2008年7月19日 (土)

72歳から10年かけて博士号~元神戸製鋼所社長 亀高素吉氏

今朝(08/7/19)の朝日新聞朝刊(P2)の「ひと」というコラムに「10年かけて薬学博士を取得した元神戸製鋼所社長 亀高素吉さん(82)」という記事があり、世の中とてつもない人がいるものだと感心すると共に、還暦だと騒いでいる自分があまりにも小さく、考えさせられてしまった。曰く・・・

「10年かけて薬学博士を取得した元神戸製鋼所社長 亀高素吉(かめたかそきち)さん(82)
『物忘れが多くなった』と言いながら、薬学の専門用語がぽんぽん出てくる。忘れた分を上回る新しい知識が頭に入っている。北里大学から18日、薬学の博士号を授与された。
98年、神戸製鋼所会長を退いた。普通ならあとは余生だろうが、「もう一遍、意味あることに人生を使いたい」と思った。
40年前、前妻を白血病で失った。今の妻も、くも膜下出血で倒れ、薬の副作用から免疫力が低下した。もっと良薬は作れないのか。「女房のかたきをとってやる」。北里大薬学部で聴講生として大学院の講義を聴き始めた。98年の秋だった。
Image01341 かつて卒業したのは経済学部。薬学は全くの素人だ。講義を聞いても分からない。高校の化学の教科書を自習し、図書館で復習・予習やリポート書きに精を出した。薬理学など13科目の単位を、満点近い平均96.5点で取得。だが、自ら新しい知見を見つけたかった。そんな時、石井邦雄教授から研究員に誘われた。
学生らと実験棟にこもり、ラットに薬を投与して白内障への影響を探る研究を続けた。ラットのような小動物の眼底写真を精細に撮れるカメラを、神戸の企業と共同で世界で初めてつくったことが、研究に弾みをつけた。学術雑誌に4本の論文が掲載され、博士取得につながった。
『熱意としつこさ』が石井教授の亀高評。本人は『薬効のメカニズムが分からない』と興味は尽きない。老学徒の心の火種は燃えている。(文・安井孝之)」

超一流の会社の社長・会長を歴任し、功成り名を遂げた人が、リタイアした72歳で全くの異分野の勉強を始め、82歳で博士号を取るとは・・・・・。まさに絶句・・・・

先日、専業主婦から奮起し、36歳で医学部に合格して医師になって、えりもの辺地医療に尽くした鈴木陽子さんのことを書いたが(ここ)、世の中、ものすごい人は居るものだ・・・。
そして、このような話題は、「還暦だ」「定年だ」・・・・・と感傷にふけっている自分の耳に、何と痛いことか・・・。
「爪の垢を煎じる」とはよく言うが、最近は“煎じる垢”が集まり過ぎて、間に合わない・・・。つまり、自分はまだまだ「甘い」ということだな~と思った。(自分も早く何かを見つけねば・・・!??)

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2008年7月18日 (金)

平岩弓枝氏の「私の履歴書」~“捨てる”ということ

今月の日経朝刊に連載されている「私の履歴書」は、平岩弓枝氏である。自分はこの人の作品を読んだことが無いが、今年の元旦のNHKラジオ深夜便で平岩弓枝さんの番組を聞いたことがあり(「小説の世界に魅せられて半世紀 作家 平岩弓枝(08/1/1放送)」)、平岩さんが神主さんの娘であるとかの背景を知っていた為、このコラムを読んでいても話がよく分かる。
今日(08/7/18)のテーマは「『生きたせりふ』に開眼~放送枠、無駄をそぐ助けに」である。これを読んでいて、前にも書いたが(ここ)“捨てる”事の重要さ、難しさについて、改めて考えてしまった。曰く・・・

