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2007年10月の24件の記事

2007年10月31日 (水)

利他心について(その2)

先日書いた「ラジオ深夜便 こころの時代 5号」の遺伝子学者 柳澤嘉一郎氏の「利他心はどこからくるのか(P12)」についての続きである。このお話は、全文引用したいくらい良い話が多い。以下、引き続き自分の心に残った話である。

「動物の本能と利他心」
・・・・子猫が水の中に落ちたとき、親猫が飛び込んで助けようとする。しかし、これは遺伝子の立場から考えると、利他心ではないというのです。子猫は親猫の遺伝子を受け継いでいますから、子猫を救うことは、自分の遺伝子を継続させることになる。言い換えれば、利他心に見えても実際には利己心であると言うのです。ここから、生物の個体は遺伝子にとって、単なる乗り物だという考え方が出てきます。遺伝子はさまざまな個体を次から次へと乗り換えていって、自分だけが生き残ると。しかしこの考え方には、私は違和感を覚えます。あまり下等なものはともかく、高等な哺乳類のような動物なら、利他心はあると、私は考えています。

・・・自分の遺伝子とは全然関係のない、他の種を助けた話もあります。2004年のスマトラ沖地震の時、象が人を助けた話があります。タイのリゾート地には、観光客を背に乗せる象がいます。その象が、津波の来る前に、内陸へ向かって逃げ出し、その途中で人を鼻で巻き上げて背中に乗せたと言うんです。そのとき、象は人と助けようとしたんだと私は思うわけです。象の利他心です。
また、これはアフリカのサイの親子の話ですが、子どもが水を飲もうとして沼地にはまってしまい、抜け出せなくなった。親サイは一生懸命助けようとしたけれど、どうしても助けられない。あきらめて去りかけたところへ、たまたま象がやってきて、鼻で子どものサイを一生懸命引き上げようとした。それを見た親サイが象に突っかかっていったので、象は脇によけてしばらく見ていたが、結局親サイは子どもを助けられず、あきらめて去ってしまう。すると象は、また戻って子どものサイを助けようとした。そういう行動を見ると、動物にも利他行動の遺伝子があって、それが進化の過程でヒトに受け継がれてきているのだと思います。・・・・

「親子の絆と信頼関係」
・・・多くの心理学者は、幼児にとっていちばん大切なのは母親とのコミュニケーションで、3歳ごろまでに受けた母親の愛情が、人間を信頼する心情が育つ基本になっていると考えています。お母さんが子どもを育てるときのスキンシップや授乳といった行為が、親子の絆を強めていく。その行為を十分受けた子供は、他人を信頼する気持ちが豊かに育まれていきやすいと言われています。
かつてハワイの小さな島々では、大人になっても島を出ていかない人が多かった。そこで子供のときから大人になるまで、どういう人がどういうふうに育つかということを、長期間追跡調査した結果があります。結論は、子供の時にあたたかい愛情の中で育った人は、やはり温かい人間になるということでした。その調査結果によると、必ずしもお母さんでなくてもいいですね。お母さんのスキンシップは非常に大切ですけれど、おじいさんでもおばあさんでも、誰かかわいがってくれる人が一人でもいれば、子供は非常に穏やかに育つんだそうです。・・・・・

・・・・相手の立場を理解することができるようになる6歳くらいまでの間は、母親だけでなく、周囲の人たちとの温かいコミュニケーションが性格形成に大きな影響を及ぼすとされています。例えば、暴力犯罪など粗暴な行為をした人は多い家系に子供が生まれたとします。そういう子供でも、幼児期に温かい愛情で包んで育てると、穏やかな性格の大人になることがわかっています。

話は変わるが、自分が子供の頃(大学に入って家を出るまで)、親父にいつも言われた言葉は・・・・
「お前は心掛けが悪い。幾ら勉強が出来ても?、それではダメだ」「お前は、感謝の気持ちが無い」・・・・
当然反抗心旺盛な自分は、言われたことの逆の態度をして、いつも親父からぶん殴られたものだった。
・・・・はたして、自分と親父とは「親子の絆」があったのだろうか・・・。

親父が亡くなって11年・・・。既に親父と張り合う事も出来ず、また自分は還暦を迎えてサラリーマンとしても「付録」の段階に入ってきた。
あの頃の「鎧(よろい)と鉄兜の自分」が懐かしい?と共に、一度でも良いので、親父と腹を割った話をしておくのだった・・・・と思うこの頃ではある。

(関係記事)
利他心とアーミッシュ

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2007年10月30日 (火)

昔の我が家の「大事件」

この所、思い出話に凝っているが、そのついでに・・・・(備忘録として)
もう二十数年も前の話だが、長男が4~5才?次男が2~3才の頃だったか、今思い出しても良く覚えている“大事件”があった。
名付けて「トイレットペーパーひらひら事件!!」

前の団地(と言っても一軒家)に住んでいた頃、夏のある夜の出来事である。
居間の隣の和室に、息子二人は寝ていた(はずだ)が、ふと寝静まっている部屋を開けると、何と部屋に誰もいない。そして道路側の窓が開きっぱなし。そして外の、道路の街灯の光が部屋の中にさんさんと入っている。窓のカーテンは、部屋の外に向かって風ではためいている。
そのビックリしたの何のって・・・。
まず、泥棒が入って息子二人がさらわれたのだと思った・・・。直ぐにカミさんを呼んだ。

・・・と、外の道路で何か子供の声が聞こえる・・・・。そして、ひらひらと白くたなびく物・・・・。

何と、長男が裸足で片手にトイレットペーパーを持って、街灯で照らされた家の前の道路を走っている。片手に持ったトイレットペーパーは、ほどけて白い帯のようにヒラヒラと・・・・
それをまた次男が、キャラキャラ言ってこれまた裸足で喜んで追いかけている・・・
もう、たまげたの何のって・・・・・・。頭は真っ白・・・・。何だこれは・・・と。

とにかく叱って二人を収容し、再び部屋に閉じ込めたが、何とも心臓がドキドキ・・・。考えても解せない・・・
幼稚園前の子供が窓を開けて、下の1.5m程もある庭に飛び降り、それから前の道路に出て、夜中にかけっこ・・・・!? しかもトイレットペーパをたなびかせて・・・・。

子供が小さくて事情聴取が出来なかったため、誰が主犯で、どの様な計画の元で実行に至ったかは、結局分からずじまい。(当然、長男が主犯である事は分かっているが・・・)
もちろん証拠写真も無いので、カミさんと自分の、二人の頭の中だけにしか存在しない「事件」である。(もし今だったら、そしてこのように“動転”していなかったら、将来息子を脅迫する目的でデジカメで撮っておく所だった・・・)

しかし昔の「事件」も、意外と覚えているものだ。そのうち、いつの出来事か、手帳でもめくってみようか。
でもまあ子供の頃、奇想天外の事件を数多く演出した長男だが、最近は幾らかまともになってきたので、どうもその「毒」を子供の時に全部出し切ってしまったのだろう、というのが、最近の我が家の“長男評”である。(くだらない話でスミマセン・・・)

(関係記事)
我が家の「珠玉(?)の写真」1枚

「名付け」という事

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2007年10月29日 (月)

「名付け」という事

今日(07/10/28)のTVニュースで、自民党の与謝野元官房長官と、小沢一郎氏が公開で囲碁を打ち、小沢氏が勝ったとか。
囲碁とか将棋とかの趣味を持っている人は、本当に羨ましい。

実は、自分は勝負事がからきしダメ。学生時代の麻雀も、覚えようとした囲碁も全くダメだった。亡くなった親父は将棋が趣味で、会社の将棋クラブに大山名人を招待した、とかいう話を聞いたことがあった。家にはその時に書いて貰った大山名人の色紙が大事に飾ってあったっけ。
その血を受けてか、兄貴は将棋・麻雀・囲碁何でもOK。特に今は囲碁に凝っている。
将棋は、親父(祖父)の影響からか下の息子が凝っており、だいぶん強いらしい。「らしい」というのは、自分で指したことが無いので分からない。(でも、ときたま新聞に載るので強いんだろう)
いやいや指したことがあるぞ。もう20年以上も前、下の息子が小学校2~3年生頃だったか、やっと将棋のルールを覚えた頃、自分も将棋のルールだけは知っていたので「オレに勝ったら何でも買ってやるぞ」なんて言って遊んでやったら、何と負けた。それで自転車を買う羽目になった。もちろんそれ以来、それがトラウマになって、指していない。

今日、散歩をしながらカミさんと話した。「長男に付けた“*”という文字は下の息子に付けた方が良かったな。次男が将棋に熱中しているので・・・」
正直、長男が生まれた時は、名前を色々と考えた。自分の兄弟が、3人とも同じ字が入っており、“*シリーズ”で兄弟だと直ぐに分かるので、連帯感の点からも同じようにしよう、と思っていた。よってそれは決まったが、もう一つを何の文字にするか・・・
「強い字は名前負けするよ」とかカミさんに言われたが、強行した。結果、敗北・・・・
それで次男の時は、カミさんの言う通り。カミさんが言う名前に「それで良いのでは・・」で直ぐに決まった。

