2016年12月 1日 (木)

日弁連の「死刑廃止宣言」に思う

先に日弁連が死刑廃止宣言を出したが、論客の軍団で、色々な意見が噴出するであろう日弁連が、どうしてこのような統一見解を出せたのか、不思議だった。それで経緯を、新聞記事から追ってみた。

日弁連の死刑廃止宣言案に反対 被害者支援弁護士ら声明
 日本弁護士連合会が7日に福井市で開く人権擁護大会で死刑制度廃止の宣言案を提出することについて、犯罪被害者の支援に取り組む弁護士らでつくる「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」が3日、「犯罪被害者の人権や尊厳に配慮がない」などとして採択に反対する声明を発表した。
 声明では、弁護士の中でも死刑に対しては様々な考えがある中で、「強制加入団体である日弁連が一方の立場の宣言を採択することは、日弁連の目的から逸脱し、個々の弁護士の思想・良心の自由を侵害する」と指摘。「凶悪犯罪の被害者遺族の多くは加害者に死をもって償って欲しいと考えており、宣言は被害者の心からの叫びを封じるものだ」と批判している。
 また、人権擁護大会では委任状による議決権の代理行使はできず、現地に出向いた人しか意思表示ができない。出席するのは約3万7千人の弁護士のうち数パーセントとみられ、声明では、こうした場での宣言の採択にも問題があるとしている。フォーラムの事務局長を務める高橋正人弁護士は「犯罪被害者から弁護士への信頼がなくなり、支援活動がしにくくなる恐れもある」と話した。(千葉雄高)」(
2016年10月3日付「朝日新聞」ここより)

日弁連、「死刑廃止」を宣言 賛成は7割弱、反対意見も
 日本弁護士連合会は7日、全国の弁護士が福井市に集まって開催した人権擁護大会で、「2020年までに死刑制度の廃止を目指し、終身刑の導入を検討する」とする宣言を採択した。日弁連が「廃止」を掲げるのは初めて。
 宣言は「被害者遺族の厳しい感情は自然で、被害者支援は社会全体の責務」としたうえで、刑罰は犯罪への報いにとどまらず再犯防止につながるものでなければならないと指摘。さらに事件に至る背景にも目を向け、罪を犯した人の社会復帰と人間性の回復を後押しする制度の導入が社会の安全につながるとした。
 宣言採択の背景には1980年代に四つの死刑事件で再審無罪が確定し、2014年3月には袴田事件の再審開始決定が出るなど、相次ぐ冤罪(えんざい)事件がある。このため宣言は死刑と決別すべきだとしながら、終身刑導入の検討を求めている。目標期限は、制度廃止を勧告した国連の会議が日本で開かれる4年後にした。
 この日は採択に先立ち、24人が賛成・反対の討論を行い、激論を交わした。
 袴田事件弁護団長の西嶋勝彦弁護士(東京)は「冤罪が疑われる死刑事件が多くある。誤判がある以上は制度を廃止すべきだ」と訴えた。一方、被害者支援に取り組む高橋正人弁護士(第二東京)は反対討論で「被害者遺族が犯人を殺してもいいのか。死刑の廃止はむしろ秩序を乱す」と批判した。
 黒原智宏弁護士(宮崎県)は、自身が担った死刑事件で遺族が加害者と面会を続け、「反省を見極めたい」と最高裁に判決見直しを求めた事例を紹介。被害感情も一様でないと指摘した。
 日弁連の会員は約3万8千人。方針の決定は理事会に委ねられることが多いが、この日は特に重要なテーマのため来場者786人で採決した。その結果、賛成は7割弱の546人、反対96人、棄権144人だった。
 閉会後、日弁連の木村保夫副会長は記者会見し、「犯罪被害者支援に取り組む弁護士から多くの意見を頂いた。しっかり被害者の声に耳を傾け、国民の理解を得る活動を強化し、政府にも法改正を提言していきたい」と話した。(阿部峻介)」(
2016年10月8日付「朝日新聞」ここより)

日弁連の死刑廃止宣言から1カ月 執行に「ショック」
 法務省が11日、熊本県内の強盗殺人事件の死刑囚の刑を執行した。日本弁護士連合会が10月の人権擁護大会で、「2020年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言を採択してから約1カ月。関わった弁護士らは驚きの声を上げた。
1人の死刑執行 熊本強盗殺人の死刑囚 法務省
 記者会見した金田勝年法相は、裁判員裁判を経て確定した事件の死刑を執行したことについて「判決は、慎重な審理を尽くして言い渡すものと承知している。判断を尊重しつつ、慎重かつ厳正に対処すべきという観点から命令を出した」と説明。日弁連の宣言については「死刑の存廃に様々な意見があり、そのような意見の一つと考えている。国民の多数が死刑をやむをえないと考えており、廃止は適当ではない」と語った。
 「ショックだ。日弁連が何を言おうと執行は続けるという法務省の固い決意を感じる」。日弁連死刑廃止検討委員会のメンバーの海渡雄一弁護士は憤りを見せた。「死刑廃止国では、廃止の前に執行を停止した期間があり、まずそれを実現するのが目標。壁は高いが、宣言を機に死刑についての議論が活発化しているのは確かで、あきらめないでやるべきことをやっていきたい」と話した。
 宣言は、死刑判決が確定していた袴田事件で14年3月に再審開始決定が出たことなどが背景にある。日本に制度廃止を勧告した国連の会議が日本で開かれる20年までの死刑廃止を目指すとしている。関係者によると、日弁連は会長が法相に直接宣言を手渡したいと申し入れているが、なかなか日程が決まらない状態だったという。
 一方、犯罪被害者の支援に取り組む弁護士を中心に、宣言には反対の声も根強い。反対を表明してきた弁護士団体「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」の事務局長を務める高橋正人弁護士は「死刑廃止は立法の話で、日弁連が目指すと言っても廃止されたわけではない。死刑は法律で定められ、最高裁でも合憲とされている。淡々と執行するのは当然のことだ。日弁連は死刑執行後に毎回反対声明を出すが、法を守るなというのはおかしな話だ」と話した。(千葉雄高)」(
2016年11月11日付「朝日新聞」ここより)

日弁連の死刑廃止は、 冤罪と世界の流れが背景らしい。
それにしても、議論百出であろう死刑廃止宣言がなぜ採択されたかというと、「人権擁護大会では委任状による議決権の代理行使はできず、現地に出向いた人しか意思表示ができない。」「日弁連の会員は約3万8千人。方針の決定は理事会に委ねられることが多いが、この日は特に重要なテーマのため来場者786人で採決した。その結果、賛成は7割弱の546人、反対96人、棄権144人だった。」
つまり、日弁連の会員のたった2%の会員の出席のもと、1.4%の会員の賛成で、“日弁連として採択”されたそうだ。
このことは、まさに自分も「強制加入団体である日弁連が一方の立場の宣言を採択することは、日弁連の目的から逸脱し、個々の弁護士の思想・良心の自由を侵害する」であると思う。
天下の日弁連で、なぜこんな一部意見の横暴がまかり通るのか、不思議でならないが、それはそれとして、冤罪については、考えてしまう。

