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2008年8月の27件の記事

2008年8月31日 (日)

模擬原爆「パンプキン」

NHKの「その時 歴史が動いた」で「模擬原爆パンプキン~秘められた原爆投下訓練~」(08/8/27放送)を見て(ここ)、戦争の目的、爆撃の目的といったものを考えさせられた。

太平洋戦争末期、昭和20年7月から8月にかけて、巨大爆弾が山間の町を含めて全国で49発落とされ、400人以上の命が奪われ、1200人以上の負傷者が出た。近年発見された米軍の極秘資料から、その目的は「原爆投下の予行演習」だった事が分かったという。

発見された米軍の巨大爆弾の投下地図には、広島と長崎が二重の枠で囲まれていた・・・。
原爆投下の舞台裏の舞台裏は・・・

・昭和20(1945)年3月10日東京大空襲。米軍はこの時から市街地への無差別爆撃を開始。
・その1カ月後(1945/4/12)ルーズベルト大統領が在任中に死亡し、副大統領のトルーマンが大統領に就任。その直後に原爆開発の「マンハッタン計画」の存在を知らされる。
・「マンハッタン計画」は1942年、ルーズベルト大統領の決断により開始。20億ドルと選りすぐりの科学者を集めた国家プロジェクト。
・原爆開発は「ウラン型」と「プルトニウム型」の2種類が進められた。広島に投下されたウラン型原爆「リトルボーイ」は、核分裂の連鎖反応を引き起こす仕組みが単純で確実に爆発させることが出来る反面、量産が出来ない。一方、長崎に投下されたプルトニウム型の原爆「ファットマン」は、威力が大きく量産が可能であり、原爆開発の本命だった。
・1944年9月、ユタ州ヴェンドーヴァー基地に原爆投下部隊が密かに集められた。「ここで見聞きしたことは、ここを出るときに置いていけ!」。この第509混成群団は、「B29」15機による戦闘部隊に、輸送、補給部隊を加えた群団で、自前で特殊任務を行えた。
・後に広島原爆投下のB29「エノラゲイ」の機長も勤めた第509混成群団の指揮官ティベッツ大佐が、「実践訓練として日本本土の目標を爆撃したい。その為に原爆ファットマンと同じ形の大型爆弾を作って欲しい」と主張。それで作られたのが「模擬原爆パンプキン」。重さ1万ポンド(約4.5トン)、普通の大型爆弾の4倍以上。
・昭和20年4月に、米軍は沖縄に上陸したが、米軍にも多数の犠牲者が出ていたため、日本の早期降伏へ拍車がかかった。
・1945年5月1日、トルーマンの諮問機関が原爆投下に関する3項目の答申を出した。「①できるかぎり速やかに日本に対して ②二重の目標、すなわち軍事施設と一般の家屋に対して ③事前の警告なしに 原爆を使用すべきである。」
・1945年7月16日、米アラモゴート砂漠でプルトニウム型原爆の試験爆発成功。
・1945年6月、第509混成群団は太平洋のマリアナ諸島テニアン島で実践訓練に入る。
・最初の訓練は昭和20(1945)年7月20日、B29 3機が富山市の上空からパンプキンを投下。50人が犠牲。
・15年前、山口県の研究者がアメリカで入手した極秘資料「第509混成群団の作戦任務報告書」によると、原爆投下の候補地は、それまで空襲を受けていない「京都」「小倉」「広島」「新潟」。無傷の都市が選ばれた理由は、原爆の破壊力を正確に測定するためと広い地域を効率的に破壊するため。
・パンプキンは名古屋市など、4都市とは関係の無い都市にも落とされたが、それは目標の4都市の次の目標は「任意の市街地」となっており、当時のレーダーは精度が悪かったため「白昼」「視界のいい状態で」「人間の目で確認」が条件だった。よって、4都市を目標に訓練に向かったB29は、第一目標の天候が悪くて落とせなかったとき、帰り道で、適当な都市に落としていたのだった。
・模擬爆弾で犠牲になった人の遺族は言う。「原爆を落とすためのモルモットにされた。戦争というむごいものの中に、まだもう一つむごいものがある」。米軍内の評価は「隊員たちへ、心理的高揚を与えた」
・1945年7月25日、ポツダムにいたトルーマンに原爆投下命令書が届き、承認。
・8月6日の原爆投下の直後にトルーマンが出した声明の一部。「7月26日の最後通告がポツダムで出されたのは、全面的破滅から日本国民を救うためであった。彼らの指導者はたちどころにその通告を拒否した。もし彼らが今、われわれの条件を受け入れなければ、空から破滅の弾雨が降り注ぐものと覚悟すべきであり、それはこの地上でかつて経験したことのないものとなろう」

またまた、長々と書いてしまったが、このメモを取りながら、つい「戦争目的は何だろう?」素朴に考えてしまった。国の指導者の「目的」を達成するため?それとも。相手国民の「命を奪う」ため?
もちろん、相手国(敵)の命を奪うのは、「戦争に勝つ」ための一つの「手段」ではあるが、「練習」のために命を奪われた人の無念さは察して余りある。

今日で8月も終わる。もちろん戦争体験の無い自分ではあるが、「8月」という日本にとって「原爆・終戦」という忘れられない月に、少しでも過去を振り返って今後の(国の?)生き方を考えてみるのも良いかも知れない、と思った。

(関係記事)
長崎原爆の写真~「焼き場に立つ少年」

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2008年8月30日 (土)

平安時代の老人の生活と長寿の秘訣

NHKラジオ深夜便(08/8/21)で、「歴史に親しむ『平安時代の老いに学ぶ』埼玉学園大学教授…服藤早苗(H20.2.21放送)」を聞いて、平安時代の生活を垣間見ることが出来た。

今年は、「源氏物語千年紀」。つまり源氏物語が出来て、ちょうど千年になるというので、色々な催しが行われている。今日は、平安時代の貴族で右大臣にまでなった藤原実資(さねすけ)の「小右記(しょうゆうき)」を中心に、平安時代の生活・女性史を研究されている埼玉学園大学教授の服藤早苗氏のお話であった。以下要約すると・・・

・平安時代の平均寿命はたぶん20歳くらい。でもそれは乳児死亡率が高いせいで、20歳位まで生きた人は結構長生きしており、60歳以上の人が4~5%位いた。
・実資の孫の女性は、1134年に99歳で亡くなったという記録がある。菅原のてんが(のりまさ)は、91歳まで生きて典薬(てんやく)の守(=現役)のまま死んだ。道長(62歳)の娘の中宮彰子(しょうし)は87歳、その他色々と記録がある。
・平安時代は、40歳くらいから「老人」という認識。40歳を過ぎたら、チョットだけ病を得て、あまり患わないで死ぬ(極楽浄土)のが理想だった。
・平安時代の貴族社会では、定年は無く、70歳を越えたら「退職届を出しても良い」事になっていたが、禄が半分になってしまうため、この規定は奈良時代には守られていたが、平安時代には死ぬまでその官職のままの人が多かった。
・すると「老害」になるが、実資の場合は、60歳を超えると馬に乗れなくなり、天皇の行幸に随行できなくなる弊害が出た。しかし、実資が持っていた知識に、天皇はじめ皆が頼っていた。当時の会議は夜行われた。夕方4時位から始まり、朝の5時位まで。冬の寒い中での会議でも、85歳の実資が良い発言をした、という記録がある。そして87歳で退官し、亡くなった。
・実資が書いた日記「小右記」は10冊位の膨大なのもであり、実資は日常の健康管理について、当時は日宋貿易が盛んであったため医学書や薬を取り寄せ、酒もほどほどに、食事も何を食べるか等、自分の日記をめくっては、過去の事例を紐解いていた。
・実資は、痴呆の症状も無いまま亡くなったが、人によっては年とともに間違いが多くなって顰蹙を買った人もいたようだ。
・結論として、長く健康で生きるために、大塚病院の後藤先生が次の五つのことを言っているが、これらは平安時代からのメッセ-ジとぴったり合う。
①カロリーの摂取を半分に抑えること。
②1日1万歩以上歩くこと。
③1日2リットル以上の水分を摂ること。
④社交性を養い常に人と交わり、他人の眼を意識すること。
⑤いつまでも若々しく生きていたいと強く祈念すること。
藤原実資はこれを実践していた。これが平安からの我々へのメッセージだ。

なかなか耳の痛い指摘かも・・・・。
でも、特に女性は、言われなくても④と⑤は皆さん意識しておられる。
もしかすると、それが女性の平均寿命が長い理由かも?

しかしやはり、「何かの現役」の継続が「ピンピンコロリ」の原点のような気がする。

<付録>~この記事とは関係ないけど・・
P10301981 このところ、豪雨続き。夕方、犬を連れて近くの多摩川に散歩に行ったら、案の定ごうごうと音を立てて流れていた。魚道を木々が塞ぎ、大きな木が丸ごと流されていた。この写真から音が聞こえるでしょう?

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2008年8月27日 (水)

藤山一郎の「ニコライの鐘」

同じ藤山一郎の「長崎の鐘」(ここ)、岡本敦郎の「チャペルの鐘」(ここ)に続いて、今日は「ニコライの鐘」である。
この歌は、門田ゆたかの作詞、古関裕而の作曲、藤山一郎の歌で、昭和26年11月に発表されたとか。作詞の門田ゆたかは、福島出身で「東京ラプソディー」の作詩で有名である。
昭和初期の歌の世界は、なぜか福島県出身者が多く、作曲では古関裕而、歌手では伊藤久男、霧島昇、そして作詞家では、野村俊夫、丘灯至夫(ここ)、そしてこの門田ゆたかがおり、皆福島の出身である。この当時は福島県出身者が席巻していたらしい。
少し聞いてみよう。(藤山一郎の歌は、原詩と少し違う・・)

<藤山一郎「ニコライの鐘」>オリジナル盤(モノ)昭和26年

<藤山一郎「ニコライの鐘」>ステレオ再録盤

「ニコライの鐘」
 作詞:門田ゆたか
 作曲:古関裕而
 歌 :藤山一郎 

1)青い空さえ 小さな谷間 
 日暮れはこぼれる 涙の夕陽
 姿変われど 変わらぬ夢を
 今日も歌お(う)か 都の空に
 ああニコライの 鐘がなる

2)きのう花咲き 今日散る落ち葉
 河面に映して 流れる月日
 思い出しても かえらぬ人の
 胸もはるかな(ゆするか) 雁啼く空に
 ああ ニコライの 鐘が鳴る

3)誰が読んだか 悲しい詩集
 頁をひらけば 出てきた手紙
 恋に破れた 乙女は今宵
 何を祈るか 暮れゆく空に
 ああニコライの 鐘が鳴る

080827nikoraidou ところで「ニコライの鐘」の「ニコライ堂」は、御茶ノ水(神田)にあり、正式名称は「東京復活大聖堂」(1962年に国の重要文化財に指定)で、ギリシャ正教とも呼ばれる正教会の教会であるという。
この聖堂は、明治24年(1891年)に、ロシア正教を布教しようと江戸時代末期に日本にやってきた大司教カサーツキン・ニコライ(1836-1912)が建てたことから「ニコライ堂」の名が付いている。そしてこの建物は、7年の歳月と24万円をかけたという。同じ頃に建てられた鹿鳴館の総工費が18万円だというので、大変な費用だ。その後、大正12年(1923年)の関東大震災によりドームが崩壊。昭和4年(1929)に岡田信一郎の設計によって修復され、今にいたっているという。また、鐘楼には6つの鐘があり、毎週日曜日と大きな宗教行事のときに鳴らされているという。

学生の頃だったか、御茶ノ水のこのドームを見たときに「これがニコライ堂か・・」と感激?したが、その後近くに行っても見たことは無いな・・・。
東京のあちこちに、歌や文学に登場する名所旧跡も多い。そのうち、こんな歌を聞きながら、それらを散策するのも一興かもね・・・。

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2008年8月26日 (火)

ブッダの教える「親子」像

帰りの電車の中で雑誌「大法輪」を読んでいたら、「シンガーラへの教え」が載っていた。前に、中村元氏の「仏典をよむ」で幾つか記事を書いたことがあった。その時は取り上げなかったが、この雑誌に親子関係について書いてあったので、少し触れてみる。

<「大法輪」9月号~インド仏教人物列伝(P32)~東方学院講師 服部育郎

「・・・・子は両親に次の五つの方法で奉仕すべきであると説きます。すなわち、
①私は両親に養われたから、身の回りの世話をして、彼らを養おう。
②かれらのためになすべきことをしよう。
③家系を存続させよう。
④財産を相続しよう。
⑤先祖からのつながりを忘れず、祖霊に対して適切な時々に供物を捧げよう。

