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2006年12月の12件の記事

2006年12月29日 (金)

「般若心経」勝手帖-08 無眼耳鼻舌身意

ぜーこーくーちゅーむーしきむーじゅーそーぎょーしき
是故空中受想行識

むーげんにー びーぜっ しん にー
眼耳鼻舌身意

むーしき  しょーこーみーそく  ほー
色声香味触法

むーげんかい ないしー むー いーしきかい
眼界乃至意識界

「是故空中」とは「だから空(くう)の中には(・・・が無い)」という意。
では何が「無」」だと言っているのか・・・? ここから、21個の「無」が始まる。
まず「色受想行識」が無だと言っている。次に「眼耳鼻舌身意」、次に「色声香味触法」、そして「眼界~意識界」が無だと言っている。

「色受想行識」は五蘊(この世を作る5つの要素)であり、意味は前に書いた。前は、「五蘊皆空」のように、五蘊は全て“空”だと言っていたが、今度は「五蘊(色受想行識)」は“無”だと言っている。
「眼耳鼻舌身意」と「色声香味触法」は対を成している。「眼耳鼻舌身意」はまさに病院の眼科、耳鼻科、口腔外科?(舌)、皮膚科/内科/外科(身)、精神科(意)であり、そこで医師が直すのが、色/形などの物質()がで見える事、耳でが聞こえること、りが嗅げる事、わえること、って分かること、そして最後が分かりづらいが、識による存在(法)(=心によって把握される存在)・・という訳である。
「眼耳鼻舌身意」は六根(ろっこん)と言い、「色声香味触法」は六境(ろっきょう)という。
そしてこの12の知覚を生じる場を「十二処(じゅうにしょ)」(=12の知覚を生じる場)という。

次に、「眼界~(乃至=ないし)意識界」とは十八界(=18の知覚認識の要素)の事であり、中間が省略されている。正確には、眼界から意界までの六根、色界から法界までの六境、そして眼識界から意識界までの六識(ろくしき)で、6×3界で十八界である。これが全て「無」だと言っている。

では「無」とは何だ? 「無」とは、決してそれ自体で固定的にあるのではなく(分子の固まり具合の違い・・)、縁起(えんぎ=いわゆる“縁”)として相い関連しあって仮に存在しているのである。という事。つまり、空(くう)だな。

つまり「般若心経」というお経は、「苦しみや心の迷いが生じたときは、偏見を捨てて、視点を転換して別の方向から考えてみなさい。そうすれば、迷いや苦しみが楽しみに変わるかも知れない」と教えている。(「声を出して覚える般若心経」P57)

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2006年12月27日 (水)

中央線の新型車両に乗った

中央線の27年ぶりの新型車両(E233系)に乗った。
今朝(12/27)、昨日からスタートした中央線の新型車両にたまたま乗ったので、その印象を少々・・・。
(12/26の「走行第1号は、豊田駅5時10分発東京行きで、26日に走行する新型車はこの1区間、1本のみ・・・・」との事なので走行第2号に乗った事になる?)
Ts290060 Ts290061 Ts290059

朝、駅でボーっと電車を待っていたら、目の前にピッカピカの電車!
乗ったら先ず新車の匂い・・・
まず座席の幅が広くなったのは有り難い。43cmから46cmに3センチ広がったという。
これで隣の人と肩をぶつけることが無くなった。今までは、隣の人(特に男性)と肩を並べて座ることが出来ず、仕方なく互い違いに肩をずらして座るしかなかったが、これからは楽だ。
全体に山手線と同じだが、今日乗った先頭の1両目は、車両の両端の座席(3席ずつ)が片方だけ・・・
全体がこうだと座る席が少ない? と思ったら、どうも1両目だけに車椅子スペースを設けたみたい。
Ts290058
それと放送が自動化され、いちいち英語で放送されるのには参った。しかし、特に女性車掌さんの言語明瞭(!?)な社内放送に、眠気を覚まされていたのよりは、良いか・・・。自動放送も慣れると気にはならない・・・・

