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2009年9月 6日 (日)

昭和31年の出来事(9歳)~マヒナスターズの「好きだった」

自分が生まれてから順に、その年の出来事を辿るシリーズの10回目。自分が8歳から9歳になる昭和31年(1956年)の出来事を調べてみる。
090906manaslu 「日本隊マナスル登頂」は記念切手の図柄を覚えている。そして「メルボルンオリンピック」は自分が記憶にある初めてのオリンピックだった。体操の小野喬が個人総合で優勝。
ラジオ番組では「赤胴鈴之助(ラジオ東京)」や「少年探偵団(ニッポン放送)」など。映画では「ビルマの竪琴」やチャールトン・へストンの「十戒」がこの年の公開。
歌謡曲では「若いお巡りさん(曽根史郎)」「東京の人よさようなら(島倉千代子)」「リンゴ村から(三橋美智也)」「ここに幸あり(大津美子)」「哀愁列車(三橋美智也)」「どうせひろった恋だもの(コロンビア・ローズ)」などなど。
この年に発売された歌で、今日は「好きだった」を挙げよう。鶴田浩二の歌で昭和31年10月発売。実は、自分はマヒナスターズがオリジナルだとばかり思っていたが、オリジナルは鶴田浩二だった・・・。でも先ずはマヒナで聞いてみよう。これは昭和34年発売である。

<和田弘とマヒナスターズの「好きだった」>

「好きだった」
  作詞:宮川哲夫
  作曲:吉田正

好きだった 好きだった
嘘じゃなかった 好きだった
こんな一言 あの時に
言えばよかった
胸にすがって 泣きじゃくる
肩のふるえを ぬくもりを
忘れられずに いるのなら

好きだった 好きだった
俺は死ぬ程 好きだった
云っちゃならない 「さよなら」を
云ったあの日よ
笑うつもりが 笑えずに
顔をそむけた 悲しみを
今も捨てずに いるくせに

好きだった 好きだった
口にゃ出さぬが 好きだった
夢にまで見た せつなさを
知っていたやら
馬鹿な男の 強がりを
せめて恨まず いておくれ
逢える明日は ないけれど

今から思うと、この年は、自分の歴史にとって大きな転換点だった?悪い意味で・・・
小学校3年生のときの悪い思い出。いまだに覚えているが、その日は、授業参観の前で、教室の先生の机の上に、授業参観用の何かの書類が書き掛けで置いてあった。皆でワイワイとその机の回りに集まった。その時、良くは覚えていないが、インク瓶をひっくり返したような状況になった。その瞬間、回りにいた友達は皆いなくなって自分だけが取り残された。「**ちゃん(自分)がやった」・・・と。次に覚えている情景は、ひとり校庭の片隅に居る自分。そして、誰もいない校庭の向こうに校舎が見える・・・(孤独感と絶望感・・)。当然、先生に一人叱られた。その事は、家に帰っても母親には言えなかった。そして通信簿に何が書かれるか心配だった。そして1学期の通信簿には、「明朗、素直でまじめに物事をしますが、時々いたずらをします。授業中もう少し活発に発表ができるようにしたいと思います」と書かれていた。“事件”の事が詳しく掛かれていなかったのでホッとした。
その女の先生との相性は悪かったらしく、掃除時間に雑巾掛けをしていて先生の足にぶつかった事があったらしく、後で先生に「**さんがぶつかった所がアザになった」とイヤミを言われたのを覚えている。
それが自分の初めてのトラウマになったらしく、以後、自分は内向的になったのだ!
2学期の通信簿には「まじめによく学習していますが、自分から進んで発表をしない故、大変おしいと思います」。一応客観的に書いてあるが、自分はその先生の前で完全に萎縮していたのであ~る。たまたまその先生は2学期で退職し、3学期からは新しい先生になったので、自分に取ってまあ良かったのではあるが・・・。

先日の小旅行のときに、車の中でカミさんに「自分はこの事件で内向的な性格になったのだ。よって子供に対する先生の影響は非常に大きい」と話したら、「それは元々持っていた性格じゃないの?それがたまたま出てきただけ」とのたまわる・・・。
何が自分の本性かは分からないが、この事件があった小学校3年生の1学期から、少なくても中学2年生位までは内向的な性格だったと、自分では思っている。その後は?・・ →また別の(内向的じゃ無い)本性が出たのさ・・・。もちろんサラリーマン時代も確かに内向的ではなかったけど・・・。
何が自分の本性か、未だに分からない日々が続いているのであ~る。

最後にオリジナルに敬意を表して、鶴田浩二の歌も聞いておこうか・・・

<鶴田浩二の「好きだった」>

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コメント

父親の仕事の関係で昭和26年から27年の間で2回小学校を変えたため、しかも田舎から都会の山の手の小学校そして、下町の小学校というわけで、3つの小学校を転々としました。しかも戦後の混乱期が続いていましたから、最後に移った小学校では、私の机と椅子は用意されていませんでした。ですからその日にならないと私が座る椅子も机も決まらず、勿論、教科書もありませんでした。
それでも、2年生の終業式を迎えるときには、人気No.1になっていました。この小学校は1年から6年までクラス替えはなく、私はクラスの代表者として4年間このクラスの面倒をみることになりました。そして現在も付き合いがズーっと続いています。今となっては私の本当の意味での宝になってしまいました。仕舞い込んであったあの時代の思い出が浮かんできました。

【エムズの片割れより】
そうですか・・。なかなかの実力者・・・。
小学校の時の転校は、子供心に大事件として残りますね。自分は一度だけでしたが、未だに良く覚えています。今の子どもはどうなんでしょう・・・

投稿: 中野 勝 | 2011年8月 7日 (日) 15:58

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