3番の歌詞にあるが、最初の草稿には1番に出てくる。
中田喜直が曲をつけ、文化の日、13歳の少女歌手伴久美子の声でラジオに流れた。放送はこの1回きりだ。歌はそのまま忘れられた。
だが、ラジオを聴いて「背筋に電流が走った」ほど感激した人がいた。キングレコードのディレクターだった長田暁二さん(79)だ。「ヒットがなくクビになる寸前だった」だけに飛びつこうとした。だが、ハチローはライバル社のコロムビアの専属だ。長田さんは以後の7年をやきもきしながら待ち、ハチローがフリーになった62年にレコード化を持ちかけた・
ところがハチローは、この歌のことなど全く忘れていた。長田さんが歌詞を書いて見せると、「あ、これはこれの詩だ。なかなかよくできてるな」と言った。同年、この歌を含むLP「サトウハチロー童謡集」じゃ発売された。・・・
LP向けに長田さんが声をかけたのは、早稲田大学グリークラブから生まれた4人組ボニージャックスだ。トップテナーの西脇久夫さん(73)もラジオでこの歌を聴いて感動し、自分たちで編曲してレパートリーに入れたという。録音現場に居合わせたダークダックスも「おれたちにも歌わせて」と言って吹き込み、競作となった。
ソロでつなげる形で歌うボニーの「ちいさい秋みつけた」は、同年のレコード大賞童謡賞を受賞した。西脇さんは「これでボニーはジャズから日本の抒情歌に方向転換した。ぼくらの運命を変えた歌です」と告白する。この半世紀以上、ボニーがこの歌を歌わなかったステージはない。
ハチローを見て長田さんは「悪ガキがそのまま大人になったような人」と感じた。西脇さんが「うつろな目の色って何ですか」ちハチローに聞くと、「おれだってわかんないよ」という答えだった。長田さんも西脇さんもハチローの書斎を訪れ、ハゼの木を見た。・・・・」(朝日新聞2009/12/5  e1ページ「うたの旅人」より)

上記のように、この歌はサトウハチローの自宅にあったハゼの木がモデルという。そして、記者Image03891 が文京区弥生のハチローの旧宅を訪ねたとき、隣の水野陽一さん(68)が「誰かさんとは、私です」「北向きの部屋で『曇りのガラス』からハゼが見えるのはうちしかありません」と言ったとか・・。
「この詩はハチローが子どもの目で見た風景と言われるが、水野少年をImage03902 見て着想したのかもしれない。ハチローの没後、亡くなった妻房枝さんから「誰かさんってあなたのこと」と言われたという。」
そして樹齢80年のそのハゼの木は、8年前に文京区の礫川(れきせん)公園に移植されたという。(写真はクリックで拡大)

なるほど・・・、詩は何も無いところからは生まれない。何かモデルが無ければ・・・
でも曲は幾ら調べてもその素性はなかなか分からない。この名曲「ちいさい秋みつけた」は、詩と同様に、中田喜直の曲が素晴らしい。何ともいえない素朴さが・・・
調べてみたら、自分のこの曲の音源は17つあった。そのうちボニージャックスが4つで、ダークダックスが2つ。もちろん自分が一番好きなのはボニージャックスのオリジナルの音源。これは、前に「中西龍の「にっぽんのメロディー」と「ちいさい秋みつけた」」(ここ)という記事を書いた。その記事の中西龍の放送に埋め込んである。なおこの歌のタイトルだが「ちいさい秋みつけた」「小さい秋みつけた」「小さい秋見つけた」と3種類ある。しかしJASRACの登録は「ちいさい秋みつけた」である。
今日は、競作となったというダークダックスと、ボニージャックスの別の編曲で聴いてみよう。

<ダークダックスの「ちいさい秋みつけた」>

<ボニージャックスの「ちいさい秋みつけた」>

  「ちいさい秋みつけた」
    作詞:サトーハチロー
    作曲:中田 喜直

  誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
  めかくし鬼さん 手のなる方へ
  すましたお耳に かすかにしみた
  よんでる口笛 もずの声
  ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

  誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
  お部屋は北向き くもりのガラス
  うつろな目の色 とかしたミルク
  わずかなすきから 秋の風
  ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

  誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた
  むかしの むかしの 風見の鳥の
  ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
  はぜの葉あかくて 入日色
  ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

(関連記事)
中西龍の「にっぽんのメロディー」と「ちいさい秋みつけた」

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2009年12月 5日 (土)

英国人の目から見た日本の経済政策

先日の日経新聞の「知日派の見方」という囲み記事に、英エコノミスト誌 前編集長のビル・エモット氏の意見が載っていた。日本人とは違う視点がなかなか面白い。

知日派の見方
   エコノミスト誌 前編集長 ビル・エモット氏
Q:日本の新規国債発行額は来年度も44兆円近くと巨額にのぼりそうです。
A:深刻な景気後退を経たのだから、新規国債の増発は正しい。景気を下支えするための公的支出は必要だ。・・・・
・・・
Q:予算編成では何が重要でしょう。
A:公共工事から、子ども手当てや失業手当など福祉重視への転換を進めることだ。理由は2つある。まず、最低所得層の人々は政府から受け取るお金を全額使い切る可能性が高い。貯蓄する余裕がなく、100円支給すれば100円使う可能性が高いので、景気の下支えには有効だ。
第2は日本社会の格差が広がりすぎ、福祉政策が必要になったこと。経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で貧困層が拡大しているのは日本だけだ。最低賃金も日本はOECDで最低レベル。かつてあれほど平等社会だった日本が今や英国以上の格差社会になったのは劇的な変化だ。
Q:格差はなぜ広がったのでしょう。
A:引き金は橋本政権下で始まった非正規雇用の弾力化だ。産業界の採算性を高めるために、賃金が低く低福祉で、法的にも守られない非正規雇用やパートを容認した。短期的には有益な改革だったが、長期的にはマイナスの方が大きかった。
Q:日本の民主党はマニフェスト(政権公約)に縛られ、苦労しているように見えます。
A:英国ではマニフェストに拘束力がない。書かれているからといって法案可決が保障されるわけではないし、政府が公約を破ることは日常茶飯事だ。民主党が高速道路無料化を実現させなかったとしても、英国では至極一般的なことだ。
Q:民主党はマニフェストを破ることを極度に嫌っています。
A:それは来年夏に参議院選挙が控えているためで、英国とは違う事情だ。英国で選挙は4~5年に1回ぐらいで、公約を守らなかったといって有権者からすぐに処罰されることはない。
議会制民主主義は一般人の政治への無関心を体現したものだ。政治にさほど関心がない市民は自分に代わって政治判断する代表を選挙で選ぶ。市民がそれほど政治に関心があるなら直接民主主義に転換し、高速道路無料化も子ども手当てもすべて国民投票で決めればいい。民主党は政治判断を委ねられた政党として、もっと自信を持って政策に優先順位をつけるべきだ。・・・・・」(日経新聞2009/12/2p5より)

日ごろ疑問に思っていた事の解(?)が載っていた。日本は累進課税の率が高いため、共産国以上の平等社会だと昔は聞いていたが、先日の記事のように(ここ)、現在は先進国で一番貧困率が高いという。それは、派遣制度がキッカケだったとは・・・。確かに正社員と派遣社員とは、同じような仕事をしていても、いわゆる「身分」が違う。まさに現実は、どの企業にも身分制度が存在している。

それに民主党のマニフェストの議論が面白い。確かに、選挙前に幾ら書いても、それはその時点での「方針」であり、時間の経過と共に周囲の状況が変われば、方針・施策も変わってくるのは仕方がないこと。議員一人ひとりも同じで、公約を掲げて当選したとしても、それを完全に守っている人がどれだけいるか・・・
それを現在の政権は、来年の参議院選怖さに、マニフェストの一字一句をまさに金科玉条のごとく守ろうとしている。それはそれで立派なのではあるが・・・。(でもさすがに、高速道路無料化は、国民の人気が無いといって、軌道修正するようだが・・・)
しかしよく考えてみると、そもそも民主党に票を入れた国民は、マニフェストに書かれた全ての項目に賛成して投票したわけではなかろう。例えば、5つ項目があったとすると、ある人は3つは賛成だが2つは反対。でもまあ3つのために民主党に投票しようか・・・、というのが現実では?
よって、民主党も書いたことに100%囚われるのではなく、よく国民の意見を聞きながら進めて行けば良いように思う。

