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2009年7月13日 (月)

昭和28年の出来事(6歳)~織井茂子の「君の名は」

自分が生まれてから順に、その年の出来事を辿るシリーズの7回目。
自分が小学校に上がる前の、5歳から6歳になる昭和28年(1953年)の出来事を調べてみると、1月15日に現在も使われている10円硬貨の発行、2月28日の吉田首相の「バカヤロウ」発言による解散、国産初の白黒テレビの発売、そして映画「君の名は」の“真知子巻き”の流行・・・等々。
映画では「君の名は」が9月に、「東京物語」が11月に封切り。「禁じられた遊び」や「ローマの休日」もこの年に日本公開されたという。

そして歌では、美空ひばりの「津軽のふるさと(ここ)」(1月)、高英男の「雪の降るまちを(ここ)」(6月)、織井茂子の「君の名は」(9月)、「黒百合の歌」(10月)、伊藤久男の「ひめゆりの塔(ここ)」(7月)、「君いとしき人よ(ここ)」(9月)などがあるが、この年に大ヒットした映画「君の名は」の主題歌は外せないだろう・・・。

<織井茂子の「君の名は」>

「君の名は」
  作詞:菊田一夫
  作曲:古関裕而

君の名はと たずねし人あり
その人の 名も知らず
今日砂山に ただひとり来て
浜昼顔に きいてみる

夜霧の街 思い出の橋よ
過ぎた日の あの夜が
ただ何んとなく 胸にしみじみ
東京恋しや 忘れられぬ

海の涯に 満月が出たよ
浜木綿の 花の香に
海女は真珠の 涙ほろほろ
夜の汽笛が かなしいか

小学校に入る1年前。記憶に残っている事は・・・と頭をひねる。ほとんど出てこない。フト、幼稚園から逃げ帰ってきた事を思い出した。当時、全体的に幼稚園などに行く雰囲気は無かったが、なぜか一度連れて行かれた記憶がある。でも小心者の自分は、一人で幼稚園に置いていかれる「恐怖心」に耐え切れず、泣きに泣いて、家に逃げ帰った事をかすかに覚えている。事情は分からないが、その後幼稚園に行った記憶が無いので、たぶんそのまま止めたのだと思う。
次の年に小学校に上がるというのに、この小心者の行く末をお袋は案じていたかもね・・・。(←まあ、でもそれから半世紀以上経って“こんなになって”しまったので、まったく心配は無かったのではあるが・・・・)
いよいよ、少しずつ記憶が蘇って来る年代になってきた。

最後に、付録として、織井茂子の「君の名は」のステレオ再録盤を聞いてみよう。自分は2種のステレオ録音を持っているが、こっちの方が声に深みがあって好きだ。

<織井茂子の「君の名は」>ステレオ再録盤 

(2012/08/29追)
<「君の名は」のナレーション> 
 
(ナレーション:鎌田弥恵)

<「君の名は」テーマ音楽> 

<ラジオドラマ「君の名は」第1回ハイライト> 

(2013/03/09追)
<ラジオドラマ「君の名は」オープニング> 
 

(2015/05/21追)
<ラジオドラマ「君の名は」~数寄屋橋にて>

(関連記事)
映画「君の名は」を見る

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コメント

お久しぶりです。
昭和28年、私は2歳でしたから、その頃の記憶は全く残っていません。

エムズの片割れさんの真似をして、私もブログで生まれた年を振り返ってみました。
当然、その年のことは、全く覚えているはずが無いのですが、記事を書いていて、何となく懐かしさを感じたりしました。

投稿: エカワ | 2009年7月14日 (火) 23:18

昭和28年、私は中学2年生でしたが、それまでスフ(人造絹糸)のペラペラのセーラー服を着ていましたが、やっとサージ(毛の綾織)が出回って、新しいセーラー服を着られるようになりました。29年のお正月には始めて500円のお年玉を貰いました。嬉しくてすぐ本屋に飛んでいき、下村湖人の文庫本『次郎物語』4巻を買いました。480円で20円しか残りませんでした。物価が高かったですね。少しずつ良い物が出回り始めた年です。