NHKテレビで、「ブレイブ 勇敢なる者「えん罪弁護士」」(2016/11/28 放送 ここ)を見た。
NHKのHPにはこう解説がある。
「「無罪」獲得「14件」。その実績に他の弁護士は「異常な数字」「ありえない」と舌を巻く。“えん罪弁護士”の異名を持つ今村核(いまむら・かく)は、有罪率99.9%と言われる日本の刑事裁判で20年以上も闘ってきた。過去に取り組んだ放火事件や痴漢事件では、通常裁判の何倍もの労力をかけて科学的事実を立証し、矛盾や盲点、新事実の発見からえん罪被害者を救った。自身の苦悩を乗り越え、苦難の道を歩み続ける男に迫る。」

弁護士が無罪を勝ち取るのは、一生に一度あるか無いか、だという。その世界で、今村弁護士は、14件も無罪を勝ち取ったという。その確率が99.9%で1000件に1件とすると、判決14000件分の無罪判決。
この番組でも出て来たが、冤罪で多いのはやはり痴漢事件。無罪を主張すると、仕事や家庭を奪われ、反省がないと数年間の実刑も覚悟。よって、いくら冤罪でも罪を認めて罰金を払う例が多いという。
つまり、日本には冤罪がたくさんあるということだ。もちろん、その背景には、求刑の7~8割を機械的に判決する、裁判官の官僚的な惰性(事なかれ)があることは否めない。

ついでに、死刑廃止について、こんな記事も見付かった。

日弁連「死刑廃止」宣言の意味は
 ◆ 山形大学の高倉新喜教授(48)
 10月初旬に福井市で開かれた人権擁護大会で、日本弁護士連合会が「2020年までに死刑制度廃止を目指すべきである」との宣言を採択した。死刑制度の争点は何か、宣言にどんな意味があるのか、山形大学の高倉新喜教授(48)=刑事訴訟法=に聞いた。

 ◆ 相次ぐ冤罪と世界の流れ意識
 ――宣言に対する率直な感想は。
 日本最大の人権擁護団体が正面から宣言したインパクトは大きいと思う。日弁連は全国の弁護士が登録しなければならず、会員数は約3万8千人。大会にはそのうち1千人ほどしか出席していないとしても、大きい。反対する弁護士もいる中、それを押し切って採択に至ったんでしょう。
 ――押し切った理由は何だと思いますか?
 冤罪(えん・ざい)と世界の流れを考えたのでしょう。戦後だけで四つの事件で確定死刑囚が再審無罪になった。最近では袴田事件で再審開始決定が出ました。世界ではOECD(経済協力開発機構)加盟国で死刑があるのは日本と米国と韓国だけ。さらに韓国は18年以上、死刑を執行していません。
 ◆ 「将来廃止」4割
 ――2014年の内閣府の世論調査では、8割以上が「死刑もやむを得ない」と答えました。
 被害者感情が大きいと思います。身内が殺されて死刑を求めるのは当然でしょう。ただ、同じ調査で「状況が変われば、将来的には廃止してもよい」と40・5%が答えた。死刑がどのように執行されるのか、死刑囚がどんな生活をしているかなどの情報が広く伝わり、多くの人が関心を持つことが大事だと思います。
 ――死刑は最高裁判決でも合憲とされています。
 1948(昭和23)年、最高裁判所大法廷で死刑制度を認めることが当然の前提とされ、大勢が固まったと言えます。その際、火あぶりやはりつけなどは残虐な刑罰に該当するとされました。
 私は、執行方法がどうであれ人の生命を奪うこと自体が「残虐な刑罰」に当たると考えています。「法律の定める手続によらなければ(中略)刑罰を科せられない」とする憲法31条は死刑制度を是認しているように読めますが、死刑を廃止することを禁止しているわけではありません。
 ――死刑を廃止した英国では、殺人事件が増えたというデータがあります。
 英国では69年に謀殺罪への死刑を完全に廃止しました。その10年後、人口百万人あたりの殺人事件の発生率は年4%ほど増えましたが、米国では死刑がある地域で殺人事件の発生率が、廃止した地域よりも高いというデータもある。死刑に犯罪抑止力があるかどうかを実証することは難しいと思います。
 英国では半数以上の世論が死刑を支持しています。にもかかわらず廃止されたのは、冤罪への恐れゆえではないでしょうか。
 ――日本でも取り調べの可視化など、冤罪を防ぐ取り組みが進んでいます。
 今年5月に刑事訴訟法が改正され、2019年6月までに一部の事件で取り調べの録音・録画が始まる。少なくとも自白の強要はできなくなりますが裁判所も完全ではないでしょう。
 ◆ 応報でなく更正
 ――私たちの生活に、どう関わるのでしょうか。
 山形地裁ではこれまで、死刑判決が出たことはありません。でも、やっていない凶悪事件の容疑者として逮捕される可能性はある。冤罪は自分に関係がないということはありません。
 刑罰は応報だけでなく更生の意味もある。応報だけならば、命を奪ったなら命で償えと死刑にするしかありません。刑罰には更生の目的も必要だと思います。(聞き手・多鹿ちなみ)
 ◎たかくら・しんき 1968(昭和43)年、札幌市生まれ。北海道大学法学部、同大学院法学研究科を経て99年に博士(法学)取得。2001年に講師として山形大学に。14年2月から教授。」(
2016年10月25日付「朝日新聞」ここより)

やはり違和感が残る。冤罪が多いので、取り返しが付かない死刑を廃止!?
それよりも、冤罪そのものを無くす努力が必要なのでは?
まずは、すべての事件の取り調べは、100%録音・録画。たった3%の裁判員裁判の対象事件(重大事件)だけではなく、どんな些細な事件の取り調べも100%!!
今や、ドライブレコーダーの時代。それに大容量HDDやカメラの値段も安くなった。すべての警察の取調室にカメラを設置して、録画しても、たいしたことはない。

日弁連も取り調べの可視化の全件拡大を提言しているらしいが(ここ)、違和感のある死刑廃止よりも、そっちに力を入れて欲しいと思う。

(関連記事)
安田好弘弁護士のドキュメンタリー「死刑弁護人」を見て 

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2016年11月29日 (火)