そして、今度は、父母は次の五つの方法で子供を愛すべきであるというのです。つまり、
①何が善で何が悪かを正しく教え、悪から遠ざけ、
②善に入らせる。
③将来、立派に仕事ができるように技能を学習させる。
④適切な妻を迎える。
⑤適切な時期に相続させる。

子供と両親の関係において、このようにしたならば、かれの東方は護られ安全であり、心配がないのだと説きました。・・・」

ブッダは2500年前の人。お経も、その頃の価値観・社会を前提に書かれているが、こと人間関係に関しては、昔も今も何も変わっていないように思える。
「人間関係」だけは、人間がトシを取って、唯一経験に裏打ちされて篤くなる世界かもね・・・

(関係記事)
ブッダの教える「夫」像
ブッダの教える「妻」像
ブッダの教える「友人関係」

●メモ:カウント~16万

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2008年8月25日 (月)

伊藤久男の「サビタの花」

今日は何となくこの歌を聞きたくなった。伊藤久男の「サビタの花」。昭和30年(1955年)というから、もう53年も前の歌である。(この所、「懐かしのメロディー」ばっかりだけど・・)
伊藤久男の歌には、「イオマンテの夜」に代表される男性的なダイナミックな歌と、「山のけむり」に代表される叙情歌があるが、この「サビタの花」も、伊藤久男らしい叙情歌である。作詞の大倉芳郎は「山のけむり」の作詞者だ。

<伊藤久男「サビタの花」>

「サビタの花」
  作詞:大倉芳郎
  作曲:原 六朗

1)からまつ林の 遠い道
 雲の行くえを 見つめてる
 サビタの花よ 白い花
 誰を待つのか メノコの胸に
 ほのかに咲いた サビタの花よ

2)いとしの君は ほろほろと
 楡の並木を どこへ行く
 花かげ白く 月の宵
 待てどはかない メノコの恋は
 悲しく咲いた サビタの花よ

しかし叙情歌をはじめ、色々な歌に「花」はたくさん出てくる。「からたちの花」や「月見草の花」を別格としても、懐かしのメロディーでも「アカシアの花(岡本敦郎)」「あざみの歌(伊藤久男)」「くちなしの花(ダーク・ダックス)」や、「忘れな草をあなたに」それに「れんげ草」等々。当然挙げてもキリが無い。(大きな声では言えないが、実は自分はこれらの花がどんな花か、トンと分からないのである・・・)

080825sabita ところで、「サビタの花」ってどんな花だ?? Netで調べると、「ノリウツギ」が本名(和名)で、北海道ではこれを「サビタ」と呼ぶらしい。また「花」としては、どうってことない花らしい(失礼)。

しかし、ここ(当blog)で取り上げようとすると、つい「どんな花?」と調べるので、自分にとってはその花を知る良いチャンスなのである。つまり数十年間、「サビタの花」ってどんな花かも知らないでこの歌を聞いていた訳なので・・・
とりあえずは写真で確認するとしても、やはり実物で覚えるのが「花」さんへのエチケット・・・!?
まあ、次にホームセンターに行ったときにでも、カミさんに教えて貰うことにしようか・・・。(花オンチな“エムスの片割れ”ではある)

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2008年8月24日 (日)

長崎原爆での家族崩壊~作家 後藤みな子氏の話

今日は、外は雨。気温も20℃を割って寒い。何となく元気が出ない日曜日である。だから・・・、という訳でもないが、今日は暗い哀しい話題である。
先日、NHKラジオ深夜便で放送された「戦争インタビュー「今も原爆の刻(とき)を曵(ひ)く」作家…後藤みな子」(08/8/12放送)を聞いた。(後藤みな子氏は長崎県出身。1971年に「刻(とき)を曳く」で第8回文藝賞受賞。1971-72 第66・67 芥川賞候補。1974年より北九州在住)
長崎原爆で家族が崩壊した哀しみを語っている番組だが、今まで聞いた放送の中で、これほどマイクの前で絶句し、涙で話が途切れる放送を聞いたことがない。深夜放送だから許されたのかも知れないし、それだけに「真実」を伝えていたと思う。話の内容を要約すると・・・

後藤みな子さん(71歳)は長崎で、4人家族で暮らしていた。9歳のとき、医師の父親は出征中、兄(長崎中2年)は長崎で勤労動員で、母と2人で実家の福岡に疎開していた8月9日に、長崎に原爆が落ちる。次の日に話を聞いた母は次の日の朝早く兄を探しに浦上に出発。一日遅れて祖父が兄に食べさせようと葡萄と梨をもって出発。
4日目に一人で帰って来た母は、精神を犯されて別人(深手を負った獣)になっていた。田舎の大きな医者の家だったが、自分が遊びから帰ってみると、母は離れの部屋に兄の遺品を並べて消毒薬の臭いが立ち込める中で大の字になって寝ていた。自分を見ても反応が無い。
一日置いて祖父が帰って来て話を聞くと、母は探しに探して兄を見つけた。そして母に抱かれて死んだ。祖父もその場に間に合ったが、兄の遺体を焼いている最中に、お骨も拾わないで、母はさっさと帰ってしまったと言う。
翌年、ニューギニアから軍医として従軍していた父が復員した。その時、駅まで迎えにいったが、父の「みんな元気か?」という問いに(当然父は原爆のことは知っていたが)、私は瞬間「みんな元気」と答えた。それ以来、私は母のことも兄のことも語ることが出来なくなった。父は後で知人に「みな子が可愛そう・・」と言っていたとか。
そこから「家族の戦後」が始まった。そして、私の家族が原爆によってどのように崩壊して行ったかを今でも小説として書き続けている。それを人に話すことが出来たら、私は小説を書かなかっただろう。

短大まで長崎で過ごし、その後東京に出た。それは一刻も早く原爆のことも母のことも忘れたいため。でもそれは傲慢。忘れられるはずがない。でもその事は一切を話さず、長崎のことは知らない東京生まれの男性と結婚する。自分は全てを忘れたかった。新しい人生を始めたかった。母のことも忘れたい、見たくない・・・。それは私の傲慢さ、自分勝手さ・・・。
そして東京で離婚してから、母のために小説を書くようになる。その小説の内容として母を書くので、長崎の父とも絶縁状態になる。
それから小説も何もかも捨てて、北九州に移って再婚。それからは娘を育てて30年、筆を折った。もう娘は30を越えているが、つい数年前まで、娘にも何も話していなかった。娘は、私が昔小説を書いていたことを知っていたかも知れないが読んでいない。罪なことだが、母(娘にとっては祖母)が生きていることも話していない。それを娘が偶然読んで、「子供の時から疑問だった点と点が小説を読んで線になった。お母さんは小説を書いて欲しい」と言うようになった。「おばあちゃんは私に似てますか?」と聞かれた。私は罪深いことをしたのでしょうか?・・・
私は、あのケモノのような母を見せたくなかった。キズを受けるだろうと思った。娘には、浦上のこととか、祖母のこととかの影を負わないで、光に向かってひまわりのように育って欲しかった。
父も母も死んだ今、また筆を取るようになった。

私は、人間の尊厳を書きたい。人間とは何か、生きるとは何か、あの母を持ったので考えるようになった。
浦上のこと、母のことを私は家族に話すことが出来なかった。普通の生活をしている家族に、「語る時」と「語る場」を持っていない。語れない。だからずっと言わなかった。本当に重いことは語れない。父とも、原爆のことは一回も話さなかった。話せなかった。こうして今(放送で)話していることも、家族には話してない。話せないこともある。
・・・

<「戦争インタビュー「今も原爆の刻(とき)を曵(ひ)く」作家…後藤みな子」>(08/8/12放送の最後の7分)

追)全放送(38分間)を聞きたい方はここをクリックして、ダウンロードして下さい。ZIPファイルで36MBあるので数分掛かります。(1週間後に削除予定)~自分はこれほど哀しい番組を聞いたことがありません・・・

戦後63年。広島、長崎の原爆もどんどん風化して行く。しかしこの番組を聴いて、戦争が、そして原爆が与えた影響の計り知れなさに、今更ながら慄然・・・。
NHKで放送される番組で、よく戦争体験者が言う。「戦争のことは誰にも話していない・・・」。
確かに、「本当に重いことは語れない」のかも・・・

先日TVで、「日本は戦後、戦死者はいないが、世界では毎日のように戦死者が出ている」という話があった。確かに、戦争はまだ「過去のこと」ではない。平和を、そして自分のように幸いにも戦争の影を持たないで生活できている人間。このまま平々凡々で暮らして行って良いのだろうかと、(少しだけ)反省・・・。

(関係記事)
長崎原爆の写真~「焼き場に立つ少年」

忘却の彼岸 ―後藤みな子「刻を曳く」論― 中野和典

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2008年8月23日 (土)

華岡美恵の「京都まよい坂」

080823hanaokamiekyoutomayoizaka 華岡美恵の「京都まよい坂」という歌を知っている人はそう多くはあるまい。(石川さゆりの「吾亦紅」が意外とレスポンスが良いので、味をしめてマイナーな曲をもうひとつ・・・)

今改めてNetで調べてみると、この歌は1997年12月17日発売というので、もう10年も前の歌だ。実は自分も、この華岡美恵という歌手が、演歌の世界でどの位の位置を占めているか、良く知らない。でもデジタル衛星ラジオでこの歌を録音してから、なぜかこの歌が好きになった。歌手がどうだ・・・というのではなく、この何となく情緒豊かな旋律が良い。

<華岡美恵「京都まよい坂」>

「京都まよい坂」
  作詞:南沢純三
  作曲:安形和巳
  歌 :華岡美恵

1)カラリコロリと 産寧坂(さんねんざか)を
 鼻緒きつめの 利休下駄(りきゅうげた)
 嘘と知りつつ 酔いたい嘘に
 この身あずけて いいのでしょうか
 九十九夜まで 通ったならば
 あなたをわたしに くれますか
 ふれる小指に はぐらかされて
 いつかこの坂 転げそう

2)古い屋根越し 八坂の塔が
 墨絵みたいな 二年坂
 変わらないもの 残した町で
 心変えない 女でいます
 九十九夜では 足りないですか
 あなたをわたしに 縛りたい
 想いつかれて 倒れたならば
 胸に抱かれて 死ねますか

3)なにも知らない 少女の頃に
 今更戻れは しませんね
 祇園さんから をけら火うけて
 火なわわくるくる 春を持つ

華岡美恵の公式HPを初めて見たが(ここ)、この歌手はもともと民謡歌手だったが、16年前に演歌歌手としてデビュー。当初は2~3年おきにシングルを出していたが、ここ6年ほどは出していないようだ。・・・という事は、あまりメジャーな歌手ではないらしい。

ところで「祇園さんから をけら火うけて 火なわわくるくる 春を持つ」という歌詞。
Netで調べたら、「をけら火」とは、京都の八坂神社で大晦日に「をけら詣り」(ここ)という神事があり、境内の「をけら灯篭」より火縄に火をつけ、消えないように火縄をくるくる回しながら家に持ち帰り、これを火種とした雑煮を食べて無病息災を祈るとか。
家が歩いて帰れる所ならば良いが、遠いと無理だけど・・・

しかし、京都に幾多あるこのような神事をたまに覗いてみるのも、日本の情緒を楽しむには良いのかも・・・・。そのうち京都・奈良三昧でもしよう・・・

昨日、本日とも気温が急に下がった。まだ8月だというのに20℃も無い・・。特に、朝起きると、日の出の時刻が急に遅くなってきた。そろそろ短い秋がスタートしたかな?

