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2007年12月の26件の記事

2007年12月31日 (月)

映画「それでもボクはやってない」を観て

映画「それでもボクはやってない」レンタルビデオで見た。なるほど、評判の映画だけあって、見ごたえ充分。しかし何とも後味が悪い・・・・。それは映画の中身というより、日本の裁判の現実が我々に突きつけられたから・・・・。
映画とタイトルからして、冤罪事件ということは分かっていたが、被告としては、これ以上努力しようが無い。出来る限りの努力をし、証言も集めた。でも有罪となる現実・・・・
その背景には、裁判官が一人で百件以上の事案を抱えて、忙し過ぎる現実。そして痴漢行為に対して、世間の目線があくまで女性側に立ち、「女性は正しい」との予断・・・。そして私人による現行犯逮捕。それに、何よりも警察・検察・裁判官の「メンツ」・・・・・。
また裁判が、裁判官の考え方・「心証」によって、同じ事件なのに(裁判官の交代で)右にも左にも振れる現実・・・・・

なんといっても、映画のセリフが、日本の裁判制度の課題を明確に指摘している。曰く・・・

<当番弁護士>:「裁判は大変だよ。はっきり言うけど、この種の軽微な事件でも否認していれば留置場暮らしだ。裁判にでもなれば被害者証言が終わるまでへたをすれば3ヶ月位出てこられない。僕は半年拘留されていた人を知っている。当時認めれば罰金5万円の事件だ。そのうえ裁判に勝てる保証は何も無い。有罪率は99.9%。1000件に1件しか無罪はない。示談で済むような痴漢事件で、正直裁判を戦っても良い事は何も無い。もちろん弁護士として、やってもいないことを認めろと勧める事はできない。でも、これが日本の現状だ。認めて示談にすれば、誰にも知られず明日かあさってにはここを出られる。いいかい、このまま否認していれば、3週間はここで取調べを受ける。それで起訴されれば裁判だ。無罪を争えばまず1年はかかる。そのうえ、本当に無実でも、無罪を勝ち取れる保証はない。今認めて示談にすれば、それでおしまいだ。・・・」
・・・・・・・・・
「有罪になる確率は99.9%というのは本当ですか?」
「それは認めている事件を含めての数字です。否認事件だけに限れば高くなる。3%位だな。100件に3件は無罪だ・・・・」
・・・・・・・・・
「99.9%の有罪率というのは弁護士さんにとっても便利なんですよ。有罪となっても誰からも非難されないし、無罪を勝ち取ったら英雄だ。」
・・・・・・・
<最後の場面で主人公の独白>:「ボクは、心のどこかで、裁判官なら分かってくれると信じていた。どれだけ裁判が厳しいものだと自分に言い聞かせても、本当にやっていないのだから有罪になるはずが無い。そう思っていた。真実は神のみぞ知る、と言った裁判官が居るそうだが、それは違う。少なくとも僕は、自分が犯人ではないという真実を知っている。ならばこの裁判で、本当に裁く事が出来る人間はボクしかいない。少なくともボクは裁判官を裁くことができる。あなたは間違いを犯した。僕は絶対に無実なのだから。僕は初めて理解した。裁判は真実を明らかにする場所ではない。裁判は、被告人が有罪であるか無罪であるかを、集められた証拠でとりあえず判断する場所にすぎないのだ。そして僕は、とりあえず有罪になった。それが裁判所の判断だ。それでも、それでもボクはやっていない。」・・・・

ウチにも二人の息子がいるので、カミさんが前から心配している。もし痴漢事件に巻き込まれたら、やったのなら仕方がないが、もしやっていないのなら、直ぐに家に連絡せよ・・・・、と言い聞かせている。
というのは、前に駅のホームで男性を摘発している女性を目撃して、その自信たっぷりの女性の言い方から、“慣れている”と感じ、到底女性側に立てなかったとか・・・・・
でも、この映画を見ての我が家の結論は、「無罪でも、さっさと罪を認めて争わない・・・。時間も手間も、到底いまの日本の現実(警察・裁判・・)には付き合えないので・・・・」。

Tuuhan この映画を見て、先日見かけた「通販生活」の表紙を思い出した。電車のつり革をいつもカバンの中に入れておいて、電車ではそれを常に握っている・・・、というギャグ・・・・(この表紙は気に入った!)
このテの痴漢事件に対し、それしか対応策が無いのが今の日本の男性の置かれている現実とすると、可笑しくもあり、悲しくもあり・・・・

しかし「真実」にふたをして、“長いものには巻かれろ・・・”が「現実の解」だとすると、この世の中、何ともやりきれない・・・。
でも電車内での痴漢事件に巻き込まれる可能性はいつでも誰でもあるので、対策としてこの“携帯つり革”を通販生活で買ってカバンに入れておくことにしよう。

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2007年12月30日 (日)

太平洋戦争を考える(6)~対米開戦までの舞台裏

今朝(07/12/30)の朝日新聞(P12)に、「対米戦争までに死者18万8千人~『戦死者に申し訳ない』という呪縛」という記事が載っていた。この記事を読んで、太平洋戦争開戦までの事象が、自分の頭の中が整理されたような気がした・・・・。
そして、対米戦争突入の背景と共に、今まで分からなかった「東条英機を首相に選んだのは誰か?」という自分の疑問にも、「昭和天皇」という解が書いてあった。

Image00041 この夏の終戦記念日あたりから、太平洋戦争については当blogでも色々と論じて(勉強して)みたが(~左の検索欄に「太平洋戦争」と入れると記事が色々出る)、今朝の記事を、自分なりに整理してみた。(この記事は自分の頭の整理である)

1)日本は首都・南京を陥落させれば中国は陥落すると思っていたが、蒋介石率いる国民政府は奥地の重慶を臨時首都として抗戦を続け、イギリス・アメリカも支援した。
2)日中戦争は泥沼状態となり、日本軍は対米英開戦までに実に18万8千人余の戦死者を出した。一方、ヒトラー率いるドイツが欧州で戦争を始め、フランスやオランダを降伏させた。
3)日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結び、アメリカ、イギリスに圧力をかけようとした。
4)だがこれが裏目に出て、アメリカの強硬姿勢を招く。当時、日本が石油輸入の大方を頼っていたアメリカは、41年8月に全面的な輸出禁止を決定する。
5)日本の選択肢は二つ。①石油などの重要物資を得るために、オランダ領だったインドネシアやイギリス領のマレーシアなどを武力制圧する。つまりは蒋介石政権を打倒するためにも、米英との全面戦争に踏み切る。②あるいは、中国からの撤兵などアメリカの要求を受け入れる。
6)昭和天皇も近衛文麿首相も戦争は避けたかった。しかし陸軍が中国からの撤兵をがんとしてはねつけた。陸軍は、植民地統治への影響に加え、むざむざと兵を引き揚げるのは、明治以来の陸軍主導の大陸政策の否定であり、威信失墜ぬいつながると受け止めていた。加えて戦前の日本には「戦死者に申し訳ないから○○ができない」という論法が広くまかりとおっていた。
7)しかし政府・軍部内では、アメリカと戦争をする当事者は、広い太平洋で艦隊同士がぶつかり合う海軍と理解されており、海軍が「戦争は絶対に出来ない」との姿勢を崩さなければ対米戦争はできないはずだった。だが、「仮想敵国はアメリカ」という理由で戦備のための予算を得てきた海軍にとって、「負けるからできない」と認めるのは、自らの存在意義を否定することと同義だった。(海軍は、開戦を「愚の骨頂」と思っていたが・・・)
8)近衛内閣が辞職したあと、昭和天皇は後任に東条を選んだ。東条であれば陸軍を抑えることができるだろうと期待し、もう一度国策を白紙から見直せと指示した。
9)しかし、軍部トップの陸相、海相、参謀総長、軍令部総長のうち、新内閣で代わったのは海相だけ。人が代わらなければ発想の転換は難しい。しかも、東条は海軍が推した避戦派の海相候補を拒否した。急遽海相となった嶋田繁太郎は中央の事情にはうとい人物だった。
10)そして嶋田は10月30日に開戦を決意。「いまだに中央のこともよく分からないが、数日来の空気を総合して考えると、この体勢は容易に挽回できない」
11)11月1日の大本営政府連絡会議で、月末までに外交決着しなければ、12月初めに開戦を決定。しかし東郷茂徳外相はなお即時開戦に抵抗。アメリカとの交渉で、日本側最終案(甲案)とは別に、日本軍はフランス領インドシナ南部(南部仏印)に進駐し、アメリカの石油禁輸を招いたのだったが、そこから北部に撤収する代わりにアメリカは一定量の石油輸出を認めるという(乙案)を示す。そしてこの案は急遽派遣した来栖三郎大使に持たせ、11月20日にアメリカに提示。
12)アメリカは「日本が北部仏印の兵力を2万5千人以下にすれば日本への民需用石油は輸出する」という3ヶ月間だけ有効な暫定協定案をまとめる。戦争準備になお時間をかけたかったから。
13)ハル国務長官は25日には暫定案を日本側に提示する考えだったが、翌26日夕に示したのは、仏印や中国からの全面撤兵を求めるなどの強硬案(ハルノート)だった。なぜ一夜でアメリカ側の考えが変わったのかはいまだによく分かっていない。もし、この暫定協議案が提示されていれば12月の開戦はなく、戦争自体も避けられた可能性があるという。・・・・

戦後62年。今さら何を論じても、全てはもとに戻らないが、いつの時代にも「良識」を持った人達は居る。しかし、それを踏み潰すのはどうも「男のメンツ」であるような気がしてならない。何人かの“男のメンツ”のために、310万人ともいわれる日本人が死んだ・・・。
そして先日のパキスタンでのテロを初め、世界に目を向けると今なお戦火は収まっていない。日本が、自分で引き起こした太平洋戦争という愚を糧に、世界に対して今成すべき事は、本当に無いのであろうか・・・

(関係記事)
「太平洋戦争」を考える(1)

太平洋戦争を考える(2)~マニラ市街戦での殺戮

太平洋戦争を考える(3)~NHK「日中戦争」を見た

太平洋戦争を考える(4)~東京裁判

太平洋戦争を考える(5)~御前会議とは何か?