外観はステンレスにオレンジのライン。
さだまさしの「檸檬」に「・・・喰べかけの檸檬聖橋から放る 快速電車の赤い色がそれとすれ違う 川面に波紋の拡がり数えたあと・・・」と歌われているが、その歌はまだ生きるな・・。
気になって調べてみると、中央線の在来E201系車両は1979年導入だという。「檸檬」の発売は、78/8。その前からオレンジ色の基調は同じらしい。

もう一つ気になるのが、座席の+3センチ。
1両に片側27席の座席とすると、27×3センチ=81センチ長くなる。これをどこで吸収するのだろう? Wikipediaによると、E233系の全長は現用(19.5m)より+50センチの20mという。
しかし変だ・・・・。全長で吸収して行ったら、だんだんドア位置がズレてしまう・・・・
まあ、2年後の08/3までに全車両が入れ替わるというので、それまでに調べよう・・・・。

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2006年12月25日 (月)

カラヤン指揮グリーグのペールギュント

やっと、グリーグの「ペールギュント」の録音が出来た。
還暦近くなって(自棄的に・・・)、通勤時間を利用してまたクラシックを聴くようになった。
昔聞いた曲(CD等)を軒並みMP3化して聞いているが、なかなか録音できなかった曲に、グリーグ作曲「ペールギュント」第1、2組曲があった。
CDを買えば済むのだが、何か勿体なく、ミュージックバードで放送しないかと気にしていたが、やっと昨日(12/24)放送され、MP3で録音した

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 71年録音。
ペールギュントも久しぶりに聞いたが、録音も遜色なく、問題ない。
思い出すと、40年前の学生時代、カラヤンは全盛期だった。グラモフォンは何でもカラヤン・・・・。自分は何かハナに付き、あまり好きではなかった。
1989年に亡くなったというから、それからもう20年・・・。しかし最近なぜかカラヤンの名はあまり聞かない。フルトヴェングラーやワルターとは、所詮違う存在(商業的すぎたので廃れた?)だったのかも・・・

カラヤン/ベルリン・フィルといえば、むかし来日公演を2回聞いたことがある。
1回目は、1970年5月20日(水)、東京文化会館。曲は、シューマンの交響曲4番と、R.シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」。隅の席で2000円だった。
2回目が1973年10月27日(土)、NHKホール。曲はドボルザークの交響曲8番、ワーグナーの愛と死、タンホイザー序曲。6000円だった。
いまだに覚えているのは、1回目。曲が大好きなシューマンの4番とツァラトゥストラだった事もあるが、夢のカラヤン/ベルリン・フィルだった。この時、カラヤンは意外と背が小さいんだな・・・と思った事を、今でも覚えている。
今年の夏に、ザルツブルクに行ったときに、カラヤンの家があって覗いたが、改修していた。その時、庭にあったカラヤン像がくすんで見えたが気のせいか?

ともあれ、グリーグといい、カラヤンといい、何か昔の友人に会った感じ?
あと未録音で残っているのは、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲・・・・・。ミュージックバードでやらないかな・・・?
しかし、聞きたいと思っても聞けない曲が少しは有った方が良い。マーラーではないが、9番目の交響曲を書くと、死ぬのではないかと怯える気持ちも分かる?
もうそろそろ聴きたい曲も無くなってきた・・・と感じるのは、自分も“悟り”が近くなったせいか?
(それにしては、いつもカミさんから「仏心とは、ほど遠い・・・」と言われているのでマッチしないな・・・・)

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2006年12月21日 (木)

セミナーが良かった

友人?からの紹介で、セミナーに行った。
岡藤商事という会社が主催する“達人がこっそり教える「人生に挑み続ける ミドル世代の人生設計術」セミナー ”という。12/20 18:30~20:00 於銀座ヤマハホール