「3.9+5.1=9.0」は減点~小学校算数の奇習

このような理不尽な話は、どうしても許せない。怒りが湧く。
今朝(2016/11/29)のテレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」。「ショーアップ」のコーナーで「大論争 算数のテスト“減点”に異論 一方で教師の苦悩も」というテーマが“論じられて”いた。
161129hatori 3.9+5.1=9.0は正解ではなく、減点対象だという。何と「.0」に斜線を引き、「9」が正解だという。この話に疑問を感じた大人がツイッターに投稿したところ、ネット上で大論争になっているという。「何とバカな」を思っても、なかなか奥が深い話らしい。
番組では玉川さんが大反論をしていたが、現場にいたアナやコメンテーターも、若手は「そう学校で教わった」とのこと。
そして驚くのは、街中で取材すると、小学生はすべて「9」と解答するのである。確かに、学校教育は子供に浸透している・・・。
「有効桁数」の概念を踏み潰して、“間違ったこと”を教えているのに・・・。

番組でも、玉川さんが有効桁数を指摘するが、「それは数学の話で、ここは算数の話」と言われてしまう。
番組で、数学検定協会に聞くと、「9.0でも9でも正解」との回答。
番組が言うには、「小学3年生の教科書の中では、“9.0”の“0”の部分に斜線をして“9”とすると表記されている」とのこと。
そして、減点した理由は、「小学3年生で初めて小数点に出会う。9.0が9と同じ値だということが分からない児童がいる。だから9.0が出て来たら9と同じなんだから0を消して分かり易くしようね、と教えている。」とか・・・。

現役小学校教師の「教えたことをやっていないから減点にしたのではないか」という指摘や、「ルールは守りましょう」ということで減点しているのでは?という話がホントウなら、いやはや怖ろしい・・・。
「100点取った人間が必ず優秀とは限らない」のに・・・

161129kennnel この話をググってみると、確かにツイッターでの話がキッカケらしい。
‏@kennel_orgさんの「姪っ子の小3算数テストの採点結果。.0の有効数字に意味があるというのに全く訳がわからない。」という投稿(ここ)。

この話に、茂木健一郎氏がblogにこう書いている。
小学校の算数にまかり通っている「奇習」は、子どもたちに対する「虐待」である
2016/11/20 08:14
昨日、小学校の算数のテストで、「3.9+5.1=9.0」と書いたら、減点されたというツイートが流れてきて、とてもびっくりした。これははっきり言って一種の子どもに対する「虐待」である。これ以外にも、小学校の算数には謎の奇習があると聞く。
かけ算の順序、足し算の順序、という「問題」があって、2×3=6は正解だが、3×2=6は不正解、同じように2+3=5は正解だが、3+2=5は不正解、という「世界」があるのだという。詳細はアホらしいので書かないが、もし興味がある方は検索してみて欲しい。
数学的には、かけ算の順序や足し算の順序などは、どちらでもいいことはトリビアルな問題で、つまりは自然言語の世界と数式の世界をどのようにマッピングするか、ということで、そんなもん、どんなマッピングが良いかは趣味の問題で一つの型を押し付けることではない。
ある程度数学がわかっている人にとっては、「小数点問題」「かけ算の順序」「たし算の順序」問題はトリビアルに意味がないから「瞬殺」の話し(議論する必要すらない)であるが、小学校の算数で、そのような奇習がまかり通っていることは国の恥と言うべきことだろう。
問題は、瞬殺されるような間違いを、現場の先生方の一部、さらに驚くことには教科書会社の一部が子どもたちに強制しているということで、本当はMen In Blackのフラッシュライトのように「はい、こっち見てください」と呼びかけて瞬間修正したいところだが、世の中は不自由にできている。
小学校算数の奇習が一部でまかり通っている現状を改善するには、そんなもん、一瞬たりとも意味がない、という観念、情報を、折りに触れ拡散する必要があるだろうし、また、文科省にも、きちんとした対応をとっていただきたいと思う今日この頃である。
ふしぎに思うのは、ぼくが小学生の頃は、「小数点」「かけ算の順序」「たし算の順序」といった問題は経験した記憶がないということで、いつからそんな奇習が小学算数の一部に広がってしまったのだろう。もしそんなものがあったら、小学生のぼくはかなり深刻な大人不信になっていたと思う。
いずれにせよ、小学校の算数において、奇妙な「正解」を押し付けるのは、子どもの精神に対する虐待であり、許されることではない。そのような、数学的にトリビアルな奇習を押し付けている小学校教育界の「権威」(笑)の人たちは、自分たちの愚鈍を恥じ、反省し、改めて欲しいと思う。」(
ここより)

茂木氏は「奇習」と切って捨てたが、どっこい、教育現場ではこの奇習が押し付けられている。その背景は何か?

オリジナルのリツイート(ここ)を読むと色々な考え方があるようである。このリツイートの中に、教科書会社の東京書籍の“見解”があるというので、読んでみた。

Q12 3下p.12 の問題6①「1.2+2.8」の筆算において,答え4.0の「0」のみを斜線で消し,小数点は残したままにしている理由を教えてください

 筆算について,正式な基準や方法が定められているわけではなく,児童の実態などに応じて柔軟にご対応いただいて差し支えないと考えています。要は,「答えは4である」ととらえることができればよいのであって,例えば,「斜線を用いて0を消去していないから誤りである」とか,「小数点を斜線で消去したから誤りである」などといったことは全く意図していません。
  以下,3年下巻12ページ問題6①の小数の加法の筆算で,小数点以下の計算結果が「0」になる場合の,斜線を用いた消去の教科書上の表現の意図について説明します。
 まず,末位の「0」について斜線で消去していることについて述べます。
 筆算の手続きに従って計算すると,結果は4.0となります。ここでは,有効数字については考えませんので,4.0と4は同義であり,児童にとっても,筆算から得られた「4.0」から,「答えは4」とするのが自然です。「0」をそのまま残した場合,「小数の計算において,小数点以下が『0』になるときには,4.0と答えなければならない」との誤解が生じる可能性,また,小数点があることを忘れ,「答えは40」という誤答が生じる可能性に配慮し,0を斜線で消去することとしました。
 次に,小数点について,斜線で消去せず,そのままにしていることについて説明します。
小数点を斜線で消去することのメリットについては,例えば,

(1) 答えは4であることから「0」を斜線で消したのだから,小数点も斜線で消すことが児童にとっては自然であるということ
(2) 「答え 4.」のような誤答が生じる可能性に配慮すること

などのことが考えられます。しかし,0を斜線で消去し,答えは4であることをとらえたならば, (2)のような誤答が生じる可能性は低いと考えます。また,(1)については,誤答や誤解が生じるというレベルのことではないことから,結果として,小数点を斜線で消去する必要性はあまり感じられないと判断しました。
 以上のように,筆算には正式な基準や方法が定められているわけではありません。教科書紙面は,上述のような考え方に基づいて扱っていますが,斜線を用いた消去の表現について児童から疑問が出された場合には,その内容に応じて柔軟に対応していただくのがよいと考えます。」(
東京書籍のHPここより)

正直、読んでも良く分からなかった。つまり、胸にスッと入ってこない。しかし、0を斜線で消去することとしました。」という記述から、この問題は“教科書会社が決めた”ルールのようだ。

全ての教科書が同じように書いているかどうかは分からない。しかし、それよりも、「有効数字」を習った後は「9.0」が正解で「9」は不正解、というまったく逆のことが生じることが明白なこの話。
この教科書会社の暴論?を、教科書検定している文科省はどう考えるのだろう?