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2007年12月29日 (土)

TBS「冬の雲」の主題歌「苦しき夢」

先日、古いレコードを整理していたら、こんな45回転盤EPが出てきた。TBS・TV「冬の雲」の主題歌「苦しき夢」である。(このジャケットのあおい輝彦は関係ない)
Image00021 放送は1971年である。当時、自分は入社2年目。もちろん会社の寮住まいで、二人部屋にTVは無い。よってこのドラマは知らない。見ていない。でもたぶんどこかでこの主題歌を聞き、レコードを買ったのだと思う。
自分はいつもLPを買うことにしていた。ある歌手のレコードを買いたいと思っても、“ベスト集・・・”が出るまで待って、それを買っていた。よって、45回転を買うというのは、かなり惚れ込んだ曲のはずである。

今、改めて聴いてみると、芦田伸介の語りは別として、朗々と歌うこの旋律・・・。原曲はドイツ民謡との事。
編曲が木下忠司。なるほど・・・。前に『「喜びも悲しみも幾歳月」の歌詞が泣ける』という記事を書いたが、この歌も木下忠司だった。
歌手が書いていない。どこかのプロ合唱団なのだろう。少し聞いてみよう・・・

<TBSドラマ「冬の雲」主題歌「苦しき夢」>

「苦しき夢」

(語り)
愛とは 春の日の花のように
美しく、香り高きものであろうか
愛とは 夏の日の太陽のように
誇り高く、きらめくものであろうか
愛とは、秋の日の落葉の下に泣く虫のように
せつないものであろうか
愛とは 冬の日の、その青空の

1)夕べの夢は 苦しき夢
 園に繁れる 満天紅

2)一夜のうちに 冬とかわり
 緑の枝に 花は散りぬ

3)黄金の瓶に 花を摘めば
 この手を滑り 花は枯れぬ

4)夕べの夢は 何を告ぐる
 愛しの君に 変りなきや

棚から出てきた色々な45回転盤には、それぞれ古い思い出がある。
これからも、少し振り返ってみようか・・・・。わざわざ買い集めたレコードなので、自分にとっては「名曲」なので・・・・。

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2007年12月28日 (金)

ミュンヘン五輪男子バレー金の監督「松平康隆」の言葉

今日聞いたNHKラジオ深夜便「こころの時代」は、07/12/27放送(07/6/1の再放送)の「今、金メダルが教えてくれるもの 日本バレーボール協会 名誉会長 松平康隆」の話であった。聞いていてなかなか面白い・・・

1972年のミュンヘンオリンピックの男子バレーボールで金メダルを取ったが、その道への始まりは、東京オリンピックでの屈辱・悔しさからだという。
松平氏は、東京五輪は男子バレーのコーチで参加。それが何と銅メダルを取る快挙。この東京五輪は、日本の男子バレーにとって、二つの大きな意味があったという。
東京オリンピックでは、大松監督の女子バレーが国民的熱狂の最中。女子バレーは五輪の前の3年前から22連勝中。だから五輪で“勝って当然”とは言わないが、勝って世界一を「確認した」。それに引き換え、男子バレーは、当時22連敗中。ヨーロッパの新聞に「世界のくず」とまで書かれていた状況。それが銅メダル。これは奇跡的な成果。
それなのに、「何だ銅メダルか・・・」が世間の評価。マスコミは仕方が無いとしても、内輪のバレーボール協会までが男子バレーのことを忘れて、祝賀会に呼んでくれなかった・・・。これは屈辱を通り越して、怒り心頭。金メダルを取って見返してやる・・・。これが一つ目。

もう一つは、銅メダルということは世界で3番目。世界一になれる“実感”が湧いてきた、という事。人間は現金なもので、夢や憧れはあっても、達成する実感が湧いて初めて頑張ろうと思うのだという。それで“8年後に金メダル”という目標を立て、自ら全日本男子の監督を名乗り出たという。そして、実際に東京五輪から4年後のメキシコ五輪(1968年)で銀メダル、ミュンヘン五輪(1972年)で金メダルを取る。
なぜ8年後かと言うと、東京五輪は「東京オリンピック」という「台風」が来るので、急ごしらえのプレハブで作ったチーム。しかし銀メダルが2階建て、金メダルが3階建てと例えると、土台がそれにとても耐えられない状況。だから8年間のプロジェクトで、一から作り直した。

目指したのは3つの柱。つまり「チームワーク」「世界一の技術・戦術」「世界一の体力」(~「体格」は生まれつきなので仕方がないが、「体力」は努力でどうにでもなる)
そして若手とベテランの調和の取れたチーム作り。1/3はベテランが必要。(若手だけではピンチに弱い。それは経験が無いから。調子の良いときはベテランは邪魔。足手まとい・・・。そのベテランがミュンヘン五輪の準決勝のときに生きた。対ブルガリア戦、0:2から3:2の大逆転劇)
それから、大男が横っ飛びをする非常識な練習が始まる・・・・。
「世界一になるというのは非常識。非常識を達成するために非常識な練習を積み重ねる事は常識。それ位の覚悟が無ければ世界一なんて言うな・・・・」

自分が金メダルと取れたのは運が良かった。努力すれば必ず報われるというのはウソ。どんなに努力しても「形」で報われない人は幾らでもいる。それを自分は「金メダル」という形で報われた。こんなに運の良い男はいない。人間はどんなに努力してもダメな時も人生にはある。だが、やらなければ絶対にそれは来ない。努力しない限り、果報は寝て待て、は絶対に無い。選手は確かに自分が選んだが、選手がもし居てくいれなかったたら選べなかった。
金メダルを取ったとき、政治評論家の藤原弘達が電話してきて「松平君おめでとう。これ以上の良い事は絶対に無いのだから、これからは余生と思えよ」。42歳で余生とは・・・と、ビックリしたが、それを機に“これからは感謝の人生を送らなければ・・・”と思った。
最後に、指導者・人を育てている人(母親とか先生とか先輩とか)に言いたい。「育てようとしている人から、今、話の分かるお母さんとか、良い兄貴とか言われたいと思ったら、(指導は)絶対に失敗する。教えるとか身に付けさせるというのは、いやな事がたくさんある。今は良い先生、良いお母さんと言われなくても、そのうち大人になってから、あの先生が居たからこそ今の自分がある、と後になって初めて感謝されるような先生であり、親であってほしい」が締めくくりの言葉。

長々と書いてしまったが、なかなか含蓄のある良い話だった。(だから再放送・・・?)
でも「ピンチの時にはベテランが必要」というのは心地よい言葉だ。自分(の年代)も、まだまだ“活躍の場”があるかもね・・・・??

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2007年12月27日 (木)

図解「世界のなかの日本史」を読んで

Scan103871 図解「世界のなかの日本史」という本を読んだ。これが、自分のような歴史オンチには実にフィットして、良かった。
中学・高校のときに日本史も世界史も勉強したはずだが、これが苦手で、いっこうに頭に入らなかった。高校の世界史の教科書には、いつも「ミミズの這った跡」。つまりコックリと居眠りするものだから、教科書・ノートにはエンピツの“さまよった跡”が出来るのである。・・・というワケで自分は立派な“歴史大嫌い人間”に育ったのである。・・・・が、還暦を機に少し歴史の本を読んでいる。
自分にとって、歴史で一番の問題が、“日本の歴史の流れ”と、“世界の歴史の流れ”が自分の頭の中で繋がらない事・・・・・・。それで本屋で手に取った時に「これだ!」と思って買ったのが、この本。(この本のamazonのページ(ここ)がすごい。何とページをめくってサンプルの中身が読める・・・・。本のサイトも進んだものだ)

この本は、世界の流れと日本の流れが対比して書いてあり、実に良く分かった。(・・・つもり)
地図がふんだんに使ってあり、吹き出しで解説がある。中身としては簡単なので、サワリだけなのは仕方がないが・・・・・

Scan103881 最後のページに「ひと目でわかる世界勢力変遷図」なるものが載っていた。これがまさに、世界全体の動き・・・。
改めてこれを眺めると、日本は別として、中国・西アジアの歴史の古いこと・・・、そしてアメリカが何と新米の国かが良く分かる。(それにしてもアメリカは、新参者のくせに頭(ず)が高いな・・・)

今、韓国ドラマの「海神」というDVDを見ているが、その舞台の「唐」や「新羅」の時代が、日本では奈良時代・・・・・、というのも直ぐ分かる。

話は変わるが、今日から前に買った高校の世界史の教科書「詳説 世界史B」(山川出版社\790)を読み出した。
高校のときに勉強した(事になっている)歴史の教科書も同じ出版社だったので、何か懐かしい・・・?

でも電車の中で、やはり数ページ読むと眠くなって寝てしまうのは、歴史の教科書だからであろうか?はてまた電車の振動のなせるワザか・・・?
ともあれ、せっかくなので心を入れ替えて(高校の時の罪滅ぼしで・・?)、「歴史の教科書」なるものを通読してみよう。

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2007年12月26日 (水)

NHK「夢千代日記」の想い出・・・

NHK BS2で再放送中の「ドラマ人間模様 夢千代日記」も、今日(07/12/26)は第3回である。実はこのドラマは昔から好きで、何度も見た。何か情緒がある・・・・。夢千代も影があって良い・・・。このドラマは自分にしては珍しく、わざわざ脚本の本を買ってきたものだった・・・。

Netで改めて調べてみると、「夢千代日記」が1981年、「続 夢千代日記」が1982年、「新 夢千代日記」が1984年に放映された、とある。このドラマもご他聞にもれず、自分は初回放送では見なかった。田舎のお袋が“良かった”と言っているのを聞いて、再放送で見た。

このドラマの舞台の「湯里温泉」のモデルは、言うまでもなく兵庫県美方郡新温泉町の湯村温泉である。実は昔、ここに行った事がある。備忘録を見たら、00年5月19日とある。7年前だ。ちょうど会社の出張で、豊岡に行った際、帰りに土日を利用して湯村温泉と天橋立に寄った。もっとも湯村温泉にいく浜坂駅は、豊岡から1時間20分以上も逆方向で、ドラマに出てくる餘部(あまるべ)鉄橋の先である。
ガランとした普通列車。学生がワイワイしていたのを思い出す。列車の中から、時刻表に載っていた旅館に電話をして予約した。浜坂駅で降りて、湯村温泉までバスで30分ほど。ドラマでは、舞台の湯里温泉は海辺にあるが、現実は違う。旅館に行ったら誰も居ない。やっともう一組宿泊者を見つけてホットしたものだ。近くを散歩すると、まさにTV通りの川があり、夢千代の像が建っていた。その近くに「夢千代」に関係の土産物屋・・・。中に入ると、TVドラマ関係のアルバムが置いてあった。(今では「夢千代館」が出来たそうだが当時は無かった)
フト思い出して、写真を探したがそう簡単には出てこない。駅の売店で「写るんです」を買って、スナップを撮ったはずだが・・・・。(その点、今のデジカメは良い。いつでも検索できるし、無くならない・・・)
いちど行ってみたかった「湯村温泉」に行けたのは、まあ良い思い出だった。

