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2009年10月15日 (木)

中村元の「般若心経」(1/7)

中村元先生の「般若心経の講義」を、7回に分けて聴いてみる。
前に「般若心経」を考えてみた(ここ)。それに続いて、中村元先生の講義で「観音経(ここ)」「阿弥陀経(ここ)」を聴いた。しかし「観音経」や「阿弥陀経」と比較してみても、やはり「般若心経」は難しい・・・。頭の中を言葉だけがぐるぐる回り、やはり分からない・・。それでもう一度チャレンジ・・・というワケ。
この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連続講義「こころをよむ/仏典」 (CDはこれ)の「第12回 空の思想-般若心経・金剛般若経」の部分を、『中村先生の声』と『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」(これ)を元に味わっていく。

中村先生の講義は、「空」についての解説からスタートする。

<こころをよむ/仏典「般若心経」~その1>

Image03691 「今回は、「空」の思想について申しあげます。空の思想=「空観」とは、あらゆる事物が空であり、それぞれのものは固定的な実体をもっていないと見なす思想です。空の思想を説いた経典としては、特に般若経典が有名です。般若経典を集成したのが『大般若経』ですが、これは有名な唐の高僧、玄奘三蔵の訳で六百巻あります。これは途方もない数でして、わが国でもたとえば、こんな話があります。南北朝時代、大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王が敵に攻められて、必死に隠れ場を探したとき、『大般若経』六百巻の経箱があった、それでその中に身を隠して命を全うしたというのですね。それほど分厚いものです。
しかし、それを簡単にしますと、『般若心経』一巻の中にそのエッセンスが盛られているといわれます。短くもあり、また重要だということで、『般若心経』は日本の仏教ではもっとも多く読誦されているものです。また『金剛般若経』は、空の思想にもとづいて、われわれの心構えを説いているということでよく知られております。ここでは『般若心経』および『金剛般若経』について味わっていくことにいたしましょう。

ありとあらゆるものが空である
「空」について、少し敷衍(ふえん)いたしましょう。「空」という字のもとの言葉はシューニヤと申しまして、これは「膨れ上がっている」「中がうつろである」「中身が欠けている」といった意味です。そういう状況のことを、「空」と称しているのです。このシューニヤは、インドの数学では非常に重要な観念で、ゼロのことです。ゼロの観念は、世界の諸民族のうちでインド人が最初に考えついたことで、それが西洋にも伝えられ、ひいてはわが国にも渡ってきました。みなさんご承知の「0」の記号は、もとはサンスクリットのゼロをあらわす記号から由来するもので、非常によく似ております。
さて、ブッダが亡くなったのち、仏教が発展していくなかで、色々な学派が出ました。もっとも有力なのは「説一切有部(せついっわいうぶ)」と呼ばれるもので、これはいわゆる小乗仏教の代表的な学派であると見なされていますが。この学派では、「一切のものが有る」と説くのです。つまり、何らかのあり方というものが固定していると説く。それに対し、それは皮相な見解であるということを大乗仏教の方では説きまして、とくに般若経典のなかでは、ふつうは否定的にひびく「空」ということばをくりかえし説いているのです。
われわれは見るもの、経験するものが固定的な実態を持っている、そう考えがちです。けれども、固定的な実体をもった永久不変のものというのは、形あるものとしては存在しませんね。たとえ百年二百年続いたとしても、千年一万年となれば、また消え失せます。だから、われわれは固定的なものという観念を懐いてはならない。ありとあらゆるものが空である。種々の事物というものは他のものに条件づけられて成立していて、そのかぎりにおいて存在しているものである。固定的・実体的な本性をもっていない。本体を持たなければ、空であるといわねばならない。そう見なすのが空の思想なのです。
すでに原始仏教において、「世間は空である」と説かれていましたが、般若経典ではそれを受けてさらに発展させ、それを大乗仏教の基本的な教えとしたのです。
では、すべてが空であるならば実践が成立しえなくなるではないか、と思われるけれども、般若経典は逆だというのです。もしも、われわれの煩悩とか悩みとかいうものが、固定した永久不変のものであるならば、煩悩がなくなることはありえない。けれど、われわれの執著(しゅうじゃく)でも煩悩でも悩みでも、その本体は空である。だからこそ修行によって、それをなくすることができるのだ、という。こういう理を体得することが無上のさとり(無上正等覚=むじょうしょうとうがく)、つまり自分で、気がつくことなのですね。それ以外に無上のさとりというものはありえない
。」(中村元「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」より)

この「空」が分からなければ「般若心経」は理解できない、という。「空」については、自分は前に「世の中にある物は全て分子の集まり。だから数万年経てば、皆バラバラ・・」と捉えた。よってその分子で出来た頭脳が考える「煩悩」「悩み」も所詮“空”である!?・・・ここまでは良い。しかし、だからと言って、我々が抱えている悩みがどうだというのか・・・。ここで挫折する。中村先生の言葉を借りると「だからこそ修行によって、それをなくすることができるのだ、という。こういう理を体得することが無上のさとり、つまり自分で、気がつくことなのですね。」という。
ウーン・・・。やはりピンと来ない。やはり言葉だけが一人歩きしている・・・・。
何十回も繰り返して納得しようとしてきたが、相変わらずダメ・・・。もう一度中村先生の言葉を辿りながら、勉強することにしようか・・・・。(自分はやはり哲学者にはなれないようだ・・・)

(関連記事)
<「般若心経」勝手帖>

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