そしてもっと怖ろしいのは、「教えたことをやっていないから減点」や「ルールは守りましょう」という視点での減点だとすれば、まさに「子どもの精神に対する虐待」であり、独裁国家の洗脳教育になってしまう。
いやはや怖ろしい国、ニッポン!

161129benki <付録>「ボケて(bokete)」より

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2016年11月26日 (土)

「かつての出征シーンと同じだ」~“駆けつけ警護”に思う

今夜も、夕食後、カミさんとテレビBS日本の「こころの歌」に合わせて歌った(ここ)。11月21放送のテーマは「潮音」。最後に歌われたのが「群青」(ここ)だった。
戦争で海に散った息子を偲ぶ・・・・。何とも切ない歌である。もう二度と同じことを繰り返さない、と思っていたのに・・・・

今朝の「朝日新聞」の二つの記事が思い出された。
「(声)かつての出征シーンと同じだ 無職 女性(愛知県 77)
 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に参加する陸上自衛隊の先発隊が、新任務の「駆けつけ警護」を付与されて現地へ渡った。
 青森空港を出発する様子を伝えた21日朝刊の記事を、私は涙なしに読めなかった。ある隊員の母親は息子から11月から長期出張だと聞いた。行き先を尋ねても答えはなかったが、「南スーダンに行くんだな」と思ったという。別の隊員の母親は10月、普段そっけない息子が、家族で焼き肉を食べに誘ってくれ、しきりに「食べて」と取り分けてくれたことを語った。
 幼い息子を抱き上げ、見つめる隊員の姿をとらえた写真からは、最悪の事態も想定し、二度とこの顔を見られないかもしれないという隊員の複雑な思いが伝わってきた。
 晴れの見送りの場で、「南スーダンになど行きたくない」とはおおっぴらには言えない隊員たち。「行かないで」と引き留められない家族たち。これは、71年前に終わったはずの先の戦争における出征シーンと一緒ではないか。
 私たち日本人は平和を守るために戦争の悲惨さを語り継いできた。しかし、語り継ぐ内容は先の戦争のことで終わりにすべきだ。」(
2016/11/26付「朝日新聞」p12より)

「「命がけ」理解はあるのか 駆けつけ警護、識者に聞く
        柳沢協二・元内閣官房副長官補
 安全保障関連法の目的の一つは、駆けつけ警護などの新任務に伴う自衛隊の武器使用権限の拡大だ。新任務の危険性は高いが、そのことは国民に十分には知られていない。
 安保法制の議論で決定的に欠けていたのは「戦場」のリアリティーだ。こちらが撃てば相手は撃ち返す。戦場はそういうものだ。政府は駆けつけ警護がそうした世界へ踏み込むことだとは説明せず、国民の理解が足りないまま、任務として与えられてしまった。
 南スーダンで自衛隊が直面しうる深刻なケースは、銃を持つ兵士が民間人を襲っている現場に駆けつけるというものだ。武装した自衛官から制止されれば、兵士は驚いてすぐに撃ってくるかもしれない。自衛隊側も反撃し、犠牲者が出ることもありうる。
 自衛隊は抑制的な武器使用基準のもと、海外活動で1発の弾も人に向けて撃っていない。それが戦闘による自衛官の犠牲を1人も出していないことにつながっている。多くの国民はこうした活動を支持してきたので、新任務を与えられても「非戦闘地域で人道支援をしている自衛隊が銃の撃ち合いをすることはない」と思っているのではないか。
 一方、自衛官はプロなので危険性を理解している。彼らにとって最も耐えがたいのは、命がけの任務が国民の支持を得ているか、確信を持てないことだ。
 自衛隊がイラク派遣された時期に内閣官房副長官補だったが、官邸では「1人でも自衛官の犠牲者が出たら内閣はもたない」との意識が共有されていた。直接「撃つな」とは言っていないが、「まさかそんなことしないよね」という空気は部隊にも伝わっただろう。だが、危険にさらされた市民の保護が喫緊の課題である南スーダンPKOの実態を見ると、1発も撃たないことを前提とした自衛隊の活動は難しいのかもしれない。
 政府は、日本の国益のために南スーダンでどんな貢献をしたいのかという原点に立ち返るべきだ。自衛隊派遣は必要か、もっと有効な代替手段はあるのか。その議論を通じて形成される国民理解がないなかで、自衛隊に危険な任務を強いるのは、あまりに酷だ。(聞き手・其山史晃)
 ◆キーワード
 <自衛隊の海外での武器使用> 1992年成立の国際平和協力法は、海外での武力行使を禁じた憲法に配慮して、隊員の命を守るための必要最小限の武器使用のみを「自己保存型の自然権的権利」として認めた。任務遂行のための武器使用は認められていなかったが、安全保障関連法により、駆けつけ警護などの任務の妨害者らに対しても武器が使えるようになった。」(
2016/11/26付「朝日新聞」p4より)

この中で、「彼らにとって最も耐えがたいのは、命がけの任務が国民の支持を得ているか、確信を持てないことだ。」「政府は、日本の国益のために南スーダンでどんな貢献をしたいのか」「国民理解がないなかで、自衛隊に危険な任務を強いるのは、あまりに酷だ。」という言葉が重い。

日本は、今まさに、“いつ自衛隊員の犠牲者が出るか?”のフェイズに移っている。安倍1強の現在、「官邸では「1人でも自衛官の犠牲者が出たら内閣はもたない」との意識が共有されていた。」という雰囲気もない。

“頼りない” 稲田防衛大臣、そして“我が党においては結党以来、強行採決をしようと考えたことはない”とヌケヌケと言ってのける安倍総理。
こんな堂々たるウソが通るのが国会なのだから、期待するべくも無く・・・

「自衛隊員に死者」というニュースが飛び込んだ時、そのお二人がどう言い訳をするかは、既に記者会見“読み上げ原稿”が出来ているのだろう。
それらの政治の暴走を許しているのは、主権者たる我々国民。止められないのも国民・・・。
お隣、韓国では大統領の辞任を求めるデモが、100万人を超えているという。幾ら感情的に過ぎる、と言われようが、政治に対するその熱気・・・。ある意味、羨ましいと感じるのは自分だけか?