話変わって、今日の「夢千代日記 第3回」で、“旅回りの一座”が出てきた。温泉客を相手に、チャンバラ劇をする。これを見ながら、ふと子供の頃を思い出した。
昭和30年頃、ウチの隣に空き地があり、そこに毎年のように旅回りの一座が来て、チャンバラの興行をしていた。まさにこのドラマそのもの・・・・。空き地の周りをテントで囲い、中はムシロ敷き。もちろん屋外小屋。夕方になると、テンテケテン・・と近所にPRに回る。ウチは場所が近かったので、迷惑料(?)で無料切符を何枚も貰った。
小学校低学年の自分は、面白がって昼の舞台裏を覗きに行ったものだ。すると、自炊しながら、今日は誰がどうしたら、誰が切り掛かる・・・、なんていう筋書きの打合せをしていたっけ。懐かしいな~~。ちなみに、10才まで住んでいたこの生まれ故郷は埼玉県北足立郡与野町上落合8丁目802番地、・・・なんて言っても、今は住所も何もかも変わってしまって、面影も無い。しかし、昔の住所がすらすら出てくるのだから、自分の記憶もまだまだ頼もしい・・・?
「丁目」と言えば、当時の小学校の運動会は「丁目対抗のリレー」で盛り上がったっけ・・・。

いかん!際限無く書きそうなので、この辺でこの話はお開きにしよう。
まさに還暦だな~~。昔の事ばかり思い出す・・・・。何度目かの「夢千代日記」だが、せっかくなので、また最後まで見てしまおう。

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2007年12月25日 (火)

ショルティ/VPの「タンホイザー」序曲

先日の連休に、部屋を整理していたら、雑誌「レコード芸術」12月号をまだ読んでいなかった事に気がついた。その中に、特集として「ゲオルグ・ショルティ再考~没後10周年記念」という記事があった。

このゲオルグ・ショルティという指揮者は、自分が若い頃にぞっこん惚れた指揮者である。デッカの録音とともに・・・・・
Scan103861 前に「ジョン・カルショーの録音」という記事を書いたが、やはりショルティの録音は、カルショーとのコンビが最高だ。中でも1961年録音の、ウィーン・フィルとのワーグナーの「タンホイザー」序曲は圧巻であり、後のシカゴ饗との録音も凌ぐと自分は思っている。
このレコードは17cmのLPで、1970/10/10に買ったとメモにある。先日、CDを買ったが、やはりこの録音では、終結部でのホルンが“後ろで吼える音”が忘れられない。(下の演奏で、0:45~0:50秒頃の部分)

ショルティ/ウィーン・フィル 「タンホイザー」序曲>~1961年録音

あわせて、シカゴ交響楽団との演奏を聴いてみよう。同じくホルンが吼える部分の音は小さく、同じ曲の録音でもこれだけ違う・・・。(下の演奏では、0:52~0:58秒頃の部分)

ショルティ/シカゴ饗 「タンホイザー」序曲>~1976年録音

第九の1楽章の終結部のオーボエもそうだが、長い曲の中でも、いったん気になる(好きになる)と、どうしても気になってしまう・・・・

でもこのショルティ。シカゴ饗に移ってからは、あまり聴かなくなった。やはり学生時代に良く聞いたロンドン饗やウィーンフィルとの演奏が自分には印象深い。
音楽の好みも、原点(聴き始まった当初)回帰である・・・・。

(関係記事)
ジョン・カルショーの録音

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2007年12月24日 (月)

「暦」についてのQ&A・・・

今年も残すところあと一週間。カレンダーを掛けかえるシーズンだ。
今朝(07/12/24)の朝日新聞(P23)に「大の月・小の月なぜあるの?」という記事が載っていた。“へエー”という答えもあったので参考にメモしておく。曰く(要約)・・・

Q:1年は何日?
A:365.2422日。365日より長いので閏年で調整。

Q:閏年のルールは?
A:原則4年に1回。ただし4で割り切れても100で割り切れる年は閏年ではない。しかし400で割り切れる年は閏年。よって閏年は400年に97回。
(まあここまでは知っている・・・)
*つい検算したくなった・・。400年でずれる日数は、0.2422×400=96.88日。よって400年で0.12日多く修正してしまう事になる。よって、「400年で割り切れても(1÷0.12=8.333なので、400年周期で)8.333回に1回(3333年に1回)は閏年としない」事が必要だな・・・・

Q:なぜ閏年は2月で調整?
A:現在普及しているのは、「グレゴリオ暦」。ローマの太陽暦が起源。ローマで最初に暦ができたのは、紀元前8世紀ごろ。古代ローマでは、冬は活動を休む期間だったため月の名前がつけられず季節では3月頃にあたる月から始まる10ヶ月の暦だったそうだ。それを改革し「ユリウス暦」を作ったのが、古代ローマの英雄ジュリアス・シーザーだ。奇数の月は31日、偶数の月は30日とし、閏年は1年で最後の月だった2月で調整をした。

Q:でも7月以降の「大」「小」の月が、規則通りで無いのは?
A:それは7月の名前に由来する。元老院が月の呼び名を決めるとき、7月はジュリアスにちなんだ「July」と名付けた。8月以降は、3月を基点に「6番目の月、7番目の月・・・」とした。しかしローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの名前も、功績を挙げた8月につけられた。だが、8月は小の月だったため、シーザーより劣るような印象を避け、8月も31日とし、9月以降の大小の順番を入れ替えたと推測されている。

Q:日本での暦の歴史は?
A:日本には6世紀半ば、中国から百済を経て、暦の作り方が伝わった。月の動きに太陽の動きも加えた太陰太陽暦で、ずれは閏月を入れて調整。その年は13ヶ月になった。「グレゴリオ暦」が採用されたのは明治5年(1872年)。財政が厳しかった明治政府が、閏月で余計に給料を払うのを嫌がったんだそうな。

まあ還暦にもなって、こんな“常識”を知らない・・・・。
自分も、「まあ誰かが何処かで決めたんだろう・・・。抵抗(?)しても何も変わらないので、そのまま受け入れるさ・・・」と疑問を解明しないまま、ここ(60歳)まで来てしまった・・。
でもこのような「常識」も、疑問を持った時にその背景を調べて、自分なりに納得しておくことも、サラリーマンリタイア後の“時間の有効な使い方”かもね・・・

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2007年12月23日 (日)

マザー・テレサの生き方

NHKラジオ深夜便「心の時代~マザー・テレサとインドと私(1):写真家 沖守弘」(07/12/20)を聞いた。
名前だけは知っていたマザー・テレサという人について、この番組で少し教えてもらった・・・。

写真家の沖守弘氏は、当時大問題だった「人口爆発」に興味があり、70年代のインドに行く。当時のインドの田舎では、15歳で結婚して30歳までに10人位の子供を生んでいたが、子供の死亡率が減ったため、人口の激増につながった。そして食えない人達は、大都市のコルカタ(カルカッタ)に集中する・・・。
74年に路上で売られていたマザーの本を買ったのがきっかけで、沖守弘氏はコルカタのマザーの家を訪ねて行く。しかしマザーは留守だったため、シスターに、マザーの作った「死を待つ人の家」に連れて行ってもらい、そこでシスターが死に行く人の両手を握って、「静かに眠りなさい」と臨終を見守っている姿を見て感動し、我々は恵まれているが、それと引き換えに何か大事なことを失ったのではないか・・・、ということを見せ付けられた気がした。そして、何とかマザー・テレサの許可を貰って写真を撮ろうと心に決める。

シスターは、親と縁を切らなければなれない厳しい条件があるが、最近は日本人が増えているのだという。特に「死を待つ人の家」へのボランティアは日本人が多いという。
そして東京で白柳大司教(枢機卿)に紹介状を書いてもらって75年に初めてマザーと会うことができた。

そして「あなたのヒューマニティな活動に感動した」と言うと、マザーは「ヒューマニティという言葉は理解できない。単なる慈善家になるのだったら親と縁を切らなかったでしょう。私はキリストに仕えるために修道女になったのです。だから今やっている事は当たり前のことなのです。」と言われた。
そして「私を英雄視するな。私の伝記を作るのなら断る。私の仕事を撮るのなら許す。明日の朝4時に聖堂に来なさい。そして私の祈りから写真を撮り始めなさい」と言われた。
マザーは、貧しい人こそキリスト。貧しい人の中にキリストがおられる、という考え方。
だから異教徒であろうと差別が無い。そして亡くなった時は、その人の宗教で葬式をするという。その人の人間としての尊厳を大切に・・・・。

マザー・テレサは1910年生まれでマケドニア(ユーゴ)の出身。18才の時にロレット修道会に入る。そしてカルカッタの教師・校長までする。そして年に一回ダージリンの教会に黙想に行くが、その時に汽車の中で神の啓示を受ける。「あなたは貧しい人のスラムに入って、貧しい人を助けなさい」と。この時、37才(1947年)。そして苦労してバチカンの許可を得てインドの国籍を取って活動に入る。もちろん無一文から・・・。
そして、マザーの活動が認められてお金持ちの人達からの援助が得られ、12人の教え子が集まって「神の愛の宣教者会」が作られた。そして今は何と131カ国で、700以上の支部を持つまでになり、修道女4000人を育てて発展しているという。

沖守弘氏は1978年に5年間撮りためた写真集を初めて出版するが、最初はどの出版社も相手にしてくれないで、やっとカトリックの出版社から出版。それをNHKの宗教の番組で、「現代の目で見る聖書だ」と絶賛され、それから売れ出す。
そしてマザーが1979年にノーベル平和賞を受賞してからは、今まで見向きもしなかった31社もの大出版社から引き合いが来たという。

マザーは、平和賞を貰うときに「貧しい人の代表としてこの平和賞を頂きます」と挨拶したとか。まさに清貧そのものだったという・・・・・。
マザーが亡くなった時にも遺品が無く、マザーハウスから沖守弘氏に送られてきたものは、5ミリ四方の布。マザーが着ていたサリーの切れ端という・・・・。

長々と、この番組の内容を紹介してしまった。

今まで名前だけしか知らなかった「マザー・テレサ」・・・・。
これを機に、沖守弘著「マザー・テレサ あふれる愛」を買って読んでみる気になった。
世界は広い・・・・。クリスマスも近いので、こんな話題も良いではないか・・・

(関連記事)
沖 守弘著「マザー・テレサ~あふれる愛」を読んで

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2007年12月22日 (土)

「焼け野の雉子(きぎす)夜の鶴」~母と子の絆

先日(07/12/18)のNHKラジオ深夜便「こころの時代」で、「動物の暮らしに学ぶ 日本動物愛護協会理事長 元上野動物園園長 中川志郎」を聞いた。
動物の世界をもとに、人間の姿について、なかなか面白い話が聞けた。話の要約を少し書いてみる・・・・。