自分の名前については、先日、お袋が遊びに来たときに「自分の名前の由来」を聞いたら「お父さんが一方的に付けたので分からない」と言っていた。よって、それは永遠のナゾとなった。

ところで、先日の新聞に載っていた最近の名前にはビックリだ。とにかく読めない。あまりに自分勝手な理屈・好みで決めており、子供の事を考えていない。
まあウチは、「読み間違えない」事だけは心掛けたので、それでOKしてもらい、自分の意志は自分の子供で実現して貰うことにしよう。(こんな事を書くこと自体、自分もホンモノの還暦だな・・)

(関係記事)
我が家の「珠玉(?)の写真」1枚

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2007年10月28日 (日)

江戸東京博物館に行った

昨日(06/10/27)、夏目漱石展のついでに、江戸東京博物館に寄った。建物がユニークだが、中に入ると意外と規模が大きい。真ん中に日本橋の復元?があり、眼下に建物が広がる。

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江戸時代の暮らしがならぶ。
この陳列とは関係ないが、徳川御三家の系図が分かり易かった。これを見ると、如何に実子の相続が少なく、養子による家系維持が多かったかが分かる。側室制度の中でもこうなのだから、現在の天皇制における男系維持が難しいことも分かる・・・。

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電化製品の古いのもあった。すべて見覚えがあるものばかり。それも全部東芝製。昔は松下製よりも東芝製が一般的だったのだろう。
カミさんに「この電気釜も家にあった。この洗濯機もあった」と言ったら、「意外と金持ちだったのでは?」という。理由は、叔父が社内売りで安く買ってくれたもの。
でも洗濯機が家に来たときのことは覚えている。説明に昭和30年発売とあったので、小学校2~3年の頃だったのだろう。真ん中に大きなスクリューのようなものがあって、モーターでそれが左右に動く。それで周りにある洗濯物が攪拌される仕組み。脱水機は、上下のローラーの間に洗濯物を挟んで水を絞る。面白がって手伝ったので、良く覚えている。
そして、懐かしいミシン。昭和30年代初め、大宮に住んでいたが、お袋が内職でこのミシンで良く服を縫っていた。自分も面白がって良く雑巾を縫った。(フト、昔からこの様な機械物が多く家にあったので、その影響で自分は工学部に行った?・・ナンテ思ったり・・・)

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そして、スバル360の実物。これも懐かしい・・・。
P10100601 大学4年の頃だったか、就職が決まると、車の免許を取る事が流行って自分も免許を取った。そしたら、友人で車を買うヤツが出て、皆でそれを乗り回した。このスバル360もそのひとつ。
そしてこのスバル360で、その友人と九十九里浜を走った事を思い出す。それが、自分にとっての初めてのドライブ旅行だったのかも・・・。

ともあれ、なかなかスケールが大きい。カメラ撮影もOK。それに、台風20号が近づいている悪天候の割には観客が多い。やはり外人が多いのはまあ当然か・・・。車椅子の人も多い。お年寄りは昔が懐かしい・・・・。(自分も、今日その仲間入り?)

しかし、両国の駅からの道はいったい何だ?!
駐車場の裏道を通って入り口に入る。あまりに色気がない。品位がない・・・
そうか。この博物館は、主に外人向け。つまり正面玄関は、はとバス用の駐車場なのかも?

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(付録)
今日(07/10/28)は台風一過の上天気。散歩のついでに、昨日午後3時に開通したという新多摩大橋まで足を伸ばした。

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工事をやっていたので、いつ開通かな?と思っていたが、やっと開通した。しかし今までの橋は逆に通行止めになり(写真の向こう側)、2年間かけて改修整備してからやっと二つの橋が開通するという。よって、交通状態は何も変わらない。残念!

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2007年10月27日 (土)

「夏目漱石展」に行った

招待券をもらったので、今日(07/10/27)カミさんと江戸東京博物館で開催中の「文豪・夏目漱石-そのこころとまなざし-」展に行った。

P10100031_2 今回の展示会は、普段一般に公開されることのない「漱石文庫」が目玉。「漱石文庫」とは東北大学図書館に一括して保存されている漱石の遺品。
1943年暮れから翌春にかけて、東京・早稲田の漱石旧居から、漱石の蔵書・手紙・日記などが仙台に運び出された。東京に空襲の危険が迫り、東大図書館では分野別の収蔵が原則で一括保存が難しく、漱石の高弟だった東北大学図書館長 小宮豊隆の関係で東北大学図書館に疎開し「漱石文庫」として保存されることになったとか。(なお、旧宅の書斎と芥川龍之介ら門下生が集った応接間は「漱石山房」と呼ばれ、日本近代文学の聖地だったが45年5月25日の空襲で消失したという)

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展示は年代順だが、朝日新聞に入社するまでは「漱石は外人か?」と思わせるほど、展示品はすべて英語。直筆の数学の試験の解答用紙もすべて英語。蔵書も英語・・・(もちろん自分はサーッと通り過ぎる)

やはり圧巻は「心」などの直筆の原稿の数々。ペンの細い字で、几帳面にマスの中に書かれた文字・・・。最近「吾輩は猫である」の直筆原稿が新書になったらしいが、読むのはなかなか大変。
そしてデスマスク。1916年(大正5年)12月9日、亡くなって直ぐに弟子の森田草平の発案でデスマスクが作られる事になり、その3時間後には彫刻家の新海竹太郎が到着、石膏で型が取られたという。この型からブロンズ製のマスクが2面作られ、一つは朝日新聞社が保存、もう一つは夏目家が所蔵したが空襲で消失。

出口に近い所にあった漱石全集。
有名なオレンジ色の装幀は「心」の出版の時に、漱石自ら指示を出したそうで、中国、周時代の石鼓文の拓本を使ったという。
実はこの漱石全集は、子供の頃から家にあったのだ。今はどうなっているか分からないが、天井近くの棚にオレンジ色の全集がズラリと並んでいた。子供の頃に聞いた話では、祖母(明治27年生まれ)が嫁に来たときに、「これだけは買って欲しい」と祖父にねだって買った貰ったものだという。(もしかすると「初版」だったかも知れない・・・・)

帰りに「公式ガイドブック」を買ってしまった。まだ読んでいないが、展示の内容だけでなく、カラー写真もたくさん入っており、漱石研究が出来るかも・・・・
その中に、死の直前の漱石の写真があった。「死にそうな人も写真に撮ると治る」という風評で、鏡子が撮らせたものだという。

ともあれ、やはり急に漱石が身近になった。(実に単純だが・・・・)
高校時代に漱石の作品は殆ど読んだが、還暦になって読み返すのも悪くはないな。
大人になって、「それから」「門」は読み返したが、「こころ」も買ってあったっけ・・・・。今度読もう。

(関係記事)
映画「それから」のテーマ

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(付録)
「次世代に伝えたい夏目漱石の作品は?」

朝日新聞(07-10-24 P29)に、ネクストエージランキングと称して「次世代に伝えたい夏目漱石の作品は?」という記事が載っていた。
下記は、50歳以上12,097人の複数回答である。(自分の思いとは大分違う・・・)

①吾輩は猫である(1905年) 8825人
②坊っちゃん(1906年)    8421人
③こころ(1914年)       4483人
④三四郎(1908年)      3471人
⑤草枕(1906年)       2282人
⑥それから(1909年)     1579人
⑦虞美人草(1907年)    1188人
⑧明暗(1916年)       609人
⑨道草(1915年)       467人
⑩門(1910年)         415人

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2007年10月26日 (金)

利他心とアーミッシュ

カミさんが「ラジオ深夜便 こころの時代 5号」という雑誌を買ってきた。チョット借りて、電車の中で開いてみた。最初読み出して、直ぐに唸った言葉が見つかった。
遺伝子学者 柳澤嘉一郎氏の「利他心はどこからくるのか(P15)」である。(言うまでもなく、氏は柳澤桂子さんの夫君である)

