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2009年7月 6日 (月)

「臓器移植法改正」~額田勲氏の主張

朝日新聞の2009/7/5付け「私の視点」は、額田勲氏の「臓器移植法改正 修正、医療全体と整合図れ」という主張で、医療現場からの同法への新鮮な意見で、なるほど・・と思った。曰く・・・

臓器移植法改正 修正、医療全体と整合図れ
   医師、神戸生命倫理研究会代表 額田(ぬかだ)勲
衆議院で臓器移植法の改正案が可決された。現行法が成立してから12年間、国会は3年を目途に法案を見直すとした約束を、どのように果たそうとしてきたのか。
四半世紀この方、脳死論議のピークの時代には日本社会が右肩上がりの経済成長に酔い、「人の命は何にも代えがたい」式の救命論を背景に臓器移植の導入が声高に叫ばれた。いま深刻な医療費抑制の時代を迎え、医療費や社会保障費が実質的に削減されて医療現場の悲鳴が高まり、状況は一変の様相である。
誤解と反発を恐れずに言えば、医療環境の激変に即して私の属する地域医療の現場などではとても臓器移植どころではない雰囲気が強まり、臓器移植という医療の位置づけは相対的に低下を余儀なくされた。法改正などの論議は影を潜めざるを得なくなっているように思われる。
例えば目下、小児の移植が話題になる一方、幼児救急における日本の救命率が先進国で最悪という事実が一つの焦点となっている。医療崩壊により、瀕死の幼児に適切な救命・救急を提供できず、本来なら救えた命が無残にも失われているとの批判は急である。いや、医療一般においても保険料率の引き上げ、医療費削減などが徹底される政策により、国民保険喪失のため受診が遅れて命を失うような「無念の死」が頻発している。
それら個別医療における矛盾は、以前であれば臓器移植と別次元の話と一笑に付された。だが、未曽有の危機に陥っている医療の現況では、臓器移植で救われる命と、経済的理由で受診できずに失われる命と、どちらがより重いのかが論じられても決しておかしくはない。
多大な医療費を要す脳死・臓器移植をめぐる費用対効果の論議は移植医療隆盛の米国でも絶えず繰り返され、80年代にはオレゴン州政府が臓器移植への公費支払いを拒絶して大きな反響を呼んだ。
低医療費政策の下で限られた医療資源を効率的に配分しなければならない厳しい現実を前にし、脳死・臓器移植と医療全体の整合性を図る本質的な論議は最優先のはずである。しかし、衆議院で可決された改正法案は提供臓器の増加だけを自己目的とした「臓器獲得強化法」というべき性格だ。臓器獲得促進のためには「脳死を人の死とせねばならない」との論拠だが、「脳死=人の死」が及ぼす脳死者への医療行為打ち切りや医療費負担、相続など民法上の問題等々をもっと考えるべきである。
今回の駆け込み審議では核心の論点、課題が多く棚上げにされた。医療崩壊をはじめ社会全体に及ぼす多大の影響に対し参議院が多面的、重層的な検討をされ、良識ある修正をするよう切望する。」(2009/7/5付 朝日新聞より)

この主張には、ハッとする指摘が多い。「幼児救急における日本の救命率が先進国で最悪という事実」。「臓器移植で救われる命と、経済的理由で受診できずに失われる命と、どちらがより重いのか」。そして、あえて「臓器獲得強化法」という過激な表現をして額田氏は警鐘を鳴らしている。

自分はここで臓器移植法改正についての賛否を論ずるつもりもない。でも医療現場からのこの意見は、我々に“見落としていた大切な視点”を教えてくれているように思う。

言うまでも無く日本は国会議員を通して国民の意思を国政に反映させる。しかし、このような「脳死は人の死」だと“人の死を法律で決める”という倫理問題に、この代議員性がマッチしているかというと、自分ははなはだ疑問に思う・・・。
つまり、衆議院では人の生命に関する問題(=死生観、宗教観、価値観など)だとして(棄権の共産党を除き)どの党も党議拘束をかけなかったが、議員が“自由意志で投票”した考え方が、本当に全国民の集約された考え方になるのだろうか・・。
新聞は、内閣支持率は盛んに報道する。色々な手法で世論の動向を数字にする。しかし臓器移植法改正についての世論動向の数字は見たことが無い。確かに、内閣支持率と違って、興味のない人は「そんなの知らない」で終わるのかもしれない。しかし、国民の“真の意識”とは違った方向に進んでいるようで怖い。
意識は無いが、心臓は動き、子供も生める状況で、法律で「人間の死と決めた」ので“家族が同意した”ので臓器を摘出する・・・という動きを、(賛成263、反対167なので)61%の国民が本当に賛成しているのだろうか・・・
良識の府としての参議院。その存在意義がいま正に問われている。


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コメント

死の認定が、場合によって異なるということは一体何を意味するのでしょうか。同じ状態でも、移植に関係のある場合は死、移植に関係のない場合は死ではないというのは、私などには理解できません。
西欧の文明は、エムズの片割れさんが言われるところの「大いなるもの」に追いつけ追い越せで発展してきたと思います。宇宙から遺伝子に至るまでです。人工臓器を埋め込む、それがだめなら本物を移植する。生きた臓器でなければならぬなら、死んだことにする。感謝どころか、足るを知らない貪欲さです。
斯く云う私も、心臓にステントという血管補填材を埋め込んで生きています。「こうすれば生きられますよ」と云われたらもう神も仏もありません。
人間とは弱いものです。

投稿: 周坊 | 2009年7月 7日 (火) 22:08

周坊さん

全くその通りです。7月13日に参議院で採決されるとか。今は自分の目の前に何も無いので理屈で色々言っていますが、もし自分または家族に「臓器移植の手段がある」と言われたら、恥も外聞も無く「誰か助けて・・!」と言いそうで・・・。いや確実にそう言うでしょう。
これは人の強さ弱さではない?では何なのでしょう。やはり「我」「欲」なのでしょうか・・・

投稿: エムズの片割れ | 2009年7月12日 (日) 14:51

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