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2008年8月22日 (金)

中村元の「観音経」(4/13)

この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連Image01241_2 続講義「こころをよむ/仏典」(CDはこれ)の「第18回 願望をかなえる-観音経」の部分を、『中村先生の声』と『原文』『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」(これ)を元に味わっていくもので、今日はその第4回目である。

<こころをよむ/仏典「観音経」~その4CDはこれ

せつぶうにん にゃくうざいにゃくむざい ちゅうかいかさけんごしん
設復有人 若有罪若無罪 杻械枷鎖検繋其身
しょうかんぜおんぼさつみょうしゃ かいしつだんねそくとくげだつ にゃくさんぜんたいせんこくど
称観世音菩薩名者 皆悉断壊即得解脱 若三千大千国土
まんちゅうおんぞく ういちしょうしゅ しょうしょしょうにん さいじじゅうほう
満中怨賊 有一商主 将諸商人 齎持重宝
きょうかけんろごちゅういちにん さぜしょうごん しょぜんなんし もつとくくふ
経過険路其中一人 作是唱言 諸善男子 勿得恐怖
にょとうおうとういっしんしょうかんぜおんぼさつみょうごう ぜぼさ のういむい
汝等応当一心称観世音菩薩名号 是菩薩 能以無畏
せおしゅじょう にょとうにゃくしょうみょうしゃ おしおんぞく とうとくげだつ
施於衆生 汝等若称名者 於此怨賊 当得解脱
しゅうしょうにんもんぐほつしょうごん なむかんぜおんぼさつ しょうごみょうこ そくとくげだつ
衆商人聞倶発声言 南無観世音菩薩 称其名故 即得解脱
むじんい かんぜおんぼさつまかさつ いじんしりき ぎぎにょぜ
無尽意 観世音菩薩摩訶薩 威神之力 巍巍如是

「たといまた人ありて、もしくは罪あるにもあれ、もしくは罪無きにもあれ、杻(てかせ)械(あしかせ)・枷(くびかせ)鎖(くさり)にその身を検(とじこ)め繋(つな)がれんに、観世音菩薩の名(みな)を称(とな)えば、皆ことごとく断壊(だんね)してすなわち解脱(まぬが)るることを得ん。もし三千大千国土に、中に満つる怨賊(おんぞく)あらんに、一(ひとり)の商主有りて、諸の商人を将(ひき)いて重宝(とうときたから)を齎持(もたら)して険(けわ)しき路を経過(きょうか)せば、その中に一人、この唱言(となえごと)を作(な)さん、『諸の全男子よ、恐怖するを得ること勿れ。汝等(なんだち)よ、まさに一心に観世音菩薩の名号を称うべし。この菩薩は能(よ)く無畏(むい)を以って衆生に施したもう。汝らよ、もし名を称うれば、この怨賊よりまさに解脱るるを得べし』と。衆(もろもろ)の商人は聞きて倶に声を発(あ)げて、『南無観世音菩薩』と言わん。その名を称うるが故に、すなわち解脱るるを得ん。無尽意(むじんに)よ、観世音菩薩摩訶薩は、威神の力の巍巍(ぎぎ)たること、かくの如し。」

「また、捕らえられて、手枷(てかせ)・足枷はめられて拘禁束縛(こうきんそくばく)されている場合でも、観音さまの御名を称えると、免れるであろう」、という。
こういう趣旨のことはあとにも出てきます。それにしても、罪のない人がのがれることができるというのはわかるけれども、罪のある者ものがれられるというのは、ちょっとおかしいじゃないか、と思われるかもしれません。わたしも以前、ここに疑問を持ちました。しかし、これはインドないし南アジアの社会の実態をご了解いただければ、理解していただけると思うのです。
南アジア、ことにインドの奥地には盗賊がおりまして、人のものを奪う。しかし、奪うといっても、ただ人をあやめるのではなく、お金持ちから奪って、貧しい人に配ってしまうという、いわば一種の義賊(ぎぞく)がたいへん多くいるのです。近年のインドにもおりました。政府軍が討伐してもなかなか捕まらない。なぜかというと、民衆がそっちのほうへついてしまう。そういう賊が昔からいまして、盗賊の物語などは有名なのですが、それが強くなって、そして都を占領して支配者になる、そうするととたんに大さまになるわけです。だから、インドでは、国王の難と盗賊の難ということを、二つ並べます。民衆の人たち自身は楽しい生活を享受していて、そこを力のある連中がじゃまをする、そういう考えが彼らの生活のなかにずっとしみついているものですから、とにかく捕らえられるのは災難だ、と思う気持ちが彼らのあいだにはある。そういう点を頭にとどめると、こういう念願があったことがよくわかります。
また、怨みをいだく賊が満ちているなか、一人の商主が他を率いて、貴重な交易品を運び、険しい道を過ぎて行く。隊商ですね。このとき、だれかが、この称えたとしよう、「ああ、皆さん、恐れてビクビクなさるな。皆さん、さあ、一心に観世音菩薩の名号を称えましょう。そうすれば賊からまぬがれることができるでしょう」。それで、みんなが声を出して「南無観世音菩薩」という。そうすると、その災難からまぬがれることができる、というわけです。
なお、従来の漢文読みでは「無畏(むい)を以って衆生に施したもう」となっていて、ここでもそうしましたが、「無畏」とは「畏れのないこと」、つまり安全にしてくださるという意味ですから、「無畏を衆生に施したもう」と読んだほうがわかりやすく、また、筋が通ると思います。
このように、観音さまが難儀を救ってくださることを述べるのですが、いままで読んだところでもお気づきのように、このお経では船で貿易している人々、あるいは隊商を組織して通商を行っている人々のことが出てきます。おそらくは、最初、こういう人々のあいだでとくに観音さまの信仰が拡がっていったのでしょう。」(「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」P190-193より)

この観音経は、言うまでもなく法華経の第25品(章)であるが、法華経の成立は、釈尊の入滅後ほぼ500年以上の後、つまりBC50年からBC150年の間に成立したと推定されているという。(中村元は、法華経が成立した年代の上限は西暦40年であると推察している)
よって、この当時の様子(社会・経済)を思い浮かべると、分かってくる。
「お経」に書いてある色々なエピソード?を聞きながら、悠久の流れに身を置くのも、また愉快ではないか・・・・

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2008年8月21日 (木)

「呪い」の具体的な方法・・・密やかに

北京オリンピックの女子ソフトボール決勝戦。米国を3:1で破って金メダル。ついつい見てしまった。NHKもニュースを後回しにして中継していた。それにしても、6回裏、1アウト満塁を冷静に抑えた上野ピッチャーに脱帽。まあそれはそれとして・・・

今朝(08/8/21)の日経産業新聞に面白いコラムがあった。 「こころの危機管理~バランス戻す代償行為~迷惑かけずに密やかに行う」 (P23)である。曰く・・・・

「こころの病になってしまった場合、原因は複合的ですし、本人の心境も複雑です。だから事故に遭ったようなものだからと説いてもなかなか通じません。あれさえなければぼくは大丈夫だったのにと悔い、あの人物さえいなければわたしは立ち直れるのにと悩むわけです。考えれば考えるほど傷は深くなるばかり。
こころが血を流しているのだからと諭してみたところで、自分のふがいなさばかりを責めてしまう。
見るに見かねて、それならばいっそのこと相手を消してしまえば?と言うと、えっと驚かれます。でもそのあと実際に消してしまえると、立ち直れる例が大半です――。
ちょっとコワい話になってきました。でも誤解しないでください。消すというのは代償行為によって消し去るのであって、相手に危害を加えて抹殺するわけではないのです。
・・・・・
呪いによって相手を抹殺するとき、日本人は自然の力を借りるようです。呪う行為だけをして天命を待つ。けんかはぜず手は下さない。けんかしても得にならないことを暗黙知として心得ているからでしょう。
今という時代、どうやって消し去ればよいか。昔のように五寸くぎを使うのは避けたいところです。ある人は、相手の顔と名を書いた絵を自転車のタイヤに張り付けて毎日轢(ひ)きつぶしていました。ある人は絵を毎日焼き捨てていました。絵はいずれも1センチ四方サイズ。周囲に迷惑を掛けることなく密(ひそ)やかに行うのがミソです。無事に立ち直れる人が多い理由は、憂いさを晴らす具体的な行為によって負に振れていたこころのバランスが戻るからでしょう。それとも相手に天罰が下ったのでしょうか。やはりコワいですね。(産業医 荒井千暁)」

世の中、鬱病がはやっている。ストレスの原因は対人関係が一番多いとも聞く。その解決法?が、ここには明確に?書いてある。「なるほど・・」と思う人は多いのでは?
フト思った。逆に、自分が鬱病に“追い込んだ”例が無かったかどうか・・・。自分の顔の絵が、いつかどこかで、タイヤに轢き潰されていたことが「無かった」と言えるかどうか・・・。ドキッとする。
でもこの方法、家庭内での「実行」は避けたほうが良かろう。いつ何時バレるか分からないし、バレた時は取り返しがつかない・・・。(もちろん我が家には縁のない話だが・・・)

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2008年8月20日 (水)

太平洋戦争を考える(7)~ニューギニア帰還兵 川村正風氏の話

盆休みに録り貯めたNHKラジオ深夜便「こころの時代」を通勤電車の中で聞いている。今日は、「ニューギニア戦線の日々から ~ニューギニア帰還兵 川村正風」(08/8/12~13放送)を聞き、その話の凄まじさ、生々しさに、改めて戦争の惨さを考えさせられた。

川村さんは、大正4年生まれの93歳。しかし卓球やプロ並みの書道を通して、声もまだまだ矍鑠(かくしゃく)とされている。
戦場からの帰還兵は、誰もが「思い出したくない」「語りたくない」のが本音という。しかし西部ニューギニアの戦場の状況は、記録が全て焼却されたため、何も残っていない。それで、生き残った者の責任と言われ、2002年に本を出したという。(ここ

川村さんは、一度目の召集は訓練中の怪我で除隊されたが、昭和18年10月、28歳の時に再度召集され、「死んでも帰れぬニューギニア」と言われた西部ニューギニアのマノクワリ地区に駐屯。着いた時から、敵を見ぬまま飢餓とマラリアとの戦い。砲弾を運ぶ部隊だったが砲が届かず、砲弾は使われぬまま。後方支援も無く、ただただ飢餓との戦いに明け暮れる。米軍は攻めてくることもなく、北に去り、日本からも米国からも見捨てられた地域となる。
飢餓の状況は凄まじく、毒蛇などは御馳走。中でも油の飢餓に、靴用の油は植物性なので大丈夫だろうと、雑草の天ぷらの美味かったこと。しかしそれも直ぐに無くなったため、今度は機械油でのてんぷらをしたら、上も下も大変・・。
あまりの飢餓に死者だけでなく、精神異常者も出て、見かねた将校が、手榴弾での海の魚(サヨリ)の捕獲を許可。しかしサヨリはすばしっこく、ギリギリに手榴弾を投げないと魚が逃げてしまう。そして、そのタイミングを間違えて死ぬ兵隊・・・。終わりの頃は、敵兵が空襲に来ると、落とした爆弾で魚が浮く。それが有り難くて、たまにこの「定期便」が来ないと、待ち遠しくなる、という変な状態・・。
発狂する人も出てくるので、部隊長の発案で、同じ部隊だった俳優の加藤大介が演芸会を催す。(「南の島に雪が降る」をいう映画の名前はどこかで聞いたことがあったが、これだったのだ)加藤大介が筋書き・脚本を作り「父帰る」「浅草の灯」などをやった。舞台が開くと雪の情景・・・。それはパラシュートで作った白い舞台。にわか作りの役者、紙による雪・・・。何の希望も無かった兵隊からは涙が・・・。川村さんは、この舞台を見て「たまらなかった」と言う。そして、それを体験した貴重な人。

そして終戦。聞いたのは昭和20年8月18日だったという。それから銃を差し出し、砲弾は使うことなく、七日七夜、連日爆破破棄された。結局、戦闘らしい戦闘は無く、残った武器はすべて廃棄。飢餓とマラリアの中で、ジャングルを逃げ回っただけ・・。
そして帰還の昭和21年5月までの9ヶ月は、ただ生き抜くことだけ。しかし、終戦を迎えても日本に帰れぬまま死ぬ人。相棒も21年1月に亡くなった。部隊は最後まで一糸乱れず。それは部隊長が人格者だったから。人の上に立つのは、やはり人格。弁舌が爽やかとか馬力があるとかあるが、最終的には「人格だ」と教えられた。加藤大介の問題も含めて、部隊長は発狂者が出る状況を何とかしなければ・・・と考え、一人でも多く帰国させねばと・・・

最も悲劇だったのは、帰還する船に縄梯子で登る際に、その途中から力尽きて落ちて死ぬ兵隊が居たこと・・・・。これは忘れられない。
やっと名古屋港に着き、家に帰ると別の人・・・。家族は居ない・・・。その後何とか知人を訪ねて、九州に疎開している家族と再会を果たすが、戦争後遺症は続く・・・

希望が全く無く、救いが無く、神も仏も無いと本当に思った。神や仏はもともと無いのに、人間の都合で作ったものに過ぎない、と虚無的になった。帰還してもお宮やお寺に行く気もせず。しかしある時、宮本武蔵の「独行道」の「仏神を敬してたのまず(仏神は貴し仏神をたのまず)」という言葉に巡り合って、ようやくピタリと来た。つまり、神仏は敬うが、自分の都合の良いように「助けてくれ」と頼るのはダメ、という心境。

