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2009年10月12日 (月)

元土浦一高校長 横田尚義氏の回想記「生きた証し」

「恩師」を広辞苑で引くと「教えを受けた先生。師に対する敬称。」とある。よって横田先生は自分にとって恩師。しかし個人的な付き合いも無く、何かを話した記憶も無い。その横田先生が、最近急に身近になった??
Image03711 数ヶ月前、社業で知り合った高校の後輩から、横田尚義先生の回顧録「生きた証し」という本があるという話を聞いた。ヨット部の関係で、横田先生と長くお付き合いがあったらしい。
横田先生は自分が昭和38年に土浦一高に入学(18回生)した時の1年の時の担任。そして自分と入れ替わりに、昭和38年3月に卒業(15回生)した兄貴の3年の時の担任でもあった。つまり兄貴と自分が続けて2年間担任だったという縁・・。兄貴に回顧録の話をすると、ぜひ読んでみたいと言う。それでその本を借りる事にした。
パラパラとめくると、やけに軍隊の事が詳しい。特に興味も無いので、自分たちの事を書いた高校の時の部分だけを読んでから兄貴に回した。そうしたら兄貴は一日二日で読んでしまい、横田先生の事が良く分かったと言う。自分が江田島の海軍兵学校のところなどは読んでいないと言うと、そこをこそ読むべきという。そして、やっと先週末にその本を兄貴から返してもらったので、この連休に自分も一気に全部読み直した、というわけ。
Netで見ると故人の個人情報の取り扱いはあまりうるさく無いらしいので、横田先生の略歴を記す。

横田尚義 昭和2年(1927年)7月17日生れ(2008年9月没)
 昭和20年 3月 茨城県立土浦中学校卒業
 昭和20年10月 終戦により海軍兵学校閉校、二号生徒差免(第76期生)
 昭和23年 3月 東京高等師範学校理二卒業
 昭和23年 3月 茨城県立石岡高等女学校教諭
 昭和25年 4月 茨城県立土浦第一高等学校教諭
 昭和51年 4月 茨城県立土浦第一高等学校教頭
 昭和56年 4月 茨城県立筑波高等学校校長
 昭和57年 4月 茨城県立竹園高等学校校長
 昭和61年 4月 茨城県立土浦第一高等学校校長
 昭和63年 4月 東洋大学附属牛久高等学校校長
 平成 6年 3月 定年退職
 平成10年 4月 叙勲 勲四等瑞宝章 受章
 平成20年 9月 没

回想記「生きた証し」の「あとがき」にこうある。
「平成6年4月に46年間の教職勤務から離れて、はや4年余が経過している。退職後数か月の間は、勤務上の拘束からの開放感はあっても、身辺整理や家事整理などに追われて多忙な生活が続いた。しかしながら、夏も過ぎる頃には、段々と余暇をもて余し退屈になってきた。・・・・・思い切って、退屈まぎれにではあるが自分の一生を「生きた証し」として書いてみようと決心した。・・」

平成7年に起稿し、筑波書林からの発行が平成11年1月25日とあるので、4年越しの大作である。その内容は、日経新聞の「私の履歴書」に優るとも劣らない格調高い文章で読み応えがある。横田先生は物理・化学の先生。それなのにここまで格調高い文章が書けるとは、いかに頭が良いかの証拠??しかも読めない難しい漢字が多い。「愈々(いよいよ)」等々・・・(写真はクリックで拡大)

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自分の履歴を書く場合、“それぞれの時期の書く量”が自分にとっての人生の重要度を示すバロメータ。その視点で見ると、横田先生の場合、第1部 揺籃期 27頁、第2部 土浦中学 25頁、第3部 海軍兵学校 62頁、第4部 高等師範学校 26頁、第5部 高校教諭 63頁、第6部 管理職 82頁という配分。ここで目を引くのが海軍兵学校時代の項目のページ数の多さ。たった6ヶ月の期間だが、横田先生にとって如何に人生で重要な時期だったかが分かる。
もちろん自分は横田先生が江田島出身だったとは知らなかった。(もっとも江田島のことはほとんど知らないのだが・・・・)そして旧軍人だった事を知ってあまり良い印象は無かった。でも当時の軍国教育の中、「祖国のために身命を捧げようという崇高な気持ちとともに、何れ、徴兵により出征し二等兵として虐められるよりは、将校として活躍したいと思うのも自然のなりゆきであった。・・・」(p51)という記述を読むと、なるほど・・と納得する。しかも、自分が在校していたときに居られた体育の矢口四郎先生も同じ海兵出身だったんだね・・・、と兄貴とも話した。

