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2008年4月 5日 (土)

城山三郎の「そうか、もう君はいないのか」を読んで

城山三郎の遺稿、「そうか、もう君はいないのか」を読んだ。何とも題が良い。まさに言い当てている。この一言に全てが・・・

Image00531 この本は、氏が亡くなった後、書斎に遺された原稿の断片を新潮社が整理して一冊の本にまとめたものだという。(P155)それだけに、一貫した何かがあるわけではない。でも、そこには一組の夫婦の物語がある。

二人が初めて会ったのは、名古屋の図書館の入り口。城山がまだ学生の23歳の時。「間違って、天から妖精が落ちてきた感じ」という有名な言葉が出てくる。(P11) 図書館が休みだったため、何となく二人で歩き出し、映画を見て喫茶店でお茶・・・。まあお互いに何かがあったのだろう・・・。しかし彼女の父親に見付かり、絶交状・・・・。
翌年、大学を卒業して名古屋に帰った城山は、ダンスホールで偶然容子さんと再会。働き出していた容子さんと、それからは連絡がつき、デートを重ね、最初に会ってから3年後の昭和29年に結婚。城山26歳、容子22歳であった。
当時、名古屋では縁談があると、仲人などを通した情報収集が普通であったが、城山の母親は、息子からの告白を聞いて、相手の家にすっ飛んで行ったという。そして容子の父親も、母のそうした「飛び込み」が気に入って、結婚の話は一気にまとまったという。
「・・・『悪魔の辞典』の著者アンブローズ・ビアスによると「人間、頭がおかしくなると、やることが二つある。ひとつは、自殺。ひとつは結婚」なのだそうだが、私も容子も、頭がおかしくなっていたのかどうか、結婚に躊躇は無かった。」(P36)

それから大学の教員をしながら作家への道へ。当初、同人雑誌に載せた小説は不評。でも容子の「泣けたわ」という一言でくじけずにすみ、城山に三月に引っ越したので「城山三郎」というペンネームで「文学界に「輸出」を投稿。それが新人賞に決定して作家生活がスタートする。

容子は取材旅行には何処にでも付いて来たが、1999年8月のヴァンクーヴァーでは、疲れたと言って、いつもの容子ではない。そして検診。病院からの帰りを、心配しながら駅前マンションの仕事場で待っていると、「ガン、ガン、ガンちゃん ガンたらららら・・」。末期の肝臓ガンだった・・・・・
「そして容子の希望通り、手術はしない、抗癌剤も使わない、ただ本人が望むワクチンやサプリメント類は用いる。入院もせず、定期的に通院して注射などをするだけ、と決まった。・・・そして、2000年2月24日、容子永眠。享年68。癌と分かってから4ヶ月、入院してから2ヶ月少し。」

しばらくして出版社から依頼が来る。・・・しかしなかなか書けない・・・・
「夜半、人の気配に目覚めると、すぐ横に容子の笑顔があった。 「私のこと、書いて下さるって?嬉しいわ。でも恥ずかしい」 「うん、だけど最後まで書けるか、どうか・・・」 つぶやいているうちに、容子の顔は消えた。」(P82)

まさにこの本は、「夢枕に立つ」容子が応援した本。

巻末に「父が遺してくれてたもの」という次女の井上紀子さんの文章が載っており、これが両親の真の姿を伝えてくれる。
「・・・その後、母との終の棲家には帰れず、仕事場が父の住居と化してしまった。・・・父だけの祈りの場。誰にも邪魔されぬ所で、父と母との会話をし続けようとしていた。・・・しかし、以後の7年間、父はどんなに辛かったか、計り知れない。想像以上の心の傷。その大きさ、深さにこちらの方が戸惑った。連れ合いを亡くすということは、これほどのことだったのか。・・・・」

どの夫婦も、これほどの信頼関係で結ばれているとは限らない。しかし、城山三郎の姿は、一つの夫婦の理想かも知れないな・・・。
もちろん我が家も、城山に勝るとも劣らない信頼関係なのである・・・。(病気になったら看病を頼まなければいけないため、幾らblogとはいえ、うっかり本音は言えないのであ~る・・・・)


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