頼れるのは自分だけ。それ以来、酒を飲んでも自分を失ったことはない。自分をコントロールすることだけは出来ている。また、賞味期限切れを食べるのは常。エサさえあれば良い、という考えが抜けない。だから、美味しい物を食べに行こうとか、温泉旅行に行こうなどとは自分からは決して思わない。それは飢餓で死んで行った戦友を思うと、とても言えない。奥さんを介護して10年、そして死後11年になるが、この21年間、一人で食べるようになって益々いい加減になった。この2年ほどは1日1食。朝果物を食べて晩に食べるだけ。
そして、今は卓球と書道。93歳・・・
最後に、「日本人は、戦後“恥”を忘れたのでは? 昔は疑いを掛けられただけで職を辞するという気合があった・・・」という言葉で終わった。

NHKで、「証言記録 兵士たちの戦争」という番組をシリーズでやっているが、まさにこの番組は「貴重な記録」になるのではないか。まさに「生き証言」である。

昨年、太平洋戦争を理解しようと色々な本を買いあさり、「太平洋戦争を考える」というタイトルで幾つか記事を書いた。でも結局、まだ本は積んである。でも、またこれを機に、買ってある本だけでも読んで、「何があったのか」だけでも早く理解しようと思った。(最近、熱が冷めていたので・・)

(関係記事)
「太平洋戦争」を考える(1)
太平洋戦争を考える(2)~マニラ市街戦での殺戮
太平洋戦争を考える(3)~NHK「日中戦争」を見た
太平洋戦争を考える(4)~東京裁判
太平洋戦争を考える(5)~御前会議とは何か?
太平洋戦争を考える(6)~対米開戦までの舞台裏

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2008年8月19日 (火)

岡本敦郎の「チャペルの鐘」

今日は、八州秀章作曲の「チャペルの鐘」である。自分のこの歌との出会いは古い。昭和28年発表のNHKのラジオ歌謡であるが、自分がこの歌を知ったのは、中学の頃か高校の頃か・・・
他のラジオ歌謡と同じく、“その時”に既に「懐かしのメロディー」だった。
岡本敦郎の声が何とも清々しく、良く聞き、歌ったものだ。ステレオの再録盤で、少し聞いてみよう。

<岡本敦郎「チャペルの鐘」>

「チャペルの鐘」
   作詩:和田隆夫
   作曲:八州秀章

1)なつかしの アカシアの小径は
 白いチャペルに つづく径
 若き愁い 胸に秘めて
 アベ・マリア 夕陽に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

2)嫁ぎゆく あのひとと眺めた
 白いチャペルの 丘の雲
 あわき想い 風に流れ
 アベ・マリア しずかに歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

3)忘られぬ 思い出の小径よ
 白いチャペルに つづく径
 若きなやみ 星に告げて
 アベ・マリア 涙に歌えば
 白いチャペルの ああ
 白いチャペルの 鐘が鳴る

この歌を聞くと、なぜか札幌の時計台を思い出す。理由は分からない。でもあれは時計台であってチャペルではない・・・。では「チャペル」とは何ぞや? Wikipediaによると、
「チャペル (Chapel) は、本来クリスチャンが礼拝する場所であるが、日本では私邸、ホテル、学校、兵舎、客船、空港、病院などに設けられる、教会の所有ではない礼拝堂を指している。」
とある。どうも教会の礼拝堂はチャペルとは言わないらしい。結婚式場がチャペルだ。
でもこの歌詞は、何とも淡い恋でいいな~。(オジサンには縁が無いが・・・)
白いチャペルか・・・
フト、2年前の今頃、オーストリアに行って教会を見た事を思い出した。ヨーロッパはどこに行っても教会だ。2年前は2週間掛けてオーストリアを一周したが、オーストリアでも、どこに行っても尖塔の教会があった。中でも有名で「これどこかで見た事がある・・」と思った教会が二つあった。ハイリゲンブルートの教会とハルシュタットの教会である。この歌とはあまり関係ないが、“絵になる”教会の写真を見ながら、岡本敦郎の歌を聞くもの一興か?

<オーストリア「ハイリゲンブルートの教会」及び内部>(2006/8/9)

0835001 0855211 0913161

<オーストリア「ハルシュタットの教会」>(2006/8/14)

1349071 1354031 1359211

でも、ハイリゲンブルートの教会の内部には、「アベ・マリア」と言うより、キリストが血を流している像があり、日本の仏教の仏さまと違って、キリスト教の像のリアリティーさにビックリしたものだ。

しかし現代は携帯・メールの時代。昔の「変(恋)しい変(恋)しい・・・」(青い山脈)が懐かしい。
まあ、こんな歌を聞きながら、“自分にも青春があったんだっけ”と、フト気付くのも良いではないか・・。

(関係記事)
八洲秀章の「毬藻の歌」
脳梗塞にもめげず現役「岡本敦郎」83才

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2008年8月18日 (月)

意外と多い「共働き」の家庭

今朝(08/8/18)の朝日新聞朝刊の「声」の欄に、「結婚して痛感 不便な手続き」という投書があった。曰く・・・

「この春、結婚して名字と住所が変わりました。銀行の口座や運転免許証の変更をしようと色々調べたところ、ほとんどが平日の昼間に、しかも、本人が直接出向かないと変更できないことが分かりました。・・・・
結婚して初めて知った社会の一部システムが、こんなに不便だったのかを思い知らされました。共働きが家庭が増えています。月に1回でいいのです。平日の夜まで延長する窓口がもっと増え、こういった手続きが、仕事帰りに手軽にできるような社会になって欲しいものです。」

この話は実にもっともで、誰もが感じていること。特に官庁は、概ね顧客志向が無いようで、この様な対応は普通だ。(でも流石に社会保険事務所だけは、夜まで開く日を設定しているし、自分が使っている銀行も外資系なので、夜まで窓口は開いている・・・)

Image01421そう言えば、昨日の新聞に共働き家庭の統計が載っていて、意外に共働きが多いな・・と思ったっけ。・・・と、新聞をひっくり返したら出てきた。日経(08/8i/17 P9)「エコノ探偵団」という記事の一部に載っていた「共働き世帯数は増加傾向」というグラフである。

080818tomogasegi この出典として「男女共同参画白書」とあったので、Netで検索してみたら、あった(ここ)。これを見ると、昨年(H19年)で、共働きは54%(専業主婦が46%)だという。これを多いと見るか少ないと見るか・・・
グラフは、1991年(H3年)に共働きが追い付き、翌年逆転して2000年頃までは半々で推移したが、2000年代になってから徐々に共働きが専業主婦との差を開いて行った事を示している。これは、まさに若い人の家庭が共働きが多いためだろう。原因は、安月給のためと、女性が家庭に入らなくなった?
カミさんに言わせると、それには“爺婆”の支えが大きいらしい。近所だから・・・を通り越して、今では新幹線に乗って、若夫婦の家に応援に行くとか・・。若夫婦もそれを期待しているので、うまく回っている??

前に誰かが、「今の団塊の世代は、親の面倒を見る最後の世代であり、子供から面倒を見てもらえない最初の世代」と言っていた。これは「損な(ワリに合わない)世代」と指摘しているのだろうが、我々当事者は、意外とそうは思っていない。自分も含めて、親の面倒はある意味「当然」と捉え、また「子供の世話になる」という気持ちも少ない。それらを、初めから「当たり前」と捉えている世代なのかも知れない。
子供は、共稼ぎだろうが何だろうか「一人で自立して生活していてくれたらそれで良い」と思い、「自分たちだけは、出来るだけ子供の世話にはならない(迷惑は掛けない)」と思う・・・。

その為には、何が必要だろう・・・。 金だけではないな・・・。先ずは最大のピンチである“片方が欠けない”ため、夫婦健康が何より大事だろう。その為に・・・・
「メイ子(愛犬)!! 散歩にでも行くか・・・」

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2008年8月17日 (日)

石川さゆりの「吾亦紅(われもこう)」

先日(08/8/16)、BS2で「石川さゆり音楽会~歌手生活35周年記念リサイタル~」が放送されていた。デビューから35年で、シングル盤が101曲、アルバムが115枚、総数で1971曲になると言っていた。
石川さゆりは、自分が良く聞く歌手のひとりだが、MP3の曲数を調べてみたら、64曲あった。これは自分のライブラリーの中でも多い方だ。そのなかで、かなり初期の歌に「吾亦紅(われもこう)」という歌がある。自分のメモでは、1991年10月27日録音とある。
調べたら、この曲は1990年9月21日発売とある。(「うたかた」のB面)
FMで放送していたのを録音したのだが、最初、曲名が分からなかった。(昔はNetで調べることが出来なかったので・・・)その後、この歌を放送等で聞いたことはない。それほどマイナーな曲なのだが、なぜか心に残っている。歌詞も、Netで調べても出てこない。よって下記の歌詞は、歌から採ったので正確では無い。でも、少し聞いてみよう。

<石川さゆり「吾亦紅」>

「吾亦紅(われもこう) 」
  作詞:吉岡 治
  作曲:岡 千秋

1)風が運んだ 夜汽車の汽笛
 あなたの町でも泣きますか
 化粧おとすと 気弱になって
 癖になりそな 寝酒です
 風待ち港の 吾亦紅
 あなた… いまもひっそり咲いてます

2)夢は夢でも 女と男
 三月で違いを知りました
 死ぬも生きるも ふたりは一緒
 そんな嘘さえ 懐かしく
 風待ち港の 吾亦紅
 あなた…  お酒相手の夜更けです

3)肩が寒がる 背中がねだる
 あきらめきれずに恋しがる
 薄いふとんに くるまりながら
 合わす背がない 海老折寝
 風待ち港の 吾亦紅
 あなた… つくしきりたい女です

Waremokou このところ、他の歌手での別の「吾亦紅」もあるので、漢字は読めるようになってきたが、この花はたぶん見たことが無い。どうもこんな花らしいが・・・。

しかし、(自分で言うのも何だが)この音源が意外と良いのでビックリ。と言うのは、オリジナルの音源はNHK FM.。それを番組丸ごと19㎝のオープンデッキに録って、それから残しておく曲をピックアップしてカセットにコピー。その後MD時代になったので、カセットをMDにコピー。そしてそのMDをMP3に変換したのがこの音源である。オープン→カセット→MD→MP3と、何度もコピーを繰り返しているので、相当に音質は劣化しているはずだが、今でも何とか聞くに耐える。立派・・・(何を褒めている??)

しかし、石川さゆりももう50歳。しかしバリバリの現役。演歌が流行らぬ現代ではあるが、日本の情緒は演歌にあるように思うのだが・・・
(フト思い出した・・・。昔、会社の飲み会のときに、皆Jポップを歌うので「演歌をやれー!」と怒鳴ったら、不評だったっけ。当然かも・・・)

(関連記事)
石川さゆり「津軽海峡・冬景色」~歌謡曲のアレンジの妙・・・

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2008年8月16日 (土)

谷村新司の「群青」

先日放送されたので録っておいた映画「出口のない海」を見た。ちょうど昨日が終戦記念日だったが、この映画のテーマは人間魚雷「回天」。何ともやりきれないテーマではある。特攻で死ぬと「軍神」になるという。そして死ぬ積りで回りに挨拶をして、イザというときに回天の故障で出発できない・・・。そして生きて戻ってきた時の、周囲の冷たい眼・・・。
この映画でも、最後の場面で回天が故障して海底に突っ込み、そのまま死を迎える場面が出てきた。まさに「出口のない海」である。爆死よりも悲惨・・・
特に回天は終戦間際の作戦のため、機械の故障も多く、事故で死ぬ例も多かったように聞く。飛行機の特攻隊もそうだが、人間の死を前提とした作戦は、何ともやりきれない。そういえば、ニュー・ヨークの同時多発テロも同じだし、自爆テロもだ・・。

この映画を見ながら、フト谷村新司の「群青」という歌を思い出した。この曲は、1981年(昭和56)年7月発売で、同じ年に公開された東宝映画「連合艦隊」の主題歌だという。
少し聞いてみよう。この音源はオリジナルのCDとは別の音源(編曲)である。