「直接民主主義に転換し、高速道路無料化も子ども手当てもすべて国民投票で決めればいい。」という意見も面白い。そりゃそうだ・・・。“事業仕分け”で世論が盛り上がったのだから、まさに高速道路無料化も子ども手当ても、国民投票に付したら、これまた面白い結果が出るかも・・・

先日読んだ半藤一利氏の「幕末史」でも、明治維新の新政府は、外国の国作りを見るために数年に亘る大きな使節団を送り、その間、日本の政治は止まった、と書かれていた。現代でも各国は日本と同じような悩みを持っている。それらの対応を勉強して、少しヒントを貰うのも一法。もちろん国情は違うが、上記のような外国人の目から見た意見も、たまにハッとさせられることもあるので・・・。
せめて外国からバカにされないような鳩山政権の指導力を期待したいところだが・・・。
でもこの景気はどうにかならないものかね・・・・

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2009年12月 3日 (木)

思い出のTV・ラジオ主題歌集(2)

我々還暦世代が子供の頃に聞いていたテレビ・ラジオ番組のテーマソングを集めた企画の第2回。今日はこんな曲を聞きながら、昔を懐かしむことにしよう。

⑤<「紅孔雀」(井口小夜子、キング児童合唱団)>

「笛吹童子」に続く新諸国物語シリーズ。自分が聞いていたかどうか定かではない。しかしこの旋律は少し覚えている。(昭和29年(1954年)1月4日~12月31日NHKラジオで放送)

⑥<「少年探偵団」(児童合唱)>(関連記事:こ

戦前の少年倶楽部に連載された江戸川乱歩の作品をラジオドラマ化したもの。(昭和31年(1956年)4月16日~ ニッポン放送)これははっきり覚えている。「轟(とどろ)く 轟く あの足音は・・」という歌詞の歌もあった。

⑦<「赤胴鈴之助」(岩瀬寛、上高田少年合唱団)>(関連記事:ここ

これも覚えている。もちろんスジは忘れたが・・・。マンガもあったのでは?(昭和32年(1957年)1月7日~昭和34年(1959年)2月14日TBSラジオで放送、その後昭和34年からはテレビ放映も始まった)

⑧<「月光仮面は誰でしょう」(近藤よし子、キング子鳩会)>

我々が知る最初のテレビドラマかも知れない。(昭和33年(1958年)2月24日~昭和34年(1959年)7月5日TBSテレビで放送) でも、風呂敷を首に巻いて塀から飛び降りた記憶は自分には無い。それは弟の世代だな・・・。それにしても軽快で良い歌だ。自分も良く知っている歌。

ところで、テレビの本放送は昭和28年から始まったが、当時のテレビの値段は15~18万円。大卒の初任給が8千円程度の時代に高嶺の花。よって公園や駅前の広場に設置された街頭テレビに多くの人が集まった。当時自分は大宮に住んでいたが、風呂屋の帰りに、テレビを2階の窓から外向きに出した家の前に陣取って、みんなでワイワイ見たものだ・・・。(当時、テレビを買った家は、自分の家で独占的に見る事は許されず、周囲の人に見せる義務があったのだ・・!?) でも今考えると、当時の自分はものすごく視力が良かったと思われる。あんなに遠い小さなテレビ画面で楽しめたので・・・・

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2009年12月 1日 (火)

信じられない事業仕分け~漢方薬、保険適用外の懸念

部外者だと外野から見ていた“事業仕分け”。それが何と当事者になって、自分にも降りかかって来る懸念が・・・。

今日の夜7時のNHKニュースでも取り上げていたが(ここ)、例の事業仕分けで、漢方薬の保険適用を外すという議論があるという。この“事件”に気が付いたのは、先日の日経新聞で「漢方なんでも道場」という囲み記事の「漢方薬、保険適用外の懸念~事業仕分けの対象に」という記事を読んでから・・。曰く・・・