投稿: 白萩 | 2009年7月15日 (水) 00:09

エカワさん
還暦は一回りして元に戻る事のようですので、今までの道を振り返るのも面白いかも・・・。

白萩さん
次郎物語ですか・・。懐かしいですね。昔読みました。しかしお年玉で本とは見上げたもの・・。自分などオモチャでした・・・。

投稿: エムズの片割れ | 2009年7月20日 (月) 20:07

織井茂子は往年の歌手の中で大好きな歌手の一人です。
この時代の歌手の中で、(カセットテープですが)自分で買って持っているのは織井茂子だけです。
子供心に、(なつかしのメロディーなどで見ていても、)この人の声量と歌唱力は他の女性の歌い手とは違うと思いました。「黒百合の歌」とか凄いですよね。

「君の名は」の映画というと、佐田啓二と岸恵子ですね。
佐田啓二というと私には特別な思いがあります。佐田啓二は私の父の早大政経での友人でした。(父は、教員義務年限終了後再度大学に行ったので十才位年上だったようです。)学生時代一緒に写っている写真はありましたが、昭和31年春に父と共にお目にかかったときは大歓待してくださって私はビックリしました。戦争中の学徒動員など生死を賭けた時を共に過ごした仲間ですから、私たちでは計り知れない絆があるんだろうなと、その時のことを思い出す度に感じたものでした。

そして、「君の名は」の歌を聴いていて思い出したのは、この時代の歌手で、父は織井茂子より奈良光枝が好きだったということでした。奈良光枝は学生時代よくお見かけしたようでした。
奈良光枝というと「青い山脈」を藤山一郎と歌っていた美しい歌手だったという印象です。

投稿: ジャン | 2009年7月28日 (火) 08:28

ジャンさん

ヘエーそうですか・・。我々一般ピープルでは窺い知れない貴重な体験をお持ちのようで・・・。世の中、色々あるのですね。狭い・・・?
奈良光枝は「赤い靴のタンゴ」ですよね。まさに懐かしのメロディーです・・・

投稿: エムズの片割れ | 2009年7月28日 (火) 22:07

あちこちに顔を出して申し訳ない。(汗"""
それだけ、同世代と言う共感するコーナーが多いのです。

昭和28年ですか・・・私も4才になってましたので、疎開先から街中に戻ってきた時代でしたねぇ~(しみじみ)

昭和24年生まれは、第二次ベビーブームと言われ、戦後の混乱時代を生き抜かなければなりませんでした。
「小学校の二部授業」ってご存知でしょうか
とにかく、生徒数が多く、それに対して教室の数が足りない。そこで、朝行きと昼行きの二部授業・・・遊びに夢中になり、よく昼行きの授業を忘れました。(笑)
私達は、小学校から大学並みの授業のコマ割だったのです。

それからは、競争につぐ競争社会!、なにせ
1クラス40人おりましたから、クラスで5番以内の成績でないと、公立高校に進学できない、今からは考えられないような学生生活でした。
当時、私は音楽が好きで、将来は音楽家になろうと思っておりましたが、親が許しませんでした。(男が音楽で飯が食えるかぁ)です。泣く泣く技術系に進み、経済的には安定しましたが、音楽の道に進みたかったです。

・・・余りこんな話が続くと暗くなりますのでこの辺で止めるとして、「君の名は・・」は、大流行してましたね、今見れば、ゲーブル&ビビアン・リーが演じた「哀愁」もこの手の映画でした。
とにかく、お袋に銭湯に連れて行ってもらっても、君の名が始まる時間になると、石鹸の匂いが残ったまま家に帰りましたよォ~。