この本を読んで、ヘエーと感じた事をメモしてみると、土浦中学の時は、出島から14キロの道のりを、悪路自転車通学をしていたとか。海軍兵学校時代、広島の原爆を江田島から目撃、そして終戦後、復員の時に広島駅で原爆投下後15日目の惨状を目撃したとか。そして20歳で高校教師に。土浦一高に赴任したのが22歳の時。自分の担任だった昭和38年は、35歳だった。今思い出すと、横田先生は落ち着いた紳士、超ベテランの先生だった。後に水戸一高の校長になった数学のT先生のように(ほとんどの先生が卒業した兄貴の先生と同じだったので)「**(←これ自分の名前)の兄貴はもっと出来たぞ」というイヤミを言うことも無く・・・。逆に事件が無かっただけ印象が薄いが・・・。そしてこの本を読んで、自分たちの年度の時に、学力別クラス分けについて生徒から批判が出て、それを元に昭和45年度から廃止されたという事を初めて知った・・・。
Image03761 そして52歳の時に車の免許を取ったとか。そして土浦一高のヨット部の顧問は創部以来。兄貴が言うには「横田先生がヨット部をやっていた事は知っていたが、休日に指導していたとは知らなかった」・・・。そして超優秀な息子さん二人・・・
かくして横田先生は土浦一高に、教諭として26年、教頭として5年、後に校長として2年の計33年間勤められたとか。

この本は非売品であり、何の縁で筑波書林で作られたかは知らない。たぶん教え子の縁なのだろう。そしてヨット部の同窓会か何かで配られたものらしい。
しかし、この様な充実した人生が送れた横田先生は素晴らしい。とうてい我々一般ピープルは足元にも及ばない。しかもこの様な一冊の本にして、まさに「生きた証し」としておられる。
兄貴に言ってみた。「これを真似して自分でも回顧録を書いてみたら?」。そしたら「とてもとても・・・」。
横田先生のちょうど20年後を走っている自分。もちろんこんな立派な充実した人生を送れてはいない。もちろん、もう取り返しも出来ない。でも“書くに値する”人生を送れた人は幸せだ。でも書かなければその事が残らないことも事実。そして、書いてもそれが読まれなければ簡単に消えて行く。その点、この回顧録はスタンスが実に素直で自慢臭さが無い。それに、兵学校時代の事は、読んでいて海軍兵学校の生活が実にリアルに分かり、読み物としても面白い。
この本から醸しだされる気品とエネルギーは、まさに横田先生の人柄から出たもの。結果として化学で大学に合格した(?)(=入試で化学は良く出来た・・)自分は、横田先生の“忘れ去られた門下生?”として、陰ながら感謝。(当時はそうは思わなかったが、「一高の先生方は優秀な人が多かったのだ・・」と、今更ながら兄貴と一緒に納得・・・)
ついでに日経新聞は、あまり有名でなくても(失礼!)このような見本となる人生もあるのだから、こんな一私人も日経のコラム「私の履歴書」に取り上げてみたらどうだろう・・・。それに値する人生だったことは、この本を読むと良く分かる。

最後に、あんまり関係無いけど、伊藤久男の「海ゆかば」を聞きながら、横田先生のご冥福を祈る。(別に戦死したわけではないが、回顧録を読んでフト思い出した歌・・・)

<伊藤久男の「海ゆかば」>

「海ゆかば」
  作詞:大伴家持
  作曲:信時潔

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

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コメント

初めまして
私は、同校21回卒です。
貴兄とは丁度1周期ずれていますので私も横田先生にはお世話になった口です。
私の年次では、確かクラス担任を持たず学年副主任をされていました。主任は体育の富田昇先生でした。
先生からは地学を教えて頂きましたがはっきり申し上げて失礼ながらあまり教え方の上手な先生では無かったとの印象を持っています。
まさか、校長にまでなられたとは今でも信じられません。
でもぼくとつとした誠実なお人柄はいまでも思い出されます。
数学の友部先生は水戸一高、わが恩師で担任であった宮崎先生は並木高校の校長と皆様それぞれご活躍なされました。
良い先生方に巡り会うことが出来た幸せをしみじみと感じ入る次第で御座います。
私も来年は還暦定年、諸先生方のように社会に貢献出来たのか反省させられます。
では、