夜のセミナーは初めてだったが、同じ団塊の世代の人が多く、ほとんどが男性。
最初が「50歳からの自分興し - 不安をワクワクに変える知恵 ≪講演者 フリープロデューサー 木村政雄氏≫」
この人は吉本興業の常務を務めたという経歴。話はその頃の話題が多いが、やはり吉本興業らしく、なかなかウィットのある内容だった。
中で印象に残ったのは「自殺をするのはほとんどが男性。なぜかというと、男性は縦にしか飛べない。つまり、もし会社で悩みがあるのなら会社を辞めればよい。しかしその世界の中(縦=会社)だけでしか飛べないので、行き詰まって自殺する。しかし女性は違う。横っ飛びが出来るので、いつも“止~めた”が出来る。よって死なない」・・・・なるほど・・・・
「それに我々世代を団塊の世代と言うが、シニアとも言う。しかし関西の人はその言い方は嫌いだ。シニア=死near=死に近い・・・ので」

後半は“一流スポーツ選手だけが知っている「カラダをイキイキ保つテクニック」”という題で、プロゴルファー 湯原信光氏とオリンピックメダリスト(シンクロナイズドスイミング)武田美保氏のトークショー。

これが良かった。プロの司会者のリードで、まさにナマ番組。
中で印象に残った言葉は、「シンクロの練習は、長いときは一日13時間。摂取カロリーは普通の人は2000カロリーで良いが、シンクロはハードなため、5000カロリー。それが練習で一日に2Kgも減る。練習量の多さは、コーチに言わせると、本番の時に“誰よりも多い、これだけ練習したのだから・・・”という自信につながる」とのこと。そしてまさに本番の時に、自信になったという。
確かに、自分も国立大学の受験で、一期校を落ちて二期校を受ける際「もう俺はこれ以上は出来ないのだから・・・」と開き直ったら受かった・・・という経験がある。確かだな・・・・

湯原信光氏は今、世界遺産検定の試験を受けていると言う。初級(1) ブロンズが受かったので、最高ライセンスのマイスターを目指すと言っていた。というのは、これまで取ったライセンスは全部最高位。だからどうせやるなら・・・
湯原氏も自分の得意なスポーツ関係以外でのチャレンジをしている。

なかなか面白く、引き込まれた2時間ではあった。
同時に、(このセミナーの世界を見ても)確かに自分は今のところ縦(会社)の世界だけにしか生きていないことを再認識した。
これを機に、少しは脱皮できるかな?? いやまた同じだろう・・・
(最後まで分からなかったのが、これだけの費用を掛けておじさん相手の無料セミナーを開催し、単なるアンケートを集めるだけで、元が取れるのだろうか?目的は何?・・・)

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2006年12月17日 (日)

団塊世代は“産業廃棄物”?

今日(12/17)の日経朝刊「日経シニア・ワークライフ・フォーラム2006」の記事(P33)で「団塊世代は産業廃棄物だ」という、とんでもない論が載っていた。これには怒るしかないが、気にくわないのは三田誠広という同じ世代の男性(同類)なので始末が悪い。(女性とか、若い人なら素直に怒れるのだが・・・)
曰く・・・・

<特別講演 団塊世代の明るい未来/作家:三田誠広氏>
・・・考えてみると日本のビジネスマンは自分の文化を持っていない人が多い。朝から晩まで働かされてきたためだろうか。仕事以外に何も持たない人間から仕事を取り上げてしまえば、もぬけの殻になる。日本という国が生み出した産業廃棄物と思う。
日本の企業は、たちの悪い産業廃棄物を一家に一つずつ配布して、あとは家庭で処理してください――というとんでもないことをやっている。毒を持った産業廃棄物はきちんと処理しないと罪になるのではなかったか。
でも今や遅し。我々の世代は定年によって世に放たれる。
自分の人生だから、自分で築いていくのは当然。肩書が付いた会社の名刺なしに、私はこういうものだと語れることが必要になる。「僕って何」「あなたって何ですか」への答えを作ることだ。
どんな目標を持てばいいのか。三つほど紹介したい。おおまかに言うと、まずは働き続けること。社会に役立つことをすること。そして文化的な生き方、つまり趣味を持つこと。
日本人は昔から趣味を大切にしてきた。江戸時代、商売をやっている人は四五才くらいで息子に屋号を継がせて隠居した。落語に出てくるご隠居は謡をやることが多い。・・・・・・・