「・・・テレビドラマの仕事は楽しかった。気の合う人々と一緒に一つのことを創り上げて行く面白さは格別のものがある。勿論きびしい問題もあった。小説は或る程度のびのびと自由に書けるが、テレビドラマには時間の制限がある。1時間ドラマ、30分ドラマ、15分ドラマ、民放であればしれからコマーシャルの時間をさっぴかなければならない。時間よりはみ出したドラマは容赦なくどこかを切って編集しなければ通用しない。
まだ、テレビドラマが万事手作りであった頃だが、それでも書いたものが切られるのは嬉しくなかった。映像になってから切られるのは尚更である。名優といわれる人人が実にいい芝居をし、いい具合にせりふを喋っている。それをばっさりやられるのは俳優さんにすまない気がした。次第に自分は自分の脚本の段階で無駄なせりふを自ら切り落とすようになった。
それなら最初から無駄なせりふを書かなければよいとわかっているがつい熱中して書いていると熱くなっている分だけ冗漫なせりふになる。その中(うち)に気がついた。本当に生きたせりふには無駄が全くないのだということである。恩師のおかげで私は牛の歩みながらまた一つ勉強をした。」

このことは、我々の日常の生活すべてで言える。冗長な生活ほど希薄。逆に、凝縮した生活は充実・・・・。(でも疲れるけど・・)

話は変わるが、最近「捨てて」楽になったという、実にバカバカしいことがあった。自分は好きなTV番組をいつもDVDレコーダに録画しておいて、後から見ることにしているが、このところ1テラバイトのハードディスクが満杯になり、「早く見なければ・・」と、何か追われているような状態になっていた。実にアホらしいことである。(だいたいNHKの「世界ふれあい街歩き」の再放送が多過ぎる・・・!??)
それでフト、「見なければ・・・」と思っていた番組を、「本当にそうか?」と思い直して、まとめて消してしまった。まずNHKの「太王四神記」だ。自分はミーハーなので、世間で流行しているドラマは、まあ見ておくか・・という事になる。それで24巻までBShiで録画してあったが、しばらく見たがどうも自分にフィットしていなかったので一挙に消した。他にもドラマなどを消した・・・。そしたら、DVDレコーダの空きが大きく出来た。そして、バカバカしいほどに「こころが軽く」なった。なんともアホらしい・・・・

家財道具も、人との縁も、何もかもそうだが、我々は色々なものを背中に背負いながら生きている。でも、捨てられないと思い込んでいるものも、その気になれば簡単に捨てられるものがどれほど多いか・・・。
そう思うと勇気が出てきたぞ!よし、何でも捨ててしまえ! (おっとっと。お金だけは別だよね・・・。ついでに、家族も捨てられないよね~・・・・。~ナーンテ、これは建前だけど・・・)

(関連記事)
「捨てる」ということの難しさ

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2008年7月16日 (水)

中国人の芥川賞受賞と、直木賞の「蛙の子は蛙」

今朝(08/7/16)の新聞に、昨夜決まった第139回の芥川賞と直木賞の受賞について報道されていた。ビックリしたのは、何と中国の人が芥川賞を取ったということ・・・。

「第139回の芥川賞・直木賞の選考委員会が15日夜、東京都内で開かれ、芥川賞は楊逸(やん・いー)氏(44)の「時が滲む(にじむ)朝」に決まった。中国人作家の芥川賞受賞は初めてで、日本文学の可能性を広げる契機になりそうだ。直木賞は井上荒野氏(47)の「切羽へ」が選ばれた。」(日経朝刊08/7/16より)

楊逸さんは22歳の時に来日し、アルバイトをしながら日本語学校で日本語を勉強し、お茶の水女子大を卒業。中国語新聞の記者を経て中国語講師に・・・。日本人と結婚したが7年前に離婚して今は二人の子供を育てているという。
しかし、大人になってから習った日本語で、天下の文学賞を取るという快挙。これは、人間、やる気になれば何でも出来るという事か・・・・

同時に、直木賞は井上光晴氏の娘の井上荒野氏。昨日、たまたま「蛙の子は蛙」の記事を書いたが、それはどうも本当らしい・・・。

話は変わるが、今月の日経朝刊の「私の履歴書」は平岩弓枝さんである。毎日楽しく読んでいるが、今日のテーマが「直木賞受賞」・・。「直木賞受賞~候補で満足、外出中知る~借りた晴れ着で記者会見」。
日経の前のページ(P38)で、井上氏の直木賞受賞に関し、「・・・委員を代表して平岩弓枝氏は・・・・とたたえた」とあり、“そうか平岩弓枝氏も直木賞の選考委員だっけ・・”と思いつつ次のページ(P40)を広げると自分の直木賞受賞の話とは、何とも絶妙のタイミング・・・。さすが大御所・・・