「アーミッシュの精神性」

――人の性格は、育てられた環境で変わってくるものなのですか。

柳澤:はい。環境や教育が非常に大切だという例を一つお話ししましょう。アメリカのペンシルベニア州に「アーミッシュ」と呼ばれる人々の共同体があります。彼らはスイスに起源を持つ、キリスト教再洗礼派に属するドイツ系の人々ですが、彼らはいわゆる文明の利器を拒否していて、電気も水道も自動車も使いません。ランプを灯して、井戸の水をくんで、馬車に乗って、農業を糧にして暮らすという、昔ながらの生活を今も守っています。
また、彼らは絶対的な平和主義で、暴力的な行為を一切否定します。いわば利他主義でコミュニティーを作っているんですね。彼らは子どもを外部の学校には通わせず、コミュニティーの中に学校を作っています。
2006年のことですが、外部からやって来た男が、銃を持ってその学校に押し入り、先生と男子生徒を追い出して、女子生徒10名を人質にして立てこもったのです。すぐに外部ら警察が来ました。犯人はめんくらって、「包囲を解かないと子供を殺す」と言った。そうしたら、いちばん年上だった13歳の女の子が、「私を殺してください。ほかの子は全員助けてあげてください」と犯人に申し出たんです。それを聞いた犯人は、なんとすぐにその子を撃ち殺してしまった。
次に11歳の妹が進み出て、「それでは私を犠牲にして、ほかの子は助けてください」と言った。そして、その子も撃たれました。結局、5人が殺されて、5人が重傷を負いました。なんとも悲惨な事件ですが、これは人間の利他心、自己犠牲の究極の出来事です。
重傷を負った子どもから初めて中の様子が明らかになり、広く知られることになりました。事実を知ったアメリカ中の人たちは、ものすごいショックを受け、そして子どもたちの行動に深く感動したのです。資本主義の中で、人は株を買い、お金を稼ぐことばかり考えて、自己中心的な考え方だけで行動しているように見えます。しかし、そういう人々でも、このアーミッシュの話に感動したのです。
人間は誰しもそういう話を聞いたときに、感動するような神経回路を持っているのだと思います。つまり利他行動とは、環境がそれと相容れなくても、人間の本能として消えない情感ではないか。利他行動を見ると本能的に感動するのが、人間ではないかと私は考えるのです。

アーミッシュについては、前にTVでやっていたので知っていた。しかしこの様な話は初めて聞いた。2006年といえば、昨年の話ではないか・・・
「利他」についてもこのblogで何度か書いたように、まさに仏教の思想である

それを、ここまで実践している世界が、何と現在のアメリカにある・・・。それも驚異だが、育てられた環境がそれを育んでいる、という事実・・・。
しかもこの文章で良いのは、この利他行動が「本来人間が、誰でも持っているもの」という視点だ。これは遺伝子学者が言うのだから確かだろう。
また確かでありたい(信じたい)・・・と思う。

現在の自分とは、あまりに懸け離れた言葉なので、心に滲みた・・・
(でも、“もしかしたら自分も持っているかも・・・”と思うと、心が明るくなるよね・・・)

(関係記事)
「般若心経」と「穏やかな心」

「華厳経」に“何か”を感じた

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2007年10月25日 (木)

東京駅の駅ナカ「グランスタ」オープン

朝(07/10/25)、通勤電車の中で新聞を読んでいたら、「東京駅に駅ナカ“グランスタ”きょう開業」という記事があった。まったく知らなかった。
7:30に東京駅に着いて、45店舗があるという場所は、いったいどこだろうと思ったら、八重洲と丸の内を結ぶ1F中央通路の真ん中に、新しい入り口が突如出現していた。つられてエスカレータを降りてみる。すると広い空間・・・。既にサラリーマンが歩いている。でも店は一軒も開いていない・・・。パンフレットだけ貰って退散・・・

帰りにフト思い出して、下に降りてみた。すると人人人・・・・。どうにも、歩くことさえ出来ない・・・。(携帯で撮ってみた)

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店は通路の両側だが、何か狭い。どの店も人の列。「最後尾」と書いたプラカードが目につく。

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・・・と大きな鈴がある。巨大な鈴だ。4台目「銀の鈴」だそうだ。前は上からぶら下がっていたが、今度はケースに入っている。
パンフレットに、その由来が書いてあった。

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とにかくごった返していたので早々に逃げたが、逆に今まであった店が閑散としていて寂しいこと・・・・(まあ当然だが・・・)

帰って、カミさんにパンフレットを見せたら、「アア、***店もある・・」と色々と店の名前を言う。自分は聞いても右から左。興味なし・・・。
せっかくなので、フロアマップを挙げてみる。興味のある人は、覗いてみたら?でも人の波だけど・・・

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自分としては、もっと大きな本屋とか、食べるところとかの方が良かったな。(と言っても誰も聞いてくれないけど・・・)
幾らお土産屋や、お総菜屋が出来ても、あまり縁がない。
でもまあ、賑やかなことは良いことだ・・・。オシマイ。

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2007年10月23日 (火)

味覚障害と「白月」

(今日は実にくだらない話で読むに値しないので、読んで後悔しないように・・・)
昼に同僚達と近くのラーメン屋に行った。いつもの湯麺(タンメン)を注文。(自分は昔からタンメンが大好きだ・・・)
しかしこのラーメン屋は汚い・・・。まさに場末のラーメン屋。それなのに壁に「小泉事務所」と紙が張ってある。今晩の予約だ。そう言えば、場所が、衆議院高輪議員宿舎の近くなので、前にも首相時代の小泉さんが来て、このラーメン屋の前にSPが警護していた・・・ナンテいう話を聞いたことがあった。
また来るのかな・・・・、なんて雑談をしていたら、タンメンが来た。

ところが“味”がしないのである。おかしいな・・・。味が薄いのかな・・・とコショウを振るが、その時は香りがするが、やはりタンメンに味がない・・・。これは変だ。いつもと違って、今日は店が混んでいたので、調味料を入れるのを忘れたか?? そんなバカな・・・

ハッとした。前に、カレーの味がしないと、気になったことを思い出した。ナヌ?味覚障害か?でも今朝の新橋駅でのモーニングサービスはおいしく頂いたぞ・・・・?!これは自分の味覚障害だな・・・と悟って、黙って食った。
帰りの事務所までの道。秋晴れの上天気なのに、心は複雑なこと・・・。もし本当だったら、QOL(生活の質)はガタ落ちだ・・・・。でもチャングムは直ったぞ・・・ナンテ思いながら・・・・
何食わぬ顔で、そそくさと事務所に戻って飴を舐めると甘い!!!
まあホットはしたが・・・・・・。午後のコーヒーもウマイ。てやんでぃ・・。
腹いせに、一緒に行った同僚に、事の顛末を話してしまった。

家に帰ってカミさんに言うと、そんな場合、女は絶対に黙っていないと言う。周りの人に「味が薄くない?」と100%言うという。それに引き替え、今日の自分は何と自信が無いことか・・・・。
還暦になって、先ず自分の体を疑るようになったのであろうか・・・

でもおかげで夕食で「ウマイ、ウマイ・・・」を連発してしまった。でも、聞くと料理は(一部)レトルトだって・・・・!?

以上、つまらない話だったので、お口直しに歌を一曲・・・・

Img_18751 今日は十三夜だという。カミさんに言うと、外に出て月を見ると言う。何だか、十五夜を見たら十三夜も見ないといけないそうだ。
それで撮った写真がこれ。なかなか上手く撮れない・・・・

月の歌は色々あるが、今日は「白月」という歌を紹介する。三木露風作詞、本居長世作曲で歌はコール・セレステである。(この名歌曲も色々持っているが、この歌声が好きだな・・・。前に紹介した「秋の月」も合うが・・・)

<コール・セレステ「白月」>

「白月(しろつき)」
  作詞:三木露風
  作曲:本居長世

 照る月の 影みちて
 かりがねの さおも見えずよ
 わが思う はても知らずよ
 ただ白し 秋の月夜は
 吹く風の 音さえて
 秋草の 虫がすだくぞ
 何やらん 心も泣くぞ
 泣きあかせ 秋の月夜は

P10007621 ついでに先日の中秋の名月(07/9/25)の写真を。これはカミさんのblogからの借用・・・・
でもそろそろ、自分も月を見る余裕が出てきたのかな・・・。

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2007年10月21日 (日)

映画「フラガール」に参った

先日(07/10/6)、フジテレビ「土曜プレミアム」で放送された、映画「フラガール」を見た。なかなかの映画であった。
そもそも自分は、この映画を見る気は全く無かった。しかし、HDDに録画したおいたものをカミさんが見て、「久しぶりに泣けた(実はいつも泣いているのだが・・・)。しかも『ALWAYS』なんかと違って(失礼)、泣かせようとするイヤらしさがない」と、自分にも見ろと“命令”してきた。それで、今日の昼に見た、というわけ・・・。

常磐ハワイアンセンターという名前は昔から知っていた。でもそれ以上については知らなかったし、知ろうともしていなかった。物語は、その常磐ハワイアンセンターのオープンまでのフラガールの実話である。
物語の背景は、常磐炭坑閉山による失業という切実なもの。まさにリストラ(クチュアリング=企業再構築)である。雇用確保のための新規事業。夕張市の例を見るまでもなく、この手の成功は、非常に難しい。素人が新しい事業に挑戦するのだから難しいのは当然だ。それを見事に成し遂げただけに、この物語のテーマは重たい。