161126isu <付録>「ボケて(bokete)」より

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2016年11月24日 (木)

横浜市の「原発避難いじめ」に思う

日々流れるニュースで、イジメに関する話題ほど、心が痛むものはない。先日の、横浜市に避難した原発被災者に対するイジメは、その冴えたるもの。

本件について、各紙に掲載された社説を色々と読んでみた。
その中で、信濃毎日新聞の社説である。
原発避難いじめ 差別をはびこらせるな
 いわれのない差別やいじめに苦しむ子どもと保護者の訴えを、学校も教育委員会も正面から受けとめようとはしなかった。その姿勢は厳しく批判されなければならない。
 原発事故が起きた福島県から横浜市へ両親と自主避難した男の子が転校先の小学校でいじめを受けた問題である。中学1年になった今も不登校が続いている。
 いじめは小2の転校直後に始まり、同級生から名前に「菌」を付けて呼ばれた。小5に進級した一昨年には、ゲームセンターなどで遊ぶ費用や食事代を払わされた。「賠償金があるだろ」と言われ、総額およそ150万円を家から持ち出している。
 学校は両親から相談を受け、同級生らに事情を聴いた県警からも連絡があった。なのに対応していない。内部調査で男の子が自分から渡したと判断し、いじめとは認識しなかった。市教委も「介入できない」との姿勢だった。
 「なんかいもせんせいに言(お)うとするとむしされてた」「いろんなはなしをしてきたけどしんようしてくれなかった。だからがっこうはだいっきらい」―。
 男の子は小6だった昨年、手記につづっている。子どもからこんな悲痛な叫びをぶつけられる学校とは、いったい誰のための場所なのかと思わされる。
 いじめを受けて自ら命を絶つ子が各地で絶えない。手記は、自分は死を選ばなかったことを伝えたいという男の子の強い意思で公表された。
 「なんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」。けい線をはみ出す力強い字に必死な思いがにじむ。
 両親がいじめ防止対策推進法に基づく調査を求め、市教委が第三者委員会に諮ったのは今年1月。男の子が不登校になって1年半余も過ぎてからだ。第三者委は報告書で、学校の対応を「教育の放棄に等しい」と非難している。
 それとともに見過ごせないのは、福島からの避難者を差別、排除する意識が社会に深く巣くっていることだ。それが子どもたちに投影されていないか。「放射能がうつる」などといじめられる事例は震災後、各地で相次いだ。
 お仕着せの対策ではなく、差別と排除をはびこらせないために大人がどう行動するかが問われている。子どもが生き生きと学び育つ権利をどうすれば守れるか。保護者や住民も関わり、教育の場で主体的な取り組みを起こしたい。
」(2016/11/19付「信濃毎日新聞」社説より)

前にテレビで見た横浜市教育長などの記者会見は、あまり愉快なものではなかった。とても、血が通っているようには見えなかった。
世の中から、陰鬱なイジメを無くすためにはどうすれば良いのだろう。

先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「(声 どう思いますか)10月30日付掲載の投稿「いじめ加害者の親にも刑事罰を」
 ■いじめ加害者の親にも刑事罰を 無職(千葉県 65)
 青森県の女子中学生が、いじめを苦に自ら命を絶った。彼女が写っていた夏祭りの写真。その表情は実に屈託がなく、幸せそのものに見える。しかし本当は、つらく悔しかったろう。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。なぜ、いじめがなくならないのか。様々な対策を見聞きするが、手ぬるいがゆえに、あまり成果が出ていないように思える。
 いじめ根絶には、加害者側に厳しく対処すべきだ。過激な提案のようだが、加害者本人だけでなく親権者の刑事責任も問う「連座制」を設けてはどうか。18歳未満の子どもの行動には、親権者が責任を持つべきだ。親も懲罰を受ける可能性があれば、親権者は子どもの行動により注意を払うはず。親に迷惑をかけないように、子がいじめをやめる抑止効果も期待できる。
 加害者側が痛みを感じる社会でないと、いじめがなくなることなどない。親子連座制は有効な対策と考える。失われた命は戻らない。悲劇を繰り返してはだめだ。(10月30日付掲載の投稿〈要旨〉)
     ◇
 ■親にも責任、見抜けぬのは怠慢  団体職員(岐阜県 53)
 ご投稿に共感した。いじめ加害者のありように、家庭が関わっていないはずはない。我が子のいじめのサインが見えないとしたら、親の怠慢に尽きる。
 教師をしている友人によると、学校からいじめ行為の指摘を受けても、「うちの子だけですか」「他の子に唆されているのでは」と子を擁護する親が少なくないという。
 いじめという重大事を軽視する親の姿勢は人権軽視にほかならず、それがしばしば子に反映されるのが「いじめの本質」だ。人権軽視が高じて人命軽視になり、ひどいときは命が失われる。
 加害者が罪を償うのは当然だ。また、親もそれに準じて扱われるべきだ。わが子を止めず、被害者やその家族の人生を変えてしまった親が刑事罰を負うことに、何ら疑問を感じない。親には、真剣に我が子に向き合う義務がある。

 ■親子は別、厳罰化にも疑問  NPO法人理事(神奈川県 41)
 ご投稿は、公職選挙法の連座制からの連想ではないか。悪質な選挙違反があった場合に当選が無効になるものだが、背景には候補者と秘書らを一体としてとらえる考え方があると思われる。
 仮に、いじめ対策に「親子連座制」を導入するなら、「親子は一体」ととらえることを意味するのだろう。だが親子といえども行動は一体ではなく、子どもは親の付属物でない。連座制はおかしい。
 「親子連座制」を導入しても、処罰できるのは、法に触れる行為で、加害者を特定できる場合に限られる。ネットいじめの場合は加害者の特定が難しいし、被害と加害の関係が流動的ないじめもあり、現実的でない。
 未成年者が起こした不法行為についての損害賠償責任は親権者などが負う。「親子連座制」は、刑事責任ではなく民事責任の中で考えるべきだろう。

 ■どの命も重いと理解させよう  作業療法士(東京都 41)
 後を絶たない痛ましい事件。「いじめ防止に即効力のある手立てを」という思いになります。しかし、罰を受けるから、親に迷惑をかけるからいじめをしないというのは、根本的な解決にならないでしょう。
 9歳の末っ子はダウン症です。「変な顔」「キモい、こっち来るな」とからかう子もいます。上のきょうだいたちも弟のことで、時に嫌がらせを受けます。私はからかう子に気づくたび、ダウン症について説明したり、先生に対応をお願いしたりしています。
 世の中には様々な人がいて、どの命も重いと子どもたちが理解できれば、いじめないでしょう。それを理解しない子がいるなら、環境に原因があります。幼児期から教育し、いじめを早期発見し、問題を見つけたらその都度、解決を図る。遠回りでも、それしかないと思います。