・最近人間の親殺し、子殺しという話を聞くが、動物学的には、動物の世界で親が子供を害するという例は、ほとんどない。
・子育てについて、人間は本を読んだりして情報を得、勉強することができるが、動物は親子代々受け継がれて来た手法しか無いため、それから外れない。
・「焼け野の雉子(きぎす)夜の鶴」という諺があるが、これは野火が起きて火が近付いて来たときに、雛を抱いていたメス雉(きじ)が、逃げればよいのに逃げないで焼け死んでしまう。火が去った後で、親の死骸の下から雛を出てくる・・・。というのが実際にあるそうです。動物は、子供を守るために、子供を育てるために親が全力を尽くすというのは、理屈でも道徳でも倫理でもなくて、子育ての手法として遺伝子的に受け継がれていて、それ以外のことはできない。
・人間の赤ちゃんの離乳食は、昔はお母さんが口で噛んで、それを自分の唾液と共に子供に与えていた。しかし今は、市販の離乳食が発達してきて、そんなことは野蛮だということになった。これは、動物学的に言うと、親の心を子供に伝えるという、もう一つの面が失われてしまう。親と子の絆・・・・。
・動物の赤ちゃんは、生まれたときにお腹の中に消化酵素のようなものがない。従って「糞食(ふんしょく)」といって、親の糞を食べることによって、そこに含まれている良好なバクテリアとかを体に入れる。これは、カバとか象とかの草食動物にとっては不可欠なこと。これらの動物を見ていると、子供は離乳する前後に猛烈な勢いで糞を食べる。糞を食べさせないと、子供はたちまち下痢で起こしてしまう。つまり糞食が、母親が腸の中にもっている良好な繊維を分解するバクテリアをどうやって子供に伝えるかという手法として、子供の仕組みの中に入っている。
・赤ちゃんは、母親のお腹にいるときは、羊水に浮かぶ水生動物である。それがオギャーと生まれた途端に、空気を吸う動物に生まれ変わる。その時、子供はものすごい不安感にさいなまれるという。それを防ぐのは母親の抱擁である。子宮は、母親の体の中にある“抱っこ”である。外で抱く“抱っこ”というのは、安心感を子供に与える第二の子宮である。よって、赤ちゃんへの抱擁というのは、極めて重要である。
・動物の赤ちゃんは、最初は、親が舐めてあげないと、オシッコもウンチもできない。尿閉といってオシッコが詰まってしまう。ウンチもそうで、親が舐めることによって、その刺激でウンチが出たりオシッコが出たりする。それを親が全てなめとってしまう。それを1週間位続けていくと、自然排便・排尿が自分でできるようになる。また母親が毎日なめとってしまうので、子供の体調を本能的に直ぐに知ることができる。
・最近の若いお母さんは、“赤ちゃんのウンチは汚いと思いますか?”という質問に対して、6~7割の母親は“汚いと思う”と答えている。昔のお母さんは、今のような紙オムツではないので、赤ちゃんのウンチをタライで洗う。そこで赤ちゃんの体調を知ることができた。最近は紙オムツで、すべて吸い取ってしまうので、分かりづらい。せめて見れば良いのだが、汚いと思うと見る事もせずに捨ててしまう。赤ちゃんの本当の健康のバロメーターを無駄に捨ててしまう事になり、赤ちゃんとの距離が問題だ。
・赤ちゃんがおっぱいを飲むとき、赤ちゃんの唇が乳頭に触れる。母親は乳輪に触れたという感覚が脳下垂体に行く。するとそこから母性愛ホルモンというが出る。そうすると、道徳とは倫理とか関係なく、目の前にいる子供が可愛くて可愛くてしかたない、という風になる。この子のためには命を投げ出しても惜しくはない、という風になってしまう。生理と心理は表裏一体。
・最近の若いお母さんが、自分の子供はどうしてもかわいいと思えない、と小児科医に相談に来るケースが増えているそうだ。そこで聞いてみたい。本当に自分のおっぱいを吸わせて子供を育てているのか?と。哺乳瓶を使っているのかも知れないが、人間の歴史始まって以来の、赤ちゃんを抱きしめるという自然のやり方と関係がある。
・イギリスのことわざに「夫の愛情は妻の乳の出を良くする」というのがある。

実を言うと、自分はこの話に出てくる「焼け野の雉子(きぎす)夜の鶴」という諺を知らなかった・・・。

映画「サラエボの花」もそうだが、何だか最近“親と子と絆”が気に掛かる・・・。
手前味噌だが、先日、息子の生活状況の視察(?)にカミさんが九州に行ったが、これもそれなのかも知れない・・・。

まあウチの場合は息子共と「音信不通」が日常的。それは良いとして、せめて何かあったときの駆け込み寺という位置付けだけは保っておきたいもの・・・と、カミさんと話している・・・。

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2007年12月20日 (木)

映画「サラエボの花」を見て~戦略のレイプ

ひょんな事から時間が取れたので、神田神保町の岩波ホールで、12月1日から08年2月8日まで上映されている映画「サラエボの花」を見に行った。(公式HPはここ

Scan103811 弱冠32才のこの映画の女性監督ヤスミラ・ジュバニッチさんは、この映画を「これは愛についての映画である」と言っているが、自分はこの映画を見て「集団レイプ」の事実がそれ(愛)を打ち砕いたように思えた。つまり、「愛の映画」というより、「民族浄化」の名の下に「戦略」として堂々とレイプが実行されたというおぞましさの方の印象が強かった。
その事実の前に、2万人とも言われている強姦された当の女性はもちろん、生まれてきた子供の「心」を思うと、言葉が無い。

舞台となっているボスニア紛争は1992年に勃発して1995年まで続いた。人口435万人のこの国で、20万人の死者、200万人の難民・避難民が発生したという。民族は確かにムスリム人(イスラム教)、セルビア人(セルビア正教徒)、クロアチア人(カトリック教徒)と分かれているが、言語も方言程度の違いしかなく、顔つきも同じで結婚も日常的。
それなのに紛争が始まり、セルビア人によるサラエボ大包囲作戦は熾烈を極めたという。
そして驚いたのは、「ボスニアではレイプはイスラム教徒の家族に屈辱を与え、破壊を目的の戦争の武器として使われてきた。ある目撃者の話しでは、女性が妊娠するまで拘束され、繰り返し強姦されたケースさえある。中絶には遅すぎる時になってやっと解放される。加害者の-この場合はセルビア人だが-考えでは、この非人道的な行為で生まれた子どもはセルビア人になる。こうして、レイプは民族浄化の手段となる」ということ。(下記PDF参照)

公式HPにも「民族浄化」について、下記の記述がある。
「女性に対する性的暴力は、残念ながら戦争ではいつも起きている。しかし、この紛争では、女性への暴力行為だけでなく敵の民族の子供を生ませることで、所属民族までを辱め、後世に影響を残すことが作戦として組織的に行われた。
ボスニア・ヘルツェゴビナには、三民族が混住していた。つまり生活していた場所が戦場になったのである。
死傷者は戦闘の前線や攻撃で生じるばかりではない。民族浄化のために自宅から追い立てられる際に、男性や子供は殺され、女性はその場で辱められ連行された例も多い。各地に収容された女性は、連日多くの兵士に乱暴され、妊娠すると本人の意思に反して子供を出産させられた。民族間の和解の可能性を消し去るためである。収容所での自殺や、子供を殺した例もある。・・・」

映画の内容については、公式HPに詳しいので書かないが、岩波ホールの玄関の募金箱に置いてあった「UNHCR駐日事務所発行『難民Refugees』(1994年第1号)P38-40」の記事(下記PDF)は、まさにこの映画の背景を雄弁に語っている。
1994年といえば、まだ紛争の最中である。しかもこの紛争の1992~5年はたった12~15年前・・・。まさに最近だ・・・
(ここまでこのblogを読んで頂いたのも何かの縁なので、ぜひ下記をクリックして、『難民Refugees』の記事を一読して欲しい。PDFファイルである)

「Sarajevo.pdf」をダウンロード

岩波ホールで買ったプログラムにシナリオが載っていた。この映画の主題はこのセリフ・・・(ネタバレなので映画を見る人は読まない・・・)
「セラピーの場:すすり泣きながら語るエスマ『娘を殺したかった。妊娠中に自分のお腹をゲンコツで叩いたわ。流産するかと思って、力の限り叩いた。でもムダだった。お腹はどんどん大きくなった。(苦しそうに)それでも犯され続けた。毎日数人ずつやって来て犯された。病院での出産後、私は言った。“その子は見たくもない。連れてって”。すると赤ん坊の泣き声が部屋中に響きわたった。その翌日、母乳があふれ出したわ。私は言った。“その子にお乳をあげるわ。でも1回だけよ”。娘が連れてこられた。その子を腕に抱き上げると、弱々しくて小さくて、とてもきれいな女の子だった。私は、この世にこんなに美しいものがあることを、知らなかった』・・・・」(映画「サラエボの花」プログラムP29より)

いまわしいレイプという犯罪行為。その結果としての新しい命の誕生・・・。この相反する事実に苦悶している人達が、サラエボには現存する・・。そして、その事に堅く口を閉ざしている・・・・
その事実は重く、PTSD(心的外傷後ストレス障害:トラウマ)で今なお苦しんでいる人々・・・

家に帰って、カミさんに「良い映画だから行ったら」という言葉が出なかった。あまりの「事実の重さ」に、軽口が出ないのかも・・・

サラエボ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、クロアチア・・・・・良く聞く名前だが、これほどの事実があったとは知らなかった。
前に『「国境なき医師団」の貫戸朋子のことば』という記事を書いたが、この貫戸朋子が行っていたのも、サラエボだったような気がする。
「愛の映画」を見に行ったつもりが、現実の重さに心が暗くなった一日ではあった。

<付録>
・しかし本当に久しぶりの神保町であった。昔チョンガーの頃には良く行ったが、その頃新しく出来た書泉グランデがとてつもなく大きな本屋でビックリしたもの。
それに引き換え、三省堂は古く暗かった。それが今日行ってみると、まるで逆。書泉グランではみすぼらしく人もまばら・・・。生まれ変わった三省堂は立派・・・。
あわせて、明大、日大の建物の立派なこと・・・。昔は古い建物が並んでいたが・・・
まあ30年以上経っているので、当然ではあるが・・・・

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2007年12月19日 (水)

ジューサーバーの「ミネストローネ」が美味い

ジューサーバー(Juicer Bar)の「ミネストローネ」が美味い!
別に宣伝料を貰っている訳ではないが、今日はジューサーバーの宣伝である。

数年前のこと、上の息子が「寒いときに、駅の“ジューサーバー”で飲む暖かいコーンスープは最高だ」と言うので、それでジューサーバーを知った。ジューサーバーとは、それからの付き合いである。
その時は、立川駅のホームにあったので、電車の乗り換えのときに寄ってみた。なるほど、小腹が空いたときにはちょうど良い。しかし東京への通勤の途中では、なかなか見付からない・・・。当時は浜松町に通っていたので、仕方なく、新橋駅に途中下車して飲んだ事があった。
それが昨年の夏の事務所の移転を機に、新橋駅で乗り換える事になったので、烏森口にあるジューサーバーにちょくちょく寄っている。夏はジュース・・・・
Juicer_bar そして寒くなって、スープが出るようになっても、いつもコーンスープを飲んでいた。それが、今日はたまたま「ミネストローネ」を頼んでみたのだ。
そしたら、220円とは思えない美味しさ・・・。これは病みつきになりそうだ・・・。
昨年までは、確かコーンスープとオニオンスープだった。それが今年から“つぶつぶコーンスープ”と“ミネストローネ”に変わった・・・。

自分の場合、東京に通勤していても、帰りはほとんどどこにも寄らずに直帰。せいぜいタマに本屋に寄る程度・・・。カミさんに言わせると、自分だったら必ずコーヒーショップに寄ってから帰るという。
しかし還暦のオジサンは、別にどこにも寄りたく無いのである。家が一番・・・。
でも、これからはちょっと寄りそう・・・。寒いときは・・・。一人前に・・・。(でも寂しい“立ち飲み”だけど・・・)

おっと、でも「ミネストローネ」といっても、「世界で一番おいしいミネストローネ」は、家でカミさんが作るミネストローネなのさ・・・!(ケアが大事・・・・?)