また<パネルディスカッション>で池内ひろ美氏がこんな事を発言していた。

・・・今まで仕事ばかりだったから、退職を機に世界旅行をプレゼントするという男性の気持ちは分かるが、これが困る。船旅だったら外は海で逃げられない。二人で長い期間旅行するのは親友でも難しい。自宅でテレビを介して会話している夫婦は、文化圏が変わると会話が成立しなくなる。成田離婚はご存じだろうが、最近増えているのが「熟年成田離婚」だ。・・・・

この三田氏の発言をどう捉えるか・・・・。否定はしたいのだが、何か当たっているような気がしてくるから・・・いかんな~・・・・。
それに比べて池内氏の発言は、女性から見た本音。まあ我が家では夫婦間のバカ話が多いので、まあ心配ないとは思うが・・・・

何かドキッとする記事ではあった。

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2006年12月13日 (水)

映画「敬愛なるベートーヴェン」を見た

映画「敬愛なるベートーヴェン」を見た。まあまあ分かり易く、楽しめた。ベートーヴェンを演じていた人も、肖像画と良く似ていたし・・・・
主人公はベートーヴェンというより、女性写譜師のホルツ。
第九の初演の4日前に、まだ合唱部分が完成していなかった、という設定で物語は始まる。そして、4日後の初演の時に、この女性写譜師が舞台に隠れて実質の指揮をして、それを指揮台のベートーヴェンが見ながら指揮棒を振るという、今までの伝承とはあまりにも懸け離れた設定。
物語については何とも言い難いが、何せ演奏されるのが天下の「第九」。今更言うまでもない第九の圧倒的な迫力・素晴らしさに、全てが小さい存在となり、物語はもうどうでも良くなる。

映画の物語からは離れるが、やはり「第九」は人類の大いなる財産だ。この映画の演奏はロンドン響とあった。ついつい昔を思い出して映画と共に歌ってしまった。
というのは、昔、この第九を舞台で歌ったことがあった。

日時:1972年12月24日(日)14:00~  八王子市民会館
指揮:外山雄三 orch:新星日本交響楽団 S:小池容子 A:成田絵智子 T:下野昇 B:芳野靖夫 合唱:三多摩「第九」合唱団
*調べてみたら、この演奏会が第一回で、その後(毎年募集して演奏が終わると解散する)この合唱団は、96年の第25回まで続いたらしい。

この時は、もちろん原語で暗譜であったため、バスのパートは全て覚えた。それから30年以上になるが、未だに覚えていて映画と共に歌える。やはり“名曲”ならではのもの・・・・

伝承によると、第九の初演は指揮台にウムラウフとベートーヴェンの二人が立ち、演奏後、聴衆の喝采に気が付かないベートーヴェンに、見かねたアルトの歌手がベートーヴェンの手を取って聴衆の方を向かせ、はじめて拍手を見ることができた。とあるが、映画ではこの役は女性写譜師のホルツ。でもこの場面は、それまでの静寂からベートーヴェンが振り向くと同時に熱狂の音・・・。なかなか良かった。

それと、ベートーヴェンの難聴をどう画くかが、映画では難しい。ほとんどの会話は普通の映画と同じ。普通に会話ができたとは思えないが、それを画くと映画を見ている人が煩わしくなるので仕方が無い・・・・。
晩年10年はほとんど聞こえなかったらしいが、確かに演奏が終わっても指揮棒を降り続けていたという逸話からすると、本当かも? でもそれで作曲が出来るとは到底思えず、天才とは言え、相変わらず信じられない。

最後の場面の、「大フーガ」の不評と、それまでの第九の“熱狂”との落差・・・。
芸術家とは、自分の納得するものを作り出すのが仕事なのか、それとも他人受けするものを作り出すのが仕事なのだろうか・・・・?
他人に評価されないものを作り続けていても生活は出来ないし、かと言って他人受けするものに固執していても、何かそれに“迎合”していてイヤだし・・・。
芸術の世界は、自分がやりたいようにやって、それが世間から評価されればそれに越した事はないが、そううまくも行かず、バランスが難しい世界なのだろう・・・・と思った。