見ながら、この感動はどこから来るのかと考えた。それは「目的に向かって突き進む一体感」であり、「達成感」かなと思った。
この映画での目標は、1966年1月のオープニング舞台。それに向かっての努力と団結・・・。(しかもこの時代、誰もハワイに行ったことが無いはずなのに・・・)

映画を見終わって、ネットで色々と調べてしまった。そしたら案の定、この映画は昨年度の映画の賞を沢山貰っていた。
そして「常磐ハワイアンセンター」を調べたら、現在は名前を「スパリゾートハワイアンズ」に変更していた。HPにあるヒストリーも面白い。(ここにあった「ISO9001認証取得=サービス品質の国際基準認定」というのも面白い)
また、主人公のダンスの先生は、今でもご活躍とか・・・・

でも“ハワイ”という着眼点は良い・・・。前にも書いたが、自分は海外ではハワイが大好きだ。気候が良く、海と空の真っ青な色が好きだ。何も考えないと、直ぐにまたハワイに行きたい・・・と思う。

巷(ちまた)に溢れている「リストラ(本来の意味での事業再構築)」。その先駆者としてリストラ(事業再構築)を成功させたこのプロジェクトには、世のサラリーマンを代表して(これはオーバーだが)敬意を表したい。
そして世の会社では、この“団結力”や、後が無い“背水の陣での真剣さ”を見習わなければ・・と思った。

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2007年10月20日 (土)

我が家の「珠玉(?)の写真」1枚

NHK TVでデジカメで撮った写真のコンテスト募集をやっていた。(たぶん「BSデジフォトまつり」の募集なのだろう)
そう言えば、昔写真コンテストで入賞した事があったっけ・・・と、探してみたら資料が出てきた。せっかくなので、備忘録として、消えることのないデジタル(blog)で記録しておこう。

これは、1985年12月19日付毎日新聞の記事である。(←これは消した)
「’85 毎日写真コンテスト(毎日新聞社、日本報道写真連盟主催)」で、85年から新設されたレディス&ジュニア部門。テーマは「家族」。その時に応募した「反省」という題を付けた写真が入賞したのだ。

Scan103291_2 もう忘れてしまったが、新聞記事によると84年の11月の写真というから、下の息子が5才の時の写真だ。(写真はクリックで拡大)
何か悪さをして叱ったとき、「そこで反省しろ」と言って、反省をしているところである。
カミさんが面白いので写真に撮れと言うので自分が撮った。
毎日新聞で写真コンテストの記事を見た時に、フトこの写真を思い出して応募してみた、というわけ。(この写真は22年前の写真だが、22年間も空気に触れていて色が落ちていない!まさに百年プリント。この品質には脱帽)

入賞の電話連絡の後、ネガを貸してくれとの連絡があり、送った。そして毎日新聞社でカミさんが表彰され、コンパクトカメラを賞品として貰った。
一番ビックリしたのは、何と銀座数寄屋橋のフォトギャラリー(富士フォトサロン)に、大きく引き延ばされた写真が展示されたこと。しかも大阪、福岡等でも展示されたという。
当時、ちょうど日比谷にあった本社で会議があり、その帰りに寄った。その時は、たまたま一緒に帰った2年先輩と見に行ったが、先輩はまさに趣味が写真。「すごいな!」と言ってくれたが、こっちは別に趣味まで行っていなかったので、出会い頭の事故のような入賞で、申し訳なく思ったのを思い出す。

ふと、ネットで「毎日写真コンテスト」を検索してみると、今でもやっている。(失礼)
かなり歴史があるコンテストのようだ。

しかしこの写真を見付けて、今朝カミさんと「こんな時もあったね・・・」と笑ったが、現在の息子どもの「現実」との“乖離”には、ただただ唸~るだけ。
前にTVで「子供はどんな動物も“可愛く”出来ている。それは生きるために、そして親に育てて貰うために、そう出来ている」と言っていた。
人間も動物なので、たぶん同じだろう。息子どもも、子供の可愛いままの状態で大きくなって貰っても困るが、かと言って、子供の頃の可愛さの片鱗も無い(?)というのも寂しい。

先日、田舎のお袋が来ていたが、カミさんがお袋に、自分の小さい頃のことを色々聞いたのだそうだ。そしたらお袋は「この子は(次男なので!)ほとんど何も喋らなかったので、何も覚えていない」と答えたそうだ。
上の写真とは逆に、自分のように「トシを取ってから“可愛くなる”人間(?)」も居るということを動物学者に伝えたいものだ。(もっともこの事実は、自分の他は、誰も認めてくれないが・・・)
昔の写真を持ち出すところなど、まさに自分は還暦だな・・・・

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2007年10月19日 (金)

「地図で読む世界情勢」を読んだ(1)

地図で読む世界情勢~第1部 なぜ現在の世界はこうなったか」という本を読んだ。
本屋の店頭に積んであった本を、フト手にして買ったのだが、これほど精読した本も珍しい・・・・・。
「フランスでベストセラーを記録した世界の見方が変わる地図」と謳う。
この本は、フランスの衛星放送テレビ「アルテ」(日本で言うNHK教育の衛星版)で、1990年から毎週水曜日に10間放送された番組「のうち、15年間700回分から50テーマを選んで本にしたものだという。初版本は2005年9月、普及版は2006年4月発売で計25万部のベストセラーだという。

この本は、非常に醒めた目線で世界の紛争・情勢を、地図を示して淡々と語る。客観的に見ているのは良いのだが、あまりに簡単過ぎて(または、理解するにはページが足りないのかも知れない)、良くは分からない。が、雰囲気だけは分かる。
中に、新聞やTVで良く聞く国々や、聞いたことのある言葉・人名が次々に登場する。そして、言葉だけでは頭を素通りしてしまう事柄を、地図を使ってしっかりと繋ぎ止める。
特に印象に残ったのがパキスタンの部分。

<地図で読む世界情勢~パキスタン(P132)から>
「パキスタンは、1947年の建国当初から、隣国インドと3度の戦争を経験し、いずれも負けている。・・・1971年の第3次印パ戦争では東パキスタンが分離し、インドの支援を受けて新しい国家バングラデシュが誕生した。・・・
1979年のソ連によるアフガン侵攻の際に、パキスタンは200~300万人のアフガン難民を西の国境沿いに受け入れた。・・・・冷戦時代のパキスタンは、アメリカの古くからの同盟国であり、アフガンの反体制勢力に後方基地を提供していた。
1989年にソ連軍が撤退し、過激派同士の戦争が終わると、パキスタン政府はアフガニスタンに「友好政権」を設立するのに腐心する。それが・・・急進派イスラム主義者で形成された、タリバン~「聖典の学生」という意味~と呼ばれる政権である。パキスタン側の計算としては、アフガニスタンと同盟を結ぶことによって、敵対するインドと戦争になった場合に戦略的な奥行きを持つことだった。
こうしてパキスタンは、アフガン抵抗勢力でも最大の急進派を支援してしまった。1980年代にはビンラディンが軍事的な知識を身に付けるのを許し~皮肉にもCIAの援助で~、タリバン政権を「形成した」ことになる。そして、パキスタンは現在もカシミール地方のテロリスト支援を続けているのである。また1998年には第1回目の核実験を実施して、核保有核国の仲間入りを果たし、この技術を北朝鮮やイランに輸出したと言われている。
ところが、2001年9月11日に同時多発テロが起きると、パキスタンはわずか48時間でアメリカと同盟を組み、アフガニスタンやカシミールでアルカーイダを追跡した。パキスタンの軍事政権がアメリカ支援を選択したのである。じつに矛盾した選択だが、矛盾しているのは、アメリカもおなじではないだろうか。アルカーイダが隠れ家にしているタリバンの最後の保護者はパキスタンであり、イラクと違って、この国は大量破壊兵器の実験を行っていたのだから。」

タリバンとかビンラディンとかは良く聞く。しかし「タリバンって何?」と聞かれても、実は知らないのである。その知識の片鱗は教えてくれる。

また日本についての記述も面白い。曰く・・・
「『陽が昇る国』とも言われる日本だが、自然環境を見ると、台風が頻繁に上陸し、地震は多く、列島は分断されていて、むしろ過酷としか言いようがない。そんな国で、人々はどのように生活しているのだろうか?・・・」(P155)

自分の国を、フランス人の醒めた目で見ているのを読むのも、また面白い。
ミーハーの本でも、少しは世界情勢に近づくきっかけになるのであれば、それはそれで良いではないか・・・・

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「地図で読む世界情勢」を読んだ(2)

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2007年10月18日 (木)

ノドの痛みに「のどぬーる」!?

