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2006年7月25日 (火)

「華厳経」に“何か”を感じた

中村元の「仏典をよむ(4)~大乗の教え(下)」も第22回「華厳経(1)」である。

しかしこれは良い。まだ良く分からないが、“何か”を感じる・・・・・。

聖武天皇が旗を振って、大衆の力を集めて奈良東大寺の大仏を作ったが(752年)、この東大寺が華厳宗の総本山。 曰く・・・・・

「華厳経」の趣意は、事事無礙(じじむげ)の法界縁起(ほっかいえんぎ)の説にもとづいて菩薩行を説いているという。

事事無礙について説明すると、事とは現象、あるいは現象界の事物。それがひとつひとつお互いに異なっているのではない。とけ合っている。決してお互いに排除し合うものではなくて、とけ合っていてとどこおりがない、ということ。

すべてのものは因縁の連鎖、鎖、因果の網によってつながっている。つまり、一見したところでは個別的に異なっている事と事、つまり事物と事物は決して無関係のものではない。目に見えないところで結ばれている。経験世界では別々ですが、真理の世界から見るとお互いに寄り合っておこっている、いいかえると、ありとあらゆるものがお互いに原因となり結果となり、連鎖の網で結ばれて存在している。それを法界縁起という。

その道理を体得しますと、他人というものが他人ではなくなる。そこで自利即利他(じりそくりた)の菩薩(道を求める)行という事が説かれる。その修行には、自利と利他の二方面がある。存在している限り、生きている限りは必ず自分のためを考える。と同時に他人が別のものではないのだから、他人のためをも考えることになる。自利と利他の両方が相即している。

・・・道を求める心を起こしたときに、もうそこにはさとりが含まれている。

・・・道を求めたいという心を発(おこ)したとき、つまり「初発心」のときにもうさとりを完成している。

・・・・すなわち、他のものによってさとるのではない、自分が体得してさとるのだ、とするのです。道を求める心を起こしたところに、目標がそこにある。

ということは逆に、何か目標に達した場合にも、これでいいというのであってはならない。どこかに達したというのも、実はそれは初発心にほかならない。だから、人生はいつまでも初発心にほかならない。「初心忘るべからず」ということを申しますね。人生は絶えず道を求める。しかも最初のときの心がまえ、それで進んでいくのが本当の姿であるという事が含まれているのです。

・・・・・

「華厳経」はこういう具合に心を修養せよ、そこから慈悲の働きがあらわれてくる、という事をくりかえし説いております。

・・・ありとあらゆる人々のことを考えて、ともに手を携えて進もうという、その理想を「華厳経」は掲げているのです。

長々と転記してしまったが、空の思想とも通じる非常に奥深い教典らしい。自分に一番欠けている「心の修養」がテーマらしいので、少し真面目に研究してみようかと思った。


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