<谷村新司「群青」>

「群青」
  作詞/作曲:谷村新司

空を染めてゆく この雪が静かに
海に積りて 波を凍らせる
空を染めてゆく この雪が静かに
海を眠らせ 貴方を眠らせる

手折れば散る 薄紫の
野辺に咲きたる 一輪の
花に似て儚なきは人の命か
せめて海に散れ 想いが届かば
せめて海に咲け 心の冬薔薇

老いた足どりで 想いを巡らせ
海に向いて 一人立たずめば
我より先に逝く 不幸は許せど
残りて哀しみを 抱く身のつらさよ

君を背おい 歩いた日の
ぬくもり背中に 消えかけて
泣けと如く群青の海に降る雪
砂に腹這いて 海の声を聞く
待っていておくれ もうすぐ還るよ

空を染めてゆく この雪が静かに
海に積りて 波を凍らせる
空を染めてゆく この雪が静かに
海を眠らせて 貴方を眠らせる

思い出すと、この歌を知ったのは1980年代後半だった。会社の飲み会の後、上司達と二次会に行き、そこで上司がカラオケでこの歌を歌った。そこで曲名を教えてもらって、早速仕入れたという訳。この頃は、とても新たらしい曲を仕入れるヒマもチャンスも無かった。

話が変わるが、靖国神社で「回天」を見たことがある。数年前、世の中が小泉首相の靖国神社参拝で騒々しかった時に、一度も行ったことが無いのも失礼?かと思い、会社の創立記念日で半ドンだった日に、行ってみたことがある。中に立派な博物館があり、飛行機や回天が展示されていた。
昔、子供のときに「人間魚雷回天」という映画(1955年公開)を見たことがあり、映画の内容はすっかり忘れたものの、「回天」という名前は強烈に覚えていた。それで、実物を興味深く見たものだ。

今しみじみとこの曲を聞きながら、歌詞をかみ締めると、戦争の哀しさが伝わって来る。特に終戦前夜に空襲に遭った熊谷市や、「回天」等の機械の故障など、理由は別にして、本来死ななくても良かったのに死んで行った人の無念さは察して余りある。
あまり関係ないが、谷村新司の「群青」でも聞きながら、戦没者の追悼をしようか・・・。(戦後63年・・・。戦争を風化させないために)

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2008年8月15日 (金)

中村元の「観音経」(3/13)

この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連Image01241_2 続講義「こころをよむ/仏典」(CDはこれ)の「第18回 願望をかなえる-観音経」の部分を、『中村先生の声』と『原文』『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」(これ)を元に味わっていくもので、今日はその第3回目である。

<こころをよむ/仏典「観音経」~その3CDはこれ

にゃくぶうじん りんとうひがい しょうかんぜおんぼさつみょうしゃ
若復有人 臨当被害 称観世音菩薩名者
ひしょしゅとうじょうじんだんだんね にとくげだつ
彼所執刀杖尋段段壊 而得解脱
にゃくさんぜんだいせんこくどまんちゅう やしゃらせつ よくらいのうにん
若三千大千國土満中 夜叉羅刹 欲来悩人
もんごしょうかんぜおんぼさつみょうしゃ ぜしょあくき
聞其称観世音菩薩名者 是諸悪鬼
しょうふのういあくげんじし きょうぶかがい
尚不能以悪眼視之 況復加害

「もしまた、人有りてまさに害せらるべきに臨みて、観世音菩薩の名(みな)を称えば、彼(か)の執る所の刀杖(とうじょう)は、尋(にわか)に段段に壊(お)れて、解脱(まぬが)るるを得ん。もし三千大千国土に、中に満つる夜叉・羅刹(らせつ)、来たりて人を悩まさんと欲(す)るに。その、観世音菩薩の名を称うるを聞かば、この諸の悪鬼(あっき)は尚(なお)、悪眼(あくげん)をもってこれを視(み)ることすら能わず、いわんやまた、害を加えんや。」

それからまた、人から害せられようとしているとき、観世音菩薩の御名を称えれば、その悪漢が振りかざした刀などの武器は粉々に砕けてしまう。また、「夜叉」「羅刹」などが来て、人を悩まそうとしたときに、観世音菩薩の御名を称えるのを聞いたならば、この悪鬼はもうへこたれてしまって、悪い眼をもってこれを眼ることさえもできない。もちろん害を加えることなど、できなくなる。
「三千大千国土」は「大宇宙」といったらいいでしょう。「夜叉」はヤクシャの音を写したもので、神霊をいいますが、のちには、人に害をなす半ば神のような神霊とされました。」(「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」P189-190より)

観音経では、色々な例えで、観音さまと唱えれば、助けに来てくれる・・・と説くが、この例えは現代でも通じる・・・。
先の秋葉原の事件など、まさに悪漢が刀を振りかざして来た。被害者は、たぶん「観音さま」の御名を唱える時間も無かったのだろうが・・・・
でも、何か「頼るもの」があると、心が和む。それは人間の弱さなのだろうが・・

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2008年8月14日 (木)

TVドラマ「ローハイド」のテーマ

いやはや、連日新聞もテレビも北京オリンピック一色である。しかしオリンピックのテレビの画像は素晴らしい。4年前は今ほどデジタルハイビジョンテレビが普及していなかったので、今回が初めての本格的ハイビジョン中継という位置付けだろう。

自分が覚えている最初のオリンピック大会は「メルボルン大会」。1956年(昭和31年)というから自分が8歳の頃。小学校3年生か・・・。この頃、ようやく家庭にテレビが入り始まった。TVを入れると屋根にアンテナが立つので直ぐ分かる。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の舞台は昭和33年。同じようにTVが入って、近所の人が大挙して見に来るシーンがあった。この少し前の時期だ。もちろんオリンピックの中継という言葉も無く、目指すはプロレス。目を閉じると、風呂屋の帰りに、途中の家の2階の窓際に置いてあるTVに、道路から皆がポカンと口を開けて見つめている風景を思い出す。
そして、昭和34~35年頃になると、夕方友人の家に、自転車に乗ってTVを見に行った。小学校の頃のテレビというと、「ローハイド」という西部劇のテーマを思い出す。「ローハイド」は1959年(昭和34年)から1965年(昭和40年)まで、テレビ朝日系で放送されたという。物語は全く覚えていないが、なぜかこのテーマソングだけは頭に残っている。
・・・・という訳で、オリンピックとはあんまり関係ないけど「ローハイド」のテーマを少し・・・・

<フランキー・レイン「ローハイド」のテーマ>

北京五輪では、別にテーマソングではないが、9歳の女の子が歌った歌が、実は「口パク」だったと報じられている。また、開会式の音楽は事前録音、「足あと」の花火はCG(コンピューターを使った合成場面)だったとも報じられている。
絶対に間違いが許されない本番。その緊張感を考えると、ナマでなくても仕方がない気はする。
今日(08/8/14)の体操男子個人戦。冨田洋之がつり輪で落下し、内村航平があん馬で2回も落ちたので、こりゃダメだとTVを消したが、後で聞いたら内村が銀メダルで冨田が4位だと・・・。いやはや結果は最後まで分からない。「もうメダルとは縁が無くなった・・・」と開き直った成果か??
しかしボケーっとTVを見ているだけでも、妙に納得する場面がある。女子アーチェリー。中国が優勝したが、銀の韓国は、過去6連覇しているという。「弓は韓国が強い・・」。なるほど、さすがに「チュモン」の末裔だ・・・・、と納得!? (←これは分からないだろう。今、BSフジで放送中の韓国ドラマ「チュモン(朱蒙)」(ここ)の主人公は弓の名手。チュモンとは弓の名手を意味するという・・・。これもオリンピックとはあんまり関係ないけど・・ ←当blogも夏バテでネタ切れだな・・・)

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2008年8月13日 (水)

スポーツの「一瞬」の悲喜こもごも

今朝(08/8/13)の朝日新聞朝刊のスポーツ欄に載った写真に、「さすがプロ(の写真家)は違う」と思った。
Image01381 一枚目は、昨日(08/8/12)の高校野球。横浜対広陵の試合。4回に大石選手が3塁打と失策によってベースを一周し、ホームベースに突っ込んだ瞬間の写真・・・。
最後のひと蹴りの砂埃が後方に上がり、宙に舞う選手の太陽の影が下に写る。そして手前に目指すベースが・・・。いやはや、こんな瞬間を、ジャストピントでこれだけ鮮明に撮るとは、まさにプロ・・・。新聞の解説に曰く・・

ベース1周 殊勲1年生 4回、横浜の勝ち越し点をたたき出したのは1年生の大石だ。2死二塁から粘りに粘った11球目、真ん中の好球を引き出して右中間へ。ぐんぐんスピードを上げ、中堅手の返球がそれる間に本塁へ頭から滑り込んだ(記録は三塁打と失策)=写真、西畑志朗撮影。・・・」

Image01391 二枚目は、同じく昨日(08/8/12)の北京五輪柔道女子63キロ級で、「決勝でドコスに鮮やかな内またを決めて一本勝ちした谷本=ロイター」の写真。
これこそ、日本にとって待ちに待った金メダルの瞬間を撮った写真。これはロイターなので誰が撮ったかは分からないが、各紙に載った。

確かに昔と違って今はデジタルカメラなので、数百枚を連続して撮れる。しかも連写も可能だ。しかしアングルやピントの具合など、偶然に負うところも多いのではないか・・・。それも実力の内だろうが・・・

話は変わるが、同じ今朝の日経朝刊のスポーツ欄(P32)「五輪的生活」というコラムに、中国ペア“番狂わせ”の敗北」という記事があった。曰く・・・
「『開幕以来、最大の番狂わせ』。12日の中国のメディアはバトミントン女子ダブルス準々決勝で日本の末綱聡子・前田美順組に敗れた地元の楊維・張潔※組をこぞって大ぶりに報じた。前回のアテネ五輪覇者で、世界ランキング1位ペアの「取りこぼし」を痛烈に批判。開幕前の期待と一転して、手のひらを返したような仕打ちに出ている。
優勝候補の筆頭だった楊・張組にとっては、たった一度の敗北で、奈落の底に突き落とされた気分だろう。・・・・『相手の力を軽視し、二人の準備不足も明らかだった』――。地元メディアの批判はとどまるところをしらない。・・・・・・楊は29歳、張はまだ27歳だが、ともに北京五輪での引退を表明した。二人に汚名を返上する機会はもう訪れない。張の母親は試合後、こう話したという。「人生は五輪だけではない。引退すれば、やっと時間ができる。娘には大学院に進んで、バトミントン以外の人生の新しいページを開いてほしい」
今、本当に支えてくれるのは身内だけ。・・・・勝者はこれ以上なくたたえられ、敗者は完膚なきまでたたかれる。しかし、この厳しさこそ、中国のスポーツの強さの源泉でもある。(阿部将樹)」

上の写真のように、幸運にも「その瞬間」が記録され、一生涯の記念になる「証拠」を手に出来た横浜高校の大石選手、そして大舞台での谷本選手。
それとは逆に、たった一回の試合に負けたことで、長年の栄光を失い、別の人生に寂しく船出する中国の二人・・・。
何とも、「結果がすべて」のスポーツの世界ならではの話ではあるが、「復活戦」の無い勝負の世界は、サラリーマンではうかがい知れない世界だと改めて感じた。
ところで、自分のサラリーマン生活の中で、「(成功して)光った瞬間」と「(失敗して)打ちのめされた瞬間」とは、いったいどちらが多かったのだろう・・・(マア言うまでもないけど・・・・)

●本日、カウントが15万を越えました。G=23,200 、Y=16,700&473

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2008年8月12日 (火)

「病気」と闘うか?

今日は野暮用で、カミさんと一緒に品川まで行った。電車の中でウトウトしながら東京駅に着くと、「“片割れ”は何も気にしないのだから・・」と言う。聞くと、自分の右隣に座っていた奥さんが、何やら大きなレントゲン写真を持っていたのだそうだ。しかも日付が8月の日にちが並んでいたとか。それで「セカンドオピニオンで、どこかの病院に持って行った帰りかも・・・」という話になった。(自分は寝ていたので見ていないが・・・)

それから東京駅のホームで電車を待ちながら、自分たちの場合はどうするかという話になった。結論は「出来たら、自分たちは病気とは闘いたくないね」という話に落ち着いた。
実はこれには理由がある。(前にも書いたが)4年ほど前に、叔父が肝臓ガンのため、68歳余で亡くなった。肺ガンを切り、肝臓ガンを切っての壮絶な死だった。それがトラウマになっているらしい。叔父は、手術をする前日まではピンピンしていたのに、手術をしたのを機に、どんどんん体力を失い、結局肝臓ガンで亡くなってしまった。それで、「手術をしなければ、あんなに早く亡くなることは無かったのではないか・・・」、という話になった。
たぶん、気の小さい自分は、ガンが早期発見されたら、それに拘って、そして怯えて、かえって病気を重くしてしまうかもしれない・・・。それを逆に考えると、知らなければ(手遅れにはなるが)ギリギリのところまで「生活の質(QOL)」を落とさないで生きられる事になるかも・・・?

