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2008年10月18日 (土)

中村元の「観音経」(7/13)

この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連 Image01261 続講義「こころをよむ/仏典」(CDはこれ)の「第18回 願望をかなえる-観音経」の部分を、『中村先生の声』と『原文』『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」(これ)を元に味わっていくもので、今日はその第7回目である。

<こころをよむ/仏典「観音経」~その7CDはこれ

むじんにぼさ びゃくぶつごん せそん かんぜおんぼさつ うんがゆうししゃばせかい
無尽意菩薩 白仏言 世尊 観世音菩薩 云何遊此娑婆世界
うんがにいしゅじょうせっぽう ほうべんしりき ごじうんが ぶつごうむじんにぼさつ ぜんなんし
云何而為衆生説法 方便之力 其事云何 仏告無尽意菩薩 善男子
にゃくうこくどしゅじょう おういぶつしんとくどしゃ かんぜおんぼさつ そくげんぶつしんにいせっぽう
若有国土衆生 応以仏身得度者 観世音菩薩 即現仏身而為説法
おういびゃくしぶつしんとくどしゃ そくげんびゃくしぶつしんにいせっぽう おういしょうもんしんとくどしゃ
応以辟支仏身得度者 即現辟支仏身而為説法 応以声聞身得度者
そくげんしょうもんしんにいせっぽう おういぼんのうしんとくどしゃ そくげんぼんのうしんにいせっぽう
即現声聞身而為説法 応以梵王身得度者 即現梵王身而為説法
おういたいしゃくしんとくどしゃ そくげんたいしゃくしんにいせっぽう おういじざいてんしんとくどしゃ
応以帝釋身得度者 即現帝釋身而為説法 応以自在天身得度者
そくげんじざいてんしんにいせっぽう おういだいじざいてんしんとくどしゃ
即現自在天身而為説法 応以大自在天身得度者
そくげんだいじざいてんしんにいせっぽう おういてんだいしょうぐんしんとくどしゃ
設現大自在天身而為説法 応以天大将軍身得度者
そくげんてんだいしょうぐんしんにいせっぽう おういびしゃもんしんとくどしゃ
即現天大将軍身而為説法 応以毘沙門身得度者
そくげんびしゃもんしんにいせっぽう おういしょうおうしんとくどしゃ そくげんしょうおうしんにいせっぽう
即現毘沙門身而為説法 応以小王身得度者 即現小王身而為説法
おういちょうじゃしんとくどしゃ そくげんちょうじゃしんにいせっぽう おういこじしんとくどしゃ
応以長者身得度者 即現長者身而為説法 応以居士身得度者
そくげんこじしんにいせっぽう おういさいかんしんとくどしゃ そくげんさいかんしんにいせっぽう
即現居士身而為説法 応以宰官身得度者 即現宰官身而為説法
おういだいばらもんしんとくどしゃ そくげんばらもんしんにいせっぽう おういびく
応以婆羅門身得度者 即現婆羅門身而為説法 応以比丘
びくに うばそく うばいしんとくどしゃ そくげんびく びくに うばそく
比丘尼 優婆塞 優婆夷身得度者 即現比丘 比丘尼 優婆塞
うばいしんにいせっぽう おういちょうじゃ こじ さいかん ばらもんふじょしんとくどしゃ
優婆夷身而為説法 応以長者 居士 宰官 婆羅門婦女身得度者
そくげんぶにょしんにいせっぽう おういどうなん どうにょしんとくどしゃ そくげんどうなん
即現婦女身而為説法 応以童男 童女身得度者 即現童男
どうにょしんにせっぽう おういてん りゅう やしゃ けんだつば あしゅら かるら きんなら
童女身而為説法 応以天 龍 夜叉 乾闥婆 阿脩羅 迦褸羅 緊那羅
まごらか にんぴにんとうしんとくどしゃ そくかいげんしにいせっぽう
摩ご羅伽 人非人等身得度者 即皆現之而為説法
おういしゅうこんごうじんとくどしゃ そくげんしゅうこんごうじんにいせっぽう
応以執金剛神得度者 即現執金剛神而為説法

「三十三身」を示して説法する

無尽意菩薩は、仏に白(もう)して言わく「世尊よ、観世音菩薩は、如何にしてこの娑婆世界に遊ぶや。如何にして衆生のために法を説くや。方便の力、その事如何ん」と。

そこで無尽意菩薩が問います。「観世音菩薩はどうして。この娑婆世界にいらっしゃるのか。どういうぐあいに、人々のために教えを説かれるのか。その方便の姿はどうであるか」。すると、仏は答えます。