前に五木寛之氏が直木賞について、(NHKラジオ深夜便の「わが人生の歌語り」で)「今後、その人が筆で生活が出来る才能がある事を認めること・・・・」と言っていた。だから、作家の大御所たちが今後プロの作家として活躍することを予見したことでもあるので、直木賞の受賞者が、その後パッとしないと選考委員は困るそうだ。(確かに五木寛之氏も平岩弓枝氏も、今度は選ぶ側に回るほど期待に応えたが・・・)

まあ、芥川賞受賞の中国の人は、「語学大嫌い人間」で今でも学生の頃の語学試験の夢を見てうなされる自分にとっては、実に遠い世界の出来事・・・・。凡人とは頭の構造が違うのだろう・・・。しかし中国の人は努力家である事は確からしい・・。

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2008年7月15日 (火)

服部克久の「自由の大地」~新世界紀行のサントラ

今日(08/7/15)の日経夕刊を読んでいたら、「こどもと育つ~作曲家・服部隆之さん」というコラムがあり(P17)、作曲家 服部克久氏の息子もまた作曲家だという事を知った。曰く・・

「祖父は服部良一氏、父は服部克久氏。三代にわたって五線紙に音を紡いできた音楽家のバトンは今、八歳の娘に引き継がれようとしている。・・・・」

「青い山脈」などを作曲した服部良一氏は、国民栄誉賞も受賞した昭和初期の代表的な作曲家。服部克久氏は編曲も手掛け、テレビで指揮をしているところを良く見た。しかし、その息子も作曲家だったとは知らなかった。

“蛙の子は蛙”とは良くいうが、音楽家の家系は環境的にも音楽家が育ちやすいのだろう。バッハ然り、モーツァルト然り・・・。指揮者の世界では、自分が高校の頃から良く知っていたエーリッヒ・クライバーの息子は、あのカルロス・クライバーだし、フォンタナレコードで子供の頃に良く聞いた指揮者:フランツ・コンヴィチュニーの息子のペーター・コンヴィチュニーは、先日も新聞でオペラ公演の広告に載っていた。

政治家や俳優を代表例に、歌手などの音楽の世界でも親の七光りが多いが(おっと、宇多田ヒカルは超えている?)、このコラムにもある通り、
「ただ、芸術家には親の七光りも“十四光”も通用しない。人がいいと思う音を生み出せるのか。実力のみの世界が横たわる。」
これは確かだ。カルロス・クライバーの「運命」を聞けばまさにそれが証明される。(ここ

・・・という訳で、あんまり関係ないが、自分が一番好きな服部克久の曲をひとつ・・・
1987年~1992年の毎週日曜日に、TBSテレビ系で放映されたドキュメンタリー番組「新世界紀行」のテーマソング「自由の大地」である。

<服部克久作曲「新世界紀行」のテーマ「自由の大地」>(CDはこれ

この曲を聞くと、まさに“世界雄大さ”が伝わってくるな・・・。(実はこのTV番組は見た記憶が無い。テーマソングだけが印象に残っていて、CDを見つけた時に衝動買い?したもの)

話は変わるが、本当に“蛙の子は蛙”なのだろうか?はっりき言って迷惑だな。ウチの息子どもも迷惑だと言うだろう・・・。(でも亡くなった親父が凝っていた将棋を、自分を飛び越えて息子が凝っている姿を見ると、“蛙の「孫」は蛙”なのかとドキッとする・・・)

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2008年7月14日 (月)

沖縄の害虫ミカンコミバエ根絶への道~小山重郎氏の話

NHKラジオ深夜便「こころの時代」で、「沖縄に”青切りミカン”が戻った日 元・沖縄県農業試験場室長 小山重郎」(2008/7/10~11)を聞いて、害虫根絶への苦労と、オスの悲哀?を感じた。この番組では、氏が行ったミカンコミバエ根絶とウリミバエ根絶のうち、主にミカンコミバエ根絶の話をされていたが、“百億匹単位?のハエをゼロにするという事が本当に出来るのだ・・・!”と絶句。曰く・・・(一部、沖縄県ミバエ対策事業所のHP(ここ)から引用)

