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2009年4月13日 (月)

宗教者へ「職 失った人に寝食施すべきだ」

昨日の日曜日、朝起きて行くとカミさんが朝日新聞の記事を示して「我が意を得たり・・」の顔・・・。
記事は「私の視点」というコラム。題は「宗教者へ“職 失った人に寝食施すべきだ”~映像作家 児玉 修」というもの。読んでみて、自分も頷いた。曰く・・・・

宗教者へ“職 失った人に寝食施すべきだ”~映像作家 児玉 修
派遣切りなどで約18万人もの非正規労働者が職を失った。今回の不況の特徴は職と共に住まいを失い、路頭に迷う人が大勢出たことだろう。
年末年始の東京では、支援団体が準備した派遣村に収容しきれず、厚生労働省の講堂を開放して対処した。厳冬の札幌では、民間の不動産会社が空き部屋を安価に提供して家を失った人の命を守ったという。
こうした中で、日本の宗教者の多くが沈黙を守り続けていることに不思議な感覚を抱くのは、私だけだろうか。
今回の不況の震源地であるアメリカでは、教会がホームレスに食糧や衣類を供給し、生命を守る最後のとりでとしての役割を果たしている。日本のメディアも、そうした海外の情報は流すが、この国の宗教者が行動しないことについてはあまり触れない。宗教は無関係だと考えられているのだろうか。それとも、何も期待していないのか。
私は約20年間、民放の宗教番組制作を担当し、多くの宗教者と出会ってきたが、彼らのほとんどが宗門の問題以外には無関心なことに驚いた。
例えば、臓器移植の問題で国中が沸騰した時でさえ、宗教者が「いのち」について積極的に発言することはほとんどなかった。
子殺しや親殺し、行きずりの殺人など、社会全体が立ちすくむような事件が起きた時さえ、宗教者がメッセージを発することはない。1年に3万人以上が自殺するという日本の現状も、宗教者には無縁なのだろう。
では、宗教は今、派遣切りの問題にどうかかわることができるのだろう。派遣村のように、宿泊施設と食事を提供することはできないのだろうか。
ほとんどの僧侶が妻帯し、寺が生活の場となっている現況を考えると、路頭に迷う人たちを迎えることができるのは、本山や別院などの大寺院に限られるだろう。本山の多くは境内に研修施設や宿泊施設を備え、100人単位の宿泊が可能である。もし、それらの施設がなければ、広大な境内にテントを張ればいい。
そして、共に暮らす中で、自らの生き様を通して哲学を示すことが宗教者の役割だろう。「人はどう生きればいいのか」。職を失い心に傷を負った人々の声を聞き、悩みを共有することこそ宗教者の務めではないのか。
資金、人手、安全確保・・・。実施までには多くの問題が頭をよぎるのに違いない。すべてを背負う必要はない。公的な機関や支援団体と共に、社会を支えるコマの一つになればいい。踏み出しさえすれば、輪は広がる。
公共性を認められ、課税対象から外されている浄財は、こうした時こそ生かされるべきであろう。」(2009/4/12朝日新聞から)

この論は、実にもっともであると思う。
前にマザー・テレサについて当blogで書いた(ここ)。マザー・テレサは、インドで死に行く人がゴロゴロと道端に横たわり、見棄てられているのを見て、宗教・宗派に関係なく、自分の所に連れてきて、人の尊厳のもとにいたわった。それは、慈善事業家の顔ではない。キリストから派遣されてきたという立場だった。「単なる慈善家になるのだったら親と縁を切らなかったでしょう。私はキリストに仕えるために修道女になったのです。・・・」と。
この活動には「キリスト教」が根本にある。それに、年末に良く話題になる「社会鍋」もキリスト教系の活動である。

それに比べて、仏教系の慈善活動というのはあまり聞かない。確かに、特に上座部仏教(=古い仏教)は個人の修行が目的だという。だから仏教は世の中の人全体を対象にしていないのかも知れない。しかし、一方では「他利行」という言葉もある。確かに仏教における行は、自分たちの行だ。昔の布教にしても、キリスト教と仏教とは全く違う。
でも仏教を初めとした宗教は、世の人に心の平安を与えるもの。「心の平安」には寝食が前提である。よって、仏教にも布施に基づく弱者に対する支援活動があっても良いような気がする。
日本人に無宗教の人が多いように、多くの日本人にとって宗教は意外と縁が薄い。それも、このように日常活動から縁が遠いのも原因なのかも知れない。しかし、仏教界もそれなりの理論があると思うので、ぜひ宗教家から“本指摘に対する返答”を聞いてみたいものである。

(関連記事)
沖 守弘著「マザー・テレサ~あふれる愛」を読んで
マザー・テレサの生き方
仏教界の戦争協力


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コメント

御門徒(浄土真宗においての信者の呼び名)
さんより、貴殿のページを見るよう教えて戴き、拝読させて戴きました。
全くその通りと思います。
今、私は住職ではなく、次期住職としての立場なのですが、私の寺の現状を考えると、お寺が私物化されていることを認めるしかありません。
しかし、本来の意味を見失っているわけではなく、いえ、むしろ、このままで良いのかといつも思いめぐらせています。
私は3人の子に恵まれ、妻と父、母の7人二世帯家族です。子育ての先輩方からは聞かされてはいたものの、お金がかかることに追われている始末です。
この状況の中、どこまで解放出来るか考えますと、「さあ、10人までお泊まりできます。お困りの方いらして下さい」と大々的には正直、無理な気がします。しかし、訪ねて来られたら何とかしようと思うのは当然です。
以前、ツーリングの方が予定の場所まで行けそうもないということで、泊まって行かれたことがありますし、業者の方が泊まって行かれたこともあります。
泊まられると、一番世話をやくのは、奥様方です。家庭円満を考えると妻の理解が大変大きな意味を要してきます。
大きく看板もご案内も出来ませんが、かけ込み寺としての機能は殆どの寺院にはあると思います。特に地方になればなるほど、田舎になるほど駆け込み寺としてあると思います。
ただ、収拾が付かなくなるので、来るもの拒まずで、消極的にしております。
炊き出し運動や宿場開放を公表して取り組むことは、大事で素晴らしい事だとは思いますが、自ら訪ねる、寺の門をくぐると言うことが望ましいと思って止まないのです。
生温い中におりながら、他人事にものを言って申し訳ありません。

投稿: 伊藤 孝順 | 2009年4月14日 (火) 00:49

伊藤さん

ご丁寧なコメントありがとうございます。
自分たちのお寺を考えても、現実問題、このチャレンジは到底無理だと思います。なぜならお寺は大きな教会などと違って個人ベースの位置付けになっています。つまり個人努力の範疇に入っています。
もし何らかの活動が出来るとすれば、やはり数十人の僧侶を抱える大規模なお寺で、何が出来るかです。
お寺のこのような活動がもしあっても、何か違和感が残ります。でも田舎の、本当に結びつきの強いお寺では、このような助け合いは当たり前なのかも知れませんね。
仏教はその土地に根ざしている面が強い事がこれらの活動に影響しているような気がします。

投稿: エムズの片割れ | 2009年4月14日 (火) 22:22

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