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2006年12月10日 (日)

「般若心経」勝手帖-07 不生不滅

しゃーりーしーぜーしょーほーくーそー
舎利子是諸法空相

ふーしょーふーめつふーくーふーじょーふーぞーふーげん
不生不滅不垢不浄不増不減

単純に訳すと「舎利子よ、この世にあるすべての存在には“永遠に変わることのない存在”というものは無い。生じることも無ければ滅することも無い。きれいとかきたないとかいう事もない。増えることもなければ、減ることもない」と言った意味。
「是諸法空相」がキーワードで、「この世におけるすべてのものは、実体が無く、変化して、流動するものである」という般若心経の中心思想を述べている。

「不生不滅不垢不浄不増不減」は、本節06回目で書いた「世の中を構成している分子(原子)は、宇宙の中で濃淡があり、濃の部分が我々が目に見える物質となり、淡の部分が真空の宇宙のような空間になる。これらは単に分子の濃淡という現象である」として、自分が「ミクロの決死隊」になって分子の間をくぐり抜けられると考えてみると、確かに宇宙の存在全体はトータルとしては同じなので、生まれることも消えることもない。それは単に集まる場所が違っただけ。よって綺麗も汚いも無く、増えることも減ることも無い・・・、という訳だ。
エジプトのピラミッドは、数千年経っても消えていない。という議論も、数億年経って果たして消えないか?と考えるとやはり風化して消えるだろう。
つまり、“すべての存在は移り変わっていくもの”という議論も納得できる。
なにせ、仏教は時間軸が長いのである。例えば、“弥勒菩薩は、ブッダが入滅してから“56億7千万年”後の未来に姿をあらわす未来仏”といったように・・・

でもここで言っている(単なる現象でない)“本当の意味”は何か?
「滅は生があるから存在し、逆に生は滅があるからこそ存在する」「世の中の物は、いつかバラバラになる。また本来バラバラだからこそ、それが集まってまた物になれる」
「綺麗とか汚いとかいう感情を生み出すのは我々の心。不垢不浄はそれを超越した価値観」「増と減は相対的なもので、宇宙では微々たる事。貯金が減ったからといってクヨクヨするな」・・・・

待てよ・・・? 自分は先週末のボーナスで、会社業績の悪化に伴って**十万円も金額が減ったな・・・。それをクヨクヨするな・・・か。別にクヨクヨはしなかったが、全く気にしなかったかというと、確実に気にしたな。
般若心経の教える境地にはまだまだ遠いという事だ。

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2006年12月 9日 (土)

朝が暗い・・・“日の出”時刻の研究?

今朝は雨だった。しかし今日は休日なので、暗い朝の道を出社しなくて良いのでラッキー!
まあ当然の話だが、そろそろ冬至が近くなって、“日の出”が遅い。通勤で、朝5時半に起きて6時過ぎのバスに乗り、都心に通う“初老?”の身には応える。

毎朝、NHKニュースの中の天気予報で、「今朝の日の出は・・」と時刻を言っているが、フト、いったい朝はいつから“早くなるモード”にギアチェンジするのだろうか・・?とネットで調べてみた。そしたらあった
東京の“日の出”の時刻は、07/1/1~1/13までが“6:51”。よって、07/1/7頃がもっとも “日の出”が遅い事になる。今日が6:38なので、まだまだ遅くなるということだ。おお寒う~~
一方、日の入りは、東京では06/11/29から06/12/13までが“16:28”。ちょうど今日あたりが最も日の入りが遅く、これからは早くなるモードにギアがチェンジされるらしい。でも夕方よりは朝が問題だな・・・・。

夏に行ったオーストリアでは日の入りが遅くて、夜の9~10時頃まで明るかった。昼が長いと心も明るい? 逆に、今は日の出が遅いので、朝の心は暗い・・・。
まあこれは、至極当たり前の事だが・・・。でも早く春が来ると良いな~。ナンテまだ初冬というのに・・・・、俺もトシだ・・・・。
(今日ユニクロで、来るべき厳冬に備えて、“ヒートテック・ハーフタイツ(いわゆるハーフ股引)を買ってしまった。初老の身にとって、通勤で何よりも重大なのは“防寒”である)

