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2009年11月 3日 (火)

中村元の「般若心経」(2/7)

中村元先生の「般若心経の講義」を、7回に分けて聴いてみる。
この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連続講義「こころをよむ/仏典」 (CDはこれ)の「第12回 空の思想-般若心経・金剛般若経」の部分を、『中村先生の声』と『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」(これ)を元に味わっていこう。

ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしーんぎょー
「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」
かんじーざいぼーさーぎょーじんはんにゃーはーらーみーたーじー
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時
しょうけんごーうん かい くー どー いっさい   くー やく
照見五蘊皆空度一切苦厄
しゃーりーしー しきふーいーくー くー  ふー いーしき
舎利子色不異空空不異色
しき  そく  ぜー くー くーそく ぜー しき
色即是空空即是色
じゅーそーぎょーしきやくぶーにょーぜー
受想行識亦復如是

<こころをよむ/仏典「般若心経」~その2>

「般若心経」の教え
まず最初に「般若心経」を読んでいきましょう。これは正しくは「般若波羅蜜多心経」といい、「般若心経」は略称です。
「般若」とはもとのことばでプラジューニャ「正しい認識」「真実の智慧」という意味です。「波羅蜜多」はパーラミターという言葉の音を写したもので、「完成」「究極に至る」という意味です。「心」とは、精髄、エッセンスということですから、つまり、「完全な覚りの精髄を述べた経典」ということになります。
このサンスクリットの原文もわが国に伝えられており、現に法隆寺には、いまから1300~1400年前に書かれた梵字の「般若心経」が完全な姿で伝えられております。東京・上野の国立博物館にある法隆寺宝物館で展観されていて、いまわれわれが見ましても、なんとか読めます。これは玄奘三蔵が訳した「般若心経」の原文にあたるもので、その当時のままの写本としていまに残る唯一のものです。インドにも他のアジア諸国にもありません。完全なかたちで伝えてくださった我々の祖先の努力に深く敬意を表し、感謝するものです。さて、この「般若心経」は、わが国では浄土教以外のほとんどの宗派で唱えておりますが、これは玄奘三蔵の訳によるものです。まず、その玄奘訳の漢文を見てみましょう。
・・・(ここ)参照・・
ここまでが「般若心経」の全文です。これからは、その漢訳の文章の書き下しをもとに、読んでまいります。

観自在菩薩、深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみつた)を行(ぎょう)じし時、五蘊(ごうん)皆空(くう)なりと照見(しょうけん)して、一切の苦厄(くやく)を度したまえり。舎利子よ、色(しき)は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたかくの如し。

まず最初に「観自在菩薩」とあります。これは「観音菩薩」「観世音菩薩」といっても同じことで、観音さまのことです。この観音さまが深遠な深般若波羅蜜多を実践なさったときに、つまり真実の認識というものを身につけて行われましたときに、五蘊はみな空であると見きわめられた。この、じっと真実を見つめるということによって、一切のわれわれの苦しみをお救いになった。
「五蘊」とはわれわれの存在を構成している五つの要素のことで、「色・受・想・行・識」の五つです。なお、ここに「一切の苦厄を度したまえり」とありますが、この文句は実は、サンスクリットの原文にはありません。おそらく玄奘三蔵がその主旨をとって、我々の真実の姿を見れば、苦しみ、悩みはなくなるという趣旨で付け加えたのだと思います。
「舎利子」とはもとのことばでシャーリプトラで「舎利弗(しゃりほつ)」とも記します。ブッダ第一のお弟子で、ブッダのかわりに説法できる信任が厚く、「智慧第一」と呼ばれました。この人によって仏教教団が発展したのですが、そのお弟子に向かって、次のように告げられました。
「色は空に異ならず」。「色」は五蘊のうちの最初ですね。もとのことばでルーパ、物質的な姿かたちです。我々は物質的な面を離れては存在しえないけれども、その本性を尋ねると、それは実は空にほかならない。ところが「空は色に異ならず」。その「空」とは、何もない虚無ではなく、現実に展開するものなのである。展開するものだから、それが具体的な物質的なかたちにほかならない。うちに何もない。何もないからこそ展開することができる。
「色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり(色即是空。空即是色)」。我々の物質面というものは実は空なのである。空というものは実は物質的なかたちとして展開するものである。
「受想行識もまたかくの如し」。我々の存在を構成する五蘊の他の四つが「受・想・行・識」です。「受」は感受作用、「想」は心に想う表象作用、「行」は我々をうちからつくり出す力のこと、「識」は識別作用、我々は常に意識をしておりますね、それらをいうわけです。我々の存在を構成する五つはいずれも空である。そして、空がまた色・受・想・行・識としてあらわれ出ている。
鏡の譬(たと)えというのが、仏典によく出てきます。鏡はうちに何ももっておりません。だから、いかなる姿も映し出すことができるわけです。鏡のなかに何か特殊な姿があれば、清らかに映すということができない。それに譬えられます。空であるからこそ我々の命、生存というものが実現する。そういうのであります。」(前田専学監修「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」より)

まさに「空」の思想であるが、分かったようで分からない・・。自分もここ数年来、般若心経を勉強するたびに、「空とは何ぞや」について、行きつ戻りつ・・・である。
昔、高校の頃、受験勉強で覚える事があるとよく“書いて”覚えた。般若心経も同じで、分からなければ、何度も唱え、読み、そしてこのように(記事に)「書く」ことで、少しでもその境地に近付けるかな・・と思って試しているのだが・・・・

でも今回、今までも何度か目にしてきた「鏡のたとえ」が一番分かるような気がした。たぶん死ぬまで分からないだろう「空」。気長にチャレンジするとしよう。

なお「般若心経」の全文、及び“読経”は、当サイトの記事「般若心経」勝手帖-03 全文ここ)にあるが、改めて下にあげておく。

<高野山金剛峯寺76人の専修学院生による般若心経>

(関連記事)
「般若心経」勝手帖
「般若心経」勝手帖-01“般若波羅蜜多”が分からん
「般若心経」勝手帖-02 仏さまの種類と六波羅蜜
「般若心経」勝手帖-05 「五蘊」とは
「般若心経」勝手帖-06 色不異空空不異色

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