のどぬーる」とは随分とふざけた名前である。でも効くのである・・・・

先日年金の手続きに行って、気持が黄昏(たそがれ)たせいか、風邪に掛かったらしい・・・
昨夜、夜中に喉が痛くて目が覚めた。ヤバイと思っていたら、やはり今朝起きたら喉が痛い。鏡で見るとノドが真っ赤。しまった・・・と思ってカミさんを起こすと、待ってましたとばかりに「のどぬーるスプレー」なる薬を持ってきた。スプレーで直接薬をノドに吹き付けるのだという。
人間当然ノドに刺激を与えるとゲッとなる。吹きかける前にオエッとなって上手く出来ない。
やおら、カミさんに馬乗りにされ、ノドにやられてしまった。それから元気なく出勤・・・。
でもこれが効いたのだ。会社に着く頃には喉の痛みは無し。
隣の同僚に「風邪を引いたらしい・・・」と言うと「自分のが移ったのでは・・」と言う。何だ原因はお前か・・・・。そいつは一日中、咳と喉で大騒ぎをしていた・・・。・・・ったく!
「周りが迷惑だから早く帰れ!」と命令してしまった。

でもこの「のどぬーる」というふざけた名前の薬は効くようだ。メールで「痛みが無くなった」とカミさんに打ったら「でしょう?でしょう?」と自慢そうに返事が来た。
でもまあ、“いざ鎌倉”というこの時のために、わざわざ自分の為に新品を買って置いてくれた家族とは、有り難いものだ・・・。
と帰ってから感謝したら、どうも真意は『口の中に入れるものなので、自分のは貸したくない・・・』が本音らしい・・・。何とも、感謝の気持ちが複雑に揺れた・・・。

でも早くこの風邪は治さなければ・・・。明日もまた元気にスプレーをしよう。
つくづく「病は気から・・」は本当だと思った。(なぜ黄昏ているのだろう・・・)

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2007年10月17日 (水)

小柳ルミ子の「ゆうぐれの里」

昨夜(07/10/16)、NHK総合で放送された「歌謡コンサート~平尾昌晃大ヒット曲選」を見た。

前にこのblogでも書いたが、実は自分は平尾昌章の曲が大好きなのである。昨夜はその特集。どれも知った曲ばかりだったが、その中でも布施明と昔の小柳ルミ子は好きだった。「・・・だった」と言うのは、昨夜のTVもそうだが、今の小柳ルミ子は好かん・・・。

昔の小柳ルミ子の歌は、可憐で良かった。編曲は殆どが森岡賢一郎だった。
Scan103271 「お祭りの夜」のEPの裏面の曲だが「ゆうぐれの里」という曲がある。今では完全に忘れ去られた曲だが、これは好きな曲だった。山上路夫作詞、平尾昌章作曲、森岡賢一郎編曲で1971年9月の発売。デビュー曲「私の城下町」に続く第2弾である。少し聞いてみよう。

<小柳ルミ子「ゆうぐれの里」>

「ゆうぐれの里」
 作詞:山上路夫
 作曲:平尾昌晃
 編曲:森岡賢一郎

1)つるべ井戸からくみ上げた
 冷たい水はもう秋の色
 わたしの髪に赤とんぼ
 羽根をやすめる
 ゆうぐれの里
 お嫁にゆく日は近いのに
 遠いまちで なれないまちで
 暮らせるかしら

2)白い障子をはりかえて
 残った花火はもうしまいましょう
 石けりをした野の小道
 みんな想い出
 ゆうぐれの里
 お嫁にゆく日は近いのに
 遠いまちで なれないまちで
 暮らせるかしら

この頃の曲は、伴奏にチェンバロ?を使った曲が多かった(まさか大正琴ではないよね)。最近ではこのような哀愁を帯びた曲はもう無い・・・・
昨夜の小柳ルミ子も、あれから36年か・・・。声も充分に出ていなかった。布施明の現役パリパリはいつもの事として、梓みちよもチャンと声が出ていたのにはビックリ。
歌手も、歌う場が連続していないと、ツライらしい・・・

カンバックといえば、森昌子にはぜひ頑張って欲しいな・・・。同じ昨日の午後、NHKhi「BSふれあいステージ演歌いっぽん勝負-森昌子-」という番組で森昌子をやっていた。
カラオケをバックに昔の持ち歌を歌っていたが、20年のブランクはさすがに大きく、聞いていて可哀想になる・・・・。もう1年位経てば、昔の声が出るようになるだろうか?それとも、もう無理か??
小柳ルミ子と違って、昔の姿(可憐さ)をまだ保っている人だけに、ぜひ復活して欲しい(声が・・・)歌手である。

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編曲者「森岡賢一郎」

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2007年10月16日 (火)

年金の手続きに行った・・・

今日は、何故か黄昏(たそがれ)ています・・・・。何か、いやんなっちゃう一日でした・・・。

朝、企業年金の申込書をポストにポトッ・・・。それが始まり・・・。
とうとう還暦になっちゃったので仕方がないが、勤労から「定年退職届」をそろそろ書けと言ってきた。社内HPに「定年退職手続き」というページがあり、そこを開くと定年の場合は2ヶ月前に届けを出せ、とある。おっとっと。もう2週間前だ・・・・。
自分が属する大手電気メーカのT Grの場合は、60才の誕生日の月末をもって定年退職がルール。よって自分の場合は今月末日だ。

自分の場合は、T会社を54才で定年扱い退職し、今の子会社に移って5年半になる。そして今、2回目の定年を迎える。11月から、今度はそのまた子会社(T会社の孫会社)に戸籍だけ移って、業務と立場(役職)は今までと同じで「延長戦」に入る事になっている。
でも「定年退職届」には気が滅入る・・・。そして退職日(今月末)のセレモニーだけは何とか辞退しようとしたが、後に続く人(定年)がゾロゾロ居るので、その人達への影響を考えてルール通りにやると言う。よって、10月31日には、昼の会食会の後に記念品と花束を貰って自宅までタクシーで帰る事になる・・・・・・。2度目だ・・・。(でも次の日(11/1)には、朝9時からまた凄まじい会議の予定が入っている・・・)
どうも気が進まないが、仕方がない・・・。

また、後に続く連中からは「悪しき前例は作るなよ。自分達は車で帰って、それでオシマイなんだから」と“辞退”に対してクギを刺されている事もある。
よって、“なるべく目立たずに戸籍だけスッと・・・”という自分の希望も、「けじめですから」と「ルールですから」そして「悪しき前例はダメ」という3つの理由から却下されそう・・・・。

そして会社の帰りに、港社会保険事務所に年金の申し込みに行った。業務終了直前だったためか、ガラガラ。申し込みは直ぐに終わったが、「年金の申し込みは一生に一度だけでOK」ナンテいう言葉を聞くと、とうとう自分もそのトシか・・・と、何か心が寂しい・・・

まあ還暦になっちゃったので仕方がないが、何故か“黄昏た一日”であった。
トホホ・・・

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2007年10月14日 (日)

山中湖ミニ旅行

カミさんと息子の3人で、昨日から今日にかけて(07-10-13~14)富士五湖の山中湖に、ミニ旅行に行ってきました。天気は曇。まあ雨が降らなかったので良しとしようか・・・

ワイナリーに行きたいというので、中央高速から勝沼まで行き、先ずは小高い丘の上にある「ぶどうの丘」に行く。少し青空が見えていた。3Fのレストランで昼食。2Fの展望台からはコスモスの向こうに下界が広がる・・・。
地下のワイン試飲では、息子が1000円を払ってワインをガブガブ・・・。
近くのブドウ畑には、シーズンらしくブドウが実って・・・・。
それから、「道の駅 甲斐大和」に寄ったら、「雛のつるし飾り」が飾ってあって、カミさんが大喜び・・・・。(前に自分が作ったことがあるので~「ST-20」)

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宿泊は「ラフォーレ山中湖」。部屋は洋室。4つの大きなベッド。そこに3人だったので狭さは無かったのものの、リゾートはやはり和室でしょう・・・・?(予約係の?カミさんに言うと、和室が取れなかったという)

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意外だったのが、食事をした「まりも」というレストラン。それがかなり本格的だったのである。会席料理もまあまあ。
食後は息子に付き合って地下のカラオケルームに。予約が何時でもOK、と言うのでビックリしたが、30分千円ということで皆さん敬遠したらしい。数年ぶり?で歌ったが、声が出ないこと・・・・

今日はバイキングの朝食の後、天気が曇っているので、忍野八海に寄ってから早々に帰ろうという事になり、忍野八海へ。
それが、今日のような“どうって事無い日”なのに、人人人・・・・。三重県からのバスツアーまで来ている。この人波にはビックリ。

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忍野八海の近くで、突然道路の両側にファナックの黄色い建物群・・・。その規模の大きさに圧倒された。原野の中に黄色・・・・・。この敷地の中に数千人が住み込みで働く・・・。(自分など、到底持たないな・・・)