話は変わるが、すぐに読めるからと、電車の中で読むようにカミさんに持たされた本(ひろさちや著「日本人の良識」これ)に、このような文言があった。
「・・・仏教は、病気に対して何を教えてくれるか? 仏教の教えは、基本的には、――闘うな――である。西洋の医学が「闘病の医学」であるのに対して、仏教は病気と闘わず、病気と仲良く生きることを教えている。
なぜかといえば、仏教は、老・病・死を自分の内側にあるものと見ている。人間が自分の内側にあるものと闘えば、それは自分自身と戦っていることになる。自分と闘うなんて愚かなことだ。だから、仏教は「病気と闘うな」と教えるのである。・・・」

自分はもちろん「その時」になったら右往左往することは分りきっている。今日の電車の奥さんの心中も、察して余りある。
しかし最近は、「何でも直ぐに病院に駆けつける」という自分のスタンスが変わってきたように感じる。(それは「臭いものにはフタ」という我が家の“家訓”に則っているのかも知れないけど・・・・)
こんな事をフト思うのも、親父の12回目の命日(8/15)が近いためかも知れないな・・・。

(追:08/8/15)
「リビング・ウィル」(No130)という冊子に、朝日俊彦氏の「高齢者に「がん検診」どこまで」という記事があり、そこにこのような文があった。
「・・・先日も、80歳を過ぎた男性が夫婦で相談に来られました。肺にあやしい影が見つかり、多分、がんだと思われるので、精密検査をして、それから手術をするように勧められたとのことです。・・・・夫婦で、これから受けなければならない厳しい検査や手術に恐れをなしているのです。今は何とか生活できていますが、手術を受けることで、がんは治っても、弱り込んだり、ボケたりしてしまうことも予測されます。そこで。検査や手術を受ければどのようなことが予測されるか、このまま放置すればどのようになるかを説明しました。
ご夫婦が娘さんを交えて相談した結果、検査も手術も受けずに、このままの生活を続ける選択をされました。・・・どうするかは本人が決めることになっています。しかし、現実は、治す方向へどうしても進むようです。医師にしても、治すから楽しみがあるのであって、何もしないで様子を見るのではもの足りないという気持ちになります。・・・」

(関連記事)
早期発見ははたして大切か?
朝日俊彦の「笑って死ぬために」(2)~朝日氏の語録

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2008年8月10日 (日)

仲宗根美樹の「川は流れる」

幾多ある昔の歌の中で「懐かしい・・」と感じる歌のひとつに、仲宗根美樹の「川は流れる」という歌がある。この、何ともエキゾチックでハスキーな声の歌が流れたのは1961年(昭和36年)で、その年の日本レコード大賞新人奨励賞を受賞したという。

080810kawahanagareru 昭和36年というと、自分が中学2年のときだ。この歌を聞きながら、自分の記憶の引き出しを開けると、何が出てくる??
ところがビックリしたことに何も出てこないのである。この歌にまつわる“事件”は、どうも何も無いようである・・・。
まあ聞いてみようか。オリジナルはもちろんモノラル。ステレオでの再録盤もあるが、やはりこの録音が記憶にある音だ。

<仲宗根美樹「川は流れる」>

「川は流れる」
  作詩:横井 弘
  作曲:桜田誠一
  歌 :仲宗根美樹

1)病葉(わくらば)を 今日も浮かべて
 街の谷 川は流れる
 ささやかな 望み破れて
 哀しみに 染まる瞳に
 黄昏の 水のまぶしさ

2)思い出の 橋のたもとに
 錆びついた 夢のかずかず
 ある人は 心つめたく
 ある人は 好きで別れて
 吹き抜ける 風に泣いてる

3)ともし灯も 薄い谷間を
 ひとすじに 川は流れる
 人の世の 塵にまみれて
 なお生きる 水をみつめて
 嘆くまい 明日は明かるく

ところで、この歌のシンボルの「病葉(わくらば)」という言葉。辞書で引くと「病気や虫のために枯れた(変色した)葉。特に、夏、赤や黄に色づいて垂れたり縮まったりした葉」のことらしい。
この言葉は、この歌以外は知らない。自分で使ったことも無い。でも「わくらば」と聞くと直ぐにこの歌を思い浮かべる・・・。

同じように、イメージと人との関係は面白い。特に芸能人(俳優)は、自分のカラー(個性)を出すのに懸命だ。カラーが無ければ、いわゆる「その他大勢」になってしまって、“売る”のは無理だ。しかし、我々“一般ピープル”にとって、カラー(イメージ)は自分自身では、意外と分からないものだ。
若い人は別だが、自分のように還暦を過ぎる頃になると、個性はもう変わらない。既に染み付いていて、もう取れない。そこで自分のイメージ(カラー)を振り返るとどうなる??
カミさんに聞いてみた。「オレのイメージは?」「奇人」「じゃあ貴女は?」「変人」「じゃあメイ子(ウチの愛犬)は?」「・・・・・・」
念のため、もう一度聞いてみた。「オレのイメージは?」「変人」「じゃあ貴女は?」「奇人」「じゃあメイ子は?」「・・・・・・」
さっきと逆じゃないか・・・。つまりウチは奇人・変人の集まりというわけか・・・・

まあリタイア後、「あのお爺さんは・・・・」と、陰口だけは叩かれないようにしたいものだが・・・・、サテ、どうだろう?

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2008年8月 9日 (土)

長崎原爆の写真~「焼き場に立つ少年」

今日は、8月9日。長崎に原爆が落ちた日だ。先日(08/8/7)、NHKスペシャル「解かれた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~」(これ)という番組があり、ついカミさんと釘付けになって見てしまった。そこで見た一枚の写真・・・。(カミさんは、これは有名な写真で、前に何度も見たことがある、と言うが、自分は初めて見た)
息を呑む情景という言葉があるが、まさにこの写真は少年の無念さがひしひしと伝わって来るショッキングな一枚だ。

この写真を撮ったアメリカ人カメラマンのジョー・オダネルは、軍の公式カメラマンとして、原爆投下の1ヵ月後の長崎に入った。そこで目にした惨状を、「日本人を撮るな」という軍の命令に背いて、密かに持ち込んだ自分のカメラで30枚の写真に記録し、アメリカに持ち帰った。しかし43年間そのネガをトランクに入れたまま封印。それを被爆者の写真を貼った反核運動の彫像を見たことをきっかけに開くことになる。・・・。昨年亡くなったオダネルの遺品から見つかった(カセットテープの)肉声をもとに、NHKの番組は伝える・・・・

080809nagasaki1 「ナレータ:今から63年前、長崎の火葬場で撮影された一人の少年。背負っているのは原爆で死んだ弟です。弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える少年。歯を食いしばるその唇には、血が滲んでいたといいます。写真を撮影したのはジョー・オダネル軍曹。・・・
・・・長崎を南北に貫く浦上川。そのほとりに下りていったオダネルは、生涯忘れられない光景と出会います。そこは火葬場でした。焼け野原を一人の少年が歩いてきました。少年は、背中に小さな弟の亡骸(なきがら)を背負っていました。
オダネル:『一人の少年が現れた。背中に幼い弟を背負っているようだった。火葬場にいた2人の男が弟を背中から外し、そっと火の中に置いた。彼は黙って立ち続けていた。まるで敬礼をしているかのように。炎が彼のほおを赤く染めいてた。彼は泣かず、ただ唇をかみしめていた。そして何も言わず、立ち去っていった』・・・・
帰国後、オダネルは長崎での記憶に精神をさいなまれます。
『被爆者たちの体をうごめくうじ、助けを求める声、鼻をつく異臭。私は長崎でも他光景を思い出すまいとした。しかしその光景は頭から離れず、私をさいなみ続けた。あの時のアメリカの決断は正しかったと言えるのだろうか。
眠ろうとしても眠れないのだ。悪夢が終わらないのだ。写真を見たくなかった。見ると長崎の悪夢がよみがえってしまう。』
苦しみから逃れるため、オダネルは全ての写真をトランクに封印しました。屋根裏部屋に隠し、以後43年間開ける事はありませんでした。
・・・
日本に原爆を落としたことをどう思っているのか。オダネルは一度だけ、自分の思いをトルーマン大統領にぶつけました。・・それは1950年の出来事でした。
『大統領、私は長崎と広島で写真を撮っていました。あなたは日本に原爆を落としたことを後悔したことはありませんか?
彼は動揺し顔を真っ赤にしてこう言った。当然それはある。しかし原爆投下じゃ私のアイデアではない。私は前の大統領から単に引き継いだだけだ。』
・・・
1989年オダネルの運命が変わります。オダネルは偶然立ち寄った修道院で、そこに飾られていた(十字架を背にした)反核運動の彫像に出会います。その全身には被爆者の写真が貼られていました。・・・・
『私は彫像を見て衝撃を受けた。罪のない被爆者たちの写真が彫像の全身にはられていたのだ。それを見たときの気持ちは言い表せない。長崎の記憶がよみがえりとても苦しくなった。しかし、私は何かしなければと痛烈に感じた。まさに啓示だった。自分も撮影した真実を伝えなければならないと。』
オダネルは屋根裏部屋に行き、43年ぶりにトランクを開けました。・・・・」

(1990年、アメリカの各地で写真展を試みるが、原爆の写真を受け入れる施設はない。本にしたくても出版社から断られる。原爆投下は誤りだと、母国アメリカを非難する声は結局同胞には届かず、その行動を理解できない妻は離婚。トランクを開けたときから家庭は崩壊した。孤立を深めながらも、それでもジョー・オダネルは戦争非難活動を続ける。)

「『誤解しないでほしい。私はアメリカ人だ。アメリカを愛しているし国のために戦った。しかし母国の過ちを、なかったことにできなかった。退役軍人は私のことを理解してくれないだろう。私は死の灰の上を歩きこの目で惨状を見たのだ。確かに日本軍は中国や韓国に対してひどいことをした。しかしあの小さな子どもたちが何かしただろうか。戦争に勝つために、本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか。1945年、あの原爆はやはり間違っていた。それは100年たっても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に。歴史は繰り返すというが、繰り返してはいけない歴史もあるはずだ。』

オダネルは昨年(2007年)8月、85歳で(原爆病のため)息を引き取った。その日はくしくも長崎原爆と同じ8月9日だった。

『アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。嫌がらせの手紙や投稿がどんどん集まってくる。「お前は裏切り者だ」「アメリカが嫌なら日本へ行け」と。ある時、娘が教えてくれた。「お父さんの活動に味方する投稿が一つだけあるよ」と。その投稿は私への批判の声に反論してくれていたのだ。「オダネルに批判する人に言いたい―― 原爆とは何だったのか。図書館に行って歴史を勉強してから批判しろ」。名前を見るとそれは私の息子だった。』・・・・」
そして今、息子がその遺志を継いで活動している。

今日の記事は単にNHKの番組を写しただけである。でもこの肉声は、その真実は、解説を必要としない。
63年目とはいえ、この惨劇を二度と繰り返さないため、またこの人類の未曾有の過ちを子々孫々に伝えて行くために、年に一度、戦争を、そして原爆を思い出すのも、戦争で亡くなって行った人への礼儀かもしれない。
なお、この番組は、2008年8月27日(水)深夜0時45分から再放送されるとの事。自分が今年見たドキュメンタリー番組の中でも一級の作品だと思った。

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2008年8月 8日 (金)

マーチ「双頭の鷲の旗の下に」と「サンブル・エ・ミューズ連隊」

今(08/8/8)、北京オリンピックの開会式が始まった。いやはや、さすがに中国。予想外に大規模なショーだ。オリンピックはスポーツの祭典。(でもこの開会式はスポーツというより奇術みたいだけど・・) スポーツと言えば、音楽は「マーチ(行進曲)」! ・・という訳で今日はマーチの話。

当サイトをスタート(06/6/1)してから6日目に書いた「サラサーテ自演の「チゴイネルワイゼン」ここ)という記事の中で、「自分のレコードの歴史は・・・・?と思い出すと、その当時(1960年代初め)、ソノシートというビニール製のレコードがあって、本屋で売っていた。そのソノシートで、一番最初に買ったのが朝日ソノラマの「世界のマーチ」。自衛隊音楽隊が演奏したマーチ集だ。それに続いて買ったのが・・・」と書いた。
その朝日ソノラマで聞いた曲が、スーザ等のマーチの数々・・・というわけ。
音楽を聞くと、なぜか色々な情景を思い出すが、この「双頭の旗の下に」という曲は、まさに「山の上の家」を思い出す。(これは、我が「実家」でだけ通じる言葉←昭和33~39年に住んでいた家←今は流通経済大の敷地内)
林の中にあった数軒の家。部屋の真空管式のラジオの上に、クリスタルプレヤーが鎮座し、学校から帰るとソノシートをかけて聞いたものだ。