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2007年12月18日 (火)

森田由美恵の「潮風の吹く町」

帰りのバスの中で、無性にこの歌が聞きたくなった。
「潮風の吹く町」という題は出てくるのだが、歌手名が思い出せない。自分のMP3プレヤーは歌手別なので、歌手の名前が出てこないとお手上げなのだ・・・
自分もトシかな・・・と思ってガックリ来ていたら、風呂の中で「森田」という名前が浮かんだ。「森田由美子・・・・?」ここまで思い出して、ジャケットを見たら「森田由美恵」だった・・・。

Scan103781 メジャーな曲はどこにでもあるので、今日はマイナーな曲の紹介である。
この森田由美恵の「潮風の吹く町」のドーナツ盤は、S48(1973)年7月25日に購入、とのメモがある。
この歌をどこで知ったかは忘れた。しかし当時、ラジオ等では録音できなくてEP盤を買ったと思う。
改めてジャケットを見ると、森田由美恵(本名)はS31.6.16生まれ、明大中野高校1年在学中、とある。当時もどれだけヒットしたかは分からないが、少なくてもこの歌は、自分には響いた・・・。
案の定、なかにし礼作詞、浜圭介作曲である。そんな感じの歌である・・・。この歌は、その後北原ミレイが歌ったのを録音したっけ。
もう30年以上前の忘れ去られた歌、“森田由美恵の「潮風の吹く町」”である・・・・・。

<森田由美恵の「潮風の吹く町」>

「潮風の吹く町」
  作詞:なかにし礼
  作曲:浜 圭介
  歌 :森田由美恵

1)ふるさとは 遠い北の果て
   潮風の吹く町
 荒れた手をして 網をあむ
   小さな母の肩
 浜なすの花が 咲く頃に
 帰ろうと思いながら 二年が過ぎた

2)海鳴りが唄う 子守唄
   潮風の吹く町
 今日も夜なべの 針仕事
   乱れた母の髪
 許してね私 悪い子ね
 帰ろうと思いながら 四年が過ぎた

3)雪ふれば つらい冬が来る
   潮風の吹く町
 凍る井戸水 汲みながら
   吐息も白い母
 もう二度と そばをはなれない
 逢いたくて甘えたくて 夜汽車にのった

ネットで見ていたら、何と「あの人は今こうしている 森田由美恵」というサイトがあった。若い頃に期待されてデビューした人の「今」が紹介されていた。曰く・・・
翌年にデビューした山口百恵、森昌子、桜田淳子の“中3トリオ”の陰に隠れた存在に終わった。」とある。
前にも「プロ歌手とアマ歌手との境目」という記事を書いたが、まさに歌のプロの世界はキビシイらしい・・・。
やはり「単に歌が上手」だけではこの世界はダメ・・。オーラが無ければ・・・・。
言われてみると、山口百恵のオーラには到底かなわないよね・・・・

つくづく「平凡が良いな~~」と思う、還暦のオジサンではある・・・・。

(関連記事)
森田由美恵の新録音「潮風の吹く町」 

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2007年12月17日 (月)

「あいさつ言葉」の語源・・

NHKラジオ深夜便「こころの時代」。07/12/15(土)は「日本語に込められた日本人の心(2)言語学者 堀井令以知」だった。
ここで、色々と「語源」について話されていた。一部紹介すると・・・・。
曰く・・・

・「金字塔」は「金」の形をしている“ピラミッド”がモデル。
・「つらら」:平安時代は「池のつらら」と使い、つるつるしているので「つらら」は「氷」のこと。ぶら下がっているのは「垂氷(たるひ)」といった。今でも使っている所もある。
・「こんにちは」:武家時代は「こんにちは、お役目ご苦労でござる・・・」とか後に続く言葉があったが、後ろの言葉が省かれるようになった。
・「さようなら」:江戸時代は「そうであるならば」という意味。「さよう、なら・・・・」で後半が省略された。「さらば」も「さらば***せん」と言ったが「さらば」だけ残った。
・「ただいま」:仙台では「たでえま」と、迎える人が言う事もある。「たった今」だから、出て行くときも使える。
・「ありがとう」:京都では「おおきに」。京都御所では使わなかった。「おおきに」は江戸時代は「おおいに」の意味。そして江戸時代後期になるともっと丁寧に言う必要が生じ「thank you very much」のように、「おおきにありがとう」になって「ありがとう」が省略された。
・「有り難う」:「有る」ことが「難い」つまり「存在することが難しい」のだから「有り難い」。室町時代の後半は神様仏様に対しての感謝の言葉。それが江戸時代になると一般に広がった。「ありがとう」の前は「かたづけのう」(片付けない)と言っていた。「いただきます」「ごちそうさま」も、京都御所では両方とも「ありがとう」。
・「すみません」:「済みません」は「澄みません」。心が水のように澄まない。穏やかでない。平静ではないので「すみません」。

日ごろ気にしないで使っているが、言われてみるとナルホドと思う・・・・。
番組の中でも言っていたが、定年を迎えた人たちを中心に、言葉に対する関心が高まっているそうだ。若い人は関心を持たないが・・・・

まあせっかく日本人に生まれたので、言葉のルーツを辿ってみるのも一興か?

(しかしチョット悩み出したぞ・・・。昔の話し言葉は誰も聞いたことが無いわけだ。録音機が無かったので・・・。そして、残っているのは書き言葉だけ・・・。それなのに、どの様にして昔の話し言葉が分かるのか?この研究もなかなか奥が深いと思われる・・・。今度タイムマシンで江戸時代に行く人があったら、テープレコーダを託して録音を頼もう・・・)

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2007年12月16日 (日)

ひろちさや氏の「般若心経」の読み方

プレジデント フィフティ・プラス」(2007.12.12号別冊)の、「ひろちさや氏がすすめる「心経」の読み方~組織の枠を飛び出し、自分の物差しで生きろ」(P130)という記事に、『般若心経』のビジネスマン向けの分かり易い解釈が載っていた。
要旨を以下に抜粋・・・

・『般若心経』が言っていることは、-すべてが空だ-
・「空」とは、-すべてに物差しがついていない-ということ。
・『般若心経』の要点は、-自由自在に見る-
・-奴隷になるな! 自由人であれ-
・奴隷の根本原因は、-欲望-
・欲望には二種類ある -自然的欲望と奴隷的欲望-
・-自然的欲望-とは、食欲のように、それが充足されると自然になくなってしまう欲望。
・-奴隷的欲望-とは、金銭欲のように、いくら充足されてもなくならない欲望。これによって人間は“欲望の奴隷”になる。
・我々は、幸福=充足/欲望 を信じている。これでは幸福になれない。
・幸福になるためには、幸福=知足/少欲  つまり欲を少なくし、足るを知る心を持たねばならない。
・しかし『般若心経』が言っているのは、欲を少なくせよ、というより、-欲望の奴隷になるな!欲望を自由自在にコントロールできるようになれ!-。 現代的に言うと、-もっと主体性を確立せよ-  つまり欲望の奴隷ではなく、欲望の主人になれ!
・日本のビジネスマンは、ややもすると会社の奴隷になってしまっている。自分自身の価値観を持たずに、会社が押し付けてくる価値観で生きている。会社が敷いた出世コースのレールを、なんの疑いもなく走っている人間。身の心も会社に捧げ尽くした会社人間。それは奴隷ですよね。
・しかしこれからの時代、企業は国際化の波の中で価値観の多様性を要求され、奴隷人間よりも主体的な判断力を持った自由人が求められる。
・よって、「奴隷になるな!自由人であれ!」と教えている『般若心経』は日本のビジネスマンにとっての必読経典だ。
・あなたが受け身であって、世間の物差しに従った欲望を持たされているのであれば、そんな物差しは捨ててしまいなさい、と言っている。そして、あなたは「私はこれで充分である」と主体的に判断しなさい。そういう自由人であれと、『般若心経』は教えている。
・そして真言の、≪羯諦。羯諦。/波羅羯諦。波羅僧羯諦菩。提薩婆訶≫は「自由だ!自由だ!自由になった!わたしはすっかり自由になった! ほとけさま、ありがとう」と訳すとか・・・

『般若心経』については、今まで色々な解釈を読んできたが、ビジネスマン向けの訳としては、この文章がなかなか面白い。
最近自分が思うのは、『般若心経』は「もっと肩の力を抜け」と教えているように感じるのだが、これは還暦のなせるワザなのだろうか・・・
(サラリーマンも(還暦を過ぎて)“延長戦”に入ると自然に肩の力が抜ける。有難い事ではないか・・・)

(関係記事)
17)「般若心経」勝手帖」

「吾唯(われただ)足るを知る」

「足るを知ること」~無理だ・・・

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2007年12月15日 (土)

「ブータン」前国王の素晴らしい姿勢

今朝(07/12/15)の朝日新聞に「ブータン 手探り初選挙」(P6)という記事が載っていた。ヒマラヤ山脈の内陸国ブータンで、初の直接選挙による国政選挙が進んでおり、100年の歴史を持つ王国は来年前半、代表制民主主義国家に生まれ変わるという。

ブータンという国は、NHKハイビジョン特集 五木寛之 21世紀・仏教への旅(3)「幸福の王国をめざして ブータン(これ)」という番組を見て関心を持った。このblogにも書いた
そのブータンが大きく変わろうとしているという。しかも前代未聞の、国王自らが権力放棄をするという指導によって・・・。曰く・・・