道の途中に「道の駅 富士吉田」があったので立ち寄った。ここはでかい。道の駅にも、こんなに大規模な所もあるのだ・・・。
そして意外と面白かったのが、直ぐ側に建つ「富士山レーダードーム館」。(でも入場料600円は高いゾ) 映画と館内見学。映画は、2000年にNHKのプロジェクトXの番組で放映されなかった、その他の知られざる人々の話。ドームの枠をヘリコプターで山頂に運ぶパイロットの苦労。そして当時の気象庁測器課長が藤原寛人氏。この藤原氏があのペンネーム新田次郎氏だったとは、この映画で初めて知った。それで「八甲田山死の彷徨」のような気象に関係する小説が多いのか・・・・。館内にも、新田次郎氏の経歴や原稿類の展示が多くあった。

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そしてこの館内には、富士山頂から移築したレーダーアンテナや、通信機器がそのまま展示してあった。銘板を見ると、昭和53年11月の三菱電機製である。三菱電機は、レーダー関係では昔からトップメーカだった。(今でも防衛産業では電機トップ)

その通信機のラックを見て懐かしくなった。早速カミさんを呼んできて「見ろ。これと同じような装置を自分も昔作っていたんだ・・・」ナンテ言ったりして・・・・

久しぶりのミニ旅行だったが、タマには良いのものだ・・・。ただし、もう少し料金が安ければ・・・(しかし、何でこんなに料金が高いのだろう・・・・? 旅館も高速料金も入場料も・・・・)

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2007年10月11日 (木)

車内のコンサート

たまたま今週は、田舎のお袋が来ている。
夕食後、自分が「中央線が新車に変わったので、いつも慣れている“頬杖をして寝る姿勢”が取れずに、帰りの電車での居眠りが大変になった・・・」というどうでもよい話をしていたら、そう言えば・・・といって、お袋が一昨日見たテレビの話をし出した。

「いつも見ている実話を話す番組で、こんな話をしていて、面白くて笑い転げた・・・・
電車に、結婚式帰りの老夫婦が乗り込んできた。そしたら「実は姪の結婚式で歌う予定で、2曲練習してきたのに、前の挨拶が長くて自分の歌がカットされて歌えなかった。だからここで歌いたいが・・・」と言って『瀬戸の花嫁』を歌い出した。当然乗客は、うさんくさい顔で迷惑そうに見る。そして歌い終わったら「ありがとうございました。これでやっとスッキリしました。実は今の駅で下りるつもりだったが、歌の途中だったので乗り越した。次の駅まで、まだ時間があるのでもう一曲歌わせてください」と言ってまた歌い出した。そしてその歌が終わるとまた「ありがとうございました」と大きな声でお礼を言って降りていった。
それまでシラけていた乗客からはヤンヤヤンヤの喝采と拍手。それから車内が非常に和やかになって、知らない人同士がお喋りをしだした・・・。という。
その話が面白くて・・・・」
という。

NHKの番組だというので調べてみたら、「夜は胸きゅん」という番組で「車内のコンサート」という内容で10/9の夜に放送されていた。その話の内容もHPに載っていた

実にたわいのない話だが、その歌った人の「消化不良」の心が良く分かる。一生懸命に練習していったのに、時間が無いのでといってカットされたら、それはもうやりきれない・・・。
それを知らない人の面前で・・・というのも常識外れだが、日本にはそれを受け入れる良き風土もまだあるようでホットする。もし誰かが「ウルセー!」と怒鳴ったら、一挙にシラけて終わる話だった・・・・

先日、自分も同じような体験をしたので良く分かる。(消化不良の逆だったから良かったが・・・)

ともあれ、前にもこのblogで書いた中央線の新型車両だが、居眠りをする時に、頬杖をする場所が無いので困る・・・。
東京駅で、旧型車両が入ってくるとホットする今日この頃ではある。
(どうでも良い話でスミマセン・・・)

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2007年10月10日 (水)

ブラザーズ・フォーの「グリーンフィールズ」と「グリーンスリーブス」

昨日に続き、フォークソングの話だ。
昔のフォークソングで良く歌ったのは、1960年代にヒットしたブラザーズ・フォー(The Brothers Four)である。
「グリーンフィールズ」「遙かなるアラモ」「七つの水仙」「イエロー・バード」「グリーンスリーヴス」「北京の55日」「500マイル」・・・・と、名曲がたくさんある。
そのハーモニーの素晴らしさ。声が皆同じ質で、実に良くハモる。まあ、男声四部合唱だが・・・
実は、“日本人”の自分が唯一英語で歌えた歌が、このブラザーズ・フォーの歌であった。なかでも「グリーンフィールズ(Green Fields)」と「グリーンスリーブス(Greensleeves)」は、しみじみとしていて好きな曲だ。少し聞いてみよう。

<ブラザーズ・フォーの「グリーンフィールズ」>

同じような曲だが、「グリーンスリーブス」という曲もしんみりしていて良い歌だ。これはイングランド民謡である。

<ブラザーズ・フォーの「グリーンスリーブス」>

Greensleeves

Alas, my love, you do me wrong,
To cast me off discourteously.
For I have loved you for so long,
Delighting in your company.

Greensleeves was all my joy
Greensleeves was my delight,
Greensleeves was my heart of gold,
And who but my lady greensleeves

今日通勤の帰り、駅でバスを待ちながらMP3で聞いていたら、昔覚えた英語の歌詞が口に出て来るではないか! よって、まだそれほどボケていないことが分かった!?

ところで、「ブラザーズ・フォー」がウィキペディアにない。それほどまでに“既に忘れ去られた存在”なのだろうか?
団塊の世代では、誰もが知っている懐かしい曲の数々なのに・・・・

まあ“昔に生まれて良かった”と思うこの頃ではある。

(2008/12/22追記)
昨日(2008/12/21)、NHK BS2で放送された「ブラザーズ・フォア 2008 東京」を見た。1958年結成のブラザーズ・フォアの50周年のライブである。さすがに結成当時のオリジナルメンバーは、ベースのボブ・フリックだけ。もう70歳なので仕方が無い。現在のブラザーズ・フォアの歌を聞いてみよう。

<ブラザーズ・フォア「グリーンフィールズ」>
  ~「ブラザーズ・フォア 2008 東京」より

<ブラザーズ・フォア「グリーンスリーブス」>
  ~「ブラザーズ・フォア 2008 東京」より

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2007年10月 9日 (火)

森山良子の「ふたつの手の想い出」

唐突な話だが、もし「お墓(あの世)に持って行く歌は?」と問われたら、自分は躊躇無くこの歌を選ぶ。森山良子の「ふたつの手の想い出」だ。
理由は書かない。でもこの歌は、自分が最も大切にしている曲である。よってblogにも書かずに大事にしまっておくつもりだった。でも何となく、帰りのバスの中で、“今日”を大切にしたくなったので・・・・

<森山良子「ふたつの手の想い出」>

「ふたつの手の想い出」
 作詞:万里村ゆき子
 作曲:鈴木邦彦

1)ふたつの手を握りあい
 肩よせて歩いた
 すみれいろの夕暮れも
 いつか消えていった
 星をかぞえて祈っていた
 幸せなふたりはどこへいったの
 ふたつの手のぬくもりが
 私をはなれない

2)ふたつの手はほどかれて
 風に散っていった
 並んで歩いた道を
 ひとりで歩いてく
 このさびしさがやがていつか
 私を大人にかえるということを
 ふたつの手の想い出が
 わたしに教えてる
 わたしに教えてる

この歌を聞くと、学生時代を思い出す。
大学4年の時(1969年)だったか、バイトで家庭教師をやっていて、50ccのスーパーカブのバイクで通った。約束の時間ジャストに行くことにしていたため、少し前に着くとバイトの家の近くの公園で時間を潰した。この歌を聞いていると、夜のその公園の光景が目に浮かぶ・・・。

森山良子のサイトを見ると、「ふたつの手の想い出」は1967年7月15日発売とある。この頃はカレッジフォーク全盛の時代で、森山良子も良く聞いた。だから「禁じられた恋」のエコーの掛かった歌が出たときには、何か違う・・・とガッカリしたものだ。

ともあれ、誰でも大事にしたい曲というものはあるものだ。
でもそれを、「なぜ?」と聞かないのがエチケットだ。

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2007年10月 8日 (月)

東京オリンピックの思い出

P10100661 今日(07/10/8)は「体育の日」である。言うまでもなく、1964年10月10日の第18回東京オリンピック開会式を記念して設けられたもので、1966年からスタート。長く“10月10日は体育の日”として定着していたが、2000年から「ハッピーマンデー制度」の適用により、10月の第2月曜日となっている。