<J.F.ワーグナー「双頭の鷲の旗の下に」>バーンスタイン/ニューヨーク・フィル(CDはこれ

もう1曲、このソノシートには入っていなかったが、その後の自分のマーチ人生?の中で好きになった曲・・・・。「サンブル・エ・ミューズ連隊」だ。

<ブランケット「サンブル・エ・ミューズ連隊行進曲」>フィリップ・ジョーンズ・アンンブル(CDはこれ

まあ自分の音楽人生も、これらのマーチからスタートして管弦楽曲、交響曲&歌謡曲?と移って行ったわけだ。

しかしTVで今やっている北京オリンピックの開会式はスゴイ。中国は人だけは沢山いるので(失礼)、スケールが違う。機械が動くのなら面白くないが、人力であれだけ一糸乱れずに合わせるというのは、北朝鮮のマスゲームを思い出すな・・・。しかし開会式も変わったものだ。東京オリンピックでは、こんなショーは無かったのに・・・

さてさて、ちょうど夏休みに入るので、部屋でゴロゴロしながら、北京オリンピックでも堪能するとしようか・・・

(関連記事)
東京オリンピックの思い出

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2008年8月 7日 (木)

ダーク・ダックスと倍賞千恵子の「かあさんの歌」

今朝の通勤電車の中で、先日(08/7/22)放送されたNHKラジオ深夜便「母を語る 作家…北原亜以子」を聞いた。実は「北原亜以子」という作家を知らないまま、ついつい聞き入ってしまった。氏は現在70歳。1993年に「恋忘れ草」で第109回直木賞を受賞するなど、数々の受賞に輝く時代小説の大家らしい。幼少の頃に父を戦争で亡くし、その後再婚した母・・・・。
前に、当blogでも同じ番組で、「母を語る 画家 木下晋氏」(ここ)を取り上げたことがあったっけ。

それで今日はこの番組にちなんで?「かあさんの歌」・・・・・
「かあさんの歌」は、昭和31年に作られ、昭和33年に発表された。作詞・作曲は窪田聡(本名:久保田俊夫)。この人については(ここ)のサイトに詳しい。
それによると、窪田聡は開成高校に進んだが太宰治に心酔、デカダン(頽廃的)な生き方に憧れて、進学せずに親が準備してくれていた入学金・授業料を持って家出。その後、共産党系の人が進めていた「うたごえ運動」に共鳴して共産党に入党。母親から小包が届き始めたのは、その頃から。両親の意を受けた次兄が、彼の下宿を探し当て、母から送られて来る小包には、彼の好きな食べ物や手編みのセーター、ビタミン剤などとともに、「体をこわさないように」といった母親の手紙がいつも入っていたという。
また「かあさんの歌」ではあるが、2番の「おとうは土間で藁うち仕事」の部分に、自分の勝手な生き方を黙認してくれた父親への気持ちも込められているという。(出典:ここ

この「かあさんの歌」の初レコードはどれかと探してみたが分からない。この歌は、うたごえ運動の一環で広まったので、オリジナルの歌手・録音というのは無いらしい。確かに自分も学生時代、兄貴に「うたごえ喫茶」というのに連れて行かれた事があり、そこでこの歌は“定番”だった。
この「かあさんの歌」は、自分も色々な歌手で8種類の録音を持っているが、いち押しはやはりダーク・ダックスの旧盤である。ダーク・ダックスも色々なレーベルでこの歌を録音しているが、自分はこのキングの古い録音が一番好きだ。少し聞いてみよう。

<ダーク・ダックス「かあさんの歌」>~キング1969年発売のLPより

「かあさんの歌」
  作詞/作曲:窪田 聡

1)母さんが 夜なべをして
 手袋あんでくれた
 木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて
 せっせとあんだだよ
 ふるさとの便りはとどく
 いろりのにおいがした

2)母さんは 麻糸つむぐ
 一日つむぐ
 おとうは土間で わら打ち仕事
 お前もがんばれよ
 ふるさとの冬はさみしい
 せめてラジオ聞かせたい

3)母さんの あかぎれ痛い
 生みそをすりこむ
 根雪もとけりゃ もうすぐ春だで
 畑が待ってるよ
 小川のせせらぎが聞こえる
 なつかしさがしみとおる

しかし、どんなに立身出世を遂げた立派な人にとっても「母」は特別な存在らしい。確かにこの世に生を授けてくれた存在が母親であることは確かだ。理屈無く子を愛するのも母親だ。この歌も、窪田聡のそんな境遇を念頭に聞くと、また別の味わいがあるな・・・。

ところで、良く言われることだが、なぜ「とうさんの歌」が無いのか・・・? でも少なくとも天下のNHK! そのうち“NHKラジオ深夜便”でも「父を語る」という番組が出来るだろう・・。(←100%期待してないけど・・)

最後に、“暖かい”「かあさんの歌」を聞いてみよう。倍賞千恵子のこの録音は、実に暖かく、自分が好きな録音だ。

<倍賞千恵子「かあさんの歌」>

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2008年8月 6日 (水)

今日は「原爆の日」・・・・

今日(08/8/6)は、63回目の「原爆の日」。NHKの「ラジオ深夜便」でも「ヒロシマの心を伝える元広島平和記念資料館・館長 高橋昭博、妻・史絵」(08/8/5~6放送)という番組をやっていた。
ふと思い出した。自分が「原爆」という言葉を知ったのはいつだったか・・・・。それは多分、初めて原爆の映画を見たときだろう。
子供の時の強烈な印象というのは、このトシになっても良く覚えているものだ。その原爆の映画を見たのは、多分小学校低学年の頃だった。その頃は埼玉県の大宮(現さいたま市)に住んでいた。すぐ近くに、車のワイパーのモータを作っていた田中計器という会社があり、週末の夜になると社内で従業員用に映画を上映していた。自分も近所の子供達と一緒に闖入したものだ。そこで見た原爆の映画・・・。ただ「怖い」という印象・・・。それは強烈な印象だった。人が溶けて・・、皮膚を垂らしながら歩いている・・・。そのシーンを見ることが出来ず、下を向いてそのシーンが終わるのをジッと待った・・・・。
大人になって、その映画は何だったのだろうかと調べたことがあった。たぶん「原爆の子」という映画らしい。そしていつだったか、その映画をテレビで見たが、子供の頃の「怖さ」は感じなかった。
原爆の映画は、「黒い雨」「父と暮せば」など色々あるが、どれもテーマが重い・・・。

話は飛ぶが、このように子供の頃の印象というものは、強く心に残るものだ。自分は小学校5年になる時に茨城に引っ越したが、その時、修学旅行で千葉の銚子に行ったことがあった。そこで醤油工場の見学をしたが、その名が「ヒゲタ醤油」。帰りに小さな醤油ビンをお土産にもらった。今ではあまり見かけない?「ヒゲタ醤油」だが、そのマークと名前は、その時以来自分の心にしっかりと根を下ろしている。
またこんな事もあった。やはり小学校の頃、ゴム動力の模型飛行機に「SONY号」というのがあった。SONYのマークはまぶしく、エサキダイオードという名前を聞いて、SONYに大胆にも手紙を出したことがあった。そしたら、子供であるにも拘わらず、エサキダイオードの難しい資料とともに返事をくれた・・・。自分はそれでSONYへのイメージが出来てしまった。もちろん“良い”イメージだ。
結局SONYには行かなかったが、今の企業も、子供(将来のお客さん)を大切にすることは、非常に重要なことだと思う。

話は映画に戻るが、自分が子供の時に見た映画のなかで最も強烈な印象が残っている「しいのみ学園」は、前に当サイトでも書いたが(ここ)、この映画も心に深く残った映画だった。

まあ、還暦を機に?、トシとともに心は子供に帰って行くものらしい。昔の記憶に残る映画をもう一度味わうのも、還暦を過ぎた者ならではの楽しみなのかも知れない。

(関連記事)
映画「しいのみ学園」の歌
吉永小百合が朗読する「人間をかえせ」
峠三吉「人間をかえせ」のレコードを聴いた

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2008年8月 5日 (火)

加古隆の「パリは燃えているか」~NHK「映像の世紀」のサントラ

自分はドキュメンタリー番組が好きで(たぶん・・)、幾多のTV番組を見てきたが、それらの番組のタイトルバックの中で一番印象に残っているのが、このNHKスペシャル「映像の世紀」(1995年3月から放送)シリーズである。

そしてそのバックを飾っている音楽が、加古隆の「パリは燃えているか」という曲。
この曲は、この番組の(今までに無い新鮮な)タイトルバックに実に良くマッチしていて素晴らしい。ここでそのタイトルバックを紹介する事は出来ないが、世界の歴史を映像で捉えたこの番組は、世界中から歴史的な映像を集めたもので、世界の不安、戦争への道がひしひしと伝わり、とても気楽に見ることなど出来ない「重たい」番組だ。つまり、例えは悪いが、ワーグナーの楽劇と同じく「見る覚悟!」が要る番組なのである。(簡単に言うと、見ていて疲れる・・・)

しかしこのタイトルバックに流れる「パリは燃えているか」は、聞いていても緊張感に溢れ、世界の混沌が伝わってくる。だから自分にとっては、前に書いた「家族の肖像(ここ)」のサントラと双璧をなすTVサントラの名曲なのである。少し聞いてみよう。

<加古隆~NHKスペ「映像の世紀」から「パリは燃えているか」>

話は変わるが、昔、映像(VTR)で我が家の記録(子供の記録)を撮ったことがあった。古いベータのテープに撮ったものだが、時代が変わって記録メディアがDVDになったとき、貴重なそれらの映像を苦労だがDVDに記録し直そうとしたことがあった。でもカミさんはそれらの映像を二度と見たくないと言う。だから、昔のベータのテープは今でもそのまま眠っている・・・。

世界の歴史もそうだが、昔を愛(いと)おしむ事は果たして幸せな事なのかどうか・・・。現在よりも昔のほうが良ければ、昔を懐かしがるだろう。しかし昔よりも現在の方が良ければ、昔を振り返りたくない、昔の事を思い出したくないと思うのは、自然なこと・・・。
すると、過去を振り返りたくないという我が家は、むしろラッキーなのかもね・・・・?
否、昔を超越出来ていないとも言えるか・・・・。

北京オリンピックを控えた中国のチベット問題も、ある意味過去を越えることが出来ていない。つまり、過去の延長線上にあって、終わって(解決されて)いない。
まあ将来、我が家も過去を超越できた時が来たら、「映像の世紀~我が家編」でも編集しようかな・・・?

(関係記事)
切ないサントラ2曲~映画「失楽園」とNHK「家族の肖像」のテーマ

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2008年8月 4日 (月)

リーダーの「任期」について

今朝(08/8/4)の日経で、二つのコラムを読んで“なるほど・・・”と納得。
一つは、「インタビュー領空侵犯」(P5)の「経営者に『任期』は不要~内閣特別顧問 黒川清氏」というコラム。曰く・・・

「昔から、社長の在任期間は2期4年とか3期6年までといった慣例や、内規が存在する企業が多いようです。でも、それに何の意味があるのでしょうか。任期をあらかじめ決めたからといって、これまでのガバナンス(統治)がしっかりしていたとも思えません。・・
経営者の任期をあらかじめ短く設定してしまうと、目先のことしか考えず、長期的な視野に立った経営ができなくなるのではないでしょうか。それに自分の在任中に何か起きたら、自分で解決しようとするより問題を後継者に先送りするようになります。・・・
「老害」を言うなら40歳代の若いうちに社長にすればいいだけの話でしょう。そうすれば社長を十年やってもまだ60歳代です。・・・
リーダーに必要なのは、ビジョンと、そのビジョンを人に伝える能力、知力と体力、それに揺るぎのない信念。年齢は関係ありません。もっと若い人材を抜擢すべきです。・・・
最初から任期を決めておくのではなく、その経営者の能力と実績を客観的に評価し、問題があればすぐに辞めさせる仕組みを作っておくことのほうが重要です。でも実際にそういう仕組みが機能している日本企業がどれだけあるでしょうか。いったん就任したら慣例の在任期間を全うするまで辞めさせることができないのなら、ガバナンスが存在しないと言われても仕方がないでしょう。」

実はこの指摘は、日本のほとんどの企業に当てはまると思う。この背景には「任命者責任」が内在しているのではないか? つまり、あるトップに問題があったとしてもそのままにするのは、それを任命した人が責任を取りたくない為かも? つまり、自分で任命した人事の失敗を認めることになるので、避けている??