子供の頃から昆虫少年だった小山重郎氏は、沖縄でミカンコミバエ根絶に挑む。沖縄は、1972年に本土復帰を果たしたものの、みかんなどの柑橘類や瓜類は、日本本土には居ないミカンコミバエやウリミバエによって汚染されていたため、「植物防疫法」という法律によって本土への出荷が禁じられ、沖縄にとって経済的に大きな問題だった。それを、1978年8月にミバエ研究室長として赴任した小山重郎氏がまとめ役となり(5年間の在任)、「雄除去法」によって最終的に1986年2月にミカンコミバエを,「不妊虫放飼法」によって最終的に1993年10月にウリミバエを、沖縄全域から根絶したという。一匹残らず・・・。

害虫を根絶させるためには、1)毒の餌で殺す「毒餌誘殺法(どくじゆうさつほう)」 2)オスだけ殺して交尾させない「オス駆除法」 3)放射線を当てた不妊虫を大量に放って野生虫間の交尾の機会を減らす「不妊虫放飼法」がある。

080714mikankobae ミカンコミバエはもともと台湾などから持ち込まれたもので、沖縄諸島には大正8年に侵入が確認され、沖縄の夏だと、卵から約1ヶ月間で成虫になって卵を生むようになり、1年間で約8世代を繰り返すという。
ミカンコミバエ根絶で使った「オス駆除法」では、科学的に合成させた(オス成虫を誘引する香料の一種である)メチルオイゲノールと殺虫剤を混ぜた誘殺テックス板などを島内に大量に蒔き、オスだけを殺してメスがオスと出会えなくして根絶したという。費用は年間3億円、5年間で15億円。
一方、ウリミバエ根絶に使った「不妊虫放飼法」の原理が面白い。オスは10回位交尾をするが、メスは1回の交尾で一生産卵するだけの精子を貰い、二度と交尾をしないという。これは自然の摂理で、オスは自分の子孫を残すために、一度交尾したメスには、他のオスとの交尾をさせないように、ある種の仕掛けをメスに施すのだという。不妊虫はヘリコプターで散布するが、1回のフライトで400万匹、20年間で530億匹を放ったという。
そして幾らゼロになっても、これらの駆除方法は永続的に続くという。いつまた進入してくるか分からないので、永久に続く事業なのだという。(これらの駆除方法については、沖縄県ミバエ対策事業所のHP(ここ)に詳しい)

そして、小山重郎氏がこれらの活動で、一番印象に残っているのが、沖縄から出荷が出来なかった法律が改定され、出荷が出来るようになったことだと言っていた。つまり、法が公聴会で1名の反対も無く改定されたときは、“とにかくホットした・・・”と。

この放送を聞いて二つのことを感じた。まず小山重郎氏が「自分達がやったのだ」という誇りを持たれていた事。人生で、現役が終わったとき「オレはこれをした」と言い切れる仕事をした人間が何人いるだろうか・・・・。(昔、現役時代に建設省のダム建設所に何度も行ったが、ダムはスタートから建設完了まで数十年も掛かるだけに、“ダムを作り上げるのは男一生の仕事”と現場の人が言っていた事を思い出した。・・・ところで「自分は何をした??」・・・とても言えることはナイな・・・・)

二つ目に、この番組を聞いてオスの悲哀?を感じた。どんな生き物も、最大のミッションである子孫を残すために、オスはメスの匂いを追う。それなのに、残酷な人間は「メチルオイゲノール」なる媚薬(フェロモン)を合成して、てっきりメスだと思って近寄ったオスを根こそぎ殺す。何という裏切り・・・
人間の世界でも、このテの話はおとぎ話でよくある。絶世の美女がふところの中で牙をむく話・・・・。(もうウチは関係無いけど・・・・)