【エムズの片割れより】
コメントありがとうございます。自分の卒業(18回)直後の入学ですね。宮崎先生は存じませんが、他の先生はみなダブっています。特に友部先生は3年の時の担任でした。
若いときに、自分の結婚式直前に同窓会があり、友部先生に久しぶりに会いました。そこで急に頼んだら式に出てくれるとのこと。それで厚かましく出席をお願いして、挨拶をして頂きました。高校の先生で唯一・・・。
お陰様で式は格好が付きましたが、その後、会社の部下の結婚式に出るたびに、あの時に、それほど懇意でなかった友部先生がわざわざ式に参列してくれたのは、大変な事・・・と、その申し訳なさが、今でも心に深く刻み込まれています。
しかし教師は大変な仕事ですね。

投稿: らかず | 2010年8月24日 (火) 23:37

もう二年ほどになります。「田舎の冬」、「追憶」へのコメントを差し上げた者であります。それを書いたポーランドの高原地帯の定宿に戻って、再びこの文章を書いておるところであります。部屋の暖炉にはもう薪が炊かれております。バス旅行で冷え切った身体に湯を浴び、宿のご主人と軍事教練を話題に、ビンベルという名の自家製ウォッカを飲んできたところです。。(ビンベルとは自家醸造すもも酒を銅製の装置で蒸留してつくった香り高い密造酒のこと)高校二年生の美しい娘さんが、小銃と拳銃射撃の教練を受け始めたということで、隊におった僕と話をしたくなったのです。ユーチューブ上で昭和18年の「学徒出陣」を見せましたが、彼らの服装の粗末さ、武装の貧弱さ、体位の劣弱さ、行進の不揃い等など、さんざんの評価でした。中立国の特派員などはこの行進を見て、日本は負けるという報告を書いたに違いないとも批判しておりました。軍は弱みを見せたら負けなのです。扶桑行進曲―これはオランダ人作曲の”ヤッパンマルス”のパクリではないかな―、水溜りと巻き脚絆を映し出したカメラワークは素晴しいという。僕はこれまで、隊長が刀を抜き、刀身を口前へともってゆく動作を意味をもたない所作と考えていたのですが、これは剣への接吻の所作なのだと教わりました。「海ゆかば」のメロディーはロシア正教の御詠歌のようだとも。歌詞が七世紀のものだと僕が教えると、皆驚ろいておりました。ただその意味する光景の悲惨さには声もなかった。彼ら家族はルシンというロシア族です。ユーチューブのロシア語動画で、ジャンナ ビチェフスカヤの歌う「陸軍幼年学校生徒のワルツ(Janna Bichevskaya ”Vals junkerov”)を聞かされましたが、いいですね。

【エムズの片割れより】
コメントありがとうございます。読んでいて、まるで別世界に引き込まれるようでした。
そうですか、ポーランドですか・・・。暖炉と地場のお酒・・・。いですね~~~。その場所の光景が目に浮かびます。
とにかく人の住む世界は広い・・・・。自分の住んでいる世界のちっぽけさを、再認識させられてしまいました。不思議な世界(?)をありがとうございました。

投稿: 永遠旅行者 | 2012年9月24日 (月) 03:51

突然のコメントで失礼いたします。竹園高校の同窓会で検索中に貴殿の「エムズの片割れ」が期せずしてヒット。横田尚義先生の記事に出くわしました。土浦一高では、同僚。竹園高校では校長としてお仕えいたしました。土浦一高はS37.4~S54.3の間、体育教員として奉職、以下竹園10年、牛久栄進11年で退職。後土浦二高2年、土浦工業3年。計43年の教職を経て、現在は、後期高齢者の仲間入り。元気で日々を送っています。

【エムズの片割れより】
そうですか・・・。私はS41年卒ですので、御一緒の時があったようで・・・。私の担任は、横田先生-鶴巻先生-友部先生でした。体育は、冨田先生でした。
数年前、ミニ同窓会で、鶴巻先生と友部先生にお会いした時、生徒よりも先生の方が若く見え、年月の流れを感じました。
一高も、今では自分など、到底入れない学校になってしまいました。昔で良かった!?

投稿: 丸島秀明 | 2015年8月28日 (金) 23:54

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