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2006年12月 8日 (金)

梅原猛の「私の履歴書」を読んだ

梅原猛の「私の履歴書」を読んだ。と言っても日経(01/5月)ではなく「神殺しの日本」という本の後半の「大いなる知に導かれて」である。

氏の人生については「梅原猛の授業」に書いてあったので本にはスッと入れ、アットいう間に読んでしまった。この履歴書は、普通の時間軸を追った形式ではなく、かなり自由に書かれている。
本当の哲学の所は分からなかった。ニヒリズム云々・・・。自分は哲学者とは何をする人か良く分からないが、自分にとっての梅原猛は歴史学者&作家。でもこの本を読むと、本当の姿は(良く分からない)哲学者。

京都芸大の学長になったきっかけが、大学移転闘争だったことや、猿之助のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の作者が氏だったこと(もっとも自分は見たことがないが)、それに脳死臨調(臨時 脳死及び臓器移植調査会)の委員を務めたこと等は知らなかった。
ここに気になる文章があった。

心臓死は現代の人間の常識であるが、昔から人類は、たとえ心臓が止まり、身体が冷たくなってもなお魂が肉体に帰ることを願って「もがり」などを行った。死者への愛のために死をできるだけ遅く認めることが人類のゆかしい風習であるのに、心臓が鼓動している、身体の温かい人間を死者とすることは許されない。(P194)
*「もがり」とは、人が死んで葬られるまでの期間、故人の復活を願ってその遺体を布などで巻いたりお棺に納めて仮に安置することで、仏教が広まる前の日本でもこの風習があったことが知られている。

・・・・臓器の提供は家族の同意ではなく、主として本人の意思表示とした。・・・・
私は脳死を死と認めることには反対であるが、臓器移植については必ずしも反対ではない。私は臓器移植を、何万分の一かもしれない生の可能性を放棄して他人の命を助ける菩薩の行為として容認するものである。

また2度のガン(60才で大腸ガン、72才で胃ガン)を自己発見して全快したというからすごい。
それにしても、氏のこの温和な顔つきはどこから来るのだろう。仏教の影響か、まさに悟りの顔つき・・・。慈悲の顔・・・。
自分もこの顔に少しでも近付きたいものであるが、「理不尽は嫌いだ~!・・・」なんて某外資の大会社相手にケンカをしているようでは、まあ到底縁が無いな・・・・

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2006年12月 7日 (木)

ブルーコメッツと井上忠夫

久しぶりにMP3で「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」を聞いた。ふと、井上忠夫が自殺したことを思い出し、Wikipediaで井上忠夫を覗いてみたら、‘00/5の事だという。
その「ディスコグラフィー」欄に、“TEN YEARS AFTER ~さらにGSを見つめて~(1977年)=ブルー・コメッツ時代の曲のセルフカヴァー・アルバム”というのがあった。これは欲しい・・・と調べると、既に廃盤。Yahooで検索するとオークションに300円で出ている。すぐに注文してしまった。そして送料込み480円のCDが今日着いた。安い・・・・
レンタル落ちのCDだが、あまり借りた人が居なかったらしく、準新品。演奏は?と恐る恐る聞いてみると、編曲も違和感なく、まずは合格。 “ブルーコメッツ”が再録音したような感じで聞けた。

思い出すと、ブルコメで初めて聞いた曲が“ブルー・シャトウ”。この発売が、67年6月1日という。この曲をきっかけにブルコメの大ファンになり、発売された曲は殆ど全て聞いた。新しい曲が出ると、下宿の家の居間にあったTVからオープンデッキに録音した。
そして、すり切れるほど聞いたLPが“ベスト・オブ・ブルー・コメッツ”。68年12月25日発売という。大学3~4年の頃だ。懐かしい・・・・。下宿の部屋でひとり、STAXの“コンデンサー・イヤースピーカー”で何回聞いただろう・・・・。