 ■子供たちの感性磨くことが大切 無職(大阪府 68)
 加害者だけでなく、親権者にも「連座制」責任を問うことに疑問を覚える。おそらく家庭内での親の関わりや、管理、教育責任を問う問題提起と考える。だがいかに罰則を強化したところで、どれだけの抑止効果が期待できるのだろうか。また、どんな罰則を科せばよいのか。
 遠回りに思えるが、周囲の大人たちが子供たちと関わりを持ち、ぬくもりを感じる言葉をかけることで、子供たちの感性を磨いていけるのだと思う。子供たちにとっては、見守られているという安心感につながる。
 まずは「いじめ、暴力は絶対に許さない」との断固とした気風を醸成することだ。他者の痛みや苦しみを共有できるか、善悪の判断基準を持てるか、そして無関心を装うことの功罪など様々な視点から、学校も家庭も社会全体も考えていくべきではないだろうか。

 ◆親への支援こそ有効  非行に詳しい須永和宏・前東京家政学院大教授
 家裁調査官として長年、少年や少女たちと向き合ってきました。確かに、「子の不始末は親の不始末」との意識は社会に根強くある。それだけ問題が深刻なのでしょう。
 ただ、いじめ問題は複雑。ある高校生は級友をいじめて暴力をふるっていたが、自身も過去にいじめられ、暴力を受けていた。人間不信に陥って親をはじめ大人に心を閉ざし、警察沙汰になっても取り調べでは事情を明かさなかった。家裁調査官とじっくり話をする中で重い口を開いた。こうした子を抱える親も悩んでいる。そうした中で、厳罰で対処すれば子ときちんと向き合うようになり、いじめが防げるといった問題ではない。
 問題を抱えた子を持つ親向けに関係機関が相談や指導に当たり、親子関係立て直しを促すことが求められます。」
(2016/11/23付「朝日新聞」p16より)

つまりは、もう刑事罰まで考慮しないといけない所まで来ている、ということか・・・。
学校もダメ、教育委員会もダメ、警察もダメ。すると刑事罰を与えるからと脅して、親を動かすしか方法は無い・・・!?

そもそも「罰」が怖いので、動く、ということは長続きはしない。しかし、「それでは、即効ある代替案は?」となる。
つまり、各紙から読み取れる横浜市の対策は、「指示した」程度で、到底即効性があるとは思えない。

今朝の朝日新聞の社説にこうある。
被災いじめ 再発防止をめざすなら
 事実をはっきり示さないまま教育現場に「いじめ問題への取り組みの徹底」を指示して、果たして実が上がるのだろうか。
 原発事故後、福島県から横浜市に避難した小学生がいじめを受けた問題で、市教育委員会が市立の小中高に通知を出した。
 いじめ防止対策推進法にもとづき、市教委の諮問をうけて今回の問題の調査にあたった第三者委員会の提案を踏まえた。
 理解できないのは市教委による第三者委の報告書の扱いだ。全26ページのうち公表されたのは答申部分の7ページと目次だけ。しかもあちこちに黒塗りがある。
 実際にどんな問題行動があったのか。学校や市教委はどう判断し、いかなる対応をとってきたのか。答申の前提となった事実経過はほとんどわからない。
 いじめが原発事故の避難に伴うものだったこと、被害者は名前に「菌」をつけて呼ばれていたこと、不登校になったこと、「賠償金があるだろう」と言われ、ゲームセンターなどで遊ぶ金を負担していたこと――。
 今回の事件を特徴づけるこうした事実は、被害者の代理人弁護士の会見などで明らかになったもので、公表された報告書からはうかがい知れない。
 深刻ないじめが起き、学校や市教委もそれなりに状況をつかんでいたにもかかわらず、なぜ「重大事態」と受けとめられなかったのか。関係者とのやり取りや学校側の迷いなど、具体的な経過がわかってこそ、現場の教職員は教訓をくみ取れる。
 一部公表にとどめる理由を、市教育長は「子どもの今後の成長に十分配慮していく必要がある」と説明する。いじめられた側、いじめた側ともまだ中学生で心配りはもちろん必要だ。
 それにしても、今回の対応は「配慮」の域を超えている。学校や市教委の失態を隠したい意図があるのではないか、と受け取られてもやむを得まい。
 いじめ防止法の施行後、これまでに10以上の自治体で第三者委が報告書をまとめた。多くは「校内の情報共有不足」「教員の問題の抱え込み」を指摘するが、なぜそうなってしまったかという深部まで踏み込まないものがほとんどで、課題は多い。
 それでも、プライバシーに配慮しながら「概要版」をつくって事実を知らせようとしている例もある。今からでも横浜市は参考にすべきだ。
 報告書の内容を各校が共有し、間違えた原因を掘り下げ、みずからに引き寄せて考え、見直すべき点を見直す。このサイクルが動かなければ、再発防止にはつながらない。」(
2016/11/24付「朝日新聞」社説より)

前にカミさんに薦められて読んだ、奥田英朗著「沈黙の町で」(ここ)を思い出した。
イジメにも、見る視点から色々な事情がある。全貌を捕まえるのは容易ではない。
しかし、前の青森の女子生徒を自殺に追い込んだ例(ここ)では、父親が、娘の実名を公表している。もし、自分がこの例の父親だったら、“うっかり”黒塗り(伏せ字)の一切無い遺書を、Netに流してしまうかも・・・・。
加害者の人権が叫ばれるが、ことイジメに関しては、加害者がエビデンスのもので明確な場合、それを公表して、その責任を問うことも必要な気がする。つまり、『必殺仕置人』の中村主水も必要な気がする。過激な意見ではあるが・・・

まあそうは言っても、結局、こども一人ひとりに、親が躾けるのが基本かも知れない。
「イジメは絶対に許さない」という親の毅然たる態度の積み重ねこそが、根を絶やすキッカケになるのかも・・・
もちろん、それには、後ろ姿を見せるオトナ自身に、偏見が無い事が前提になるが・・・。

161124seatbelt <付録>「ボケて(bokete)」より

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2016年11月22日 (火)