Scan103261 1964年といえば、43年も前のことで、もう殆どの世代で「東京オリンピック」という言葉は死語となっているのだろう。

当時、自分は高校2年生。世の学校では、殆どの学校でオリンピックの何らかの競技を見学(応援)に行った。しかし我が高校は、受験勉強で忙しい(?)からか見学には行かず、体育の時間になると、広い体育館にポツンとテレビが置いてあり、その見学となった。でも実際に見に行く人は少なく、皆自習をしていたっけ・・・・

つい思い出して、昔のレコードをあさっていたら二つのレコードが出てきた。一つは、「ファンファーレとオリンピックマーチ」、もう一つは、カルピス提供の「カルピス オリンピックハイライトソノシート」である。

Scan103251 古関裕而のオリンピックマーチは、自分でも大好きな曲であり、聞くと気持がワクワクしてくる。このレコードはまさに、開会式当日の演奏そのものである。少し聞いてみよう。

「東京オリンピック大会記念発売」
<オリンピック東京大会・ファンファーレ>

今井光也・作曲 斉藤徳三郎・指揮 陸上自衛隊中央音楽隊
<オリンピック・マーチ>
古関裕而・作曲 松本秀喜・指揮 陸海空自衛隊音楽隊

(追:2009/4/4)
<古関裕而「東京オリンピックマーチ」を語る>
  ~NHK人生読本「旅と歌~古関裕而」(昭和54年4月4日放送)から

次に、開会式の模様を聞いてみよう。時は「1964(昭和39)年10月10日 午後1時50分」である。

<カルピス提供「カルピス オリンピックハイライトソノシート」から「開会式」>
・各国旗一斉掲揚(オリンピック序曲演奏)・天皇、皇后両陛下ご臨場(電子音楽演奏)・君が代演奏・選手団入場行進・安川OOC会長挨拶(録音によるクーベルタン男爵の言葉)・ブランデージIOC会長挨拶・天皇陛下開会宣言(ファンファーレ演奏)・五輪旗掲揚(オリンピック賛歌)・聖火入場と点火・選手宣誓(小野喬)・君が代斉唱

このオリンピックで、日本国中を一番湧かせたのは「東洋の魔女」、大松監督が率いる女子バレーボールチーム(ニチボー貝塚が主体)の金メダルだった。決勝戦、ソ連を相手に闘い、最後のは相手のオーバーネットで勝った。これはその時の実況である。

<同じく、東京オリンピック 女子バレーボール決勝戦 日本対ソ連>

来年は北京オリンピック。世界中の注目が集まる。失敗が許されない“瞬間”なだけに、裏方さんは大変だろう。

人生でも「いざ鎌倉」という“瞬間”は幾つもある。自分も還暦を迎えた今、ワクワクする(?)“その瞬間”はこれから幾つあるのであろうか・・・・・?
まあ、それが沢山あるほど人生は充実しているわけなので(?)、もしその瞬間が来たときには、逃げないで対峙して行こう。

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神代植物公園に行った

昨日(07/10/7)は天気が良かったので、神代植物公園に行ってみた。口コミで、高速を飛ばすと近いと聞き、何の個性もなく・・・・。でも本当に高速を飛ばすと30分も掛からなかった。近いな~
天気は暑いくらい。「秋のバラフェスタ」開催中とかで、バラやダリアが満開。

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ちょうど10月7日は、「バラ園コンサート」でミニマムズ(minimums)という、女性3人のグループのマリンバとパーカッションによる演奏があった。紹介によると、ともに国立音楽大学の卒業で、97年にグループを結成したとか。「赤とんぼ」や「アメイジング・グレイス」を演奏していた。

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大温室の中も見所満点。ランや珍しいスイレンなど・・・・。下の写真は「ブルーギガンティア」というスイレンで、世界的にもマニアの間では人気があるとか・・・。

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少々暑かったものの、秋の散歩には良い場所であった。
もちろん、帰りには「深大寺ソバ」を食った。カミさんはウマイと言うが、あまり“増田屋”と変わらないような・・・・・(失礼)

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2007年10月 7日 (日)

また土浦花火大会に行った

昨日(07/10/6)、昨年に引き続き、また土浦全国花火競技大会に行ってきた。
昨年のこの大会に行って“花火に目覚め”(本blogにも書いた)、今年は息子にも見せてやる、という口実で抽選に応募したら半枡席が当たったので行った。カミさんと長男の3人で・・・

今年は始めからシャトルバスで・・・。5時前に駅に着いたが、長蛇の列。しかし動きは早い。ほぼ30分後には会場に着いた。
昨年に比べると観客が多い。昨年は台風の影響で1週間日程が延びた影響で少なかったらしい。6時に最初の「評価用の花火(75点?)」が上がる。観客からドッというどよめき・・・。
そしてスタート。昨年に続き、目の前で展開されるショーは素晴らしい・・・。幾つか写真をあげる。

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しかし写真が意外と難しい。昨年は殆どがブレたので、今年は3脚を持っていった。それは良いのだが、ナマの素晴らしさは到底写真では表現できない・・・。息子は携帯電話で動画を撮っていた。

圧巻は「土浦花火づくし??(名前は聞き漏らしたが、競技とは別の題目らしい)」。打ち上げ場は、スターマインと10号玉の二つに分かれているが、この時ばかりは両方の打ち上げ場から、同時に花火が上がる。まさに“花火のステレオ”。両方の目の左から右まで花火花火・・・。後ろの若い女性が「すごーい」と大声。カミさんもあまりの事に、涙ぐんだとか・・・・。もちろん自分も、写真を撮る事など忘れてボーっと見とれた・・・

もう一つ印象に残ったのが、8時過ぎだったか、パッと開いた花火の輝線が天空で「止まる」花火があった。これにはビックリ。全ての花火は動いている。動きながら消えていく、それなのに、この花火は、消えないで一瞬止まる。それから全体がスッと消える・・・。周りでも「何だこれは・・・」と大騒ぎ・・・・
(07/10/15追記)
カミさんが、これは80番だと覚えていたが、プログラムで確認したら、80番「花」という(株)マルゴーという会社の作品で、審査結果を見たら、やっぱりこの作品が「内閣総理大臣賞」を取っていた。我々の花火を見る目も“プロ並み”になって来たと言うことか・・・??

かくして2年目の花火見物は終わったが、それにしても日本人のマナーの良さには何時も感心する。駅前の会場行きのバスの列でも、U字に列が動くが、境界もないのにズルをして向こう側に紛れ込む人が居ない。帰りのバスの列でもゾロゾロと・・・。
これは毎朝、東京駅に通勤電車が着いたときも思うが、たまに割り込みをする人が居ても、全体が平静に粛々とエスカレータに乗り込む。日本人のモラルは最高だな・・・といつも思う。
・・・・が、やはり居た。帰りのバスへの列。そろそろバス・・と思っていた目の前で、U字の列のこれから遠くへ行って戻ってくる向こう側の列に居た若い女性が、カップルの男性を引っ張って、花火を見る風をして方向を変える・・。男性が「何だ?」と声を出したのに、強引に男性の方向を替えさせて、前方の列に紛れ込んだ・・・。この後も、バスに近付くに連れて、慣れているらしい人達がいつの間にか紛れ込んで・・・・
まあ、日本人もこんなもんかな・・・・

それにしても、このビッグショー!
次に来るときは、“(まったくあてのない)息子の嫁さんを連れてきたいね・・・(息子はどうでも良いけど)”が、本日のカミさんとの結論でした。おつかれさま・・・。

(関連記事)
土浦花火大会に感動した

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2007年10月 5日 (金)

デイブ・ブルーベックの「テイク・ファイブ」

自分の聞くジャンルの中にに「ジャズ」は無い。実際にはほとんど聞いてはいないのだが、このジャンルは“分からない”・・・・・・
Scan103241 でもジャスで“一曲だけ”聞く曲がある。自分が唯一持っているジャズのレコードでもある。
それは「ザ・デイブ・ブルーベック・クワルッテット」の「テイク・ファイブ」である。少し聞いてみよう。

<ザ・デイブ・ブルーベック・クワルッテットの「テイク・ファイブ」>

この45回転EP盤の解説によると、デイブ・ブルーベックがこのテイク・ファイブを初めて録音したのは1959年7月1日だという。このEP盤は1974年12月に買ったので、だいぶん後だ。
なぜこの曲だけ聞くのか? 5/4拍子という変拍子が面白い。他に5拍子の曲は知らない。
聞くと所によると、ジャズもロックと同じく、楽譜が無いらしい。その時々で長さも内容も変わるらしい・・・

そう言えば、自分が、これも“唯一聞くロック”のピンク・フロイドも、レコード録音とコンサート録音の演奏は、同じ曲だが内容は違う。
とにかく、なぜか自分は、ジャズはこの1曲だけ・・・、ロックは1バンド(=ピンク・フロイド)だけ・・・しか聞かない。