「ブータン 手探り初選挙~前国王主導 民主化完成へ」
「王制から民主国家への転換を決断したのは、第4代のジグメ・シンゲ・ワンチュク前国王(52)だ。「国民からの要求もないのに、絶対君主が自ら権力を手放した世界史上稀有(けう)の例」(現地外交筋)との評価がある。
前国王は72年の即位後、「経済成長より国民の幸せを」と、GNH(国民総幸福)という概念を掲げて統治にあたり、教育や医療施設の普及などを通じて国民の絶対的な支持を得てきた。
自らが主導して徐々に民主化を進めた。国王の権限を大きく制限する憲法が05年にできると、前国王は全国20の県すべてを回り、民主化の意義を説いた。
泣きながら王制の存続を直訴する各地の国民に「悪い王の時にも国が存続できる仕組みが必要だ」と懸命に説得する前国王の姿が人々の心に焼き付いているという。
前国王は去年12月、突然退位し、息子のジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王に王位を譲った。民主化の完成は息子の手に委ね、国民の「後ろ盾」となる決意のようだ。
初の国政選挙がスタートしたいま、新聞のトップ記事はほとんどが選挙がらみだ。ただ年配層を中心に王制への未練は断ちがたいようにみえる。
英字紙ブータン・タイムズのテンジン・リグデン編集局長は、「私を含め国民の9割以上は王制に満足している。しかし民主化は不可避であり、政治・経済・社会が安定しているいまが最良のタイミングだ」と話す。」

一方では、ロシアのプーチン大統領は、2008年の任期満了で退任した後も、首相に降格してなお事実上の最高権力者として影響力を行使するという。
アメリカでは1年間の選挙合戦中だし、国内では仕事そっちのけで政党が足の引っ張り合い・・・・
国の最高権力者の、この姿勢の違い・・・・
世の中、星の数ほど首長は居るが、真に国民を思うブータン前国王をぜひ見習って欲しいもの。

でも、サラリーマンの世界も同じだな・・・。
会社の各長が、部下のためにどれだけ腐心しているか・・・。社員・部下のためと言いながら、本当は自分のため・・・が多いのでは?
自分も還暦を過ぎて大分肩の力が抜けてきた気がするが、ほんの“勘違い”であろうか?

(関連記事)
NHK「五木寛之 21世紀・仏教への旅」ブータンの幸福観

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2007年12月14日 (金)

知的障害者自立支援の「にじの会」

NHKラジオ深夜便「こころの時代」で、昨日(07/12/13)と今日は、「『にじの会』が目指すもの」~社会福祉法人にじの会 理事長 石崎優仁さんと理事 石崎茂子さんの話である。(公式HPもある
知的障害の子供を持ち、その子の将来を案じて各種知的障害者自立支援の施設を作っている人達の歩みである。

この話を聞きながら、むかし見た映画「しいのみ学園」を思い出した。(このblogでも書いた
しいのみ学園を作った人も、子供が小児麻痺に掛かり、それがきっかけとなって施設を作った。「にじの会」も同じようだ。今日は、その第1回を聞いた。

内容をかいつまんでみると・・・・
石崎優仁氏は今年還暦。東大経済学部を卒業して日立製作所に入り、3年半で辞めて公認会計士合格。監査法人トーマツに入社。5年前に退社して現在は「にじの会」の理事長の仕事に専念されている。
奥様の石崎茂子さんは、東京芸大ピアノ科を卒業し、石崎氏と結婚後、都立高校の音楽教師をしていたが、障害の子供の世話のため退職。現在は「にじの会」の理事。

お二人は従兄妹通しだという。奥様の父親のすぐ上の姉が、夫の母だという。奥様が芸大を出る頃に、久しぶりに会い、一目ぼれ・・・・・。
結婚に際しては、障害児が生まれる可能性が高いと聞き、色々調べたがまさか自分のことだとは思わなかった。赴任先のロンドンで新婚生活。
帰国後、4年ほど勤めた音楽教師の仕事も、子供が障害を持っている事が分かって退職。
自分の子供が障害を持っていることを、自分で認める事が出来るまでが大変だった。自分を責めて・・・。(聞き手のディレクターも長男が知的障害者だという。やはり自分が納得するまでが大変で、間違いではないか、産婦人科で間違えられたのではないかと・・・・。皆、認めるまでは同じ経路をたどるという・・・)
長男が知的障害を持っていると分かってからもう一人子供を作ったが、その女の子も同じように障害を持って生まれたという。
そしてその心労からか、子供が4才、2才の時に奥様が進行性の胃がんに罹り、胃の全摘。それまでは、子供をどうしようかと悩み続けていたが、手術でそれも全部取ってもらった。洗い流された。つまり、生きているという事は何も要らない。生きているだけでありがたい事・・・、と気持ちが大きく切り替わった。
この入院のときに子供をどうするか・・・、という事がきっかけで、親が倒れたら子供は行き場が無い、という事を実感。そして子供が大きくなるまでに、子供達の行き場を作らなければ、と思ったという。
その後、腸閉塞を起こして再入院したりで問題は切実になり、養護学校の先生達も自分の生徒達の行く先をどうしたら良いだろう・・・と考えており、先生や親御さんたちと20人で、1995年に「にじの会」をスタートした。

障害者は、自分が持たないと他人事。しかし持ってしまうと、人生は暗転する可能性・・・。何で自分達が・・・・と。
よって、それを皆(社会)で支え合うことは絶対に必要だが、ここまで具体的な活動に踏み切れる人が何人居るか・・・・

自分達の不幸(従兄妹での結婚が原因?)をきっかけに、目を広く見据えて(個人の問題から脱して)、ここまで広く活動されている「にじの会」は、素晴らしい活動だと思った。

(関係記事)
映画「しいのみ学園」の歌

「滝乃川学園~石井亮一・筆子夫妻の軌跡」展に行った

障害者が働くレストラン「花畑かたくり」(京王堀之内)

家庭での障害者の率~障害者自立支援法を考える(1)

●本日カウントが4万を越えました。皆様の“ご愛顧”に感謝します。

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2007年12月12日 (水)

カンボジアの「慈悲魔」~援助の難しさ

今日は、あまり愉快な話題ではない。
電車の中で「ラジオ深夜便~こころの時代②」という雑誌を読んでいたら、痛ましい話が載っていた。栗本英世氏の「カンボジア・地雷の村に学校を」という記事である。少し引用してみる。(P116)

『現状に合わない援助は「慈悲魔」に』
「現在のカンボジアが1993年に選挙でできあがったときに、政府の閣僚が世界に言いました。「私たちは国づくりをこれからがんばりますから、手伝ってください」と。ところが外国が手伝いすぎたために、政府の役人は何もしなくなって、外国に「くれ、くれ」というだけになりました。道路を造るのも学校を作るのも、すべて外国頼みなのです。それも、2倍から3倍の金額を要求するのですが、それでも日本など先進国の感覚では安いので、つい出してしまうのです。出してしまうと、要人たちが私腹を肥やすだけで自助自立の気持ちを奪う結果になっています。そのへんが援助の難しさだと思います。
インドに「慈悲魔」という仏教の言葉があります。アチュートという、カーストにさえ入れない人たちの中で子供が生まれると、大人になってもどんな仕事もさせてもらえず、生きていくことが難しい。そのため、親が子供を障害者にしてしまうのです。障害者なら、食べるものや生活をするための物を施されるから、かろうじて生きていけるのです。親は子供のことを思って鬼になるというのが、「慈悲魔」という意味だそうです。
私がカンボジアに住み始めたころ、両手、両足のない、グッズちゃんという女の子と出会いました。彼女は、アンコールワットの人通りの多い通路に座っていました。歩いてくる観光客の人たちはみんな「わぁ、かわいそうに」と言います。日本人のツアーが来て、一人が彼女に千円渡すと、ほかの人たちもどんどん渡して、あっという間に1万円になります。普通の人の年収が2、3万という国で、彼女は1日でそれくらい稼いでしまう。
あるとき、「グッズちゃん、大人になったら何になりたいの?」と聞くと、「先生になりたい」と答えました。「そうだね。グッズちゃんは英語もできるようになったし、日本語もだいぶうまくなったし、頑張ったら先生になるね」と言ったら、彼女は大喜びです。
家に一緒に出かけていって、「お父さん、お母さん、グッズちゃんを預けて下さい。学校の先生にします」と言ったら、彼女の両親は二人とも黙ってしまいました。1週間たって本人に聞くと、「もういいわ。私、物乞いを続けるから」と言うのです。理由を聞いても黙ったままですが、事情は分かっています。一家、親戚全員が彼女の稼ぐお金で生活しているのです。もともとあった畑や田んぼも人に貸してしまって、グッズちゃんの送り迎えだけをする生活になっていたんですね。彼女が「仕事」をやめれば、一家の収入は5千円になってしまうのです。
グッズちゃんは、両手、両足はないけれど、非常に頑張り屋で頭がいい。英語も日本語もマスターできるでしょうし、ガイドや先生の仕事でもできるでしょう。しかし日本人が「かわいそう」と言ってくれるお金が、グッズちゃん本人を苦しめているのです。」

今年の5月連休に上海の豫園に行ったが、たしかそこにも沢山の物乞いがいた。倒れている人も居るので心配したが、ガイドさんの話によると、毎日同じように倒れており、ガイドブックにも載っているとか・・・。つまり職業なのだ。
そして、「お金を一人にあげると、周りの物乞いが皆寄ってくるので絶対にあげてはダメ」とも言われた・・・・。
このカンボジアの例を含め、仏教における乞食(こつじき)とは大分違う・・・

この話の家族の姿を見ると、ここには「人間はいったんラクをすると、努力をしなくなる」という現実の姿がある。それに比べると、日本人はまだ勤勉だ・・・。
でも、何か寂しくもあり、痛々しくもある内容であった。

帰ってカミさんにこの話をすると、耳をふさぐ。動物虐待と同じく、弱者を思うと言いようが無く、聞きたくない、と言う。たぶんこのblogも読まないだろう。
でも「人間の弱さ」という現実もまた、「真実」なのだろう・・・・。

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2007年12月11日 (火)

布施明の「愛の香り」

昨日(07/12/10)、NHK BS2で放送した、蔵出しエンターテインメント ビッグショー「布施 明 これからなんだ 恋の歌は!」の録画を今日見た。1977年10月9日放送の番組だという。布施明30歳の時の番組。NETで調べてみると布施明の誕生日は1947年12月18日。つまりあと一週間で、めでたく(自分と同じ)還暦だ!!(他人とは思えないな~~)

実は自分は若い頃、布施明の大ファンだった。大学2年のとき、「恋」(67/3)という曲がヒットしてTVで布施明を知った。それから「愛のこころ」(67/9)「愛の園」(68/4)「愛の香り」(68/9)とシリーズが続く。作曲はすべて平尾昌晃。
下宿の小母さんの目を気にしながら、TVのイヤホンジャックからSONYのオープンデッキに録音したっけ・・・。(この頃、ブルーコメッツにも凝ったが・・・)
自分が布施明を知ったのは「霧の摩周湖」(66/12)の後だったが、「霧の摩周湖」には参った。自分は、未だにこの曲が歌謡曲の最高の作品だと思っている。この歌については『編曲者「森岡賢一郎」』という記事で書いた。
この67年(昭和42年)の夏に、初めて北海道を旅行した。そして摩周湖もばっちり見えた。息をのむ美しさに圧倒された。そして旅行のテーマソングは「霧の摩周湖」だった。帰ってから、地元のラジオ放送に「霧の摩周湖」をリクエストして放送されたこともあったっけ・・・・。
この布施明の「霧の摩周湖」を“別格”とすると、「愛の香り」が好きだ。