戦時下の「犬猫毛皮供出献納運動」~西田秀子氏の話

昨日は久しぶりに体調が悪かった。カミさんに言わせると、朝聞いたラジオの録音が、あまりに残酷な内容だったので、悪い“気”が入ったせいではないかという。

NHKラジオ深夜便「調査報告・戦時下の犬猫供出 地域史研究家 西田秀子」(2016/11/12放送)を聞いた。その一部を聞いてみよう。

<調査報告・戦時下の犬猫供出 西田秀子>

この番組のmp3を(ここ)に置くので、聞いてみて下さい。37分。

知らなかった。確かにありそうな話だが・・・。
西田さんは、地域史研究家として、この事実を調査し、その報告書を発表したという。史料に残っているだけで、献納された(命が奪われた)数は、犬猫合わせて9万3千頭にのぼるという。

ググってみると、北海道新聞のこんな記事が見つかった。まさに今回の話の内容である。
戦時中道内で犬猫供出 毛皮、兵士の防寒着に 江別の地域史研究家が調査「軍国主義の一例

 太平洋戦争中、兵士の防寒着などに毛皮を利用するため、道民が飼っていた犬や猫を供出させられた経緯について、江別市の地域史研究家西田秀子さん(65)が調査し、札幌市公文書館の年報で発表した。1944年度(昭和19年度)には犬の皮1万5千枚、猫の皮4万5千枚が供出され、道庁も各市町村に供出数を割り当てるなど深く関与した。西田さんは「物資不足で供出対象が身近な動物にまでエスカレートした。上意下達の全体主義が、社会全体を覆う当時の状況を知ってほしい」と話す。
 西田さんは、新札幌市史編集員だった10年前、犬猫の供出を調べ始め、史実として記録しておこうと論文にまとめた。芦別市の「星の降る里百年記念館」などの協力を得て、所蔵する防寒着や防寒靴などを獣医学の専門家らに鑑定してもらい、犬猫の毛がコートの一部や靴の内側などに利用されていたことも確認した。
 西田さんによると、国は44年12月に軍需毛皮の増産や狂犬病根絶、空襲に備えた野犬の駆除などを目的に、飼い犬を含めた供出を各都道府県に通達した。札幌では兵士の防寒着に使われるウサギが減ったことから、それより前の43年4月に大政翼賛会札幌支部の発案で、飼い犬の毛皮を国に献納する運動が始まり、同年度だけで約2600枚の犬の皮が集まったという。
 また、道庁は44年12月、道内各市町村ごとの供出割当数を決め、45年4月末までに供出するよう市町村長や警察署長に指示した。全道の供出割当数は犬が約3万匹、猫は約7万7千匹で、実際は割り当て通り集まらなかったが、道庁が把握していた道内の犬の総数の8割、猫の総数の5割という高い目標設定だった。
161122kennou  論文には、「野畜犬 進んで奉公 さあ!今だ!」といった標語を掲げた道庁公報を掲載し、供出された犬猫の殺処分を手伝った男性の証言も収録。「連れてきた人の目の前で金づちで殺すんだ。怖がっていたよ。自分も怖かった。なるべく苦しまないように眉間を狙うんだ」といった証言が記されている。
 全国での犬猫の供出数は不明だが、西田さんは道内では積極的に供出運動が展開されたと指摘。厳しい寒さの中で生活する道民は、防寒着が生死を分ける必需品との共通認識があり、極寒の地に派遣された兵士に暖かい防寒着を送ってあげたいという集団心理が働いた可能性があるという。
 西田さんは「犬や猫の供出は、戦争に勝つためという軍国主義が行政の末端まで及んだ一例。この歴史を記録するため、供出させられた人の証言をさらに集めたい」と話している。
 西田さんの論文は、札幌市中央区の札幌市公文書館のほか、同公文書館のホームページでも閲覧できる。」(
2016/08/14付「北海道新聞」より)

その他に(ここ)にも載っていた。(上の写真もここから)

道新の記事で、「西田さんの論文は、札幌市中央区の札幌市公文書館のホームページでも閲覧できる」とあったので探してみると、載っていた(ここ)。その報告書を下記にリンクしておきます。

「アジア太平洋戦争下、犬猫の毛皮供出、献納運動の経緯と実態-史実と科学鑑定(西田秀子)」(その1)(その2)(その3

見ると、大報告書であり、簡単には読み飛ばせない。これからじっくりと読んでみよう。

しかし、ここに発掘された事実は、戦後70年を経ても、決して忘れてはならない事実。それを、この報告書で歴史に留めた西田氏の功績は大きい。

生半可なコメントは差し控える。
ぜひ一人でも多くの人が、上の西田氏の話を聞き、札幌市公文書館のHPに載っている西田氏の報告書を精読して、戦時下、この「犬猫毛皮供出献納運動」という事実があったことを歴史に埋もれさせないようにしたいものだ。

そして、まさに「人の命を軽んじる戦争を、わたしたちは徹底して憎み、拒まなくてはいけない。そう、戦争によって殺されてしまった犬や猫のためにも。」(ここより)
殺処分の現場を目撃した加藤さんは言う。「戦争は、平穏な日常からすべてを奪いさっていくのもの。戦争が何かを知る努力をするべき」・・・・

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2016年11月20日 (日)

バーチャルの海外旅行はいかが?~チベット紀行

さて、久しぶりに、“団塊Kさんの海外一人旅・紀行”。今回は「(西寧)チベット紀行」である。Kさんの2015年10月の一人旅。なお、このシリーズは、過去にさかのぼっているので、前回の2016年3月「シカゴ・リオデジャネイロ紀行」の前である。

★(ここ)にオリジナル「チベット紀行(68頁)」(2015年10月14日~21日)のPDFを置きます。

161120tibetkikou Kさんは、相変わらずの冒険男である。今回はチベットだそうだ。西寧とラサへの一人旅。とても素人は行かない場所。
読むと、鳥葬とか、いまだにきな臭いチベット事件などの話題があり、なかなか観光といって、浮かれていられない場所である。しかし、北京語と英語を駆使して渡り歩くKさんの活躍は、相変わらずである。

中国といえば、最近よくそのテレビ番組を見る。昔のNHK特集は、「シルクロード」を筆頭に、中国物が多かった。1980年代、中国がやっと世界に門戸を開いた頃だった。よって、世界から見ると、中国の何もかもが目新しかった。電気が通っていない場所の取材も多かった。
その中でも、我々にとっては、チベットはテレビでしか知り得ない場所だった。
前に「関口知宏の中国鉄道大紀行 ~最長片道ルート36000kmをゆく~」を見たが、この番組は、ラサが出発点だった。あれが2007年だったそうで、その時も、監視がキツイ印象だったが、2015年でも、その雰囲気は変わっていないという。

きな臭い視点で見ると、なかなか難しいチベットだが、この紀行記にある写真はどれも美しい。
写真を見ながら、到底行けないチベットに、バーチャルの一人旅をしてみるのも一興か・・・