どうも自分は“惚れるとぞっこん惚れる”。しかし殆ど同じでも、それ以外は受け付けない・・・・。
同じ視点でカミさんと、犬のメイ子を見ると(考えると)恐ろしい・・・・
もう少し、ゼネラルでなければいけないな・・・・。

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2007年10月 2日 (火)

ジョージ・ウィンストンのピアノ

ジョージ・ウィンストン(George Winston)というピアニストをご存じだろうか?アコースティック・ピアノで、まるで絵画のようにピアノを操る・・・

音楽のジャンルも色々あるが、この人のジャンルは何なのだろう・・・?
1987年、駅前の小さなレコード屋でこの曲が流れていた。いつもはヘエーで終わるのだが、この時は心が疼いて?店の人に聞いた。「今流れている曲は?」 それが、ジョージ・ウィンストンの「ディセンバー(December)」というアルバムだった・・・。
早速買って、「オータム(Autumn)」「サマー(Summer)」も続けて買った。ピアノが風景を描いている。まさに自然派、印象派のピアニストである。代表曲を少し聞いてみよう。

<ジョージ・ウィンストン「ディセンバー」から「Thanksgiving」>

1960年代の終わり頃(学生時代)、FMチューナを自作して、下宿のおばさんに嫌がられながらも庭に大きなFMのアンテナを立てて、FM放送を夢中になって聞いたっけ。
その当時「FMファン」という雑誌があって、それで流れている曲名が分かった。主にクラシックしか聞かなかったが、でもその頃は流れてくる色々なジャンルの曲を聞いたものだ。
しかし、だんだんと聞くジャンルが決まってきて、他のジャンルの曲を聞かなくなった。だから店先で・・・というのは、他のジャンルを知る非常に稀な機会だったわけ・・・。

ジョージ・ウィンストンは日本でも有名らしく、何時だったか日本公演の広告を見たことがあった。ヒゲを生やした背の高い人・・・。 でも何故か公演には行かなかった。
そういえば、近くのレストランでナマのピアノをやっていたが、ビートルズの曲などと一緒にジョージ・ウィンストンの曲をやっているのを聞いたこともあった。かなり有名らしい・・・
でも心を癒すこの様な音楽も良いではないか・・・・。
(今日は、なんとなく、意味もなく書いている・・・・。バレた??)

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2007年10月 1日 (月)

田中角栄の凄さ~NHK「その時歴史が動いた~日中国交正常化」

NHKの「その時歴史が動いた」300回記念~「日中国交正常化」(07/9/26放送)を見て、深い感動を覚えた。それは田中角栄という大政治家の、まさに“トップはこうあらねばならぬ”という行動に対してだ。
この番組については、NHKのHPに詳しいが、まさに「その時歴史が動いた」の300回目に相応しい力作であった。(少々長いが、この番組を振り返る)

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昭和47年9月25日、当時の総理大臣 田中角栄が日中国交正常化のために北京を訪れた。田中は日中の貿易に注目して、大平外相とともに日中正常化に執念を燃やしていた。しかし交渉の現場は、日本の戦争責任の謝罪、中国が認めない台湾との関係の扱いで暗礁に乗り上げていた。それを田中角栄は、まさに人物の大きさで乗り越えていく。
最大の争点は「日中戦争はいつ終わったのか」という問題。台湾と日華平和条約を結んだ昭和27年に日中戦争は終わったと主張する日本。しかし中国は台湾を認めず、今回の共同声明の公表の日に終了すると主張。そして突然の毛沢東とのトップ会談で、田中の誠意が通じ、日中両国のお互いの顔が立つ表現で合意。そして、昭和47年9月29日、日中共同声明に調印。

国交を結ぶ条件は、日本側は「日米安保の承認」「戦争賠償の放棄」、中国側は「日華平和条約を破棄し中華人民共和国を唯一の中国政府と認める」。
田中内閣成立の1週間後(72/8/4)、公明党の竹入委員長が前の週に訪中した時の周恩来の伝言(7/27)を伝えに来た。そこには「日米安保条約にはふれません」「賠償の請求権を放棄する」と記されていた。そして田中は訪中を決断。9月25日から29日までの長い4日間が始まる。 
(自分の記憶によると、この時NECが突貫で衛星中継器を作って、中国から衛星生中継をやったのでは・・・?)

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田中「今回の訪中をぜひとも成功させ、国交正常化を実現したい」

周恩来「日中両国には様々な違いはあるが、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である」

晩餐会での田中の挨拶「過去数十年にわたって日中関係は遺憾ながら不幸な経過をたどって参りました。この間わが国が中国国民に多大な“ご迷惑”をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものであります」

交渉での高島条約局長「日中戦争の講和や賠償の問題は日華平和条約で終わっている。今回は日中の外交関係樹立によって生じる将来の問題について話し合いたい」

周恩来「ご迷惑とは、中国では道ばたでうっかり女性のスカートに水をかけたときにわびる言葉でしかありません。それをあなたは、日中間の不幸な過去の説明に使ったのです」

田中「日本語で『迷惑をかけた』とは、万感の思いをこめてわびをする時にも使うのです。この言い方が中国語として適当かどうかは自信がない」
(ナレータ:誠心誠意のお詫び、その気持に偽りがないことを田中は繰り返し訴えました)

周恩来「日本と台湾が条約を結んだ昭和27年には、台湾の国民政府は大陸から逃げ出していた。彼らが全中国を代表して戦争を終わらせたなど、とんでもない話だ」

中国から出された声明案は、『中華人民共和国と日本の間の戦争状態はこの声明が公表される日に終了する』

(田中が「大学出たやつはこういう修羅場になるとだめだな」と言った。そして「どういう風に話し合いを持って行くのかは、ちゃんと大学を出たヤツが考えろ」の指示で、その夜ホテルで徹夜で考えた案)
大平正芳「日中両国のこれまでの関係は『不自然な状態』と表現できないだろうか」と中国外相に伝えた。そしてその夜、突然毛沢東の家に案内される。

毛沢東「けんかはもうすみましたか けんかは避けられないものですよ」
毛沢東「あなたがたは、あの『ご迷惑』問題をどのように解決しましたか」

田中「我々は中国の習慣に従って改めるよう、準備しています」

毛沢東「しかし迷惑をかけたという言葉の使い方は日本の首相の方がうまいようですね」

(この毛沢東の一言は日本の立場を受け入れるという中国側からのサインでした)
(安堵してホテルに戻った田中は鼻血・・・。医師に田中は「記者団に言うな。言うと毛さんに会って、田中は帰って鼻血ブー・・となるんだから」)
(田中は極度のストレスに耐えながら、中国側に対しても日本の外交スタッフに対しても、表面上は明るくふるまい続けていました)

この後開かれた協議で、中国側から戦争状態の表現について大きな譲歩が示された。
中国案『本声明が公表される日に、中国を日本との間の極めて不正常な状態は終了する』

日本側「日華平和条約で戦争が終わった」と解釈
中国側「今回の交渉で戦争が終わった」と解釈

そして日本と台湾との今後の関係が話し合われ、日本の次の提示で合意。
1. 日本と台湾との外交関係は解消
2. 日本政府は「二つの中国」の立場はとらない
3. 台湾との民間交流は継続される

そして昭和47(1972)年9月29日 日中共同声明が調印される。

TVでこの時の様子を見ても、田中と周恩来の何度も繰り返す固い握手は、両国の万感を込めた本当の握手に見えた。

周恩来「これで日中間の新しい1ページが始まりましたね」

田中「今日はもうこれで会議がないから、大いに飲もう!」
(この田中の一言で、日中双方は大きな笑い声に包まれました)
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田中が脳梗塞で倒れてから7年後の1992年4月7日、田中の家を江沢民が訪ね訪中を誘う。そして4ヶ月後に田中は訪中。
中国は国賓待遇でもてなし「田中先生は国交正常化に最も貢献した方。中国は永遠に忘れない」

田中「中国再訪が実現し万感胸にせまるものがある。私はこの20年間片時も目を離さず、日中関係を見つめてきた。首相当時下した決断が間違っていなかったことを確信したい一心で訪れたのである」

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この番組を見て、まさに大物政治家の“偉大さ”を感じた。アメリカと戦った吉田茂も同様である。(前に「吉田茂とサンフランシスコ講和条約」を書いた)

会社でも何でも、トップは「いざ」という時が何度もある。ものすごいストレスだが、その場をどう乗り越えるか・・・。それまでの全人格が試される・・・。(自分も、思い返すと色々な場面を思い出す。皆、客先とのぶつかり合いだった・・・・)

しかし、昔の「国」を背負った政治家に比べ、今の2世政治家の粒の小さい事・・・・。
そして毎日繰り返される「身体検査」と称する不毛な話題・・・・。
田中角栄のような、何があっても(逮捕されても)、何十年経っても相手国(中国)から感謝され、慕われる大物政治家は、もう日本では出現しないのであろうか?

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