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2009年7月12日 (日)

中村元の「阿弥陀経」(9/10)

この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連続講義「こころをよむ/仏典」 (CDはこれ)の「第19回 極楽国土を欣求する-阿弥陀経」の部分を、『中村先生の声』と『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ4 大乗の教え(下)」(これ)を元に味わっていくもので今日はその第9回目、引き続き念仏による極楽往生の勧めである。

<こころをよむ/仏典「阿弥陀経」~その9

しゃりほつ がけんぜり こせつしごん にゃくうしゅじょう もんぜせっしゃ おうとうほつがん 
舎利弗 我見是利 故説此言 若有衆生 聞是説者 応当発願
しょうひこくど しゃりほつ にょがこんじゃ さんだんあみだぶつ ふかしぎくどく  
生彼国土 舎利弗 如我今者 讃歎阿弥陀仏 不可思議功徳 

とうぼうやくう あしゅくびぶつ しゅみそうぶつ だいしゅみぶつ しゅみこうぶつ みょうおんぶつ  
東方亦有 阿シュクビ仏 須弥相仏 大須弥仏 須弥光仏 妙音仏
にょぜとう  ごうがしゃしゅしょぶつ かくおごこく すいこうじょうぜっそう へんぷさんぜん
如是等 恒河沙数諸仏 各於其国 出広長舌相 ヘン覆三千 
だいせんせかい せつじょうじつごん にょとうしゅじょう とうしんぜしょうさん ふかしぎくどく 
大千世界 説誠実言 汝等衆生 当信是称賛 不可思議功徳
いっさいしょぶつ しょごねんぎょう
一切諸仏 所護念経


「阿弥陀仏をたたえる仏たち」
次にもろもろの仏さまも信仰をすすめているということを説きます。

「舎利弗よ、われ、この利を見る。かるがゆえにこの言(ごん)を説く。『もし、衆生ありてこの説を聞かば、まさに願を発(おこ)して、かの国土に生まるべし』と。
舎利弗よ、われ、いま、阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎(さんたん)するごとく、[かくのごとく]東方にもまた、阿シュクビ仏、須弥相(しゅみそう)仏、大須弥(だいしゅみ)仏、須弥光(しゅみこう)仏、妙音(みょうおん)仏、かくのごときらの恒河(ごうが)の沙(すな)の数[ほど]の諸仏ありて、おのおの、その国において、広長(こうちょう)の舌相(ぜっそう)を出し、あまねく三千大千世界を覆(おお)いて、[この]誠実(じょうじつ)の言(ごん)を説きたもう、『汝ら衆生よ、まさに、この、<[阿弥陀仏の]不可思議の功徳を称賛する、一切諸仏に護念せらる[と名づくる]経>を信ずべし』と。」

わたしはこういういいことを見る、だからこう説くのだ。もしも衆生がこの説を聞いたならば、あの国土に生まれようという願いを発すべきである。そして続けて、ほかの仏さまも、自分がいまそのように褒めたたえているように、阿弥陀仏の不思議なすぐれた徳を称賛している、というのです。
東のほうには、「阿シュクビ仏」「須弥相仏」「大須弥仏」「須弥光仏」「妙音仏」、そのほか大ぜいの「恒河(ごうが)」の沙の数ほどの諸仏がいらっしゃる。恒河とはガンジス河のことで、途方もなく岸辺が大きいのですが、そこにある砂の数とはいったいどれほどのものか。これは無数というしかありません。その数ほどの大ぜいの仏さまがおられて、めいめい、その仏国土で、「広長(こうちょう)の舌相(ぜっそう)」、広く長い舌の姿を出して説法される。仏さまのすぐれた姿のひとつに、舌が広くて長いということがあります。あまねく三千大千世界を舌で覆って、誠のことばをお説きになる。「おまえたちはこの阿弥陀さまの不思議の徳をほめたたえる、一切の諸仏に念じ守られている、その事柄を説く経典、つまり阿弥陀経を信ぜよ」というのですね。
このあと、南方・西方・北方・下方・上方の世界の仏さまの名前があげられて、同様なことが述べられます。南方では、・・・(略)・・・といった仏さまの名前があげられ、そのほか数えられないほどの大ぜいの仏さまが、同じように阿弥陀さまをたたえ、その経典を信ぜよと説いておられる。
なお、お気づきと思いますが、ここに「無量寿仏」ということばが出ています。これは経典の主題である阿弥陀仏=無量寿仏とどういう関係になるのか、昔から学者が盛んに論じてきました。わたし個人の見解ですが、大乗仏教が発展して大ぜいの仏さまを考えるようになったある段階で、どの方角にはどの仏さまがいるというスキーム、つまり体系が出来上がったからではないでしょうか。阿弥陀仏=無量寿仏がすでにあることに頓着せずに、その体系をここへもってきたのでしょう。近代人が感じるような矛盾を、インドの人は感じなかったのだろうと思います。
また、下方の世界の仏さまに、「達磨」とあります。これはサンスクリットのダルマ、つまり「法」「理法」のことですが、これが人格化された。インドの叙事詩『マハーバータラ』などでは、これが死後の世界における審判者とみられ、ヤマ、つまり閻魔さまと同一視されます。そういう叙事詩の背景があるために、それがここに反映して、下方の世界にこういう仏さまがおられるということになる。また、上方の世界の「梵音(ぼんのん)仏」の「梵音」は梵天の音声という意味です。梵天は上のほうにいますから、上方ということになるわけです。
そしてこのあと、「善男子・善女人」がこの阿弥陀さまの名、あるいは経を聞いたならば、これらの仏さまに守られることになり、「阿耨多羅三藐三菩提」、すなわち正しいさとりから退くことはないと説きます。だから「もろもろの善男子・善女人にして、もし信あらば、まさに、かの国土に生まれんと願を発すべし」というのです。


極楽往生へのプロセスは、「発願往生(ほつがんおうじょう)⇒執持名号(しゅうじみょうごう)⇒心不顛倒(しんぷてんどう)・臨終来迎(りんじゅうらいこう)⇒極楽往生」

東西南北の四方と下方・上方の六方の世界の仏たちが、みな阿弥陀仏への信仰をすすめ、その徳を讃える、と説く。

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