投稿: 耳鳴りオーディオマニア | 2009年7月28日 (火) 23:49

私も当然、一般ピープルですし佐田啓二さんにお目にかかったときは子供でしたから、余計に印象が強烈で、今でもそのときの光景を鮮明に覚えています。
その場所がどこだったか、その建物までのアプローチ、建物に入ってからの間取り、座卓に出されたもの・・勿論目の前の佐田啓二さんの様子・・、不思議と今でも詳細にお話できます。いかに非日常の出来事だったか!ということです。
それから、父の話す中井カンイチ(佐田啓二さんをそう呼んでた)という人のエピソードも幾つか覚えています。
そこからは華やかな芸能界にいても、地についた生き方を望みそのように実践していた方だという印象です。(内容を書くと長くなりますので割愛します。)交通事故により早世されたことが惜しまれます。

耳鳴りオーディオマニアさま
「小学校の二部授業」というのを私は知りませんでした。それは都会だったからでしょうか?

私の場合は地方都市ですから、私の小中学校は50人クラスでしたが、公立高校はどこも53人クラスでした。おまけに10クラスありました。だから俄か作りプレハブ校舎の人もいました。
私の苗字は、あいうえおの終りのほうでしたので出席番号がいつも52か53番でした。(個人面接だと、最後になるので早く帰れなくていやな思いをしていました。)
また、背の高い友人は、「窮屈で、いつも、後ろの黒板にくっ付くくらいだった。」と回想しています。今は同じ教室に、40人以下の生徒で教室に“ゆとり”を感じます。

それにしても団塊の世代の人間は、“生まれながらに競い合うことを強いられた一生”を送ることを余儀なくさせられているのですね。残念ながら、そうしなければ生きて行けない世代です。だから、優秀な人は多いです。しかし、それに見合うポストは(少し上の世代の人と比べて)少ないのが現実ですね。

投稿: ジャン | 2009年8月 1日 (土) 12:21

エムズの片割れさまは「二部授業」はご存知ありませんでしたか・・・、神戸は軍需工業がありましたので、空襲により学校などの建物が破壊され、2つの小学校が1つの校舎を使うため編出されたシステムだったと思います。ですから、1年生の時だけ普通の教室、
2年は家庭科室(長机に畳敷きでした)3年生は理科室(私の椅子の後ろにはガイコツ模型が・・・)4年生になったら講堂を間仕切った最悪の環境でした。(先生の声が他の教室の声と混じって聴こえない)、5年生になった時、やっと新しい校舎(学校)に入れました。

今は32人クラスが普通ですので、雲泥の差です。久しぶりに母校に訪ねますと多くの教室が特別教室になったり、授業ごとに教室を移動するという贅沢な使い方してますね。

投稿: 耳鳴りオーディオマニア | 2009年8月 2日 (日) 10:31

さすがに二部授業は知りません。ただ一クラスは58人いて、特に女子は31人いました。当然机は教室の後まで・・。でも当時はそれが普通と思っていました。
今はその半分とは・・・
少子高齢社会。誰かがその時代を羨ましがるかもね・・。
二部授業といえば、ベトナムに行った時に、午前午後の二部授業だといっていたっけ・・

投稿: エムズの片割れ | 2009年8月 2日 (日) 22:34

「君の名は」、懐かしい!!思わず涙がこぼれました。今、出張先の北京のホテルでこの曲を聞いています。旅先での孤独感と一人旅のわびしさで感傷的になっています。そんな時に「君の名は」を聞き、今はいない母と祖母のことを思い出し涙しました。昭和28年、私は小学校の3年生でした。ラジオで君の名はが始まると、祖母と母はラジオの前に座って、ラジオのスピーカーに耳を傾けていた姿が今でも鮮明に思い出されます。
懐かしい!です。
(北京にて送信しましたら、ブロックされてしまいました。送信できないのです。やっぱり、中国ですね。保存をして帰国後、送信します。)

【エムズの片割れより】
それはそれは・・・。この番組は、そしてこの歌は、放送史の記念塔ですよね。
それにしても中国でも当サイトが見られますか・・。まあNetなので当然だけど・・。でもコメントなどの発信は、制御されていいるのですね・・。

投稿: 木更川 | 2011年10月29日 (土) 16:27

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