でも結論として小山重郎氏は、リタイアして仙台で家庭菜園をしている現在の経験から、「害虫はどのような時に出てくるかと言うと、肥料のやりすぎ。農薬を使うと天敵が居なくなるので使わない(農薬に、アブラムシは強いが、天敵のてんとう虫は弱い)。そうして天敵を温存する。それから作物を適した季節に作る。トマトは夏に、大根は冬に作れば強い。そうすれば農薬を使わなくてすむ。最後に害虫との共存を考える。害虫の根絶は大変な努力が要り、害虫は絶対に負けない」という。

何に対してもそうだが「負けるが勝ち」が真実なのかも・・・。害虫根絶のために戦ってきた小山氏が、「害虫との共存」が結論とは・・・
なかなか、考えさせられる番組ではあった。

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2008年7月13日 (日)

カーン・リーの「雨に消えたあなた」と天童よしみの「美しい昔」

この2曲がなぜ並んでいるのかというと、2003年にヒットした天童よしみの「美しい昔」は、ベトナムの反戦歌手であるカーン・リー(Khanh Ly, 1945-)の「雨に消えたあなた」のカバーなのである。
080713amenikietaanata 「雨に消えたあなた(美しい昔)」の原題は「Diem Xua」といい、ベトナムの反戦歌だという。作詞・作曲はチン・コン・ソン(1939-2001)。
1970年、夫を殺されたカーン・リーは、ユエからサイゴンに落ちのび、大阪万博に出演して日本語盤の「雨に消えたあなた」をリリース。その後この歌は、1979 年のNHK ドラマ「サイゴンから来た妻と娘」の主題曲となって「美しい昔」に改題して1979年12月に再発して日本でも知られるようになったという。(他に、菅原やすのり(1984年)、加藤登紀子(1997年)がカバーしている)
原曲カーン・リーの「雨に消えたあなた」を聞いてみよう。

<カーン・リー「雨に消えたあなた」>~1971年1月発売

ベトナム語の歌を、訳詩を見ながら聞くのも良い。(出典はここ

「Diem Xua」(美しい昔/雨に消えたあなた)

霧雨が 古い塔を濡らしている
君の長い手 とても澄んだ瞳
秋の葉を打つ雨音を耳にしながら
小さな靴はすり減っていく
沈んだ瞳に 長い道のりが煙る

雨は 小さな木の葉に降り続く
夕暮れはいつも 雨が通り過ぎるのを待つ
君の足跡には 枯葉が静かに降り積もる
苦しむ君を想い 不意に心が痛む

雨は今日も降るのに 君はなぜ戻らないのか
心が痛む時 いつも君を想っている
痛みと想いはなぜいつも一緒なのか
早く戻って来ておくれ

雨は 波乱の人生に降り続く
墓標が痛みを知らないと なぜ君にわかるのか
雨よ この広い大地に降っておくれ
これからも僕が 彷徨い続けられるように

小石のように寄り添える日が
いつかきっと来る

そして、この歌が、天童よしみの手に掛かるとこうなる。少し聞いてみよう。

<天童よしみ「美しい昔」(New Ver)>(CDはこれ

「美しい昔」
  訳詞:高階真
  歌 :天童よしみ

赤い地の果てに あなたの知らない
愛があることを 教えたのは誰?
風の便りなの 人のうわさなの
愛を知らないで いてくれたならば
私は今も あなたのそばで
いのち続くまで 夢みていたのに
今は地の果てに 愛を求めて
雨に誘われて 消えて行くあなた

心に滲みる歌には、それぞれ歴史があるようだ。
080713khankly カーン・リーという歌手も、ベトナム戦争のかげで、夫が目の前で殺されるような凄まじい過去があるという。それだけに、昔の歌声は(今の美しい姿を見ても)なぜか淋しい。

話は変わるが、家族で(といってもカミさんと)海外旅行に初めて行ったのはタイだったが、2度目(2002年4月)に行ったのがベトナムだった。朝早くからの、バイクでの人の猛烈な流れ(動き)に、戦争の痕跡を打ち消すような、圧倒的な活力を感じた。学校は、校舎が少ないので朝早くから昼までの午前の部と、昼からの午後の部とに分かれていると、その時は聞いた。今はどうだろう?
付録に、そのときの写真を何枚か付けておく。若いエネルギッシュなベトナムに幸あれ・・・・・と。

