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2009年7月11日 (土)

「チベット僧が見た日本と日本人」

NHKラジオ深夜便で「インタビュー『チベット僧が見た日本と日本人』釈尾会主宰 安井妙洋、チベット僧侶 ツプテン・パルダン」を聞いた。(2009/6/30放送)
日本人の生き方をチベット仏教の目で見た(?)話で、なかなか面白かった。パルダンさんは現在64歳でラダック人。しかし文化的には、インド北部のラダックはチベットと同じで、言葉も文字も共通だという。そしてパルダンさんは、ラダック語、チベット語、ヒンズー語、そして英語を話すという・・・

ツプテン・パルダンさんを日本に招聘した釈尾会主宰 安井妙洋さんは言う。
・日本人は精神的に弱くなっている。自殺者3万人。⇒「若い人は癒されたいと訴えている。どうするか?→悟ること。どうすれば?→満足すること」。パルダンさんのこの言葉が心に残った。
・日本人は占いをする。でも自分が満足する結果が出るまで、何回もやる。占い師を替えて何回も。それが際限なく自分を追い込んで行く。

そしてパルダンさんは言う・・・。
・釈尊は様々な教えを残したが、「満足すること」が一番大切な教え。満足するとはどういうことか。
・様々のものを期待する。より多くのものを欲しがる。それにより執着が強まる。それが根本の原因。
・現在の状況に満足すること。それで満ち足りること。これが一番大切。例え少しのお金でも、人は生活出来る。多くのものを欲しがるのではなく、満たされることが大切。
・釈尊は言った。それはどういうことか。お金をたくさん持っている人が満足しているか?違う。多くのものがあるからこそ、人は更に多くのものを欲しがり、より強い執着心が生まれる。それが問題。
・ラダックの生活のレベルは高くない。でも満足し、幸せに暮らしている。それは、教えを学び、教えを授かるというシステムが根付いている。それはカルマ=行動=「行いによって全てが決まる」という考え、そして「満足する」という考え。この二つの考えを忠実に守ってラダック人たちは生きている。それほどの緊張感もなく、忙しい生活を送っているわけでもなく、みな本当に平和に暮らしている。
・ラダックに比べて日本の印象は、インドでは食べたもののゴミを道端に捨てても誰も気に留めないが、日本人はゴミを道端に捨てない。洗練されていて美しい国。二つ目の印象は、他人との関係が少なくなっている。重要視されていない。ラダックではみな知り合いなので道で目が合えばコンニチワ。大都会のデリーでも同じ。日本は他人に無関心。自分が目立つ袈裟を着て歩いていても、声を掛ける人は居ない。
・お釈迦様の教えで最も大切なことが、耐えること。忍耐。人が自分に攻撃しても私は耐える。仕返しをするとどうなるか。よりひどい、悪い結果が待っている。耐えること、これが一番大切なこと。誰かが私を殺そうとする。それでも耐える。生あるものは必ず死ぬ。そして生まれ変わってくる。死ぬことは特別なことではない。私は耐えて受け入れることができる。仕返しはしない。殺す方もカルマ、殺される方もカルマ。
・「カルマ」は、日本語の「業(ごう)」と違って暗くない言葉なので受け入れ易い。余命1年の人も、死ぬ事に対し執着があったが、だれも明日の命は分からない、と思うと心が軽くなった。これは自分が持って生まれたカルマ。それは変えられない。それによって乗り越えられる気持ちが沸いてくる。
・カルマとは、良い行いをすれば良い結果が生まれ、悪い行いをすれば悪い結果が生まれる、ということ。悪い行いは無知から来る。よって物を知る知恵が大切。ラダックの家では、毎朝バターランプの灯明を灯すが、この灯りは知恵の象徴。
・ラダックにはうつ病の人は一切居ない。なぜか。人は充足し幸せな気分で毎日を過ごしているから。もし悩み事があり、苦しみが生まれても「これは私のカルマである。この苦しみは受け入れないといけない」。そう考えると、その苦しみは過ぎ去っていく。
・どうすれば世界は平和になるか?人間には2つの追い求めるものがある。ひとつは物質的な充足、もうひとつは精神的な発展、心のゆとり。物質的な充足だけでは幸せになれない。精神的な心の充足を追い求めて実践すること。実践とは釈迦の教えを正しく理解して行動に移すこと。それには良い教師から正しい教えを授かる事。そして、それを自分の中で考え、良いか悪いかを判断し、来世の事まで考えてから行動に移す。これが仏教徒としての正しい道。

今回のインタビューは、仏教の本場の僧だけあって、なかなか含蓄に富む話だった。(せっかくなので、(ここ)に数日間だけZIPファイルを置く。ホンモノを聞きたい方は早めにどうぞ。⇒クリック後、ダウンロードの為5分間待つ事・・・)
多神教の(?)日本人は、なかなかここまで一つの宗教に没頭できない。しかしブータンもまったく同じだったが(ここ)、日常の価値観をどこに置くかで、毎日の我々の生活態度は一変する。ラダックでは、お金を稼ぐことや物質的な富よりも、日々の幸せを一番大切なことと位置付けて生活しているという。

しかしこの話を聞いて、一歩自分から離れて眺めてみることが、いかに大切かが分かる。思いも掛けない言葉にハッとする・・・。
自分たちの生活は、正直、(ビジネスも含めて)「やられたらやり返す」というような日常・・・・。それを愚かなことだとは言えないだろう。しかし、たまにはこんな話を聞いて、自分とは別世界があることを知るのも大切なのかもね・・。(←とても「真似します」ナンテ、言えないけど・・)


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コメント

お蔭様でチベット僧のお話を聞くことができました。
インドの人がどうして道にごみを捨てるのか?ごみを捨てることは悪いカルマではないのか?
そう、多分ごみを捨てることを全く悪いことと思っていないからだと私は思います。
北九州市出身の写真家、藤原新也の写真集“メメント・モリ”の犬に食われる死体の写真とコメント「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」を思い出しました。ごみはおろか放置された死体さえも珍しくないと聞きました。そういうインドに病み付きになる日本人も多いとも。
ただ、パルダンさんもお忙しかったのか、日本も海や山に行けば不法投棄のごみの山であることは見逃されたようです。
日本人は悪いと知っててこそこそ捨てる、もっと恥ずべきです。

投稿: 周坊 | 2009年7月12日 (日) 22:27

周坊さん

確かにインドでは悪いと思っていないで捨てているのかも・・・。それに引き換えて、日本人は捨てるのは悪いと知っていますので、タチが悪いのかも知れませんね。何を基準にするかで、何事も姿が変わってしまう・・・

投稿: エムズの片割れ | 2009年7月20日 (月) 20:02

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