仏は無尽意菩薩に告げたもう、「善男子よ、もし国土ありて、衆生の、まさに仏の身を以って度(すく)うことを得べき者には、観世音菩薩はすなわち仏の身を現して、ために法を説くなり。
まさに辟支仏(びゃくしぶつ)の身を以って度(すく)うことを得べき者には、すなわち辟支仏(びゃくしぶつ)の身を現して、ために法を説くなり。
まさに声聞(しょうもん)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち声聞の身を現して、ために法を説くなり。
まさに梵王(ぼんのう)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち梵王の身を現して、ために法を説くなり。
まさに帝釈(たいしゃく)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち帝釈の身を現して、ために法を説くなり。
まさに自在天(じざいてん)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち自在天の身を現して、ために法を説くなり。
まさに大自在天の身を以って度うことを得べき者には、すなわち大自在天の身を現して、ために法を説くなり。
まさに天の大将軍の身を以って度うことを得べき者には、すなわち天の大将軍の身を現して、ために法を説くなり。
まさに毘沙門(びしゃもん)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち毘沙門の身を現して、ために法を説くなり。
まさに小王(しょうおう)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち小王の身を現して、ために法を説くなり。
まさに長者(ちょうじゃ)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち長者の身を現して、ために法を説くなり。
まさに居士(こじ)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち居士の身を現して、ために法を説くなり。
まさに宰官(つかざびと)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち宰官の身を現して、ために法を説くなり。
まさに婆羅門(ばらもん)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち婆羅門の身を現して、ために法を説くなり。
まさに比丘、比丘尼、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の身を現して、ために法を説くなり。
まさに長者、居士、宰官、婆羅門の婦女(ぶにょ)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち長者、居士、宰官、婆羅門の婦女の身を現して、ために法を説くなり。
まさに童男、童女の身を以って度うことを得べき者には、すなわち童男、童女の身を現して、ために法を説くなり。
まさに天、竜、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(げんだつば)、阿脩羅(あしゅら)、迦褸羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩ご羅伽(まごらが)、人、非人等の身を以って度うことを得べき者には、すなわち皆、これを現して、ために法を説くなり。
まさに執金剛神(しゅうこんごうじん)の身を以って度うことを得べき者には、すなわち執金剛神の身を現して、ために法を説くなり」。

仏の答とはつまり、「仏」の身をもって救うことのできるものには仏の身をあらわして、「辟支仏(びゃくしぶつ)」身をもって救うことのできるものに対しては辟支仏の姿で、「声聞(しょうもん)」の身をもって救うことのできるものに対しては声聞の姿で、とういうふうに、相手に応じて相手の姿で法を説く、というのです。「辟支仏」とはひとりで修行して、ひとりでさとる人、「声聞」とはブッダの教えを忠実に実行する人ですね。
こうして観音さまが「仏」の身からはじまって、三十三の姿、身体をあらわし、それで人々を救うということが、くりかえし似たような表現で述べられています。
「梵王」。「梵天王です。これはバラモン教では宇宙を創造し、支配する王とされます。つづいて「帝釈」。帝釈天です。これは「リグ・ヴェーダ」のインドラ神です。この梵王と帝釈が、仏法守護の二人の大きな神さまということになっています。そして「自在天」。バラモン教での支配神のことです。「大自在天」。これはヒンドゥー教ではシヴァ神の別名です。
さらに、「天の大将軍」「毘沙門(びしゃもん)」「小王」「長者」「居士」「宰官(つかざびと)」「婆羅門(ばらもん)」「比丘」「比丘尼」「優婆塞(うばそく)」「優婆夷(うばい)」。そして、「(長者、居士、宰官、婆羅門の)婦女」「童男、童女」、婦人の姿をあらわしたり、子どもの身を示して法を説くこともある。
その他、「天」「竜」「夜叉(やしゃ)」「乾闥婆(げんだつば)」「阿脩羅(あしゅら)」「迦褸羅(かるら)」「緊那羅(きんなら)」「摩ご羅伽(まごらが)」、この大部分はサンスクリットでの名称の音を写したもので、いずれも人間とは異なった、半ば神のような神的な存在。この八つは、天竜八部衆と申します。つぎに「人」「非人」。人あるいは人ではないもの。以上述べた異様な神々は人間でないもののなかに入るのですが、そういう姿を示すこともある。それから、「執金剛神(しゅうこんごうじん)」。この「金剛」は一種の武器です。必ずしも金剛石という意味ではありません。武器を手に持っているもの、もとはインドラ神のことをいっていたのです。
こういうようないろいろな姿を示す。これを。「三十三身」と称しています。ただ、漢訳では三十五身、サンスクリットの原本では十二身、十二の姿だけが出ています。細かな比較は省略しますが、サンスクリットの原本では偉い存在だけが出ていた。ところが、この漢訳では、一般の人々や民間信仰における神々、神霊、そういうものまで全部、取り込んだのです。それだけ漢訳の「観音さま」は民衆的、庶民的になっている。一般の人々のことを広く考え、受け入れるというかたちに、発展していったといえるかと思います。


ここの所は、観音さまが人間を救うために、相手に合わせてあらゆる姿になって救うことを、具体的な例を挙げて述べている。中村先生の解説によると、元々は十二の姿を挙げていたのが、漢訳するときに三十三の姿に追加されたという。まさに、このコンセプトが九面観音、十一面観音のような像に繋がっているのだろう。

前に会社の事務所が浜松町にあったとき、昼休みに散歩で増上寺に良く行ったが、そこにはあのホテル・ニュージャパン火災(昭和57年2月8日)の罹災者のための聖観音菩薩像があった。
最近は昼休みに高野山東京別院(ここ)に散歩するが、ここにも観音像はある。何かあると、つい頼ってしまう観音様ではある。

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