ブルコメの歌は、ほぼ全曲を聞いたが、一番良く聞いたのはやはり「マリアの泉」なか?
すこしだけ聞いてみよう。

<ジャッキー吉川とブルー・コメッツ「マリアの泉」>

「マリアの泉」
 作詞:万里村ゆき子 
 作曲:井上忠夫

 苦しい恋を あきらめて
 さまよう 街の夕ぐれに
 泉はふかく 水をたたえて
 青ざめた ぼくをうつしてた

 古い泉よ お前はぼくの
 つらいきのうを うつすのか
 古い泉よ お前にぼくの
 つらい心が わかるのか

 はてない旅は つづくのさ
 しあわせもとめて ぼくは行く
 マリアに祈り ただひとり
 古い泉に わかれをつげた
 古い泉に わかれをつげた

いかんな。また懐かしがっている・・・・。
今日の夕刊に、「団塊の世代がヒマになって、これから図書館を利用するようになるので、団塊世代が20代の頃に流行った歌のCDを、図書館でも揃える・・・」みたいな記事があった。
自分なんか、もうとっくにその世界に入っているのに・・・・。
(昔を懐かしがっているという事は、現役を引退したという事で、人間、成長が止まる?ので、要注意だな)

(08/3/9追記)
NHK BShi「BS永遠の音楽 グループサウンズ大全集」(08/3/8放送)を聞いた。何とジャッキー吉川と高橋健二が70歳だという。自分も還暦なのでまあ仕方が無いが、70歳のGSを聞いてみよう。2008年のブルー・コメッツの「青い瞳」「北国の二人」「ブルーシャトー」である。

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2006年12月 3日 (日)

宗教による死生観の違い

「梅原猛の授業 道徳」の第12時限「人生をよりよく生きるために 3~感謝と哀れみ」に、宗教による死生観の違いについて書いてあった。面白いので転記してみる。

<日本の神道>
日本の神道といいますか、日本人が昔から信じてきた考えによれば、人間は死んだらどうなるか。人間が死んだら魂が肉体を離れる。霊(たま)とか魂とかいうものが肉体を離れるので、肉体はナキガラ、魂のないカラになる。そして魂はしばらく家のなかにあるカモイ(神すなわち霊のいるところ)に止まって、近くのオヤマすなわち里山(さとやま)に行く。そのオヤマにもしばらくいて、やがて西のほうにあるらしいあの世へ行って暮らす。そこには、一足先にあの世へ行ったお母さんやお父さんがいて、この世と同じように家族単位の生活をしているらしい。・・・・・
あの世とこの世は、あまり変わりがない。ただ、万事が逆の、あべこべの世界です。・・・
人が死んだとき、葬儀屋さんは死者に左右あべこべに着物を着せるでしょう。それはこういう思想によっているんです。・・・・
そうして、例えばこの世のA家とB家の間に子供ができる。すると、その知らせはすぐにあの世へ伝わり、あの世のA家とB家の代表者が相談して、あの世にいるA家とB家の人たちのうちの誰をこの世に送り返すかを決める。この人を返すと決まったら、その人の霊があの世からシューッと飛んできて、妊婦の腹のなかに入って、月が満ちてオギャーと生まれてくる。そういう考え方です。・・・・

<仏教>
・・・浄土宗や浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえれば、となえた人はみな極楽浄土へ行けるという。・・・
しかし、極楽浄土へ行きっぱなしではなく、また浄土から帰ってくる。・・・・法然や親鸞は、行くことと同時に帰ってくることを強調しています。なぜなら、仏教の思想は自利利他だからです。自利だけなら極楽浄土に行きっぱなしでいいんですが、この世に苦しめる衆生がいるかぎりは、またこの世に念仏の行者として帰ってきて、人を救わなければならない。・・・
これが浄土教の考えですが、日本人は死んであの世へ行くのか、極楽浄土へ行くのか、そのところはあいまいにしている、と柳田国男は言っています。・・・