161120harikomi <付録>「ボケて(bokete)」より

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2016年11月17日 (木)

NHK特集を改めて見る~昔のVTRテープの再登場

先日(2016/11/13)、「NHKアーカイブス▽テレビが伝えた知られざる世界“N特”放送40年 自然・紀行」を見た。
NHKの解説にこうある。
「昭和51年4月にスタートした「NHK特集」。現在のNHKスペシャルの源流となった番組の放送から40年、“N特”が伝えたものとは何だったのか3回にわたって振り返る。第1回は自然・紀行番組。自然番組で最も視聴率の高かった「ポロロッカ アマゾンの大逆流」を全編放送。ほか、第一回放送の「氷雪の春」、「シルクロード」、「襲撃~スズメバチの恐るべき生態」「神の湖 摩周湖」など話題作をダイジェストで紹介する。」(ここより)

前に見た番組だが、改めて「ポロロッカ アマゾンの大逆流」を見た。この番組は初回放送が1978年8月1日だというから、もう38年も前の番組。でも、今見ても見応えがある。
NHK特集は、自分がよく見た番組。昭和51年(1976年)スタートというから、確かにもう40年だ。自分は凝り出したのは、「シルクロード」(1980年)が放送されてから。
振り返ってみたら、自分がVTRを初めて買ったのが1981/11/24。ベータ方式で16万8千円だった。自分の録画の歴史がその頃始まった。今残っている最初の録画は、1982年03月25日に録画した「喜多郎&秀星」(ここ)。当時は、「NHK特集シルクロード」で知った喜多郎に凝っていた。
Excelに整理してあった録画リストを見ると、この頃にスタートし、1987年頃にVHSに変えたようだ。
録画内容は、クラシックから始まって、NHK特集などのドキュメンタリー番組がほとんど。ハイレゾの今の時代、まずクラシックは見ない。しかし、ドキュメンタリー番組はどうだろう・・・
先の1978年の番組も、まだ新鮮なので、“溜めたものの、見ないな”と思っていた、昔の録画テープを再生してみる気になった。

録画の古い順から見て行くとして、最初に再生したのが、「NHK特集 秘境・興安嶺をゆく」。これは1988年の番組。最初、D-VHSのデッキで再生したら、結構画面が粗い。それで、普通のVHSデッキ(1999年購入のHR-VXG100)で再生したら、これが意外とキレイ。10年ぶりくらいで電源を入れたが、ちゃんと動いて感激。
昔、「いずれヒマになったら見よう」と録り溜め、ハイビジョンの時代になってしまったので、もう見ないな、と思っていたテープに陽が当たったよう??
自分も、これから老化で目がショボショボするまでの、今の時間が最後のチャンス。今見ないと、録画しただけで、永久に見ない。それで、気が向いた時に、昔のVTRテープを見ることにした。VHSが200数十本。ベータも数十本あるが(ベータのデッキはそのうち・・・)、整理する前に・・・

そう言えば、最近よく“NHKデマンドで配信”という文字を見る。ググってみると、テレビでもNet配信で見られるらしい。先日買ったPanaの新型ブルーレイレコーダーで操作してみると、「アクトビラ」で見られることが分かった。テレビで見る場合、基本はケーブルテレビや光TVらしい。Net経由では、「アクトビラ」しか選択肢は無いらしい。番組を検索してみると、NHK特集は、40番組ほどしかない。でも、昔の番組を良い画質で見られるのは良いこと。
月初めからのスタートが得らしいので、そのうち、試してみるか・・・

「テレビ三昧」も非難が多いが、現役時代に、「そのうちに時間が出来たら見よう」と溜めておいた番組を、今やっと時間が出来たので見る。そのどこが悪いのか!?
ナンテ、自分に言い訳を言いながら、ダラダラ生活が続いているのであ~る。

161117funn <付録>「ボケて(bokete)」より

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2016年11月15日 (火)

さだまさしの「防人の詩」

昨夜は、「スーパームーン」だったが、曇っていて見えなかった。
実はウチのカミさんが「スーパームーンだ!」と騒いでいる。幾ら68年ぶりのスゴイ「スーパー161115tuki ムーン」だと言われても、皆既日食ほどにはインパクトがない。
次回は2034年で18年後なので、「お互い生きていない!?」と言われて、メイ子と一緒に庭に出た。庭から雲間に見える月は、14%大きく、30%明るいと言うが、まあ言われてみれば、そうかな・・・
カミさんは「自分は月」だという。すると自分は太陽!?テレちゃうな・・・・
(上の写真は、さっきカミさんが、自宅の洗面所から撮ったもの。9時25分過ぎの時計も写っている。我が家は、洗面所から空が見える。しかし、ガラスが汚れているので、鮮明には見えない。)

それはそれとして、久しぶりに月をボヤッと見ていると、悠久の時を感じさせる。相変わらず、何にでもお願いをするカミさんは、家族の色々を月にまで頼んでいた。

こんな歌を思い出した。さだまさしの「防人の詩(さきもりのうた)」である。

<さだまさしの「防人の詩」>

「防人の詩(さきもりのうた)」
  作詞・作曲:さだまさし

おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に 限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
風はどうですか 空もそうですか
おしえてください

私は時折
苦しみについて考えます
誰もが等しく 抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
現在の自分と

答えてください
この世のありとあらゆるものの
すべての生命に 約束があるのなら
春は死にますか 秋は死にますか
夏が去る様に 冬が来る様に
みんな逝くのですか

わずかな生命の
きらめきを信じていいですか
言葉で見えない 望みといったものを
去る人があれば 来る人もあって
欠けてゆく月も やがて満ちて来る
なりわいの中で

おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に 限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な 故郷もみんな
逝ってしまいますか

海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な 故郷もみんな
逝ってしまいますか

wikiによると、この歌は、映画『二百三高地』の主題歌であり、1980年7月10日にシングルが発売されたという。もう36年も前の歌だが、心に残る・・・・
wikiによると、「なお一時期、4番の歌詩の一部を変更して歌っていた。」というので、Youtubeで聞いてみると、確かに4番の「去る人があれば 来る人もあって」という部分が「行く人があれば 来る人もあって」と歌っていた。
しかし、相変わらず哲学的な詩だ。wikiによると、
「歌詩は『万葉集』第16巻第3852番に基づいて作られている。
鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼
鯨魚(いさな)取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ
大意:海は死にますか 山は死にますか。死にます。死ぬからこそ潮は引き、山は枯れるのです。」

だというが、浅学の自分には良く分からない。しかし、何故か沁みる・・・・

ぼやっと大きく輝く月と、流れる雲を見ながら、目の前を矢のように流れる“時間”というものを、つい考えてしまった。

161115sibou <付録>「ボケて(bokete)」より

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