話は変わるが、こんなコラムもあった。同じ日経(08/8/4)の「挑む」(P25)というコラムが、「改革で実績アップの公立校~教員異動後も根付くか」というタイトルで以下のように言っている。

「最近、めきめきと進学実績を伸ばしている公立高校の校長と話をする機会があった。校長は進学実績が伸びている原因を、「定点観測・シラバス・授業評価の3本柱が確立されてきたことが大きい」と分析していた。
「定点観測」とは、校内模試と全国模試の結果を基に、過年度の生徒と比較して志望校を決めていくこと。・・・・
「シラバス」とは、3年間の授業計画と到達目標が詳細に書かれた冊子のことで、授業はこれに沿って進行する。・・・
「授業評価」とは、生徒がアンケートによって教員の授業の創意工夫・熱意・進度・難易度などを評価するシステム。・・・・・
・・・・・
校長の強力なリーダシップで進められた改革は、生徒側だけではなく、教員側にも徐々に浸透してきたという。
だが、公立校の宿命として、現場の教員の異動は避けられない。校長や中心となる教員が他校に移った後も、この取り組みが続いていくのかどうか、それが「新たな伝統」を築けるかの分かれ目となりそうだ。」

たまたまこの二つのコラムを繋げると「良きトップは“新たな伝統”を次々と作りながら、何年でも実績と共に前進せよ。しかし、良き伝統を作れなくなった(枯れた)トップは、早々と立ち去れ」という事かも・・・・

まあこれだけ冷静に、これらの厳しい指摘を“味わえる”のも、「還暦」の余裕からかも・・・
(つまりそれは、もはや自分は“トップ”とは縁のない存在で、「蚊帳の外」ということだけど・・・。トホホ・・・・)

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2008年8月 3日 (日)

中西龍の「にっぽんのメロディー」と「ちいさい秋みつけた」

今朝(08/8/3)の日経朝刊の読書欄(P20)で、「当マイクロフォン~三田完著」という文字があり、その文字に惹かれてつい読んでしまった。曰く・・・

「ラジオやテレビのナレーションで一世を風靡した人といえば・・・・・・。伝説のNHKアナウンサー、中西龍のことである。わたしにしてもラジオでは「にっぽんのメロディー」、テレビでは「文五捕物絵図」といった番組での彼の声は、今でもしっかりと記憶に残っている。一語一語をゆっくりと正確に発しながら、それでいて誰にも真似のできない独特の間と語り口で、聴く者の手をふと止めさせ、たちまち虜にしてしまうのだった。・・・・
無個性であるはずのナレーションに個性を芽生えさせた人物、本書の「当マイクロフォン」というタイトルは、まさに彼に相応(ふさわ)しい。」

これを読みながら、フト先日NHKラジオ深夜便のアーカイブスで「にっぽんのメロディー」が放送されて事を思い出し、探してみたら消していないファイルが見つかった。それを少し聞いてみよう。これは2008年4月6日AM1時の放送の抜粋だが、「ちいさい秋みつけた」の音源は、聴き易いようにステレオ録音と入れ替えた。

<中西龍「にっぽんのメロディー」>~昭和58年(1983年)10月26日放送より

「ちいさい秋みつけた」
  作詞:サトーハチロー
  作曲:中田 喜直

1)だれかさんが だれかさんが
 だれかさんが みつけた
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 みつけた
 めかくし鬼さん 手のなる方へ
 すましたお耳に かすかにしみた
 よんでる口ぶえ もず)の声
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 みつけた

2)だれかさんが だれかさんが
 だれかさんが みつけた
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 見つけた
 おへやは北向き くもりのガラス
 うつろな目の色 とかしたミルク
 わずかなすきから 秋の風
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 みつけた

3)だれかさんが だれかさんが
 だれかさんが みつけた
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 見つけた
 むかしの むかしの
 風見の鳥の
 ぼやけたとさかに

 はぜの葉ひとつ
 はぜの葉赤くて 入日色
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 みつけた

Image01371 この「ちいさい秋みつけた」は、実は自分が大好きな童謡のひとつだ。この歌は、昭和30年11月3日のNHK「秋の祭典」という番組の中で、童謡歌手の伴久美子さんが歌ったのが最初。その後、昭和37年(1962年)にボニージャックスの歌で発売され、その年の日本レコード大賞童謡賞を受賞した。
確かレコードを買ったっけ・・・・、と探したら、あったあった。昭和44年9月21日購入とメモがある。大学4年の時だ。
もちろんこの歌の老舗はボニー・ジャックスだが、既に日本の童謡のスタンダード曲になっているので色々な人が歌っている。ボニー・ジャックスも自分が持っているだけで4種類の録音がある。でもやはり、この「にっぽんのメロディー」でも放送されたオリジナルの録音が、自分には懐かしい。

中西龍の独特の声もそうだが、まさにこの「ちいさい秋みつけた」こそ「にっぽんのメロディー」だ。
今日も暑い・・・・。早く“小さい秋”を見つけたいもの??

(2008/9/20追)
2008/9/8「ラジオ深夜便 にっぽんの歌こころの歌」で、「小さい秋みつけた」について下記のように紹介されていた。
「この歌が初めて発表されたのは、昭和30年11月3日のNHK「秋の祭典」という番組の中。有名な作詞家や作曲家がこの番組のために作品を作って発表するという芸術祭参加の番組で、歌謡曲やホームソングに混じって、この歌は童謡歌手の伴久美子さんが歌いました。しかし一回きりの放送でレコード化されなかったが、昭和37年にダーク・ダックスによって収録されました。その年のレコード大賞の童謡賞を受けたのはボニー・ジャックスの皆さん。それが大ヒットしました。・・・」
ダーク・ダックスが老舗だったとは、初めて聞いた・・・

(2009/11/20追)
中西龍アナウンサーが森繁久弥にインタビューした番組があった。(ここ

<インタビュー「芸と人」森繁久彌~中西龍アナ>
     
(昭和57年3月20・27日放送)

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その他の「にっぽんのメロディー」の録音 (追:2008/8/9)
kemさんのリクエストで、「にっぽんのメロディー」の9回分をアップします。これらはNHKラジオ深夜便で、2008年4月に放送された4回のうちの(まだ消していなかった)3回分です。それぞれ35分ほどのファイル(各32MB)ですので、ダウンロードに数分かかります。(小宅(3.7Mbps)ではそれぞれ70秒ほど)
それぞれ(ここ)をクリックして、数分後に窓が開きましたらファイルをダブルクリックして下さい。
①「にっぽんのメロディー」S60/5/22、S54/11/7、S58/10/26のZIPは(ここ
②「にっぽんのメロディー」 S56/7/13、S60/5/31、S56/7/29のZIPは(ここ
③「にっぽんのメロディー 」S54/7/27、S54/4/16、S54/11/13のZIPは(ここ

(追:2009/2/7)
リクエストにより、2009年1月放送の5回分をアップします。
④「にっぽんのメロディー(1)」S58/7/27のZIPは(ここ
⑤「にっぽんのメロディー(2)」S59/1/4、S59/1/6、S60/1/14のZIPは(ここ
⑥「にっぽんのメロディー(3)」S58/10/19、S58/1/15、S59/9/**のZIPは(ここ
⑦「にっぽんのメロディー(4)」S58/1/4、S58/11/17、S57/12/23のZIPは(ここ
⑧「にっぽんのメロディー(5)」H元/6/14、S60/5/16、S60/6/26のZIPは(ここ

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2008年8月 2日 (土)

江戸時代の「大奥の生活」

自分は見ていないが、NHKの大河ドラマ「篤姫」が好調のようである。その影響か、NHKラジオ深夜便でも「〔歴史に親しむ〕将軍と大奥 東京学芸大学教授 大石学」 (08/7/17放送)が放送され、雑学として聞くとなかなか面白かった。大石氏は、この「篤姫」を始め色々な歴史作品の時代考証をしているという。ヘエーっと思った点をメモしてみた・・・(大分前の放送だが・・・・)

・大奥は、徳川家康が1603年に征夷大将軍になったときから江戸城の普請を始めたが、その頃から女性のエリアが出来始め、3代将軍の家光のときに普請が完成したが、その頃までに大奥の空気がはっきりしたと言われている。
・「表」は儀式儀礼の場で政務、「中奥」は小さいが将軍の私的な空間で女性はいない。「大奥」は、将軍が鈴廊下を渡って入るところで将軍の私的空間。
・大奥の広さは、1845年頃の記録では、本丸全体の広さが1万1373坪だが、大奥が6318坪なので半分以上を占めている。
・大奥の女性の人数は1000人前後。旗本の娘が多い。京都のお公家の娘もいる。町人の娘の行儀見習いもあった。
・8代将軍吉宗のときの記録では、奉公するときに「起請文」という誓書を書かされる。それには奉公を一生懸命して悪いことはしませんとか、悪巧みをしない、悪心持たない、大奥のことを他に漏らさない、便宜をはからない、おごらない、陰口を言わない、風俗娯楽を自制する、火の用心、等々が書かれていた。
・大奥には広敷番(ひろしきばん)という見張り役の男性が300人位いた。これは交代制で詰めていた。外との交流を制限、または関与したりして、大奥といえども男性が監視していた。だから「大奥に入れるのは将軍ただ一人」というのは誇張・誤りで、常駐している男性の役人がたくさんいた。
・御台所の生活は、7時頃起床、お歯黒の後に朝湯に入る。天璋院は毎朝入っていたという記録がある。和宮は月に一度位。一般的には一日おき。だだし夜入る人もいる。
・8時位に朝食。ご飯とおみおつけと魚、豆腐、卵、時々鶏肉。10時頃に将軍がおなり。
・中奥と大奥の間には、将軍が通るときに鈴を鳴らすお鈴廊下があり、両方から厳重にカギが掛けられている。
・将軍が来ると、朝礼(挨拶)をして、御台所と将軍が一緒に奥の仏間に行って先祖を祭る。それが終わる11時頃から、御台所は御召し替えと昼食。午後の記録はあまり無いが、雑談、庭の散策などで、午後2時ごろにまた将軍がおなりになってくつろぎ、夜は9時位に就寝、という日課。天璋院は酒が好きで、女中と一緒に飲んで酩酊した人も・・・・
・大奥には東側などに別の入り口があり、呉服商人、大工や物売りの男性も来たりしていた。
・大奥の人が手紙を書けるのは、両親・親戚と範囲が決められていた。表に出るのも許可制。
・御台所(正室)が子供(将軍)を生んだのは3代将軍家光だけで、それ以外は全て側室が産んでいる。
・安政年間(1854年頃)の記録では大奥でつかった金は年間20万両。1両10万円とすると200億円。女性のサラリーは、御年寄レベルで年間1100万円、中老が550万円、お目見以下が200万、御末(雑用をする下女)が60万円。これは手取りで衣料とか薪代は別。
・江戸城無血開城のお膳立ては、みな大奥の女性たちが行った。実際には天璋院と和宮が全てを仕切って、西郷と勝海舟の会談はむしろセレモニーとすら思える。
・江戸時代の女性の地位は、西洋に引けを取らない位高く、その頂点に大奥があった。

まさにNHKラジオ深夜便は「雑学」の宝庫である。確かにカミさんから「それを知ってどうなる?」と言われても、どうにもならないが、まあ楽しいではないか・・・

しかしこの番組で一番ビックリしたのは、大奥の女性官僚達のサラリーの高いこと・・・・。大奥では、幾ら商人が物売りに来たとしてもそれほど遣えないから、下がった後に遣うのかな・・・? でも年1千万円としても10年で1億円ダゾ・・・(「そんなこと考えてどうなる??」←どうにもならん・・)

しかし大奥に女性が千人も居たのでは、将軍もリラックス出来なかっただろう。(ウチの大奥は“一人”なので何とかなっているが・・・・?)
しかしこの番組でも、(西洋の学者の研究によると)江戸時代の女性達の生活は、西洋に引けを取らない水準にあったと言っていた。
ちょんまげ姿の江戸時代も、文化の面で西洋と比較するとなかなかのものらしい。
また藤沢周平でも読むか・・・・

(関連記事)
「江戸時代が生み出したもの」~18代当主 徳川恒孝氏の話

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