<キリスト教>
キリスト教では、人間が死ぬと・・・・一度は煉獄(れんごく)という、執行猶予のようなところで眠りについている。十字架にかけられて神の国に行ったイエス・キリストは、いつか再臨して、また地上にやってくる。そしてそのときに、最後の審判が行われる。そしてこの世が神の国、天国になる。・・・・
だから、キリスト教ではあの世とこの世の往復運動は一回だけです。この一回の往復運動によって、決定的な裁判が行われる。・・・・
キリストが再来して最後の審判が行われ、やがてこの世が天国になるという考えは、この世で苦しんでいる人々に希望を与える考えです。キリスト教徒は、キリストが死んで百年後にはきっと再臨するに違いないと期待していたんですが、来なかった。では千年後には・・・・・この世は天国にならない。西暦2000年は、文字通りのキリストの再臨を期待している人はいなかった。・・・・
イスラム教もキリスト教とだいたい同じ考え方です。一回だけの、最後の審判がやってくる。・・・コーランのほうが新約聖書よりはるかに具体的です。・・・・

ちょっと長々書きすぎた。
梅原猛氏によると、日本は明治の廃仏毀釈によって神も仏も失った民族という・・・・・。

自分が“その時”を迎えたとき、どう考えるか・・・・・は、恐いので避けて通ることにしよう。

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2006年12月 2日 (土)

ヨーキーの恋わずらい

今日は我が家の愛犬ヨーキー(ヨークシャーテリア)の恋の物語である。この子の“激しい恋“には、自分もカミさんも呆気にとられている。

愛犬の名はメイ子(本名「メイリー」)という。
今日、会社の研修とかで先週末から上京していた次男坊が九州に帰った。メイ子の恋の相手はこの次男坊。これがまた激しいのである・・・・。

先週末に息子が帰ったときのメイ子の狂喜乱舞ぶり。ったく、飼い主をバカにしているので説明もしたくない。
知らない人の足音には普通ワンワンと吠えるのに、半年ぶりに次男が帰った時は、何が良いのか、まさに狂喜乱舞。足下からピョンピョンと30cmも飛び上がりやがる。・・・ったく、飼い主をバカにしている。
自分が会社から帰っても、玄関に迎えに来るどころか、寝たまま・・・。カミさんが見るに見かねて「ほら、お父さんのお帰りだよ」と促すが、さっさと自分の隠れ家に・・・・。
そのくせ、食事の気配を感じると、自分の左側にじっと待機。食べ物が落ちてくるのを待つ。しかたなく、たまに食べ物を落とすが、自分との関係はそれほどのもの。
しかるに、半年に一度しか帰らない息子に、なぜ狂喜乱舞する?

息子の部屋がある2Fへの階段には柵を取り付けてあるが、その前でじっと待っていたり、息子が外出した時は玄関で待っていたり・・・・。 ったく我が家の「忠犬ハチ公」か?
(カミさんからの報告によると)一旦息子の部屋に入り込むと、うっとりと息子を眺めているという。
息子が月曜日に出勤した夜などは、何だか様子がおかしい・・・。まさに自家中毒だ。いつもは食欲旺盛なのに、出されたエサも食べない・・・。体をガタガタ震えさせ、舌を出して苦しそうにハーハー。どうしたんだ!と心配してカミさんが一晩添い寝をしてしまった。しかしその原因が「恋わずらい」だと分かってからは、何とも馬鹿馬鹿しくなった。

しかし、これほど犬が人を選ぶとは思わなかった。
エサをくれるから・・・といった事よりも、“女の直感?”で「好き」となったらただ一筋・・・・・・
そのお陰?で、息子の周りには人間の女性の気配は皆無だ。まあ世の中、神さまは“平等”になさるので、これは仕方が無いか・・・・。
(つまりメイ子が夢中になればなるほど、息子の婚期は遅れていく訳だが、その責任をメイ子に問う訳にも行かず・・・・)

下の写真は、恋人に去られ、茫然自失・・・、去った方向を眺めているメイ子の姿である・・・・。
~ざまー見ろだ(失礼)
061909_2

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