<布施明/「愛の香り」>

「愛の香り」
 作詞:安井かずみ
 作曲:平尾昌晃
 編曲:森岡賢一郎

1)はるかな願いの
 花が開く時
 あなたの心に 愛は動く
 ゆれて 動いて
 炎がもえて
 そんな時
 たまらなく 言いたくなるのさ
 とても とても愛しているから

2)ほのかな香りが
 胸に迫る時
 あなたの心に 愛は動く
 甘く ふるえて
 涙が光る
 そんな時
 たまらなく 抱きしめたいのさ
 いつも いつでも愛しているから

3)待って祈って
 名前を呼んで
 そんな時
 たまらなく 逢いたくなるのさ
 こんなに こんなに愛しているから

071211ainokaori NETで調べてみると、全集以外の単品CDでは、もうこの歌は売っていないことが分かった。そう言えば、布施明が色々なレーベルから色々なアレンジで昔の持ち歌を歌っているが、「愛の香り」だけは歌っていない。よってこの曲はKINGのこの盤しか存在しない。残念だが、マイナーな扱いになっているらしい。
この後の時代に、「シクラメンのかほり」に始まる小椋佳による作品群が出るが、やはり一曲を選ぶすると「愛の香り」だな・・・。

もうひとつ、これは本当にマイナーな曲を紹介する。布施明作詞・作曲による「どうしてこんなに悲しいの」である。ロック調のこの歌も好きだった。

<布施明/「どうしてこんなに悲しいの」>(70/4頃?)

話は戻るが、このビッグショーを見て、30年前の布施明の姿が、今と殆ど変わっていないのにはビックリ。つまり、最近TVに出る布施明と同じなのである。(何か表現が逆だが・・・)
この「若さ」を保っている原動力は何だろう?オリヴィア・ハッセーの影響でもあるまいし・・・。いくら芸能人とはいえ、もう60才だぞ~。それなのに若い・・・・。(自分など、この30年で頭を使い過ぎて髪の毛は擦り切れたし、ドーランを塗らなかったせいか肌もボロボロ・・・)

布施明は最近も良くTVで見掛けるが、若い頃によく聞いた歌手が、今でも元気に昔と同じ姿・同じ声で歌っているのを聞くと、自分も若い気分になるね・・・・。
まあ還暦の(お気の毒さん!)布施明から元気をもらって、明日の通勤に備えようか・・・

(関係記事)
編曲者「森岡賢一郎」

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2007年12月 9日 (日)

NHK「若き技能エリートたちの戦い」を見て

先日(07/12/3)放送されたNHKスペシャル「若き技能エリートたちの戦い~巧みを競うオリンピック~」を見て、日本の置かれた物作りの現場を再認識した。

番組は主に韓国と日本の金型競技の模様を追っていた。韓国は国を挙げて応援。日本は企業中心。韓国の選手は、スピードを追う。日本の選手は、設計に充分に時間を掛け、製造は持ち前の巧みのワザで一気に追い付く。
結果は、韓国選手が後半出来上がった製品の精度で挫折・・・・。日本の選手が10年ぶりの金メダル。
製造装置を作る競技では、「自ら考える技能者」について伝えていた。単に技能を継承するだけではなく、自ら考えて解決する・・・
この選手は、最後のプログラム製造で、与えられたフローチャートでは動作で動かなくなる可能性があると審判団に指摘。審判団は、「与えられたフロー通りに動けば、採点上問題ない」との回答。しかしこの選手は、「不完全な装置は作りたくない」と、与えられたフロー通りのプログラムではなく、自分で納得するプログラムを作った。
コーチは、「どのような課題が来ても自分なりに自律(=自立)できる技能者の第一歩が終わった」と評価。結果は満点で金メダル。

この番組で出てきた韓国選手は、時間前にさっさと終わって余裕の姿勢、それに対して日本の選手は最後まで製品に磨きをかける・・・・。結果は日本の勝利・・・
この姿勢の違いは、製造がメジャーな韓国とマイナーな日本の、置かれた環境の違いなのか・・・
しかしこの日本の選手たちは、7年間も技能五輪のための訓練を受けて来て、実際の製造現場は知らないという。来年春に初めての配属・・・。
最後のナレータの声が痛々しい。「日本は16の競技で金メダルを獲得しました。しかし彼らが腕を振るえる現場をどれだけ作れるのか、日本の物作りが問われています」

自分も現役時代、30年間電気メーカの工場で過ごしたので、この番組で言っている事は良く分かる。しかし今の製造(システム物)は、特殊な分野を除いてユニットの組み合わせで終わってしまい、もう一から物を作る時代では無いという。

世はコンピュータ時代なので仕方がないが、物を作る喜びが今の現場にどれだけあるのか・・・、余計な話だがツイ心配してしまう。
メーカの人間は、やはり「これが自分の作品」と思える物を作ることが仕事の達成感につながるのではないか・・・。
つくづく“自分は昔の良き時代に生きたな・・・”と思いつつ見た番組であった。

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2007年12月 8日 (土)

今日は「真珠湾攻撃」の日・・・ジャネット・ランキン

今日は12月8日。66年前、真珠湾攻撃のあった日だ。下記の新聞記事を見て気が付いた・・・・
今朝(07/12/8)の朝日新聞の天声人語は、ジャネット・ランキンという人について書いていた。この人は、日本軍の真珠湾攻撃に対しての米議会「対日宣戦布告決議」で、米国下院でただ一人反対票を投じた人だという。
天声人語に曰く・・・

「ジャネット・ランキンの名を知る日本人は多くないかもしれない。1888年に米国で生まれ、女性初の連邦議員になった。女性の参政権運動を率いたから、日本なら市川房江さんのような存在である。
信念に満ちた平和主義者でもあった。66年前のきょう、日本軍は真珠湾を攻撃した。それを受けた議会の対日宣戦決議に、たったひとり反対票を投じた。議会は日本への憎悪を燃やし、上院は満場一致で可決した。下院は賛成が388、彼女だけがノーを唱えた。
この反対票で、ランキンは全米を敵に回す。非難が渦巻き、「売国奴」のレッテルを張られた。頼みの故郷からも、「あなたの味方なし」と電報が届く。その後、再選されることはなかった。
散ったかに見えた花は、しかし後世に種子を残す。数年前に故郷のモンタナ州を訪ねると、「信念一票」を慕う女性たちが平和活動を続けていた。あの「一票」に、命を生む者の決意がこもっていると誇らしげだった。
<徴兵は命かけても拒むべし 母・祖母・おみな牢に満つるとも>。故・石井百代さんの歌が「信念の一票」に重なる。作者は多くの身内を戦争で亡くした人だ。当時、あっさり息子を差し出す気になった。その後悔を胸に、戦前回帰する風潮に決意をぶつけている。
石井さんは生前、小紙に「(戦争は)女親らしい、めめしさを持っちゃいけないと、ただそればっかり」だったと語っていた。勇ましいものに歯止めをかける。それはめめしさではなく勇気なのだと、2人の行動と言葉に思う。」

ジャネット・ランキンは、決して相手国(日本)を考えて反対したのではない。「女は戦争に行けないから、私は他の誰をも戦争に行かせることができない。」という発言からも分かるように、戦争での紛争解決に反対していたのだ。
しかし、世論に潰される・・・・。でも戦争が終わってみると「真実」はひとつ・・・・

このように、戦争に至る背景(理屈)ではなく、女性の「命を生む者の決意」での反対は、絶対的な重みがある。
でも、もし来年の米国大統領選挙でクリントン女史が選ばれたとき、世界中の戦争が終わる・・・・と期待するのは、早計だよね・・・

(8月の終戦記念日には、TVでも色々な番組が放送される。しかし、今日のような開戦記念日(?)には話題無し・・・。でもまあ当然だな・・・。開戦を喜ぶ(記念する)人は誰も居ないのだから・・・・)

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2007年12月 6日 (木)

NHK「日本画家 石踊達哉の365日」を見て

昨日(07/12/5)放送された、NHKハイビジョン特集「描いて、また描く~日本画家 石踊達哉の365日~」を見た。
Ishiororiakikusa ハイビジョン特集は2時間弱と長いため、自動録画しておくものの、全体をゆっくり見ることは少ないが、この番組についてはつい最後まで見てしまった。番組の解説に曰く・・・

「優雅、華麗な日本画で知られる石踊達哉(62歳)。金閣寺の杉戸絵制作という大仕事を引き受けた石踊の創作活動の内側にカメラが入り、1年間に渡って追いかける。【出演】石踊達哉」

番組は、樹齢800年という杉の一枚板の戸に、延べ8枚の絵を描く1年間を追ったもの。弟子も置かず、ただ一人ですべてをこなす。相手が紙ではなく板ゆえに、いちど筆を執ると失敗が許されない作業。構図を悩み、迷い、そして一気に描く・・・。
たった一人の助言者は奥さん。高名な画家だけに、すべてを自分流に描くのかと思うと、「一般の皆さんが見るので、不安なところもある。だから画家以外の視点での評価も欲しい。その点、画家ではない女房の意見は、複眼視できるので貴長だ」と言う。まさに素直な、素朴な人柄が良く出ていた。
また、“生活するために絵を描く”姿が番組の随所に出て来たが、高名な画家でもやはり“生活はあるのだ・・・”と思うと、ホットする。

Ishiodorimusouka1 実は、絵の世界に疎い自分は、「石踊達哉」という名は知らなかった。しかし、あの顔は知っていた(失礼)。
ネットで見ると、石踊氏の実に立派なHPがある。また作品がたくさん載ったHPもある。

昔NHKから放送された、(喜多郎のジャケットを描いていた)長岡秀星のNHK特集の番組が記憶に残っているが(このblogでも書いた)、この番組はそれに匹敵する印象深い番組であった。

ふと個展があるというので調べてみたら、「金閣寺客殿杉戸絵完成記念 石踊達哉日本画展」は仙台で10/8に既に終わっていた。
しかし今、「高島屋美術部創立百年記念 石踊達哉展」というのをやっており、 07/12/26から横浜高島屋で、08/2/20から新宿高島屋で開かれるというので、行ってみようかと思っている。
この番組は秀作であった。

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2007年12月 5日 (水)

