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2009年1月22日 (木)

新田次郎/藤原ていの娘・藤原咲子氏の数奇な人生

いつものNHKラジオ深夜便「こころの時代」で「よく大きくなってくれました~エッセイスト 藤原咲子」を聞いた。(2009/1/15~16放送)

藤原咲子さんの両親は、新田次郎/藤原ていさん。次兄は「国家の品格」の藤原雅彦氏とのこと。
もちろん自分も、「新田次郎」や「藤原てい」という名前だけは(?)良く知っている。この放送は、その娘である藤原咲子さんの、両親との葛藤の(?)お話である。

両親は、1943年に満州の首都・新京(長春)の気象台に赴任し、咲子さんは1945年7月にその新京で生まれた。そしてその1ヶ月後にソ連が参戦、攻めて来たため、日本への逃避行が始まった。夫(新田次郎)は、まだ仕事が残っていたため気象台に残った。よって、藤原ていさんが当時5歳の長男、2歳の次男、そして生後1ヶ月の咲子さんを連れて逃げる事になった。1年後に日本にたどり着くまでの逃避行は壮絶で、その経緯を書いた藤原ていの小説「流れる星は生きている」は、戦後としては珍しいミリオンセラー、100万部を売ったという。

当時1歳の咲子さんは、荷物のようにリュックに入れられ、“まだ生きている・・・”と母親がつぶやく毎日・・。もちろん母乳は出ないので、大豆を煮た上澄みとか雑草を煮た上澄みをミルク代わりに飲み、とうとうミルクは10ヶ月間一滴も飲まなかったという。そのため栄養失調でお腹はパンパンに脹れる状態。(題の「よく大きくなってくれました」は、生後1年の赤ちゃんが逃避行のすえ、生きて日本に戻れたことが奇跡であり、その赤ちゃんが育ってくれた奇跡に感謝・・・ということ)
昭和21年9月に、何とか日本に戻ってからは、信州の両親の生家に身を寄せ、その後はヤギのミルクで育ったという。その後、父が戻ってから東京に移ったが、母親(藤原てい)は疲れが祟ったせいか、3年間結核で病の床に。ペニシリンで治ったが、娘にとっては2~4歳の切ない子供時代だったという。そして、結核の母親から引き離され、逃避行のトラウマや栄養失調のためか、小学校3年位まで言語障害が残ったという。そして母親への強い反抗心・・・
そして小学校6年生の時に母親のベストセラー「流れる星は生きている」を読んでショックを受ける。「(リュックを開けると)まだ咲子は生きている」「咲子が生きていることが幸せだとは思わない」「咲子を犠牲にして兄二人を生かすことにためらっている」といった箇所に・・・。もちろん深読みは出来てなかったが、これらの文言から、母親への反抗は益々強くなる・・・。「お母さんは私を愛していない。だったら自分を棄ててくれば良かったじゃない・・・」と。それは大人になっても続いていた。

それが解けたのは、60歳近くなった時に実家の書庫で「流れる星は生きている」の初版本を見つけたときだった。茶色くなった昭和24年の初版本に、30歳頃の若い両親の字で、自分宛の言葉が記されていた。
母は「お前は本当に赤ちゃんでした。早く大きくなってこの本を読んでちょうだい。本当によく大きくなってくれましたね。母 昭和24年9月」
父は「この本は生まれたばかりで不幸の星のもとに生き抜いた咲子がまだ青白く細かった頃、書いたものです。父」

それを読んだとき、書庫の中で泣き崩れたという。悔恨という言葉では言い尽くせないほど・・・。なぜ自分はそこまで反抗してきたのか・・・と。
藤原ていは現在90歳。今は認知症を患ってはいるが、施設で元気に暮らしているという。
そして藤原咲子さんは、厳しい両親の教育のもと、天下の名門・桜蔭中学校に入学し、立教大学を出てから、二児の母として現在に至っているという。

「満州からの引き上げ」という言葉は良く聞く。ウチの家族では伯母が一人いる。伯母も終戦の時に、同じように夫に先立って満州から引き上げた。夫はやはりシベリア抑留に逢ったというが、それ以上の話は聞いていない。
しかし、満州からの引き上げがどれほど大変だったかは、母親(藤原てい)の足に小石が食い込み、ずっと足に石の痕があった・・・・、との話で良く分かる。子供を3人連れて、履くものも擦り切れて無くなり、裸足での逃避行の結果・・・。

自分が若かった頃、死んだ親父が良く言っていた・・・。「戦争の時の事を考えると、今の事態(逆境)など、まだまだ甘っちょろい・・・」。
戦争を知らない我々世代は、“平和ボケ”の真っ最中・・・・。先日のパレスチナ・ガザ地区の戦争も、自分の問題として捉えようとしていない。何か出来ることがあるかも知れないのに・・・


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コメント

咲子さんが小学校6年の時に読まれた本は何処にあり、
その書庫にあった初版本は、その時にも同じ場所にあったのでしょうかね。

昭和57年、新克利さん、島かおりさん出演のテレビで知り、
良かったので本を買ったのですが、
テレビの爽やかコンビと違い元気な内容でした。
講演にも行きましたが、やはりそれ以上に元気な方でした。
元気でなければ子供達を連れて帰ることはできなかったでしょうね。
  藤原正彦?

投稿: なち | 2009年1月23日 (金) 12:56

私は1942年生まれ。昭和24年に都内の小学校に入学した者で66歳になります。
一クラス70名近く、しかも二部授業。人並みにひもじい思いも経験しました。
子供心に大いなる疑問を感じましたが、時間的な制約もあり、中学・高校時代の歴史科目は明治維新まででした。
幸い、中学の図書室には思想にとらわれない極東地域に関する文献が揃っていたので、これらを貪るように読み漁り、
明治の偉人といわれる西郷の征韓論、日清・日露戦争、韓国の併合、満州事変、太平洋戦争等々の背後関係を知り、子供心に愕然とし、暗澹たる気分に陥った経験があります。
中国や韓国の方と同席するような際、今でも言い難い感情に囚われることがしばしばあります。
満州と聞けば、ガ島テナル河畔の累々たる日本兵の屍と満蒙開拓民の集団自決の惨状が瞼に重なり沈痛な気分にもなります。
三歳年下の妻は、こうした事柄を何一つ知らず、ケロッとしています。
思うのですが、歴史教育では近代史に重点を置き、事実関係を教える。そして、その評価は各人に任す・・・・・・・・・・・
もう遅すぎるのかも知れませんが。

投稿: 紺碧 | 2009年1月24日 (土) 03:21

なち さん

補足すると、小学校6年の時に読んだ本は自宅にあったものだそうです。そして60歳近くなったとき、「必ず初版本がしまってあるはずだ」と信州の田舎の書庫に調べに行って発見したそうです。この放送では言っていませんでしたが、子供3人それぞれに宛てた初版本があり、それぞれにコメントが書かれていたようです。

========
紺碧 さん

含蓄あるコメントをありがとうございます。確かに歴史の教育は、なぜか明治維新で終わっていました。
今朝の朝日新聞に「写真が語る戦争」という記事がありました。朝日新聞が戦時下に保管していた7万枚の写真から、1万枚を選んでオンラインで見られるようにするとか・・・
段々と風化して行く戦争。自分も、遅ればせながら、一通り日本が辿った道を勉強するつもりです。学生の時とは違った捉え方ができると思いますので・・・。

投稿: エムズの片割れ | 2009年1月24日 (土) 21:25

「流れる星は生きている」
池真理子さんが、この歌を唄っておられたのですね。
YouTubeにありました。

投稿: なち | 2009年5月30日 (土) 09:30

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