漢方薬、保険適用外の懸念~事業仕分けの対象に
Q:行政刷新会議が漢方薬を保険適用からはずす、と決めたというのは本当ですか。
A:11日の行政刷新会議・事業仕分け作業の結果、医療用漢方薬製剤を保険給付からはずすという案が承認されました。まだ、政府の最終決定というわけではないようですが、「財政削減」だけを目的に下された判断で、漢方治療の専門家として「信じられない」といわざるを得ません。
漢方薬は薬局でも購入できるから保険適用から削除、という短絡的な理由から決められたようです。とても容認できません。
民主党のマニフェストには「統合医療の確立ならびに推進」として「漢方、(中略)などを統合医療として、科学的根拠を確立します」と書いてあります。
今回の行刷会議の見解はマニフェストにも反しています。
先人の労苦によってやっと漢方薬が日常診療において普通に保健医療として定着し始めました。この時期に、十分な論議も経ずに、パフォーマンス的にカットするこの作業は復権した「日本の伝統医療」の灯を消す暴挙です。
現在、東洋医学会を中心に、署名活動などで「反対」を表明し、「漢方薬が保険で服用できなくなる事態」を回避すべく動いています。(北里大学東洋医学研究所所長 花輪嘉彦)」(2009/11/29日経新聞p16より)

この事態は知らなかった。自分が漢方薬の世話になってからもう8年にもなる。社業から来るストレスで、自立神経失調症ぎみになり、街の漢方薬局で貰った「加味逍遙散」で生き返った。漢方薬とはそれ以来の付き合いだ。普通の病院では「様子を見ましょう」で追い返される不定愁訴的な症状に、漢方薬は絶対的な効力を持つ。
最近は、街で漢方専門のクリニックを見かけるようになり、自分もそこで健康保険扱いの色々な漢方薬をもらってきた。今は消化器系の不調に対して貰っているが、それが突然保険適用外とは・・・・。絶句である。
「東洋医学会」のホームページを見たら、署名活動をしていた(ここ)。11月20日にホームページによる電子署名活動を開始し、12月1日と12月7日に厚生労働省に提出予定と書いてあった。そして先のNHKニュースによると、今日厚生労働省に届けられた署名は27万人分だという。Netでみると、28日現在では4万人だったので、その後署名した人は激増したらしい。
Netでみると、ビジネス界は冷徹。ツムラの株は下がり、ドラッグストア業界では(売上が増えるので?)保険適用外を歓迎、とある(ここ)。何ともはや、自己の利益の視点からしか見ない業界のスタンスに、言葉が無い・・・

自分?もちろん直ぐに署名したさ・・。今日の提出には間に合わなかったが、12月7日締め切り分で、提出されるだろう。
ただ一つ心強いのは、長妻厚生労働大臣が反対を表明していること。NHKニュースのインタビューでも、「患者の負担が増える話を非常に短い間で拙速に決めることについて疑問がある。署名やたくさんの要望がきているのでそれをよく見て判断していきたい」と語っていた。

でも、別の見方をすると、今回は「東洋医学会」の勝ちだと思う。11日に仕分けがあって、20日にはもう電子署名のサイトが立ち上がっている。このスピードは劇的なこと。こんな速さで署名活動が、しかも電子署名活動がスタートできたということは、関係者の危機感と共に、世論も巻き込んで自分たちの主張をキチンと言う、という戦略があったのだろう。それが27万というNet時代ならではの署名を集め、NHKニュースでも取り上げられる、という成果を生んだ。
これでこの話題もスパコンと同じくメジャーになった。1週間後の2回目の署名締め切りでも、たぶん数十万の署名が集まるだろう。
それにしても期待の(?)事業仕分けにはガッカリ。(←自分に悪く影響する項目があると、(現金だけど)評価は逆転するのだ!)

ニュースを見ながら、珍しくカミさんと「頑張れ!頑張れ!ナ~ガ~ツ~マ~~」なんて言ってしまった。

(「東洋医学会」の署名サイト)
漢方を健康保険で使えるように署名のお願い

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