山田耕筰の肉声による歌の指導の録音

山田耕筰の肉声による歌の指導の録音を聞き、山田耕筰が美声の持ち主だった事を知った。まあ、東京音楽学校の声楽部卒(1908年)というので、当然かもしれないが・・・

昨日(07/12/4)朝の、NHKラジオ深夜便「にっぽんの歌こころの歌」で、山田耕筰特集をやっていた。今日、録ってあったその番組を聞いたが、その中で山田耕筰が昭和5年(1930年)に録音したという「山田耕筰の歌と指導~『歌の歌い方から“からたちの花”と“この道”による善悪の例の比較』」という貴重な音を聞いた。とにかく聞いてみよう。80年近く前の山田耕筰の貴重な肉声の録音である。

<山田耕筰の歌と指導~『歌の歌い方から“からたちの花”と“この道”による善悪の例の比較』>~昭和5年録音

1930年(昭和5年)というと、1886年生まれの山田耕筰44歳の時の声だ。この番組の解説によると、「山田耕筰の曲の特徴は、『一音符一語主義』、つまり日本語の抑揚に忠実にメロディーが上がったり下がったりし、また細かく歌い方の指示がされている事」なのだそうだ。
それからすると、この録音のように、歌い方によって歌のイメージが全く変わってしまうという事を実際に自分の声で指導している姿も、納得できる。
しかし、ひょんな事から日本の西洋音楽の生みの親の声が聞けた事はラッキーだった。

話は脱線するが、今週からNHK FM放送の歌番組をPCで録っている。ラジオ深夜便でも午前3時から「にっぽんの歌こころの歌」をやっているが、午後1時から「歌謡スクランブル」、午後5時過ぎから「歌謡スポットライト」という番組もあったので、PC上のタイマーで録音を始めた。
歌の、放送からの収集(録音)は、サラリーマン時代の初めからFMの歌謡番組をオープンテープやMDに録っていた。しかし05年1月にデジタル衛星ラジオの「ミュージックバード」を聞き出してからFM放送は聴かなくなったものだ。(もっとも一通り聞いたので、ミュージックバードは今は止めてしまったが・・・)
しかし意外とFM放送も音が良いので、これを機に、またFM放送の歌番組を聞く事にしよう・・。

このNHKラジオ深夜便「にっぽんの歌こころの歌」は、「こころの時代」とともに通勤の楽しみになってきたぞ・・・・。

追)山田耕筰の歌の音源を入手したのでアップ。(2009/5/4)

<山田耕筰の「からたちの花」>

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2007年12月 3日 (月)

「文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし」

先日(07/10/27)、江戸東京博物館で開かれていた「文豪・夏目漱石-そのこころとまなざし-」展に行ったが、そこで買った公式ガイドブック「文豪・夏目漱石-そのこころとまなざし」が当たった。

Scan103711 最近、本を良く買うため、読むほうが追いつかない。先週末からやっとこの本を読み出した。ところが、この本がなかなか良いのである。単に展覧会の解説ではなく、漱石の生き様が丁寧に書いてある。カラーの写真もきれい・・・。
漱石の生まれから死まで、その人生が良く分かるので、展覧会から一月も経ってしまったが、それとは別に漱石に非常に興味を持つようになった。
家庭における漱石は、「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」にあるような愉快な一面よりも、神経衰弱の面が多く出ていたらしい。
特に英国留学から帰った数年(明治36年)は、強度の神経衰弱を病み、夫婦仲にも亀裂が入り、妊娠中の鏡子夫人は約2ヶ月間実家に帰ったという。しかし別居中、漱石を診断した呉博士から、鏡子や子供たちをどなりつけ、なぐりかかるといった漱石の態度が病気のためだと聞かされ、一生病気が治らない漱石と添い遂げようと覚悟を決めた鏡子は千駄ヶ谷の家に戻り、三女栄子を出産したという。(P45)

鏡子夫人も偉いが、後世は実に優しい父親だったという。(P58) そして、結局は妻・娘達からやり込められる漱石・・・。
この話を聞いて、なぜかホットする????

先週、本屋で「こころ」の単行本を買ってきたが、今日決心をしたぞ。
「いつ読み終わるか分からないが、漱石の書いた順に全作品を読んでみよう」

高校のときに、図書館長の国語の先生が「とにかく本を読め」と、読書を“強制”されたが、「草枕」や「虞美人草」など、挫折した作品も多い。
リタイアして時間が取れるようになったら、「漱石全作品の読破・・・」ナンテいうテーマも面白いかもね。

(関係記事)
「夏目漱石展」に行った

映画「それから」のテーマ

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2007年12月 2日 (日)

ベートーヴェン「月光の曲」の聞き比べ15種

今日は、ベートーヴェンのピアノソナタNo14「月光の曲」の聞き比べである。
前に、同じくベートーヴェンの「運命」冒頭の指揮者による違いを聞き比べたが、今日は、ピアノの「月光の曲」を聴き比べてみる。

最近、この曲に凝っている。キッカケはモラヴェッツだ・・・・。
昔のモラヴェッツの「月光」のテープからMP3化して聴いているが、スプラフォン盤のモラヴェッツの月光のCDを手に入れたら、何と「1964年 コニサー・ソサエティ録音」とある。まさに自分が探していた録音である。しかし、この両者が同じ録音かどうか、疑問が晴れていない。
どなたかこの二つの録音が同一か教えて頂けないだろうか? 演奏はテープのほうが遅い。これはテープデッキの誤差かもしれない。しかし、曲の最後の二つの和音が出るタイミングがどうも違うように思え、録音データは同じ演奏なのだが、どうしても違う録音のように思える。もちろん音そのものも、どうしても違う音に聞こえる・・・

<イヴァン・モラヴェッツ/「月光の曲」~コニサー録音>
自分が最も好きな演奏であり、音である。学生の頃にフィリップスのLPからオープンテープに録音。

その後手に入れた、同じLPからMDに録音したもの。

<イヴァン・モラヴェッツ/「月光の曲」~スプラフォン盤> (CDはこれ)
1964年コニサーソ・サエティ。録音データからは、上と同じ録音のようなのだが、どうしても同じに聞こえない・・・

<遠藤郁子/「月光の曲」>(CDはこれ)
最近発見した、好きな演奏。何と暖かな演奏・・・

<アシュケナージ/「月光の曲」>(CDはこれ)
この演奏は、せかせかしていて好きでない。

<エフゲニー・キーシン/「月光の曲」>(CDはこれ)
テンポが速く、旋律がクリア過ぎる。幻想さが無い。(ナーンテ、好きなことを言っているが・・・)

<ニコライ・ルガンスキー/「月光の曲」>(CDはこれ)
テンポが揺れ過ぎ・・・。長く伸びた音が、何かきたないな~?

<マリア・ジョアン・ピリス/「月光の曲」>(CDはこれ)
おとなしく、抑えた演奏で良い。オトナの演奏だな・・・・?

<フランク・ブラレイ/「月光の曲」>(CDはこれ)
新幹線の演奏。自分は、テンポは遅いほうが好きだが・・・

とりあえず並べてみたが、この曲はスローテンポな曲だけに、演奏者の個性が出ると思っている。
少し研究をしてみたい。

(07/12/8追加)
<ダニエル・バレンボイム/「月光の曲」>~88/12頃のNHK番組から

<ブルーノ・レオナルド・ゲルバー/「月光の曲」>~91/1頃のNHK番組から

<ルドルフ・ブフビンダー/「月光の曲」>~92/10頃のNHK番組から

<ヴァルター・ギーゼキング/「月光の曲」>~LPから

<スタニスラフ・ブーニン/「月光の曲」>(CDはこれ)(08/5/23追加)

<ウィルヘルム・バックハウス/「月光の曲」>(CDはこれ)1958年録音(08/6/8追加)

<クラウディオ・アラウ/「月光の曲」>(CDはこれ)(08/10/26追加)

(関係記事)
「月光の曲」の思い出

モラヴェッツの「月光」のテープが見つかった

遠藤郁子の弾く「月光」

「運命」冒頭の聞き比べ~46種

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2007年12月 1日 (土)

ヴォルフ=フェラーリの「マドンナの宝石」と、メンデルスゾーンの弦楽四重奏曲

今日は、昔ラジオで聞いたクラシック番組の思い出話である。
昔、自分が中学校の頃(昭和35~38年頃?)、ラジオで「クラシックベスト10」とかいう番組があり、常にトップだったのが、ヴォルフ=フェラーリ作曲の、歌劇「マドンナの宝石」間奏曲であった。
当時、ベスト10に名を連ねていたのは、皆セミクラシックの名曲で、ブラームスのハンガリア舞曲第5番とか・・・。でもこの曲は強かった・・・・。

ヴォルフ=フェラーリ(1876~1948)はレオンカヴァルロと同世代に活躍したイタリアの作曲家。というより、むしろ音楽学校の校長といった教育家で名を成し、作曲はその職を離れてからという。
「マドンナの宝石」はナポリを舞台にした悲劇。
ナポリのマドンナ祭で、一人の女性に言い寄った秘密結社の主領は、ちょうど近付いてくる「聖母の宝石」をいただいた聖母の行列を前に、彼女に「もし望むなら聖母の宝石を盗んで与える」と愛を誓う。一方、この義妹に思いを寄せる鍛冶屋の男は、彼女から「聖母の宝石を盗み得るものだけが自分の愛を勝ち得るのだ」と言われ、聖母の宝石を盗んで彼女に与えるが、興奮の冷めた彼女はそれを裏切って主領に愛を求める。鍛冶屋の男は裏切られた悲しみと、聖母の宝石を盗んだ罪の深さに絶望して自ら命を絶つ・・・。という物語だそうだ。実に“切ない”旋律である・・・・

<ヴォルフ=フェラーリ「マドンナの宝石」間奏曲>
  ~ミッシェル・プラッソン:フィルハーモニア管弦楽団

もっとも、このクラシックベスト10の番組は、毎週入れ替わりが少ないため、飽きられたのかほどなく番組は消えたが・・・

昔のラジオといえば、クラシックを聞き出した中学校の頃に、NHKラジオのクラシック番組を良く聴いた。
その頃のクラシック番組のテーマ曲が、メンデルスゾーンの弦楽四重奏曲第1番だった。解説は堀内敬三?だったかな・・・?
そのテーマ音楽が気に入った。しかしラジオでは曲名の紹介がない。仕方なく、NHKに往復ハガキで問い合わせたら、「メンデルスゾーンの弦楽四重奏曲第1番~第4楽章の冒頭」だと教えてくれた。それでレコードを買ったっけ・・・。
この曲は、今聴いても昔のクラシックを聞き出した子供の頃を思い出す。

<メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲第1番~第4楽章>
      ~アルバン・ベルク四重奏団

先日、BSで昔の懐かしい渡邉暁雄指揮日本フィルの「日本フィル・シンフォニー・コンサート」をやっていた。家に初めてTVが入ったとき、食い入るようにこの番組を見た。オーケストラもこの番組で知った。
ポピュラー音楽と違って、クラシック音楽は何年経っても変わらない。そりゃそうだ。「クラシック」と言うように、既に昔の音楽なので、色あせる事はない・・・。

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