080713020426vietnam1 080713020426vietnam2 080713020426vietnam3_2

●本日、カウントが13万を越えました。G=18,800 、Y=12,800&444

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2008年7月12日 (土)

えりも辺地医療の鈴木陽子医師

「NHKアーカイブス」(08/6/28)で放送された、NHKスペシャル「たったひとりの医師として ~えりも・辺地医療の11年~」(2001/5/26放送)と、ドキュメンタリー'90「安心をあげたい ~えりも岬に母さん医師がきた~」(1990/7/11日放送)(HPはここ)を見て、世の中には大変な人がいるものだと感心した。(もちろん自分など比較の対象にならないが)

医師の鈴木陽子さんは、もともと厚生省の麻薬取締官として7年間勤務していたが、出産を機に退職して娘と息子の二人の母として専業主婦をしていた。しかし、33歳の時にテレビでたまたま見たへき地医療の番組で、自転車に乗って往診に行っている医師の姿を見て、「誰かが必死になって待っている人がいるというのは、いいな・・・」と自分もやってみたいと思うようになった。そして4才の子供を抱えながら猛勉強し、36歳で大阪市立大学医学部に合格。42歳で医師の資格を取る。その後、大阪の総合病院で経験を積んだ後、娘が高校を卒業したのを機に、えりもで医師を探していることを知って、辺地の医師になる夢を実現させることにした。1990年5月、49歳単身での旅立ちであった。行き先は、北海道のえりも町立診療所。この時、診療所に二人いた医師が辞めてしまい、住民の不信感が高まっていた。それから、たった一人で20人近い入院患者の回診から、毎日100人以上の患者の診察、夜間の急患の対応まで、24時間何が起きるか分からないピリピリした生活が続く。
080712erimosuzuki_2 全国では600人に一人の医師がいるが、えりもでは住民6400人に一人。しかし、手術が出来る設備も無く、急患は応急処置だけで大きな病院に送るしかない・・・
でも念願の往診をしてみて、「在宅の寝たきりの人は初めて見たが、みんな良い顔をしている。やはり、自分の家が良いのだ。医者の仕事の大部分は安心をあげることだから、結構聴診器をあてるだけでも意味があるのかも知れない」・・・

しかし、襟裳は遠い。父親が倒れた時も、徳島まで23時間もかかり、結局2時間間に合わず、死に目にも会えず。そして、2年間の契約が終わり、大阪に帰ろうとしていた時、息子が会社で倒れる。脾臓に12センチの腫瘍・・・・
「あきらが育っていくと同時に、私の中にも変化が起きてきた。あきらと同じ位の子供にも、その母親にも親しみを感じた。私の母性愛が沸々と毎日湧き出し、自己中心的だった私を、それではいけないと思うように変えていった。私の医師になった原点であるあきらが死んだら、すべて何の意味もない。私自身の人生さえ・・・・」
そして手術の結果、良性と分かった。
「身近な者が病気をして、医者としてのあり方が大分変わった。患者の周囲の人の不安が良く分かった。」そして町との契約を延ばしてえりもに残った。
それから数年後、39歳の藤戸収作医師が入り、この人なら後を任せられると思い、大阪に帰ることにした。そして2001年3月に大勢の人に見送られてえりもを去る。時に60歳。
その後、夫(受付・医療事務)と二人で淡路島に診療所「神陽台クリニック」を開き、今に至るという。
最後に(今の)鈴木さんは言う。「知らない人ばかりの所に来て、しまったと思い、いつ大阪に帰ろうかと思っていたとき、新聞で養老孟司さんのお母さんが90何歳で現役の女医(小児科医)と聞いて、“これだ”と思った。自分も100まで生きて現役を続けようと思ってから気が楽になった。ここで灰になるという覚悟が決まった」
今は、えりもの診療所は外科と消化器科の2名によって守られているという。

