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2008年8月24日 (日)

長崎原爆での家族崩壊~作家 後藤みな子氏の話

今日は、外は雨。気温も20℃を割って寒い。何となく元気が出ない日曜日である。だから・・・、という訳でもないが、今日は暗い哀しい話題である。
先日、NHKラジオ深夜便で放送された「戦争インタビュー「今も原爆の刻(とき)を曵(ひ)く」作家…後藤みな子」(08/8/12放送)を聞いた。(後藤みな子氏は長崎県出身。1971年に「刻(とき)を曳く」で第8回文藝賞受賞。1971-72 第66・67 芥川賞候補。1974年より北九州在住)
長崎原爆で家族が崩壊した哀しみを語っている番組だが、今まで聞いた放送の中で、これほどマイクの前で絶句し、涙で話が途切れる放送を聞いたことがない。深夜放送だから許されたのかも知れないし、それだけに「真実」を伝えていたと思う。話の内容を要約すると・・・

後藤みな子さん(71歳)は長崎で、4人家族で暮らしていた。9歳のとき、医師の父親は出征中、兄(長崎中2年)は長崎で勤労動員で、母と2人で実家の福岡に疎開していた8月9日に、長崎に原爆が落ちる。次の日に話を聞いた母は次の日の朝早く兄を探しに浦上に出発。一日遅れて祖父が兄に食べさせようと葡萄と梨をもって出発。
4日目に一人で帰って来た母は、精神を犯されて別人(深手を負った獣)になっていた。田舎の大きな医者の家だったが、自分が遊びから帰ってみると、母は離れの部屋に兄の遺品を並べて消毒薬の臭いが立ち込める中で大の字になって寝ていた。自分を見ても反応が無い。
一日置いて祖父が帰って来て話を聞くと、母は探しに探して兄を見つけた。そして母に抱かれて死んだ。祖父もその場に間に合ったが、兄の遺体を焼いている最中に、お骨も拾わないで、母はさっさと帰ってしまったと言う。
翌年、ニューギニアから軍医として従軍していた父が復員した。その時、駅まで迎えにいったが、父の「みんな元気か?」という問いに(当然父は原爆のことは知っていたが)、私は瞬間「みんな元気」と答えた。それ以来、私は母のことも兄のことも語ることが出来なくなった。父は後で知人に「みな子が可愛そう・・」と言っていたとか。
そこから「家族の戦後」が始まった。そして、私の家族が原爆によってどのように崩壊して行ったかを今でも小説として書き続けている。それを人に話すことが出来たら、私は小説を書かなかっただろう。

短大まで長崎で過ごし、その後東京に出た。それは一刻も早く原爆のことも母のことも忘れたいため。でもそれは傲慢。忘れられるはずがない。でもその事は一切を話さず、長崎のことは知らない東京生まれの男性と結婚する。自分は全てを忘れたかった。新しい人生を始めたかった。母のことも忘れたい、見たくない・・・。それは私の傲慢さ、自分勝手さ・・・。
そして東京で離婚してから、母のために小説を書くようになる。その小説の内容として母を書くので、長崎の父とも絶縁状態になる。
それから小説も何もかも捨てて、北九州に移って再婚。それからは娘を育てて30年、筆を折った。もう娘は30を越えているが、つい数年前まで、娘にも何も話していなかった。娘は、私が昔小説を書いていたことを知っていたかも知れないが読んでいない。罪なことだが、母(娘にとっては祖母)が生きていることも話していない。それを娘が偶然読んで、「子供の時から疑問だった点と点が小説を読んで線になった。お母さんは小説を書いて欲しい」と言うようになった。「おばあちゃんは私に似てますか?」と聞かれた。私は罪深いことをしたのでしょうか?・・・
私は、あのケモノのような母を見せたくなかった。キズを受けるだろうと思った。娘には、浦上のこととか、祖母のこととかの影を負わないで、光に向かってひまわりのように育って欲しかった。
父も母も死んだ今、また筆を取るようになった。

私は、人間の尊厳を書きたい。人間とは何か、生きるとは何か、あの母を持ったので考えるようになった。
浦上のこと、母のことを私は家族に話すことが出来なかった。普通の生活をしている家族に、「語る時」と「語る場」を持っていない。語れない。だからずっと言わなかった。本当に重いことは語れない。父とも、原爆のことは一回も話さなかった。話せなかった。こうして今(放送で)話していることも、家族には話してない。話せないこともある。
・・・

<「戦争インタビュー「今も原爆の刻(とき)を曵(ひ)く」作家…後藤みな子」>(08/8/12放送の最後の7分)

追)全放送(38分間)を聞きたい方はここをクリックして、ダウンロードして下さい。ZIPファイルで36MBあるので数分掛かります。(1週間後に削除予定)~自分はこれほど哀しい番組を聞いたことがありません・・・

戦後63年。広島、長崎の原爆もどんどん風化して行く。しかしこの番組を聴いて、戦争が、そして原爆が与えた影響の計り知れなさに、今更ながら慄然・・・。
NHKで放送される番組で、よく戦争体験者が言う。「戦争のことは誰にも話していない・・・」。
確かに、「本当に重いことは語れない」のかも・・・

先日TVで、「日本は戦後、戦死者はいないが、世界では毎日のように戦死者が出ている」という話があった。確かに、戦争はまだ「過去のこと」ではない。平和を、そして自分のように幸いにも戦争の影を持たないで生活できている人間。このまま平々凡々で暮らして行って良いのだろうかと、(少しだけ)反省・・・。

(関係記事)
長崎原爆の写真~「焼き場に立つ少年」

忘却の彼岸 ―後藤みな子「刻を曳く」論― 中野和典


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コメント

ここで音声が聞けたのは、有難いことです。放送の雰囲気が、よくわかります。
 ラジオ放送の予約録音というのは、ビデオよりも、ずっと難しいですね。

投稿: 志村建世 | 2008年8月26日 (火) 21:42

志村さん

ご無沙汰しています。非常に印象強い番組でしたので、ZIPでアップしてみました。直ぐに消しますが、良かったら全番組を聴いてみて下さい。絶句しながらお話しをされる後藤さん。如何に重たいテーマかが良く分かります。

投稿: エムズの片割れ | 2008年8月26日 (火) 22:34

おかげさまで、フルバージョンを聞くことができました。保存して、大事な資料にします。ありがとうございました。
 それにしても、中波のラジオが、きれいに録音できるのに驚きました。

投稿: 志村建世 | 2008年8月28日 (木) 15:03

志村さん

午前1時以降はFMでも同時放送しており、これはFMの録音です。

投稿: エムズの片割れ | 2008年8月30日 (土) 17:21

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