番組後、辺地医療に60年間携わっている早川一光医師(84歳)のコメント。「鈴木医師をえりもに止めたものは、有難うという医者と患者の結びつき、えりもの住民の笑顔、感動の涙。これが鈴木さんを11年えりもに止めた」「地域医療とは、暮らしの中に病気がある。暮らしの中に医療がある。暮らしの中に治療がある」「みなさん、最後は家に帰りたいという。家が病室。間の道は病院の廊下。一番大切なのが家族の支え。これを作っていくのが我々の仕事。それが医療。“治し”の医療ではなくて“癒し”の医療が大切」「辺地医療はソロではなくてシンフォニー。ひとりの人の良心・赤ひげだけに頼っているのではなく、その先生の周りを固める協力体制が必要」・・・

また、長々と番組を文字にしてしまった。
(40年前の学生時代に襟裳岬に行った事がある。電車は途中までで、襟裳岬にはバスで行った。あの襟裳かと、その当時の景色を目に浮かべながら見てしまった)

この番組は、鈴木さんの姿勢はもちろんだが、同時に辺地医療、地域医療や在宅看護についても考えさせられる番組であった。
しかし、鈴木陽子さんの“想い(&スタンスと実行力)”には言葉が無い。(もはや、評論する対象ではない・・)
しかし夫の鈴木茂夫さんの言葉に救われる?・・・「すごいですね。バリキがね・・。うらやましいです。私にはちょっとマネができない」
この言葉にホットしてはいけないのだが、なぜか自分はホットする・・・。(夫婦が鉄人であるのではなく、夫は我々と同じだった・・・。ホッ・・)

仏教では「生老病死」を四苦という。(参考ここ) 我々にはまだこれから「老病死」 の4つがめぐってくる。自分も、まだまだ他人事と思っているが、そのうち、覚悟させられる時が来るのだろう。
とにかく、生涯現役医師を目指す鈴木陽子医師に合掌である。
(本も出ているらしいので(これ)、そのうち読んで爪の垢でも煎じよう)

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2008年7月11日 (金)

喜多郎のNHK特集「シルクロード」のテーマ

NHK BS2の「蔵出し劇場」で「NHK特集“シルクロード”」(-絲綢之路-~1980年4月~1981年3月までの12回放送)が先週終わり、「NHK特集“シルクロード”第2部」(~1983年4月~1984年4月までの18回放送)の再放送が始まった。([BS2]毎週火曜 後7:45-8:34)
この番組が最初に放送されたのは1980年というから、もう30年近く前になる。しかし幾多あるNHKの番組の中で、過去最も印象の強い番組としてこの「シルクロード」を挙げる人は多いのではないか。自分もこの番組で喜多郎に目覚めた事は、前にも書いた。(ここ
そして、この第2部のテーマソングがこの「キャラバンサライ」だ。

<喜多郎「シルクロード~天竺」より「キャラバンサライ」>(CDはこれ

この主旋律に使われている「シタール?」の音が、何とも異国情緒豊かで良い。

ついでに、NHK特集「シルクロード-絲綢之路(しちゅうのみち)-」の有名なテーマも聞いてみよう。

<NHK特集「シルクロード」より「絲綢之路」>(CDはこれ

何年経っても、実に良い曲だな・・・・。そういえば、喜多郎のコンサートには、昔、夢中になって行ったっけ。残っているプログラムを数えてみると、1982年から1987年に、4回行ったことになっている。

しかしこの番組を今見ると、さすがに昔の中国だが、当時の中国は閉ざされた世界だった。その中国をこじ開けたこの番組は、新鮮だった。
2005年にハイビジョン化した同番組が放送されたが、今回の再放送は「蔵出し劇場」なので、そのリマスター版ではなく、たぶんオリジナル放送版なのであろう。

そういえば、昔、会社で実験用の映像信号源用としてパイオニアのLD(レーザーディスク=1981年発売)を買ったが、その時のメディアディスクとして、この「シルクロード」のLDディスクを買った事を思い出した。
1980年代、自分はまさに「シルクロード」と「喜多郎」にどっぷり浸かっていたわけだ。しかし最近は、この「シルクロード」のような歴史に残る名番組が少ないように思うが、どうだろう?

(関連記事)
NHK特集「シルクロード-2」がアンコール放送される

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